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『青薔薇の毒名録(The Blue Rose Codex)』 — 毒と理想、愛と記録の交わるところに。  作者: 南蛇井


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事件発生 ― 青薔薇の杯

 祝宴の頂点を示す鐘が、天蓋の奥で柔らかく鳴った。


 その一音に反応するように、ホール全体へ青薔薇香が静かに満ちていく。薄く、澄みきった青色の層が重なり、天井から床へ向かってゆるやかに“香階”を形づくる。

 その階層は淡雪のように繊細で、触れればすぐに融けてしまいそうなほど純粋だった。


 まさに、王子アレスレッドのためだけに用意された祝福の空気である。


 従者たちが列を成し、中央へひとつの杯を運んできた。

 青薔薇の紋章が刻まれた銀の杯。その表面には、青薔薇香の微細な結晶が星屑のように付着している。

 光が触れるたび、結晶は薄い青光を散らし、まるで香りそのものが姿を変えて宝石になったかのように輝いていた。


 クラリッサは、遠くからそれを眺めながら――静かに鼻腔を満たす情報を整理する。


 (完璧な波形……無害指標も正常値。ここまでは、設計どおり)


 彼女は、香りを“読む”習慣を誰よりも早く覚えた女だ。かつて別の世界で、人間の息づきや恐怖、緊張すらも香りの変化として検知する訓練を受けた。

 だからこそ、今の王国の香階技術も、一目で全体像が把握できる。


 ――だが。


 青の層が重なる空気の隅で、ほんの一瞬、何かが軋んだ。


 (揺れた?)


 ごくかすかな波形の乱れ。

 誰も気づかない。気づけるはずもない。

 青薔薇香の揮発に紛れて、一本だけ、異常な“長い波形”が混じった。


 クラリッサはわずかに瞬きをした。

 しかし次の瞬間には、空気はまた整った層を取り戻している。


 (誤差……かもしれない。でも……)


 それ以上は思考に引っかからないよう、意識の奥に押し込んだ。

 今は儀式の瞬間であり、不確定な違和感を追いかけるのはふさわしくない。


 従者によって王子のもとへ杯が運ばれ、青薔薇香がいっそう濃く広がる。

 祝福は頂点へ、物語は導火線のきわを滑るように進む。


 クラリッサは、小さく息を吸い込んだ。


 (……気のせいであればいい)


 そう願ったその時点で、すでに運命は動き始めていたのだ。

 彼女の“誤差”は、後に王国の香階を揺るがす大事件――

 青薔薇の杯事件へと直結していく。



 王子アレスレッドが、差し出された杯へとそっと手を伸ばした――その刹那だった。


 杯を捧げ持っていたロートバル家の重臣が、喉奥で短く息を詰まらせるように震えた。

 周囲の貴族がざわめくよりも早く、彼の顔色が急速に灰色へと変わる。


 「……っ、ぐ……!」


 胸元を押さえ、重臣の身体が前のめりに崩れ落ちた。

 高貴な礼服がひるがえり、手から離れた“青薔薇の杯”が宙で回転する。


 ――カラン、と乾いた音が床に響いた。


 青薔薇香の結晶が砕け散り、淡い青光が破片となって床に跳ねた。

 光が弾けるたび、香りが短く、鋭く、泣き声のように揮発する。


 クラリッサの鼻腔に、その一瞬――異質な“別の香波形”が突き刺さった。


 (……違う。これは青薔薇香じゃない)


 青の光に紛れて、わずかに赤黒い波形。

 形を変え、標的を欺くように揺れながら、毒の本性だけが鋭く存在を主張していた。


 *


 会場の誰もが重臣を見つめて凍りつく。

 しかし、クラリッサだけは異常の中心にある“杯そのもの”へ目を向けていた。


 倒れた男の腕に触れた杯は、王子に献上されるはずのもの。

 毒の発生源は――そこにある。


 つまり、毒は最初から王子を狙って仕込まれていたのだ。


 重臣は、ただ運ぶ役目を負っていただけ。

 ほんの数歩手前で、偶然、毒を飲んだだけの――巻き添え。


 (……ターゲットは王子。

  計画は、あと数秒で完成していた)


 クラリッサの心臓が、ひどく静かに脈打った。

 音はしない。ただ、香りの振動だけが世界を震わせていた。


 青薔薇香が崩れる前兆として、空気がわずかに低くうなる。

 まだ誰も叫ばない。まだ誰も理解できていない。


 だが彼女は知っていた。

 ――この倒れた瞬間から、香階は確実に崩れ始めている。



 砕け散った青薔薇香の結晶が、床の上で最後の光を震わせた。


 その瞬間だった。


 青薔薇香の波形が――崩れた。


 通常なら、青薔薇香は高い調和性を保ち、揮発しても柔らかく消える。

 しかし今は違う。

 毒香が混ざった地点から、まるで“腐食”するように波形が黒く裂け、急速に分解し始めた。


 空気が歪んだ。

 音もなく、世界が折れるような感覚。


 クラリッサの視界に、香階の層がはらりと剥がれ落ちていくのが見えた。


 (……分解速度が速すぎる。

  これは自然界では絶対に起きない。

  人工――完全な“毒香”)


 青薔薇香の光が一瞬にして褪せ、

 次の瞬間、会場全体を覆う壮麗な香階が崩落した。


 *


 最初の悲鳴は小さかった。

 だが、恐慌は波のように広がる。


 「な……なに、今の……香が、香が消える……!」


 「香階が落ちてる!? ありえない、こんな……!」


 揮発の急激な乱れは“死の前兆”――

 香階社会に生きる者の本能へ直接突き刺さる恐怖だ。


 貴族たちが香衣を押さえ、必死に整えようとしても、

 香衣の波形は暴走し、衣のごとくまとった光が裂けて飛び散る。


 何人かの令嬢が気絶し、

 誰かが倒れた重臣の遺体を踏みつけて逃げようとし、

 香の混線がさらに混乱を増幅する。


 空気が濁る。

 秩序は消える。

 香階は完全に崩壊した。


 *


 その中心に立ちながら、ただ一人――クラリッサだけが冷静だった。


 彼女には見えていた。

 崩壊した波形の向こう、毒香の長波が、

 まるで意志を持つ蛇のように会場を這い回っているのが。


 (……この毒は、ただの暗殺じゃない。

  “香階そのもの”を破壊する設計。

  これは、社会への宣戦布告だ)


 青薔薇の香が消える音なき空間で、

 クラリッサだけが異常の構造を理解していた。



崩れた香階のただ中で、クラリッサは迷わず倒れた重臣へ駆け寄った。


 青薔薇結晶が砕けて散らばった床に膝をつき、

 崩れ落ちた男の胸元に顔を寄せる。


 彼の香は、すでに揮発の終端に近かった。

 だが――まだ間に合う。

 残滓の波形が“最期の記録”として空気中に残っている。


 クラリッサは一息吸った。


 香が喉奥に触れ、世界の線が一瞬で解像度を変える。

 波形が眼前に浮かび上がり、複数の色が交差し、記録となる。


 解析が始まった。


 ――一秒。

 ――二秒。

 ――三秒。


 そして、クラリッサの瞳に“構造”が読み解かれていく。


 *


① 青薔薇香の波形を模倣した毒


 一見すると青薔薇香と同じ、

 優雅に揮発する短い波形。


 だが内部には、まるで針金のように鋭く、

 しかも遅効で密度の高い“毒波形”が潜んでいた。


 揮発と同時に毒性を最大化する設計――

 青薔薇香の“美しい消失”を毒に変える構造だ。


 クラリッサは、わずかに息を呑む。


 (……この悪意は、芸術に近い)


 *


② 重臣は直前まで気づいていない


 男の社交香の残滓は安定しており、

 異変に気づいた痕跡が一切ない。


 青薔薇香との擬態が完璧。

 香の等級評価を受け継ぐ上級貴族ですら気づけないよう、

 波形が巧妙に重ねられている。


 (犯人は……香の専門家。

  少なくとも“王室技師”レベルの腕)


 *


③ 杯は“王子に渡される直前”で細工された


 重臣の杯に残る波形の断層――

 それは“直近五分以内の変質”を示していた。


 青薔薇香の塔の循環を経由したものではない。

 杯そのものが狙われた。


 (……つまり、現場での細工。

  王族の周囲に入れる者でなければ不可能)


 毒は、王子アレスレッドの手に渡る寸前まで隠されていた。


 *


 クラリッサは立ち上がる。


 周囲ではまだ悲鳴が続き、香階は乱れたまま。

 だが彼女の中には、ひとつの結論が骨のように硬く固まっていた。


 ――これは、社交香を用いた高度暗殺。

  通常の毒殺とは桁が違う。

  “香階社会そのもの”への挑戦だ。


 ゆらぐ青薔薇香の残光の中で、

 クラリッサの瞳だけが凪いだ水面のように静かだった。



崩れた香階のざわめきは、まだ会場を包んでいた。

 青薔薇香は毒に触れて分解し、残光はゆらめきながら空中に漂う。

 人々の悲鳴、割れた杯の音、乱れた香衣のざわめき――

 それらすべてが世界の輪郭を曖昧にしていく。


 その中心で、王子アレスレッドだけが静かだった。


 彼の香は揮発せず、周囲の混乱を吸い込むような重さを持っている。

 そして、クラリッサの前で立ち止まった。


 焦りも怒りも、驚きすら浮かばない。

 むしろ、状況をすでに織り込み済みのような眼差し。


 そしてただ一言。


 「……解析を。」


 その声音は、混乱の中で不自然なほど平坦だった。

 命令でもなく、依頼でもない。

 まるで“お前なら分かっているだろう”と語りかけるような確信。


 クラリッサは一瞬だけ、瞼を伏せる。


 彼の香の重さが、不思議なほどに自分の呼吸へ自然に馴染んでいく。

 この国の人間ではないはずの彼女の身体に、

 “任務”がしみ込むように広がっていく。


 「了解。」


 それだけで、互いの輪郭が少しだけ近づいた。


 混乱する世界の中で、

 青薔薇の残光は激しく揺れながらも――

 二人の間だけ、風が止まったように静かだ。


 視線が交わる。


 香は語る。

 揮発する世界と、揮発を拒む王子。

 その境界線に立つクラリッサ。


 そして、二人の立場が静かに、しかし確かに固まり始める。


 共闘ではない。

 敵対でもない。

 ただ、ここから始まる“運命の並走”。


 青薔薇香の光が最後にひときわ明るく揺らぎ、

 夜会の天井へと淡く昇っていった。

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