第一章 記録の終端 第三節 遭遇
装置は、呼吸をしているようだった。
微かな振動。
規則的な青の脈動。
まるで生体が光で鼓動しているように、金属の花弁が震えている。
クラリッサは、手にしていたケーブルをゆっくり差し込む。
端末の画面が一瞬、ノイズを走らせ、無音になった。
「通信、遮断。外部干渉……ゼロ。」
いつもなら安心する報告。
だが今夜の沈黙は、妙に温度があった。
金属の表面に青い光が満ち、空気がわずかに歪む。
その瞬間、彼女の嗅覚が何かを掴んだ。
「……嗅覚刺激? 違う。これは情報だ。」
香が、思考に侵入してくる。
匂いが意味を持つ。
香の分子が、言葉を伴って脳に溶け込む。
呼吸と同時に、記憶が立ち上がった。
古い雨の匂い。
焦げたコーヒーの匂い。
銃油。
そして、誰かの手の体温。
幼い頃に母親の手のひらから感じた、微かな柑橘の香。
訓練所の消毒液。
潜入先のホテルのカーテンの埃。
——それらがすべて、「一続きの香」として混ざり合っていく。
過去が、分子構造のように再構成される。
クラリッサは理解する。
この装置は単なる兵器ではない。
記録の形を嗅覚に変換する機械だ。
脳波は、感情の波形を化学物質に変え、揮発性の香として空気中に放つ。
嗅覚を通して他者の神経に侵入し、感情を再生する。
それは、情報伝達ではなく、感情感染。
「神経情報、揮発性化合物として変換。
感情は香を媒介にして伝達可能。
匂いの記録は……永続する。」
報告文のように呟きながらも、声の奥で小さく震えが生じる。
人間の本能が、理解してはいけない領域に触れたと告げていた。
もし誰かが“幸福”を香に変えれば、嗅いだ者は幸福になる。
“恐怖”を香にすれば、嗅いだ者は戦慄する。
“忠誠”を香にすれば、国は支配できる。
——香による支配。
——香による永遠。
クラリッサは肩に付けた小型マイクのスイッチを入れ、淡々と報告する。
「対象は、匂いの中に心を記録する兵器。……美しい発想だ。」
言葉の端に、微かな嘲笑が滲んだ。
「だが、人は香を記録できても、痛みは保存できない。」
その瞬間、装置の青が濃くなった。
音のない拍動が、彼女の鼓膜を押し出すように響く。
空気が膨張し、香が世界を満たしていく。
青が香る。
記録が息をする。
——彼女の思考が、青い花弁に吸い込まれていく。
瞳孔が微かに収縮し、
記憶が分解され、
“情報”として再構成されていった。
「情報は、……揮発する。」
誰にともなく呟いた言葉は、もはや音声ではなかった。
それは、香の形をした記録として、空気中に漂い始めていた。




