事件の終幕と、物語の始まり
香階が崩れ落ちた大広間は、混乱と恐怖の渦中にあった。
青薔薇の香が完全に分解し、残されたのは――微かな鉄の匂いと、死の気配を孕んだ空白。
貴族たちは互いにしがみつき、叫び、ある者は出口へ、ある者は床に崩れ落ち、世界の足場を失っていた。
その混沌の只中で、
王子アレスレッドが、たった一歩、前へ出た。
瞬間、黄金の香が空気に満ちた。
揮発しない――この世界では異質すぎる、永続する香。
乱れた香階が、音もなく“固定”されてゆく。
まるで世界の揮発性そのものをつかみ取り、支配するかのように。
「恐れることはない。」
王子の声は低く、抑制され、しかし絶対的だった。
恐怖を押し潰すのではなく、ゆっくりと吸収していくような響き。
「揮発は過程であって、終わりではない。」
言葉が空間を包むたび、黄金の香が脈動し、
貴族たちの呼吸は整い、震えは収まり、
視線がひとつ、またひとつと王子へ向けられていく。
――これは、鎮静ではない。
――統治だ。
民が王に従うのではない。
世界そのものが、王子の思想に輪郭を与え始めている。
クラリッサは、呼吸を忘れた。
(……この人は。)
揮発し続けることで世界を保っているはずの“法則”。
その揺らぎすら、王子は“固定”してしまった。
(世界の底の構造ごと握ってしまえる人……。)
彼の黄金の香は優雅でも華美でもない。
ただひとつの方向へ向けて、世界を引きずり出す力を帯びている。
クラリッサは、誰よりも早く理解した。
ここにいるのは、王ではない。
――世界のルールを書き換える存在だ。
混ざり合い、崩れ、消えかけた香の残滓が、まだ空気の底で震えている。
クラリッサはその微かな震動を、指先よりも鋭敏な“解析”で拾い続けていた。
青薔薇の死香。
貴族たちの恐怖の揮発。
そして――王子アレスレッドの、揮発しない黄金の香。
その三つが触れ合った瞬間に生じた“相互作用”を、
クラリッサだけが理解できていた。
(……やはり、そういうこと。)
王子の香は世界の循環を拒絶する。
“永遠”を望む香。
それ自体は救いにもなり得る。
だが、香階――この世界の根幹を形作る揮発の法則は、
永続を前提としていない。
永遠とは、
救済と破壊を同時に孕む毒だ。
(この人の理想は、人を救うかもしれない。
けれど同時に、この世界そのものを壊す。)
クラリッサは目を伏せる。
ただの一瞬。それでも、胸の奥で何かが燃え上がった。
(――私は、その“永遠への毒”にならなければ。)
王子を害するための毒ではない。
王子の理想が暴走するなら、
その永続性を侵し、揮発の現実へ引き戻す毒。
たとえそれが、
この世界の価値観に反し、
王子の意思に背き、
彼自身に憎まれる役割であったとしても。
眩しすぎる理想は、光だけで人を導かない。
目を焼き、影を破壊し、世界の輪郭を奪う。
――だからこそ。
その隣には、
光を制する影が必要なのだ。
クラリッサだけが、その未来を“読めてしまう”。
過去の分析官としての素質も、外世界の論理も、
すべてがこの瞬間のためにあるかのように。
ここで彼女の“使命”が生まれた。
王子を守るためではない。
王子を制御し、必要なら――毒として対峙するために。
青薔薇の死香が揮発しきった空間で、
王子アレスレッドは静かに歩み寄り、クラリッサを見下ろした。
揮発しない黄金の香――
その密度は、もはや“支配”ではなく“選別”に近い。
王子は、彼女が他の誰とも違う速度で世界を読み解いていることを察していた。
人々が恐怖で震え、錯綜する香が空間を濁しても、
クラリッサだけは波形を見失わない。
(……やはり、彼女だ。)
王子は確信を深める。
自らの理想を永続させるためには、
揮発する世界を“読める観測者”が必要なのだ。
揮発しない声が、静かに空気を固定した。
「あなたは鋭い。
……私の理想を理解できるのは、あなたしかいないかもしれない。」
その言葉は甘さを含まない。
ただ純粋な評価であり、
“側に置くべき者”だけに与えられる王子の選別。
クラリッサは一瞬だけ、その黄金の香に触れた気がした。
だが、微笑まない。
「理解することと、肯定することは違います。
――アレスレッド殿下。」
その瞬間、王子の香が微かに揺れた。
波形が震えたのは初めてだった。
しかし揮発しない。
消える代わりに――興味として、濃さを増す。
王子は初めて、
“自分に逆らうことのできる者”に出会ったのだ。
空気は静まり返り、
人々の香は恐怖で震えながらも、王子の黄金の波形に従属していく。
その中心で――
アレスレッドとクラリッサだけが、別の密度を持つ空間に立っていた。
互いの香がわずかに触れ合い、
しかし混ざらない。
その瞬間、確かな“線”が引かれた。
王子の香は揺るぎなく告げていた。
世界の揮発性こそが欠陥だ、と。
永続しない秩序は脆弱で、人を救えない、と。
(だから私は、変える。
この世界の法則そのものを。)
彼の黄金の波形は、
揮発ではなく“固定”を志向する――革命者の香。
一方で、クラリッサは揮発の残滓の中に立ちながら、
異質な香を見つめ返す。
(あなたの理想は、救いにもなる。
けれど……世界を壊す毒にもなる。)
彼女はその未来を読めてしまう。
だからこそ、王子の隣に立つのではない。
王子の“対岸”に立つのだ。
世界の揮発循環を守り、
必要とあらば彼の永続の理想を止める――
毒としての観測者。
王子の香が、微かに彼女へ伸びる。
クラリッサの香は、それを拒む代わりに静かに観測する。
惹かれ合いながら、
決して同じ場所には立てない。
最初から矛盾する理念の両端に置かれた二人。
――この瞬間、物語の根幹が形成された。
永続を求める王子と、
揮発を守る毒。
この対立こそが、
これから始まる“二重螺旋”の物語の始点だった。
青薔薇香は、まるで名残を惜しむように
細い光粒をひとつ、またひとつと落としていった。
その光は床に届く前に揮発し、
夜気へ溶け、
最後には――跡形もなく消えた。
青薔薇の宴を飾った香は死に、
この世界の摂理どおりに循環へ戻っていく。
だが。
その中心に立つ二人だけは、
揮発の風から取り残されていた。
王子アレスレッドの黄金の香は、
揮発を拒むように空間へ“線”を描き、
クラリッサの揮発しない深緑の香と、
重なりも衝突もせずに――ただ残り続ける。
周囲に満ちていた数百の香が消え去ったあと、
そこに確かに存在していたのは、
たった二つの香だけ。
揮発する世界で、揮発しない二人。
それはもう選択ではなく、
“運命”として絡み始めていた。
夜の静寂が落ちる。
青薔薇の香の終焉が告げたのは――
事件の終幕ではなく、物語の始まりだった。




