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『青薔薇の毒名録(The Blue Rose Codex)』 — 毒と理想、愛と記録の交わるところに。  作者: 南蛇井


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発する理想

深夜。

儀式の終わった大広間は、すでに香循環装置が止まり、

ただ“残り香”だけが薄い膜のように床を覆っていた。


青薔薇香は、まだ消えきらずに淡く光っている。

月明かりより冷たく、焔よりも脆い光――

揮発しゆく理想の残響。


クラリッサは、その沈黙の中心に立っていた。

喧騒が消えたあとに残るのは、

人の匂いでも、血の鉄臭でもなく、

ただ“消えようとしている青薔薇”だけ。


彼女は足元に散った花弁をひとつ拾い上げる。

指先で軽く押し潰すと、

花の細胞が破れ、光が瞬くように香が立った。


ふわり、と。

指先から立ち昇るのは、

たった今まで王家の理想だったものの、最期の息。


「……こんなにも、すぐに消えるのね。」


淡い青光が、彼女の横顔の輪郭をかすかに照らす。

その光は、生を証明するには弱すぎて、

記録として残るには儚すぎた。


それでも――

クラリッサはその一瞬の揺らぎを、確かに見る。


揮発とは、消滅ではない。

理想が形を変えて、世界へ溶けていく過程だ。


彼女の指先からこぼれた香の光は、

ひとすじの青い囁きとなって、夜へ溶けていった。

青薔薇の揮発が、ゆるやかな螺旋を描いて天井へ登ってゆく。

その淡い光に照らされながら、クラリッサは静かに息を吐いた。


「理想も毒も、香のように揮発する……。」


言葉は小さく、しかし残り香の中でやけに重たく響く。

次いで、彼女はかすかに眉を寄せた。


「けれど……あなたの香だけは、あまりに濃すぎる。」


青薔薇の淡さとは対照的に、

アレスレッドの香――“鉄と白百合”は質量を持っていた。

香りに重力などあるはずがないのに、

彼の香は確かに世界を引き寄せる“圧”を持っている。


それは――

揮発しないことを望む香。

揮発を前提とした社会の構造そのものを否定する香。


クラリッサは、王子の香に触れた瞬間の感覚を思い返す。


(あれは……渦だわ。

 揮発して広がるのではなく、中心へ巻き戻っていく香。)


香階社会では、“消えていく”ことこそが価値であり、

全ての香は循環し、痕跡だけを薄く残して消える。


だがアレスレッドの理想は、その法則に背を向けている。

彼は香を――情報を――

永遠に固定し、世界に刻みつけようとしている。


「……重すぎるわ。

 あの香は、世界そのものを沈めてしまう。」


彼女の呟きは青薔薇の揮発に飲まれ、

静寂の中で淡い光となって消えていった。


青薔薇香の青光が、ゆるやかに揺れながら漂う。

その光の揺らぎが、クラリッサの内部――〈データ領域〉にまで反響した。


ほんの一瞬だが、

胸骨の奥で“情報の震え”が走る。

まるで世界そのものが、彼女の思考に触れてきたかのように。


「情報の揮発を拒む理想。

 ――それは、この世界そのものの構造だ。」


低く呟いたその瞬間、

彼女ははっきりと理解する。


この香階社会は、揮発を基礎に設計されている。


香は生きているうちは流動し、

死ねば鉄と焦げ砂糖へ崩れ、

すべてが循環し、痕跡だけが薄く残る。


“香が残らないこと”

“情報が留まらないこと”

それ自体が、この世界の秩序であり、前提であり、根幹だった。


だが――アレスレッドは、その法則を否定しようとしている。


彼は、香の永続を求めていた。

揮発しない香。

消えない記録。

変化しない価値。

固定化された理想。


その思想がどこかでクラリッサ自身の出自――

〈NEURO-M-01〉の“永続記録”の理念と重なって見える。


(……まるで。

 あの装置の設計思想が、この世界の形を決めたかのように。)


彼の理想は、個人の狂気ではない。


この世界が“揮発”を前提に成立しているなら、

“揮発しない理想”は――

世界そのものを揺さぶる叛逆だ。


クラリッサは身震いするように息を吸い込んだ。


「王子の理想は……世界の根を折り曲げる。」


青薔薇の残光が、その言葉に呼応するように、

ひとしずく、揮発して消えた。


青薔薇香の残光が、かすかな呼気とともに夜へ溶けていく。

揮発のたびに、世界は軽くなり、空気は透明さを取り戻す。


その過程を見つめながら、クラリッサはゆっくりと瞼を閉じた。


王子アレスレッドの理想――

“揮発しない香”を創り、永遠を人々に刻みつける思想。


それは美しい。

だが、あまりにも重く、世界を固定する。


「……永遠に留まる美は、毒と同じ。」


青薔薇の花弁を指先で擦りつぶす。

微かに光る香が立ち昇り、一瞬だけ空を照らして、消える。


その消える瞬間の“刹那の美”こそ、

彼女が守りたい世界の形だった。


そして――

彼の理想に呑み込まれれば、世界は揮発をやめ、

やがて腐り、固定化し、滅びる。


クラリッサは目を開く。

その瞳は迷いを捨てた冷ややかな光を宿していた。


「ならば私は――永遠を拒む毒になる。」


自分が“毒”を名乗ったのは初めてだった。

だがそれは破壊ではない。

世界を揺らし、揮発させ、循環させるための毒。


永遠に抗うための、揮発する意思。


王子の理想は美しい。

だからこそ、危険だ。


これは憎しみではなく、警戒でもない。

ただ、“飲み込まれない”と自分に課した誓い。


青薔薇香が空に散り、

揮発する光だけが静かに彼女の頬を照らした。


その光の中で、クラリッサは静かに歩き出す。


永遠に抗い、理想に挑む“毒”として。







月光の下、風がゆるやかに会場を撫でた。

散り敷かれた青薔薇の花弁がふわりと持ち上がり、

その一枚一枚が微光を放ちながら、夜空へと舞い上がる。


揮発――

この国を形づくる最も正直な現象。


光はほんの一瞬だけ世界を照らし、

次の瞬間には、どこにも存在しない。


クラリッサはその渦の中心で、静かに呼吸した。


吸い込むたびに、青薔薇の記録が体内に入り、

吐くたびに、それは別の“波形”となって世界へ返される。


呼吸が、更新する。

彼女の呼吸そのものが、この世界の“香の記録”を書き換える。


王子が求める永続は、

彼女が呼吸するかぎり完成しない。


なぜなら――

彼女は揮発の証人であり、観測者であり、記録者だから。


世界の構造を、

この世界が忘れようとする“揮発の真理”を、

彼女は呼吸によって刻み直す存在。


青薔薇の光が完全に溶けきり、

暗闇が戻ろうとするその刹那。


夜空に漂うわずかな残香だけが、

物語の終わりではなく、“始まり”を告げていた。


揮発する世界。

永続を求める王子。

その狭間で、クラリッサはそっと歩き出す。


呼吸一つで世界の記録を更新する“揮発の意志”として。

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