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『青薔薇の毒名録(The Blue Rose Codex)』 — 毒と理想、愛と記録の交わるところに。  作者: 南蛇井


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捜査の序章 ― 交換された杯の謎

王宮ホールはまだざわめいていた。

倒れた重臣の周囲には青薔薇香の残り香が薄く漂い、床に散った杯の破片が光を反射している。


その片隅に、クラリッサは膝をついた。


金属質の耳飾りがかすかに震え、揮発粒子を捕捉していく。淡い光で浮かび上がる波形は、香階の読み手にだけ理解できる“死の記録”だった。


① 二重に重なった波形 ― 杯は香を乱さずにすり替えられた


光の幕に浮かんだのは、青薔薇香の通常波形……ではなかった。

それにぴたりと重なる、もうひとつの細い線。


二重波形。


触れていないはずの香が、触れ合ったかのように重ねられている。


一般貴族はおろか、王宮侍従でも不可能な技だ。


クラリッサは眉を寄せる。


――香を乱さずに杯を入れ替える?

 そんな神経操作……できる者は限られている。


波形のずれは、ほんの一瞬。

だが、その“一瞬”を作るために、香が一度だけ完全に沈黙している。


まるで存在そのものが、消えたように。


② “揮発情報の無効化”――外世界技術に近い禁術


次に浮かび上がった波形は、毒そのものの軌跡だった。


青薔薇香と接しているのに、揺らぎがない。

むしろ、香の波形に擬態している。


擬態には一瞬だけ香を消す――

揮発情報の無効化が必要。


それは国家分析局でも扱いを禁じられた危険技術だ。


クラリッサの背筋をひやりと冷気が走る。


――香を一度“なかったこと”にできるなんて……。

 あれは、外世界の技術に近い。


香階社会の根幹に手を突っ込む暴挙。

ただの暗殺者でできる仕事ではない。


③ “永続波形”――本来ありえないはずの、王子の理想と同質の構造


最後に、解析装置が異常音を鳴らした。


「……え?」


クラリッサは投影された最終波形に目を凝らす。


毒が、揮発していない。


むしろ――青薔薇香に触れた瞬間、

永続する波形へと変質している。


揮発世界において、永続は“禁忌の構造”だ。

世界の因果が拒むはずの、在ってはならない性質。


だが。


「……これは……」


喉がひとりでに震えた。


「王子の香と同質。」


言葉にした瞬間、ようやく理解が追いつく。


王子を殺すための毒が、

彼が求める未来――揮発しない世界の構造と同じ形を持っている。


偶然なわけがない。


クラリッサの胸で、冷たい推論が形になる。


――誰かが、王子の“理想そのもの”を武器にしている。


その危険な意志を、最初に嗅ぎ取ってしまったのは自分だった。


そして、彼だけが知り得る理論を利用できる者は――

もう、限られている。



クラリッサは波形の投影を見つめたまま、思考を止められなかった。


青薔薇香の残滓の中に混じった“永続波形”――

それは本来、存在してはならない構造。


揮発し、消え、循環することで世界が維持される。

この世界の法則は、その一点にすべてが依存している。


それなのに。


王子アレスレッドの香は揮発しない。

永続し、情報を固定化する。

それは彼が掲げる「揮発しない正義」の象徴であり、

同時に、世界の根幹を揺るがす“異端”だった。


そして今、クラリッサの目の前にある《暗殺者の毒》も――

まったく同じ性質を持っている。


彼女の呼吸が浅くなる。


内心の声は、驚愕よりも恐怖に近かった。


「王子を殺すための毒が、

 王子の理想と同じ構造……?

 そんな偶然、あるはずがない……。」


一瞬、視界が揺れた気がした。


波形の青白い光が床に反射し、

クラリッサの瞳に刺さる。

その光の中で、彼女の思考が三方向へ裂ける。


1. 暗殺者は、王子と同じ思想を持つ――?


ありえない、と即座に否定したい。

だが波形は嘘をつかない。


揮発世界を否定し、永続を求める思想。

それは王子アレスレッドの根にある危険な理想であり、

今日まで彼以外に“感じたことがない”香の質だった。


その同質性を、毒が示している。


もし暗殺者が王子と同じ思想を持っているのなら――

目的が“殺害”だけで終わるとは限らない。


むしろ、世界の構造に手を伸ばそうとする者が、もう一人いる。


クラリッサの指先が震えた。


2. 毒の構造そのものが、王子に由来する――?


もっとも恐ろしい可能性。


王子の香、あるいは王子の研究・理論・記録。

そのいずれかが盗まれている。

あるいは、彼自身が知らぬうちに何かを利用されている。


永続波形は、自然発生することはない。


クラリッサの胸中に冷たい鉛が落ちた。


――王子の香そのものが、暗殺計画に組み込まれている?


そう考えた瞬間、ぞっとするほどの悪意の匂いを感じた。


3. 外世界の技術が混じっている――?


クラリッサが元いた世界の技術体系。


香をデータとして書き換え、

物理的実体とは別の層で操作する――

“情報工学”の発想。


この世界では禁忌に分類される揮発情報の無効化は、

外世界ではさほど珍しいものではない。


もしその技術が混入しているなら、

暗殺者は、世界の外側のロジックを使い、

この世界の法則を破壊しようとしている。


クラリッサは気づく。


――どれも、最悪だ。


一つとして望ましい結論がない。


どれが真実でも、この事件は“世界の構造そのもの”に触れている。

そして、自分はいま、その中心に立ってしまった。


耳飾り型解析装置が波形を消すと、

部屋のざわめきが洪水のように戻ってくる。


だがクラリッサの耳にはもう届かない。


彼女の瞳は、ただ静かに揺れていた。


――王子の思想と同じ構造を持つ毒。

 これは、事件ではなく“兆候”だわ。


彼女の胸に、淡く、しかし確かな嫌な予感が根を張った。



ホールに満ちていたざわめきが、

王子アレスレッドの歩みに合わせて沈静していく。

まるで彼の“揮発しない香”が空間そのものを制圧しているようだった。


黄金の香が、波のようにクラリッサへ押し寄せる。

それは視界の端で粒子の密度を増し、

彼女の解析装置の感度さえ狂わせるほど強い。


クラリッサが波形の投影を消すより早く、

王子は彼女の横に立っていた。


**王子「何が分かった?」**


その声は静かだったが、

静けさゆえに“逃げ道のなさ”を帯びていた。


彼の香が近すぎる。

揮発しない情報が圧を持って響き、

クラリッサの心臓のリズムを乱す。


クラリッサは口を開きかけて――

言葉を飲み込んだ。


(王子の香と、毒の波形が同質……

 そんな事実、どう伝えればいい?)


沈黙の数秒が落ちる。


その沈黙を、王子は迷いなく“意味”として拾い上げた。


**王子「――何かを隠しているのか?」**


彼女が緊張で呼吸を止めた瞬間、

王子は彼の香の密度をさらに上げる。

圧が増し、彼の視線がストレートに突き刺さる。


クラリッサは小さく首を振った。


**クラリッサ「……隠してはいません。ただ、確認が必要です。」**


声は落ち着いているが、

内心では警戒の鋭い刃が走っていた。


王子は即座に返す。


**王子「では、その確認を私が行う。」**


その言葉は、命令に近かった。

周囲の衛士たちでさえ動きを止め、

ホールの空気が再び凍りつく。


クラリッサは、ほんの一瞬だけ表情を強張らせた。


(……出た。

 彼は“自分で動く”王子。

 しかも、永続する香で空間を支配する存在。)


彼が捜査権を握るということは――


揮発すべき判断が揮発せず、

 王子の理想によって“固定”されてしまう。


そして、固定された権限は誰にも奪えない。


**クラリッサ(内心)


(彼の香は揮発しない……。

 なら、捜査権まで永続し、

 誰にも渡らなくなる。)**


クラリッサは一歩、王子から距離を取った。

しかし黄金の香は、それすら追うようについてくる。


その僅かな距離感の変化――

それが、二人の間で初めて“主導権”が衝突した瞬間だった。


王子の瞳は揺れず、

クラリッサの瞳は警戒に光る。


そして静かに、

捜査の主導権争いが幕を開けた。




ホールの灯りが、不安定な青薔薇香の残光に揺れていた。

王子アレスレッドの黄金の香だけが揮発せず、

周囲の波形を押し返すように濃度を増し続けている。


その圧の中で、クラリッサはひとり静かに呼吸を整えた。


彼女の手のひらには、解析装置が弾き出した“答え”がまだ熱を帯びている。

だがその答えを、ただちに口にすることは――できなかった。


**クラリッサ(内心)


「……まだ言えない。

 この世界の誰も、まだこの事実を扱えない。」**


彼女はそっと視線を落とした。

その瞳の奥に沈んでいるのは、

香階の理論では説明できない、より深い恐れと確信だった。


毒の香は、王子の香と同質。

揮発せず、固定され、永続する。

偶然で済ませられる構造ではない。


それだけではない。

クラリッサは気づいてしまっていた。


あの瞬間的な“香の消失”。

波形を無効化し、擬態させる技法――


あれは、この世界のものではない。

揮発情報を操作する、その発想。

自然界にも、宮廷技師にも存在しない“外世界の指紋”。


彼女の背筋を、薄い電流が走る。


そして、もうひとつ。

より重大で、より孤独な秘密。


自分の正体さえ、この事件に交差し始めている。


クラリッサは本来、この国の人間ではない。

この世界の法も、価値観も、揮発の常識も知らない。


――だが、外世界の分析技術は知っている。

――情報の隠匿、擬態、破壊。

――“永続データ”という概念さえ。


その全てが、今目の前で起きている。


彼女は静かに王子を見上げた。

アレスレッドは気づかぬまま、揮発しない香で空間を支配している。


その香に、この事件の“核心”が照らし出されていく。


クラリッサは小さく息を飲み――

そして心の底で、硬く決意を閉じた。


**クラリッサ(心の声)


「これは私の任務。

 真実を扱えるのは、今のところ……私だけ。」**


誰にも言えない。

王子にも、宮廷にも、香階の誰にも。


こうしてクラリッサは、

この物語で最初となる“秘密”を胸にしまった。


それは後に、二人の距離を歪め、

そして深く結びつけることになる――。



青薔薇香の残滓が薄く漂い、

ホールにはまだ崩壊した香階のざわめきが沈殿していた。


そのただ中――

王子アレスレッドの黄金の香だけが揮発せず、

濃度を増しながら、静かに空気を支配していく。


クラリッサはその圧をまともに受けながらも、

かろうじて姿勢を崩さず立っていた。


王子が一歩近づく。

その瞬間、香が触れあい、大気が震えた。


王子


「――クラリッサ・リンドウェル。

  この事件の解析を全面的に任せる。」


その声音は冷静で、威圧的で、

そしてどこか“揮発しない意志”を宿していた。


命令ではなく、宣告。

任命ではなく、拘束。


クラリッサはほんの僅かに呼吸を止め――

そして静かに頷いた。


クラリッサ


「……承知しました。」


表面上は従順な返答。

だが胸の奥で、別の意味が密かに蠢いている。


――王子の香圧による強制。

――永続する理想を持つ者からの、逃げ場のない依頼。

――そして、自分だけが握る“外世界の真実”。


二人の香が、すれ違うことなく絡む。

螺旋のように――互いに離れず、しかし決して同化しない。


青薔薇香が完全に揮発した時、

残っていたのは王子とクラリッサ、

そして二人の周囲に渦巻き始めた“異質な流れ”だった。


**ここから物語は進む。**


王子の思想。

暗殺者の思想。

そしてクラリッサの外世界の真実。


三つの意志が重なり合い、

互いの輪郭を削りながら、ひとつの軌跡を描く。


――捜査は“二重螺旋”へ。

揮発する世界で、揮発しない者たちが動き出す。


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