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『青薔薇の毒名録(The Blue Rose Codex)』 — 毒と理想、愛と記録の交わるところに。  作者: 南蛇井


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34/69

王宮に届く“王子派の密書”の異臭

朝の執務室には、いつもより一段深い静けさが降りていた。

窓辺の薄光が、積み上がった書類の端をわずかに照らし、

その白さがやけに冷たく感じられる。


その中で、

文官が両手でそっと抱えるようにして一通の封書を持ってきた。


「殿下……王子派の伯爵家より、支持を示す手紙が届いております。」


王子アレスレッドは振り返る。

赤い瞳は穏やかで、文官を責める色はひとつもない。


「支持表明か。珍しいな……香を仕込んでいるのか?」


文官は緊張してうなずく。

「最近流行しておりますので……念のため香箱に入れて運びました。」


クラリッサは王子の背後に控え、

その封書が机の上にそっと置かれる様を目で追った。


その瞬間である。

空気が――波打った。


ほんのわずか、

揮発しきらぬ香粒子が空中で揺れた。


クラリッサの身体が、反射のようにわずかに硬直する。


(……違う。これは普通の手紙ではない。)


封蝋に触れた薔薇香が先に立ちのぼり、

その裏で柑子の甘さがわずかに層を作っている……。


彼女の中で、

“嗅覚の地図”が一瞬で組み上がる。


香りの発生源、

揮発速度、

封蝋の温度履歴、

調香の純度と、その混ぜ合わせの意図まで――


まるで空中に浮かぶ見えない線が

すべて繋がり、立体化していく感覚。


王子が封書に手を伸ばす。


その手が紙に触れる刹那、

クラリッサは静かに一歩近づき、

ほんのかすかに、しかし迷いなく口を開いた。


「……殿下。

 その手紙は、私に調べさせてください。」


アレスレッドは意外そうに目を細めた。


だが、彼女の声に宿る張り詰めた硬さが、

ただ事ではないと告げていた。


文官がそっと扉を閉め、

執務室にふたたび静寂が満ちる。


クラリッサは封書に近づき、

指先で触れず、ただ香りだけを吸う。


ほんの微量。

だが彼女にとっては、それで十分だった。


――異質。


鼻孔に触れた瞬間、

香りの“輪郭”が不自然に揺らぐ。


薔薇の余香。

甘柑子の封香。


この国ではあまりにも典型的な、

“忠誠をにおわせる二重香”の組み合わせ。


恋慕と献身を象徴する薔薇。

裏切り防止を示す甘柑子。


誠意ある支持表明としては、

完璧すぎる配合。


だが――

クラリッサの眉がわずかに寄る。


(……揮発が遅い。)


薔薇と柑子は、

通常なら最初の立ち上がりが鋭く、

そこから一気に軽く飛ぶはず。


しかしこの封書から漂う香は、

妙にとどまっている。


揮発速度が、

“ほんの一割、遅れている”。


一般人なら気づきようがない。

調香師でさえ見逃すかもしれない。

だがクラリッサにとっては、

その遅れが“明らかな意図”になって浮かび上がる。


(誰かが……揮発曲線を調整している。)


自然ではありえない。

香りの飛び方が、

まるで外側から押さえつけられるように鈍い。


つまりこれは――

香の層の奥に**“何か隠している”**合図。


クラリッサの視線が封書の端から端へと滑る。

薄い香の霧の中で、彼女の感覚だけが異様に研ぎ澄まされていく。


(薔薇の余香と甘柑子……表向きは忠誠。

 だが、この遅れ方は……通常の政治香暗号には使われない。)


胸の内側で、

冷たい予感が輪郭を帯び始めていた。


クラリッサは、

薔薇と柑子の甘い香を静かに分解するように、

さらに深く――香りの“底”へと潜った。


その瞬間、

空気の奥にあるべきではない“影”が、

微かに舌の奥を刺す。


……金属の苦味。

……湿った夜気のような冷たさ。

……灰色の羽を思わせる、翳り。


クラリッサの目がほんの僅かに細められる。


(……鴉羽草。)


王都でも扱いが禁じられている毒草。

香料に混ぜる者などまずいない――

いや、“混ぜてはいけない”ものだ。


だが確かに、ある。

薔薇と柑子の層をくぐり抜けた、そのさらに奥。


鼻孔ではなく、神経そのものを掠めていくような、

あの特有の苦い揮発。


鴉羽草を香文に使う場合、意味はただひとつ。


「行動を起こせ」


――この国の裏社会で共有された、

“実行許可”の暗号。


言い換えれば、


《暗殺可》


クラリッサの呼吸が、

ほんの一秒だけ止まった。


そして、すぐに理解が深化する。


(……これは貴族の暗号じゃない。

 この配合は“王子派の内部”でしか使われないパターン。)


外部からの脅威ではない。

反対派でもない。


王子アレスレッドを支えているはずの陣営――

その内部から出された“暗殺指令”。


この事実を読み取れる者は、

王都広しと言えどクラリッサただ一人。


そしてそれは、

彼女の任務と最も相性の悪い“真実”だった。



クラリッサは、密書の香を指先で撫でるようにもう一度確かめ、

確信が形を持って胸の奥に沈むのを感じた。


(……これは、外からの刃じゃない。)


薔薇と柑子の“忠誠”のレイヤーに、

鴉羽草の“実行許可”が潜ませてある――

そんな矛盾した香文を作れるのは。


敵ではない。

敵に偽装した味方でもない。


王子アレスレッドの派閥そのもの。


王子の名の下に集まったはずの者たちが、

彼の知らぬ場所で

“王子のための暗殺”を企てている。


(……改革を早めるため、か。)


王子が香料制度を導入しようとしている。

議会の透明化、香りの記録化。

貴族にとって、政治の駆け引きが丸見えになる改革。


当然、反発は大きい。


だが――

王子に忠誠を誓うはずの一部は、

その反発を一気に押し潰すために

“衝撃”を欲していた。


最も手っ取り早い衝撃。

最も効果の高い政治的爆発。


暗殺。


暗殺されるのは敵対貴族かもしれない。

議会の反対派かもしれない。

あるいは王子本人すら、計画の対象に含められる可能性がある。


「忠誠」という言葉を盾にした、

暴発寸前の“過激な忠義”。


クラリッサは薄く目を伏せる。


(味方だからこそ……警備は簡単に破られる。

 王子の信頼を、いちばん簡単に裏切れる場所。)


揮発する香が静かに散っていく中で、

彼女だけが、

その甘い薔薇の香の裏にある“暴走の匂い”を嗅ぎ取っていた。


クラリッサは、封書を机の光にかざすように少し傾け、

漂う香気の層を、一つひとつ丁寧に解きほぐしていった。


表層の薔薇が、礼儀正しく甘く香る。

次いで柑子の柔らかな酸が、誓約の香りを添える。

そこまでは――誰が嗅いでも“忠誠”と読める。


だが、クラリッサの嗅覚はその奥に潜む“歪み”を捉えていた。


(鴉羽草の揮発……割合が高い。

 これは、封書が作られてから――)


彼女の脳裏で、揮発曲線が立体地図のように組み上がる。


32〜36時間以内。


その範囲で調香されている。

つまり、かなり“直近”で作られた密書だ。


(急だ。計画はすでに動いている。)


さらに、鴉羽草の残香の“帯”の広がり方から、

実行のタイミングまで読み解けた。


――次の評議会の最中。


王子アレスレッドが出席しない部会がある。

そこに合わせて、過激派は動こうとしている。


(王子の目の届かない場……そこを狙う。)


香料そのものの質も特異だった。

薔薇のベースに使われている抽出法。

柑子の留め香の整え方。

どれも、市場品ではなく“上流貴族の専属調香師”の手のものだ。


さらに封蝋に残る微量の樹脂香。


クラリッサはわずかに目を細める。


(南部工房の調香……間違いない。)


南部は王子派の最大拠点であり、

中でも保守的な“急進主義者”が固まっている地域。


送り主は、王子派南部貴族。

 内部を動かし、自分たちの意思で改革を“押し通す”つもりだ。


王子のためと称しながら、

王子の不在を狙い、

王子の望まぬ方法で政治を進めようとしている――。


クラリッサは、香りが示す結論に小さく息を吐く。


(……暴発を止めるには、証拠が足りない。

 でも、この手紙そのものが“兆候”だ。)


香気の揺らぎはすでに薄れつつある。

だが彼女の嗅覚地図には、

暗い線がくっきりと刻みつけられていた。

クラリッサは封書から指を離し、

深く、しかし音を立てない呼吸をひとつ落とした。


香りが告げる真実は、

文字に書かれたどんな文面より残酷だった。


(……殿下の知らぬところで、

 “殿下のための暗殺”が動いている。)


忠誠を名乗る者が、

忠誠を理由に刃を抜こうとしている。

その矛先が敵に向けられたとしても、

王子アレスレッドの“秩序”を壊す行為であることに変わりはない。


(王子の理想を守るはずの人間が、

 その理想を踏みにじろうとしている……。)


外世界から与えられた命令――

《M-0:王子暗殺を阻止せよ》。


それは、本来“外部からの敵”を想定した任務だった。

王子派内部の暴発など、想定外の事態だ。


だが今、この密書が示しているのはひとつ。


阻止すべき暗殺者は、敵ではない。味方だ。


クラリッサは視線を密書から王子へと移す。

アレスレッドはまだ何も知らず、

香りの奥に仕組まれた凶意に気づくことすらできない。


(殿下は……この国を変えようとしている。

 誰も傷つけず、誰も見捨てない形で。)


だからこそ、

その理想の名を騙る暴走は許されない。


この瞬間、彼女の中で任務の輪郭は完全に変化した。


・暗殺を阻止し、

 ・政治の均衡を保ち、

 ・王子の理想の“暴走”すら止める。


本来なら組織が担うはずの複合任務。

だが、この国でそれを遂行できるのは――

香りの地図を読み、

揮発の嘘を暴ける彼女ただ一人。


(……これは、私の任務。)


クラリッサは静かに立ち上がる。

香りの影から国家の未来を読み解く者として。

そして、王子の知らぬところで王子を守る影として。.



クラリッサは、密書の封面に王子の指が触れようとした瞬間、

そっと手を伸ばし、その動きを遮った。

ほんの指先ほどの接触だったが、

その静けさは執務室の空気を一変させる。


アレスレッドは瞬きし、首をわずかに傾ける。


「……クラリッサ? どうした?」


いつもの柔らかい声音。

だが彼女には、その安穏があまりにも無防備に感じられた。


クラリッサはわずかに息を整え、

冷静な表情のまま、手紙を押さえたままの指に圧をかける。


「……殿下。

 この手紙には、まだお手を触れない方がよいかと。」


驚きは、王子の眉のわずかな上昇で読み取れた。

彼女が文書に触れることすら止めるのは、初めてだ。


「理由を聞いても?」


「……今はまだ、申し上げられません。

 ただ、危険の可能性がございます。」


曖昧ながら、決して引かない断言。

王子は、その声音の何か――

“彼女が何かを確信している”気配だけを読み取る。


アレスレッドは手を引き、深く息を吐いた。


「……わかった。任せる。」


彼はそれ以上、詮索しなかった。

クラリッサが不用意な警告を口にしないことを知っているからだ。


クラリッサは小さく礼をし、踵を返す。

密書を脇に抱え、香りの複雑な渦を胸の奥で再構築しながら。


(まずは、送り主の特定……。

 南部工房の封蝋。薔薇と柑子の遅延揮発。

 そして……鴉羽草。

 どれも、殿下の派閥の内部にしか通じない。)


執務室の扉が静かに閉まる。


その一歩先から――

物語は“密書事件”の核心へ進む。


クラリッサの単独調査が、ここから始まる。


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