手紙に記された“任務
手紙の最下段。
そこだけインクの発色が濃く、
まるで紙の内側から脈を打つように暗号が浮き上がっていた。
クラリッサは、その記号を知っていた。
Mandatory Order――絶対命令。
CIA時代、彼女が一度たりとも逆らえなかった“国家の意思”そのもの。
そして記された命令文。
《M-0:王子暗殺の阻止》
「…………っ」
喉の奥に、かすれた息が引っかかった。
暗殺指令ではない。
阻止指令――それも M-0 という最上級。
彼女の訓練記録がさざ波のように蘇る。
敵国家の要人を守るために送り込まれた二重スパイ。
戦争そのものを防ぐための、裏側の戦争。
けれど、こんな命令は滅多に下りない。
CIAが“こちら側の人間”にまで出す内容では決してない。
(……王子を、守れ……?
私が……?)
もし転生した先で暗殺指令が届いたなら納得できた。
標的を消せ。
歴史を変えろ。
そんな流れは理解できる。
だがこれは――逆だ。
世界の中枢にいる王太子を殺させるな。
彼の死を、最優先で阻止しろ。
クラリッサは乾いた唇を押し結び、
静かに紙から指を離した。
命令は、ただの指示ではない。
世界の裏側で動いていた“巨大な意思”が、
彼女の転生にまで手を伸ばしている証だった。
そして何より、
国家が全力で守るべき対象に、
自分が惹かれつつある――
その事実が、胸の奥で鈍く疼いた。
Mandatory Order の行の、そのすぐ下。
わずかに歪んだ文字が、小さく、小さく添えられていた。
まるで“本来は書いてはならない真実”を
ぎりぎりの出力で吐き出したかのように。
クラリッサは息を潜めて、その文を読む。
《王子の死は、揮発社会の崩壊につながる。
崩壊は観測不能領域の発生を招く。》
……理解に、一瞬遅れた。
それは政治の話ではない。
陰謀論でもない。
――世界の物理法則の話だ。
揮発波形解析官である彼女には、
その意味が痛いほど分かる。
(揮発社会の……崩壊……?
じゃあ、王子は……)
王子アレスレッドは、ただの王族ではない。
ただの思想犯でも、革命家でもない。
外世界の観測者たちはこう言っている。
この世界の揮発循環は、
王子を“軸圧点”として安定している。
——アレスレッドが死ぬ。
それはつまり、
世界そのものが揮発しすぎて“自壊”する。
全データ消失。
波形循環の停止。
構造の破裂。
そして、さらに恐ろしい一文が続く。
《崩壊した世界はブラックボックス化し、
外世界からの観測が不可能となる。》
外世界にとって、これは最悪の状況。
観測できない世界は、
干渉も記録もできない“失われた領域”になる。
存在が消えるわけではない。
しかし、そこにアクセスできる方法が無くなる。
情報機関から見れば、それは――
“消滅よりも厄介な喪失”。
クラリッサは凍りついた指で紙を握りしめる。
(だから……暗殺阻止……
王子は危険因子だけど、
死んでは……もっと危険……)
外世界は、彼の思想を止めたい。
だが彼そのものは失ってはならない。
殺すな。
しかし変えさせるな。
世界を壊すな。
そして世界を閉じさせるな。
命令は矛盾しているようで、
ひとつの真理に向かっていた。
クラリッサの視界が、静かに軋んだ。
この瞬間から、
王子アレスレッドは――
“守るべき存在”であり、 “制御すべき危険”でもある。
彼女はその真実を、誰にも告げられないまま飲み込んだ。
クラリッサは、手紙を持つ指先が自分のものではないように震えているのに気づいた。
朝の光が、揮発紙の表面でわずかに揺れている。
それは彼女の動揺を、そのまま映し返す揺らぎだった。
(……王子を、殺させてはいけない?)
(死ねば、この世界そのものが“観測不能”になる……?)
理解はゆっくりではなかった。
逆に、一気に雪崩れ込むように流れ込んだ。
脳裏に、昨夜の光景が蘇る。
揮発しない——黄金の香。
常識を超えて安定する、あの異様な波形。
香階崩壊の連鎖を、たったひとりで押し戻した統制能力。
彼が歩いたあとに残った、あの“沈黙の秩序”。
(全部……そういうことだったの?)
点と点が、無慈悲なほど鋭く線を結びはじめる。
王子アレスレッドは、この世界の中核だ。
“揮発社会”という巨大な生命体の、心臓部そのもの……。
息が詰まる。
世界は巨大な揮発循環系であり、
その中核で最も負荷を受け続けている者。
それが——
昨夜、自分の目の前に立っていた、
あの青年だ。
政治的な要人ではない。
宗教的な象徴でもない。
もっと根源的な存在。
もし彼が死ねば、
循環が止まる。
波形が暴走する。
構造が裂け、世界が“揮発そのもの”に飲まれる。
そしてそれは外世界にとって、
観測不能領域の誕生を意味する。
(……だから、絶対命令……)
彼女はようやく理解する。
これは単なる外交危機でも、王族への脅威でもなく――
世界システムの崩壊阻止ミッションだった。
クラリッサの胸に冷たいものが落ちてくる。
王子を守らなければならない。
だが、彼は制御不能の“心臓部”だ。
自分の任務は、
ただの護衛でも、ただのスパイでもない。
世界の心臓が止まらないように見張る役なのだ。
(……どうすればいいの、こんなの……)
震える指先のまま、
彼女は紙を抱きしめるようにして目を閉じた。
クラリッサは、手紙の最後の行を何度も読み返した。
そのたび、背骨の奥を冷たいものがゆっくりと這い上がってくる。
(……そういうこと……だったんだ。)
外世界——かつて彼女が所属した機関。
CIA の名を拡張した、C.I.A.X。
人間社会を監視する諜報組織の延長ではない。
もっと巨大で、もっと非情で、もっと抽象的な存在。
この世界をどう見ているか。
手紙がその答えを淡々と語っていた。
《本世界は揮発性情報試験場。
揮発構造は観測対象、香階は意識密度層。
王子は構造固定軸。》
胸が、ひやりと縮む。
揮発——この世界の人々が当たり前のように受け入れている“消失と再構築”。
香階——社会制度だと思っていた“香の密度による階層”。
王子アレスレッド——一国の皇太子に過ぎないと思っていた存在。
全部、違った。
外世界から見れば、
これは 宇宙シミュレーションのような研究モデルなのだ。
揮発とは情報の縮退。
香階とは意識密度。
王子は——構造の安定を保つ軸圧点。
(……だから、彼が死ねば世界そのものが壊れる……。)
クラリッサの喉が、自覚しないまま乾いていく。
システムが壊れれば、
データが破壊される。
解析も記録も、二度と取り戻せない。
それは外世界にとって、
“世界が消える”のと同義だった。
だから命令は、矛盾しているようで矛盾していない。
● 王子は危険だ。
揮発構造を書き換えようとしている。
● だが死なせてもいけない。
死ねば構造が崩壊する。
● 生かしつつ制御し、
世界が暴走しないよう監視しろ。
クラリッサは、手紙を机に置いた。
指先から熱が逃げ、皮膚の奥の神経だけが鋭く残ったような感覚。
(……なるほど。これで全部つながる。)
任務は、暗殺でも護衛でもない。
**世界維持のための“心臓部の管理”**だ。
王子アレスレッドは危険因子で、
同時に不可欠な支柱。
外世界の残酷なロジックが、
初めて完全に姿を現した瞬間だった。
クラリッサは、ゆっくりと息を吐いた。
朝の冷気が肺の奥に触れ、ようやく思考が底まで沈む。
(私は……何者だ?)
手紙が突きつけた結論は、
彼女がこれまで自分に与えてきた役割を、
すべて静かに否定していく。
王子を守る護衛ではない。
王子を討つ暗殺者でもない。
もっと無機質で、もっと非情で、
もっと“外世界的”な役割。
手紙の文面が、彼女の中で音もなく再構成される。
《王子を死なせるな。
だが、世界を閉じさせてもならない。
揮発構造は維持し、永続化も阻止せよ。》
その一行一行が、
クラリッサの胸に冷たい鉄板のように打ち込まれていく。
(……私は、王子の味方でも、敵でもないんだ。)
彼を救えば世界が閉じ、
彼を殺せば世界が壊れる。
その中間。
その均衡。
その一点を保つ役目。
王子を“死なせず”、
“永続化もさせず”、
世界が破綻しない一点へ導く——
調整者。
それこそが、
“転生者クラリッサ”という存在の 本来の位置づけ。
彼女の生命は、
外世界がこの世界を観測し続けるための
補正値でしかなかった。
胸の奥で何かが静かに砕け、
代わりに奇妙な透明感が生まれる。
クラリッサはゆっくりと窓の外を見た。
王城の朝光は薄く、
香の揺らぎはまだ昨夜の騒動を引きずっている。
(……そう。私は感情で動いちゃいけない。)
クラリッサという少女でも、
クラリッサという転生者でもなく。
外世界が送り込んだ、
観測と制御のための“調整者”。
その役割が、いま確立した。




