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『青薔薇の毒名録(The Blue Rose Codex)』 — 毒と理想、愛と記録の交わるところに。  作者: 南蛇井


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クラリッサの葛藤 ― 二つの世界のルール

王城の薄明かりの中、

クラリッサは手紙を胸元で静かに折りたたんだ。

紙の温度はもう冷え、浮かんでいた文字も再び沈黙している。

だが、そこに記されていた“命令”だけは、脳の奥で焼けつくように残っていた。


――揮発構造を守れ。


手紙から発される冷たい声が、いまだ耳の奥にこびりついて離れない。

彼女は息を整えようとするが、胸の奥に張りついた緊張はほどけなかった。


揮発する世界は、そのまま揮発し続けなければならない。

香が生まれ、崩れ、消えゆくこの世界の異常な輪廻を――

外世界は“壊すな”と言う。


それは、彼女が救おうとしてきた人々の苦しみも、

王子アレスレッドの理想も、

すべて「観測のための資料」として棚に並べておけという命令だった。


クラリッサは小さく眉を寄せる。


王子の改革は禁止。

彼が目指す“永続の理想”――その未来は、外世界にとっては最悪の結末。

もし揮発性が消えれば、この世界は観測不能の闇へ沈む。

だから絶対に、永続の創造をさせてはならない。


だが同時に。

その王子を“殺させてもいけない”。


王子の死は、世界の崩壊引き金になる。

揮発が暴走し、すべてのデータが霧散し、

外世界からは完全にアクセス不可能な“ブラックボックス”となる。


王子の変革は禁止。

王子の死も禁止。


矛盾した二つの禁止が重なったとき――

クラリッサの任務はひとつの形として結晶する。


外世界にとって、この世界はただの研究対象。

その安定を保つための“部品”として、

自分はここに送り込まれた。


クラリッサはゆっくりと瞼を閉じ、

長い呼吸を一度だけ吐き出した。


(……私の役目は、

 この世界を変えることじゃない。

 守ることでもない……

 維持させるために、歪みを均す“調整者”。

 ただの替えの利く部品。)


その理解が、胸の奥に冷たい鉛のように沈んでいく。


王子の願いは“変革”。

外世界の命令は“現状維持”。


そのどちらにも完全に従うことはできない。

だが外世界は、クラリッサにただひとつの答えだけを望んでいた。


――王子を、生かしたまま、変えさせるな。


彼女の手の中で、手紙の折り目がわずかに軋んだ。

その感触はまるで、自分の自由意思が静かに折り曲げられる音のようだった。


クラリッサは、まだ手紙の冷たい感触を指先に残したまま、

昨夜の王子の言葉を思い返していた。


「君の目で、僕の理想がどこまで行けるのかを見ていてほしい」


あのとき王子アレスレッドが放った声音――

揺らがず、揮発せず、永続を約束するような黄金の響き。


彼は本気で信じている。

“揮発しない世界”が救いになると。

混線し続ける香階、階級闘争、死と腐敗と消滅の循環。

それらを一度終わらせ、新しい理性の秩序を築くことができると。


この世界の誰もが「揮発は仕方のない現象」と諦めている中、

王子だけは堂々と、その根本に疑問符を突き刺していた。


だからこそ、彼は言った。


――見届けてほしい、と。

――理解してほしい、と。


クラリッサの胸に、静かな痛みが走る。


王子にとって彼女は、

ただの護衛でも、都合の良い道具でもない。


“観測者”としての彼女を必要としている。


香階や揮発波形の乱れ。

社会構造の綻び。

永続性への渇望。


彼の理想は、この世界の仕組みを「超えよう」としている。

その行き着く先を、王子は一人では見られない。


だからこそ、彼はクラリッサに目を向けた。


見ていてほしい。

僕が作ろうとしている“永続世界”の、到達点を。


――だが。


クラリッサは、ゆっくりと息を吐く。


永続世界。

揮発しない世界。

終わりも縮退も欠損もしない、完全に閉じた系。


それは、外世界から見れば――


“観測不能領域”

なおかつ

“制御不能領域”。


王子が目指す未来は、

そのまま外世界が最も恐れる未来でもあった。


世界を救いたい王子と、

世界を守りたい外世界と。


その狭間に立つ彼女だけが、

二つの願いの矛盾を知っている。


王子の理想を見届けることは――

世界の終わりを見届けることに等しい。


クラリッサ(内心)


(……彼は、本当に危険なんだ。

 だけど……あの目を、誰が拒める?

 あの意志を、誰が止められる?)


静まり返った朝光の中で、

彼女の呼吸だけがわずかに震えた。


クラリッサは、机の上に置いた無香の手紙を見つめた。

薄い紙片は、まるで闇の断片のように、朝光さえ吸い込んでいる。


そこに記された二つの命令。


外世界からの絶対命令:

――揮発構造を守れ。世界を保て。


王子アレスレッドの願い:

――理想を見届けろ。世界を変えろ。


静かに、けれど確実に、二つの指令は互いを否定していた。


どちらも“正しい”。

どちらも“必要”。

そして、どちらも彼女にしか成し得ない。


クラリッサはゆっくりと目を閉じる。


外世界が求めるのは、揮発のままの世界。

王子が求めるのは、揮発を超えた世界。


保存か改革か――

どちらを選んでも、どちらかが壊れる。


だが彼女だけは、両方を理解してしまう。

両方が意味を持ち、両方が正しいことを知ってしまう。


クラリッサ(内心)


私が正すべきは、どちらの未来……?

どちらも承認できない。

でも――どちらも否定できない。


胸の奥で、冷たく鋭いものが芽生えた。


世界を保てという命令。

世界を変えろという王子の願い。


その矛盾の中心に立つ自分は――

どちらの側にも完全には属さない。


クラリッサ(内心)


なら私は……

どちらの毒にもなり得る“中間値”として存在するしかない。


揮発と永続の間に立ち、

どちらの暴走も許さない“調整毒”。


彼女は自らの役割を、静かに、ひどく苦い形で悟った。


その瞬間――

クラリッサ・リンドウェルは、

この世界での“毒の観測者”として目を開いたのである。

クラリッサは、夜の回廊の窓に映る自分を見つめていた。

火灯が揺れ、その影が細く震える。

その震えは、彼女自身の心の揺らぎとどこか似ていた。


胸の奥で、三つの感情が絡み合い、

ほどけることなく膨張していく。


① 使命への忠誠


それは、彼女がどれほどこの世界の空気に染められようと

決して消えない“訓練の残滓”だった。


「命令は絶対。

 観測不能領域の発生は、許されない。」


外世界――C.I.A.Xで叩き込まれた最優先命令。

揮発社会は揮発のままであれ。

永続化は世界の死である。


その論理は冷たい鋼のように、

まだクラリッサの中に根を張っている。


② 王子への共感


しかし、その鋼を溶かすように、

この世界で育った別の温度がある。


王子アレスレッド。

彼の語る理想、痛み、怒り、孤独。


「君の目で、僕がどこまで行けるか見ていてほしい。」


クラリッサは気づかぬうちに、

その願いに触れ、揺さぶられ、

共感し――寄り添ってしまった。


「彼の理想は……

 揮発社会を苦しめる矛盾を、本当に救うかもしれない。」


それは使命ではなく、

“感情”として芽生えた理解だった。


③ 観測者の毒としての自己認識


しかし、だからこそ、恐怖が深まる。


彼女が王子のそばにいること。

それは――王子の革命を“外世界の観測”へ接続するということ。


観測される現象は、

観測によって形を歪められる。


それをクラリッサは誰よりも知っている。


「私がそばにいるほど……

 彼の理想は、外世界の意図で捻じ曲がる。」


王子は永続を求め、

外世界は揮発を求める。


そのあいだで、

彼女だけが“観測者”という毒素を内包している。


クラリッサ(内心)


私は……

彼を守るためにいるのか?

それとも、彼を壊すために存在しているのか?


思考に浮かんだその問いは、

どんな刃よりも、彼女自身を深く切り裂いた。


王子のそばに立てば立つほど、

彼の未来を殺す毒になる。


それを理解することこそ、

クラリッサにとって最も深い恐怖だった。


クラリッサはホログラムをそっと閉じた。

薄く消えゆく光が、指先の皮膚を最後に撫でる。

王城の一室には、彼女の吐息だけが静かに落ちた。


机上のデータが消えた瞬間、

彼女の胸に残ったのは、

どこにも置けない、行き場のない重さだった。


ゆっくりと、彼女は自分に言い聞かせるように呟く。


(私は……この世界の味方でも、

 王子の味方でもない。

 どちらの“敵”にもなれる……最悪の毒だ。)


その言葉はひどく冷たく、

しかし奇妙に、真実として胸に沈む。


泣くという反応は、最初から存在しなかった。

訓練で捨てたものは、二度と戻ってこない。


クラリッサは目を伏せる。


(私がそばにいる限り……

 王子の理想は、外世界の規格に縛られる。

 私が観測するだけで、彼の未来が“揮発構造”に固定される。)


(でも――

 王子が死ねば、この世界は崩れる。)


選択肢が二つあるようで、

実際はどちらにも踏み出せない。

踏み出した瞬間、誰かの破滅が確定してしまうからだ。


彼女は静かに拳を握る。

強く握るほど、指の骨がひび割れるように痛む。


(……こんなの、私にとっての自由じゃない。)

(命令に従う自由も、

 彼の理想に寄り添う自由も、

 どちらも持たせてもらえない。)


観測者であるがゆえに、

彼女は意志を持てば持つほど、世界を歪めてしまう。


だから――彼女は“自由”だけを失っていく。


王子を守れば世界が歪む。

王子を阻めば世界が止まる。


その矛盾の中心に、

クラリッサひとりだけが立たされていた。


冷たい石壁に背を預け、

クラリッサは目を閉じた。


息が胸に引っかかる。

その小さな痛みだけが、

彼女がまだ“人間”である証のように思えた。


クラリッサは、閉じた手紙の上にそっと手を置いた。

その紙切れは、ただの命令書ではない。

自分の存在理由そのものを縛り直す“枷”のように、静かにそこにあった。


窓辺の朝光は薄く、王城の白壁を冷たく照らす。

だがその光すら、いまの彼女には遠い。


胸の奥で、なにかがひっそりと固まっていく。


① 自分の感情を否定する始まり


(……感情なんて、邪魔なだけだ。)


その思いが、ひどく自然に浮かんだ。

王子への共感も、憧れに似た理解も――

全て“任務を歪ませる毒”として切り捨てるべきだ、と。


自分が誰にも近づいてはならない存在であることを、

クラリッサは痛いほど理解してしまったのだ。


② 王子は、逆に彼女を近くに置こうとする


遠くから、かすかに衛兵の香が揺れる。

昨夜の混乱の余韻が、まだ城内を漂っているのだろう。


だがクラリッサの頭には、別の光景が浮かんでいた。


――王子アレスレッドの声。


『君が傍にいると、僕は迷わずにすむ。

 だから……これからも、そばにいてくれ。』


彼は知らない。

自分が近づくほど、彼の理想は外世界によって“観測”され、

制限され、歪んでいくことを。


③ 外世界の監視が息を潜めて続いている


机の隅に置いた無香の端末が、

数秒ごとに僅かに光る。


外世界からの観測パケット――

“ここにいるか”“逸脱していないか”

ただそれだけを確認する冷たい信号。


目に見えない監視の糸が、

世界の果てから彼女の首にかかっているようだった。


④ 彼女の選択が、世界の揺らぎを左右するようになる


王子の一挙手一投足が揮発構造に影響するなら、

その傍に立つクラリッサの判断もまた、

世界そのものの揺らぎを規定する。


ひとつの言葉。

ひとつの沈黙。

ひとつの選択。


その全てが、

“揮発社会”という巨大システムに波紋を走らせる。


クラリッサは、息をひとつ整えた。


そして――第1幕の決定的転換


(……観測する。

 ただ、観測するだけ。

 彼の理想を、外世界の崩壊ラインの手前で制御する。)


それは決意ではなく、

逃げ場のない状況で絞り出された“諦めに近い職務”だった。


だがその瞬間、

クラリッサは自分では気づかぬまま――

王子の運命と世界の命運を、

両方抱えて立つ“調整者”としての立場を受け入れてしまった。


王城に落ちる朝光が、

ほんのわずかに揺らぎの色を変えた。


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