王子とクラリッサの“最初の衝突”
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青薔薇の香光が砕けてなお、会場にはその名残が漂っていた。
だがその残光すら、いまや死の予兆として貴族たちを震え上がらせている。
悲鳴。転倒。香衣の崩壊音。
揮発の秩序が壊れてゆく中――
ただ一人、王子アレスレッドだけが、まったく揺れていなかった。
むしろ。
クラリッサの視界には、
彼の香が“濃度を増してゆく”のが見えた。
揮発しない。
消えない。
薄れない。
黄金色の情報雲が、王子の周囲にゆっくりと“集束”していく。
それは周囲の乱れた香波形を吸い寄せ、一点に収束する“重力”のようだった。
――この人……香を、固定している?
クラリッサが息を呑んだ瞬間。
王子は振り返り、倒れた重臣と砕けた青薔薇の杯を、淡々と見下ろした。
「犯人は必ず見つかる。」
静かすぎる声。だがその香は雷鳴のように重い。
「そして、彼らの理想を正す。」
その“理想を正す”という言葉に、クラリッサの背筋が硬直する。
――正す?
誰の、何を?
香階の秩序を?
揮発の法則を?
揺らぐ感情をそのまま空気に還すのが、この国の流儀。
怒りも哀しみも、一度揮発すれば“清算される”のが社会の前提。
だが彼は、揮発させない。
抱えたまま固定し、むしろ濃縮してゆく。
クラリッサ(内心)
――揮発するはずの怒りも哀しみも、
この人の中では“永続”してしまう……。
それは、香階社会で最も危険な思考のはずなのに。
黄金の情報雲が、王子の理想そのもののように場を支配する。
クラリッサはそこで、初めて王子アレスレッドの“核”に触れた気がした。
揮発しない正義。
消えない信念。
そして、それを他者にも適用しようとする力。
王子の香だけが濃度を増し、揮発しゆく世界と正反対の方向へ進んでいた。
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王子の言葉が、クラリッサの内側にある“解析装置”を無意識に起動させた。
まるで彼の声そのものが情報波形となって流れ込んでくるかのように、
クラリッサの視界は一瞬で香の構造解析図へと変換される。
黄金の香雲。
揮発ゼロ。
濃度上昇。
そして――
〈固定〉
〈重力性〉
その二文字が、脳裏に鮮烈に浮かんだ。
(……固定化? 香を?)
揮発するのが前提の世界で、
揮発しない香を持つということは――
それだけで「思想の反逆」に等しい。
クラリッサ(内心)
――この人は、正義を永続させようとしている……。
怒りも、悲しみも、信念も。
本来なら空気に溶けて消えるはずの“感情の残滓”を、手元に留め続けている。
永続する正義。
絶対に揮発しない価値観。
それは香階社会において、
“毒”と同義だった。
なぜなら、すべてが揮発する前提で秩序が組まれている世界で、
ただ一人だけ揮発しない者がいれば――
その存在は波形の重力となり、社会全体を歪めてしまう。
(王子の思想……これは、社会構造そのものを破壊しうる。)
クラリッサは、初めて確信する。
彼の理想は純白ではなく、
揮発を拒む“固定の光”――すなわち、世界にとっての異物。
その異物性に、
彼女は同時に恐れと、奇妙な興味を覚える。
王子アレスレッド。
彼は、香階社会の根本を変えてしまう。
その危機感が、のちの対立の芽となり。
同じ危機感こそが、やがて彼女の心を揺らす種にもなるのだ。
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崩れ落ちた香階のざわめきは、
不思議なほどクラリッサと王子の耳から遠ざかっていった。
青薔薇香の残光が、薄い膜のように二人を包み込む。
周囲の混乱が波形の乱れとして空気を振動させているのに、
二人の立つ場所だけが、異様に静かだった。
――香圧が違う。
クラリッサは理解した。
王子の香がこの空間を“隔離”しているのだ。
まるで、二人だけが別の密室に閉じ込められたように。
彼の香は、揮発しない。
固定された正義が、目に見えない壁を作っている。
その壁に触れてしまった以上、
職務の言葉だけでは足りなかった。
クラリッサは息を吸い、
初めて“価値観”としての言葉を王子へ向けた。
「――あなたの正義は純粋すぎて、危険です。」
王子の瞳が、わずかに細められる。
驚きではない。
侮蔑でもない。
「純粋」という語が
決して褒め言葉ではないことを、
彼は直感で理解していた。
クラリッサは続けることもできた。
彼の香が内包する“重力”について。
揮発しない感情が社会をどう歪ませるかについて。
だが、その続きを口にする前に――
王子は、揺らぎなく言い放つ。
「危険でなければ、理想とは呼べない。」
その声音は、
ただの信念ではなく、
“揮発することを拒んだ熱”そのものだった。
クラリッサは息を呑む。
予測していた答え。
分析すれば当然の帰結。
それでも、実際に聞くと、胸の奥が震える。
(……この人は、本気で世界の法則を変えるつもりだ。)
揮発して消えるはずの理想を、
永久に固定しようとする危険な王子。
その危険を指摘したのはクラリッサで、
その危険を誇りとして肯定したのもまた王子だった。
この瞬間――
二人の間で初めて“毒”という概念が、
言葉として形を持ったのだ。
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王子の言葉が、空気のゆらめきよりも重く沈んだ。
「危険でなければ、理想とは呼べない。」
その瞬間、
青薔薇香の残光がわずかに震え、
世界がひとつ深呼吸したように見えた。
クラリッサは、王子の香の波形を読みながら、
そこに“揮発”という概念が存在していないことを確信する。
香階社会の根幹――
香は生まれ、揮発し、消えることで世界の調和が保たれるという法則。
だが王子アレスレッドは、
その大前提を拒絶していた。
(この人は……世界の法則そのものを変えようとしている。)
王子の香は、揮発しない。
むしろ密度を増し、意志を帯びて周囲の香を引き寄せる。
それは揮発する世界にとって反逆であり、
同時に――革命だった。
ここで読者ははっきりと悟る。
この青年はただの高潔な理想主義者ではない。
“永続する情報”を作ろうとする、
世界の仕組みを塗り替える者だと。
クラリッサは、喉の奥に鉄のような冷たさを感じながら言った。
「――あなたの正義は純粋すぎて、危険です。」
その言葉は、
彼女がずっと香波形として感じていた恐怖を、
初めて“言語”の形にしたものだった。
王子は眉一つ動かさず、静かに返す。
「それでも進む。
揮発に支配される生を、私は正す。」
そのやりとりは、
二人の思想が初めて真正面からぶつかった瞬間だった。
香圧がぶつかりあい、
二人の間の空気がかすかに軋む。
そして読者は理解する。
ここから始まるのはただの協力関係ではなく、
“対立しながら惹かれ合う”
危うい二人の関係の、最初の火花なのだと。
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崩れた香階のざわめきが、ようやく遠ざかり始めた。
青薔薇香はゆっくりと揮発し、光の粉のように空へ融けていく。
まるで祝宴そのものが風化するように。
その中で――
王子アレスレッドの香だけが、揮発せず、残った。
黄金の密度を帯びたその香は、
消えゆく青薔薇香の隙間に静かに沈殿し、
やがてクラリッサの香域へと“触れた”。
触れた、と感じたのは一瞬。
けれど、胸の奥がわずかに跳ねた。
拒絶すべきだと、本能は訴える。
永続する香。
揮発を許さず、世界の原理を冷たく否定する意志。
そんなものに触れれば、
自分の香は飲まれ、形を失ってしまう。
――だから、離れなければならない。
そう理解しているのに、
彼の香は熱でも冷気でもない、不思議な重力のように
クラリッサを引き寄せる。
魅了される。
吸い寄せられる危険。
それを“香”として嗅ぎ取ってしまう。
クラリッサ(内心)
――この人は、世界を変えてしまう。
そして私を……揮発させないかもしれない。
青薔薇香が完全に消えるころ、
残ったのは王子の黄金の思想の香と、
それに触れてしまったクラリッサの微かな震えだけだった。
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