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『青薔薇の毒名録(The Blue Rose Codex)』 — 毒と理想、愛と記録の交わるところに。  作者: 南蛇井


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28/70

クラリッサのもとに届く――“香りのない手紙”

夜明け前の王城は、いつもより重く沈んでいた。

青薔薇毒事件の余韻がまだ香階のどこかに滞り、誰の香もざらついている。

臨時宿泊区画の一室で、クラリッサは机いっぱいに広げた揮発波形の記録に目を落としていた。


薄い青の揮発データが、曲線となって紙面を走る。

昨夜の混線した香の奔流――貴族たちの錯乱、崩壊した香階。

その中に、一つだけ異質な波形がある。


“永続波形”。


この世界には存在しないはずの、揮発しない香の痕跡。

それが王子アレスレッドの黄金の香に酷似している。

だが――違和感が言語にならない。

心の底に、まだ沈殿しているだけだった。


クラリッサは眉間を押さえ、深く息を吐いた。


「……何かが、おかしい。」


揮発する世界の法則から外れた香。

それは昨夜、王子がたった一歩で世界を“固定”したあの瞬間と同じ感触。


パチ、と蝋燭の小さな音がした。

室内には彼女の微弱な実務香だけが漂っている。


そこへ――


すっ……と、紙の乾いた感触が扉の隙間から滑り込んだ。


音がない。

香りもない。


クラリッサの肩が微かに揺れる。


この世界で作られた紙はどんな粗末なものでも、必ず“微香”を持つ。

香りのない紙など、存在そのものが不自然だ。

まるでこの世界の揮発構造に属していないように。


クラリッサは椅子を静かに引き、紙片を拾い上げた。


鼻先を近づける。

……完全な無香。


「外世界……?」


囁いた声は、かすかに震えていた。


紙面は真っ白だ。

だが指先の温度が触れた瞬間、薄いインクが浮かび上がり、文字の輪郭を結び始める。


淡く、だが確実に。


クラリッサの視線が、それを追う――。


手紙の内容を読む前の、息が止まるほどの静寂。

その瞬間こそ、この世界の“外”からの気配が滲み出す唯一の証だった。


薄い紙片は、クラリッサの指の中でほとんど重さを感じさせなかった。

しかしそれ以上に――そこから立ち上る“無香”が、異物感として彼女の嗅覚を刺した。


香りがない。


紙が作られた瞬間も、インクが触れた瞬間も、誰かの手が運んだ瞬間も――

この世界なら必ず微弱な香痕が残る。

存在の証として、必ず。


だがこの紙は、静謐な湖面のように何も返してこない。

香圧ゼロ。

ゼロというより、欠落そのもの。


「……この世界の物質じゃない。」


クラリッサは紙面を指で撫で、ぞくりと背筋を走る感覚を抑えた。

触れた瞬間に香階がわずかでも揺れるはずだ。

紙が扉の下から滑り込んできたのなら、そこに“動き”の香が生まれるはず。


けれど――


まったく揺れなかった。


静かすぎるほどの静寂。

まるで、この紙は空気を使わずに移動してきたかのように。


クラリッサ(内心)

(……搬送に香操作を使っていない?

 なら、これは――転生前の世界と同じ、“物理的な投函”……?)


あり得ない。

この世界では、物体が動けば必ず香が漏れる。

それは法則であり、理の一端だ。


しかし、この紙は法則を無視した。


背骨を冷たい指でなぞられたように、得体の知れない寒気が走る。


クラリッサの脳裏に浮かんだのは、

この世界へ来る前――最後に見た“情報機関の封筒”の手触りだった。


まさか、と息を呑む。

だが紙片は、彼女の混乱を揺さぶるように、ただ無音のまま存在していた。



紙片の表面に指を滑らせた瞬間、

温度に反応して、淡く、黒い文字が浮上した。


まるで水底から亡霊がのぼってくるように――

ひどく静かで、ひどく懐かしい“フォント”だった。


CIA特殊作戦課でのみ使用された、暗号化インク。


浮かび上がった三行が、彼女の肺に冷たい空気を押し込む。


《E-14:観測対象から目を離すな》

《揮発構造の修正を妨害せよ》

《王政改革阻止は最優先任務》


クラリッサは息を呑む。

この世界の言語ではない。

だが――この世界の構造を完全に理解した上での指示文だ。


「観測対象」

「揮発構造」

「王政改革阻止」


すべてが、昨夜の事件と王子アレスレッドの言動に繋がる。


外世界が、すでにこの世界の“香理”を解析している。


そして、次の行が浮かんだ瞬間――

クラリッサの心拍が一度止まり、次に痛いほど跳ねた。


《転生は偶発ではない。

   君の存在は、計画の一部だ――C.I.A.X》


「C.I.A.」

そこまでは、彼女が知っている組織と同じ。


だが、その末尾に“X”が付いていた。


Cross-Intelligence Axis

異世界観測課――存在するはずのない、噂だけの旧コード。

非公式、無記録、無痕跡で動く“影の組織”。


「……あり得ない。」


声は震えていた。


クラリッサ(内心)

(私が……死んだあとで転生したのは、偶然じゃない?

 私がここにいるのは、任務だった?

 送り込まれた……?

 じゃあ私は――)


王子を守るでもなく、

捜査官として生き直すでもなく、


“揮発しようとする世界を、外側から制御するための装置”として――

この世界に投入された?


手の中の紙が、まるで心拍に合わせて脈打つように思えた。


クラリッサは動揺を、訓練された呼吸で即座に押し込めた。

胸のざわめきを“分析”に変える――元CIA諜報員の癖が勝手に作動する。


まず、紙片そのものを観察。


① 香痕跡ゼロ

指先で滑らせても、紙が空気を割る瞬間にも、香の揺らぎが一切ない。

この世界の物質は存在するだけで微香を持つ。

“香圧ゼロ”の紙は、つまり――


「ここには、本来存在できない物質。」


② 紙の構造

繊維の密度が均一すぎる。

この世界の植物由来の紙とは根本的に違う。

人工合成素材――それも高度な。


③ 投函の瞬間の“空間震”

扉の下に滑り込んだ一秒前、

床石の接合部が“カン”と微かに震えた。


揮発の揺らぎではない。

魔術でもない。

高次元転送特有の“空間歪みの微振動”。


クラリッサ(内心)

(……じゃあ、私が眠っている間に位置を割り出され、

 距離も次元も無視して投げ込まれた?)


④ 彼女の居場所を完全に特定している


臨時宿泊室は事件直後に急遽割り当てられたもの。

情報は王子と警護隊しか知らない。


その部屋を外世界から正確に狙い撃つ――

これは単なる接触ではなく、“観測可能状態”だ。


⑤ 送付のタイミング


王子暗殺未遂事件の翌朝。

揮発構造の揺らぎが最大になり、

クラリッサが最も“外界を疑い始める瞬間”。


まるで彼女の心理状態さえ読んでいるような、絶妙すぎる時間。


そして導き出される結論は、ただ一つ。


「――外世界の観測者が、私に直接触れられる位置にいる。」


もし手紙が届いたなら、

届く過程そのものが“観測”であり、

観測される対象は――彼女自身。


クラリッサ(内心)

(……私の転生は、計画の一部。

 私の行動はすべて“監視”されている?)


紙片を握る手が、わずかに汗ばむ。


外世界の影が、この世界に“介入”している。

そしてその介入は――彼女を中心に回っている。


次の瞬間、クラリッサは悟った。


この任務は、逃げられない。


クラリッサは、

手紙を何事もないように折りたたみ、

机の端に積んだ“揮発波形データ”のファイルに自然に挟み込んだ。


外から見れば、ただの事務的な動作。

だがその胸の奥では、まるで別世界の風が吹き荒れていた。



クラリッサ(内心)

(私の転生は……偶然じゃなかったの……?)


“転生”という言葉が、急に異物のように胸の中へ落ちる。

落ちた瞬間、冷たい波が脳裏を浸していく。


(私が王子の近くにいる理由も……

 この世界で揮発構造を読み解けるこの“異能”も……

 この国で分析官として拾われたことも……

 全部、誰かの計算のうち?)


背骨をつたって、薄氷の棘が下りていく。


あまりに綺麗な配置。

あまりに出来すぎた偶然。

手紙はそれを、淡々と“事実”として突きつけてきた。


深く息を吸おうとした瞬間、肺が拒絶した。

息が、熱ではなく“冷たさ”で詰まった。


クラリッサ(内心)

(……私の人生は、

 外世界の誰かに“ここへ置かれた”だけ……?)


一瞬だけ、心がふるえた。


けれど――その震えはすぐに別の理解へつながる。


* 外世界の意図が繋がる


外世界は、王子アレスレッドを恐れている。


王子の“永続”の理想

= この世界の揮発循環を破壊する力

= 世界構造を書き換えうる危険思想


だからこそ、手紙には矛盾した命令が並んでいた。


・王政改革を阻止せよ

・揮発構造の修正を妨害せよ

・観測不可能領域を作らせるな

・そして――王子を死なせるな(世界が崩壊するから)


クラリッサは、静かに目を閉じる。


クラリッサ(内心)

(……全部、繋がった。)


王子は危険だ。

しかし死んでも危険だ。

理想を実現しても危険だ。

放置しても危険だ。


だから外世界は――

“世界が壊れない程度に、王子を制御できる存在”として、

クラリッサを送り込んだ。


クラリッサ(内心)

(……私が、王子アレスレッドの“ブレーキ”役……?

 永続へ向かう革命を止める、揮発の毒として……?)


胸の奥で、何かが静かに鳴った。


それは恐怖でも怒りでもない。

もっと乾いた、任務を受領したときの音。


――理解した。

 これは、私への“命令”だ。


クラリッサの指先が微かに震えたが、

彼女はすぐにその震えを、呼吸と共に押さえつけた。


この世界の行方も、王子アレスレッドの未来も、

そして彼女自身の存在意義も――

すべてが今、ひとつの線で繋がっていく。


物語は次の段階へ進み始めた。



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