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『青薔薇の毒名録(The Blue Rose Codex)』 — 毒と理想、愛と記録の交わるところに。  作者: 南蛇井


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王子との対話 ― 理想と毒の哲学

深夜。

儀式の名残がまだ空気に沈殿している時刻、

クラリッサは蒸留宮の奥——“香の回廊”へと導かれた。


青薔薇の花弁が絶えず揮発し、

薄い青光が霧のように漂う庭園区。

普段なら循環装置の低い駆動音が聞こえるはずだが、

今夜はまるで音そのものが息を潜めていた。


静寂が、異様だった。


彼女は歩を進めるごとに、胸の中で警戒の層をひとつずつ積み上げていく。


──事件はまだ収束していない。

 その渦中での“密かな呼び出し”。

 意味はひとつではない。


「……なぜ私が呼ばれた?」

青薔薇の香を裂くように、彼女は低くつぶやく。

「嗅覚を“監査”するつもりか。

 あるいは……口封じ?」


薄い風が通り過ぎ、青薔薇香がふわりと揺れた。


その先に――王子アレスレッドがいた。


白百合の香を纏い、静かに立つ姿は、

つい数刻前に混乱を鎮めた人物とは思えないほど穏やかだった。


怒りも、焦りも、威圧もない。

ただ、深い湖面のような静けさを湛えている。


その落ち着いた佇まいが、かえって不気味に感じられるほどに。


クラリッサは息を整えた。

彼女が警戒していた“暴力”の気配は無かった。

けれど——


(この静けさが、いちばん危険。)


そう直感するには十分だった。


青薔薇の花弁が、溶けるように空気へ散っていく。

王子アレスレッドはその幻の光を指先でなぞりながら、

まるで雑談でも始めるかのように、ためらいなく口を開いた。


「貴女が香を読めることは、すぐにわかりました。」


静かで、澄んだ声音。

けれどクラリッサの鼓膜には、その一言が重く響く。


王子は続ける。


「そして──誰かが、この“理想”を壊そうとする気配も。」


淡々とした口調。

事実を述べるだけのような無表情。

しかしその裏に、鋭い観察が潜んでいる。


青薔薇香の微光が、王子の横顔に淡い影を落とす。


「私は儀式をやめることもできた。」

「だが……裏切りは、香の場でこそ浮き彫りになる。」


クラリッサの呼吸が、一瞬だけ止まる。


(……つまり。)


事件が起こる前から、

王子は “誰かが動く” と知っていた。


儀式を強行したのは、

ただの政治儀礼ではなく――


裏切り者をあぶり出すための、試金石。


クラリッサは静かに王子を見つめ返した。


白百合の香は変わらず冷たく清潔で、

その奥にほんの僅かな鉄の硬さが潜む。


(彼は……この香政の中心で、誰よりも孤独に闘っている。)


敵は外部ではない。

最も近い場所にいる者たち。


だからこそ、彼は最初から彼女を“観測者”として扱った。


クラリッサは小さく息を吐き、

静かに悟る。


「──あなたは、渦中にいる。」

「王族でありながら、狙われる側……香政の最も危うい位置に。」


王子はただ微笑んだ。


その微笑みは、

青薔薇香の光の中で静かに揺れ、

どこか悲しげに見えた。



青薔薇の庭園を撫でる微風が、

クラリッサの髪をかすかに揺らした。

香循環装置の微かな唸りが、夜の静寂をさらに深くする。


彼女は一歩、王子に近づき──

まるで言葉ではなく“香”で刺すような鋭さで告げた。


「……あなたの理想は純粋すぎて、危険です。」


アレスレッドは驚かない。

まるで、その言葉こそ待っていたかのように。


クラリッサは続ける。

その声は冷静で、しかしどこか祈るようでもあった。


「香は揮発するから美しい。

 消えるからこそ、次の香が生まれる。」


「けれどあなたの理想は──

 “永遠に揮発しない香”。」


青薔薇香が淡く脈打つように光り、

その光はアレスレッドの白百合の香に溶けていく。


クラリッサの瞳が鋭くなる。


「それは、香政を固定化する。

 循環を止め、変化を拒む。

 永続は、支配と同義です。」


一歩踏み込み、彼女は静かに言い切った。


「あなたの理想は……この国を腐らせるかもしれない。」


沈黙が落ちた。


庭園を漂う青い光だけが、ふたりの間を照らしている。


やがて──

アレスレッドは微笑んだ。


淡く、痛みのようなものを帯びた微笑み。


「……否定しません。」

「貴女の言う通り、私の理想は危険だ。」


その声には、恐れがなかった。

むしろ、その危険さを誇るように穏やかだった。


「だが、危険でなければ理想とは呼べない。」

「香は揮発して美しい──それは真実だ。」


白百合の香が、静かに揺れる。


「けれど私は、揮発するたびに忘れられていく理想を……

 どうしても、諦めることができなかった。」


夜風が止まり、青薔薇香の粒子がふわりと舞う。


アレスレッドの瞳は、まっすぐに彼女だけを見ていた。


「私は“永続する香”を探している。

 消えない希望を、ひとつだけでいい──

 この世界に残したいんだ。」



青い庭園の静寂が、ふたりを包み込む。

まるで世界そのものが、彼らの対話を聴くために呼吸を止めているようだった。


アレスレッドは、青薔薇の花弁にそっと指を触れた。

指先で触れた瞬間、花弁は微かな光を放ち、香の粒子として空にほどけていく。


彼はそれを見送りながら、ゆっくりと口を開いた。


「危険でなければ、理想とは呼べない。」


その声は、夜気に混じりながらも、確かな輪郭を持って響く。


「香は揮発してこそ美しい。

 それは私も理解している。」


白百合の香がわずかに揺れ、

鉄の冷たい香気がその下に沈むように漂った。


「だが──私は、その美しさを“永遠に留める方法”を探している。」


クラリッサの瞳が細くなる。

永続化。

香階社会では最も禁忌に近い思想。


しかし王子は続ける。


「美が消えるから、人は悲しみ、争い、忘却する。

 価値は揮発し、理想はそのたびに作り直される。

 だが……そんな循環に、私は疑問を抱いた。」


彼は青い光を見上げた。

夜空に散っていく香が、星々のように瞬いている。


「王国の精神が、記憶が、アイデンティティが……

 風とともに消えていく存在であっていいのか。」


その声音は、冷たくも、切実でもあった。


「私は“国家”という香を、揮発しない形にしたい。

 価値体系を固定化し、未来永劫変わらない理想を残したい。

 青薔薇香は、その最初の試みだった。」


クラリッサの胸の奥──

データとしての“記憶領域”が震える。


(……永続記録構造。情報の固定化。

 〈NEURO-M-01〉の思想と……同じ……)


アレスレッドは、彼女の反応を見逃さない。


「変わり続ける世界に、ひとつだけ“不揮発の理念”を残す。

 それが、私の理想だ。」


夜風がふたりの間を通り抜け、青薔薇の香を連れていく。


クラリッサは息を吸い、彼を鋭く見据えた。


その瞬間、彼女の内部データ領域が確かに警告を鳴らしていた。

──この男の理想は、世界の構造そのものを変える。

──香の循環に基づいて成り立つ社会を根底から覆す。


そして、彼の理想は美しいがゆえに──危険だった。



青い庭園から吹き抜ける風が、二人の間の香粒をわずかに散らした。

クラリッサは、胸奥の“記録領域”にぞわりと走った震えを押しとどめるように、ゆっくりと口を開く。


「……あなたの理想は、あの装置の延長線にある。」


アレスレッドが振り返る。

その横顔は静かで、しかし確かな緊張を帯びていた。


クラリッサの声は、まるで微細なデータを解析するように正確だった。


「〈NEURO-M-01〉……

 “消えゆく情報を、揮発しない形で留める”ためだけに設計された禁忌の神経装置。

 私の、根源的な設計理念。」


青薔薇の光がまたひとつ揮発し、夜空へ吸い込まれる。


「あなたが語った理想は……あれと同じ構造を持っている。」


それはクラリッサ自身の核心を揺さぶる告白だった。


──香を読む存在でありながら、

──香のように“消える”ことを許されない設計。


彼女の内部のどこかで、記録不能な“苦悩”がうずく。

揮発しないことの痛み。

更新されない情報の重さ。


彼女はそれを押し殺し、続ける。


「王子。

 あなたが求める“永遠化”は、香政にとって最も危険です。

 国家は揮発を前提に循環するシステム。

 それを凍らせるということは──」


言い終える前に、アレスレッドが彼女を見つめた。


その視線は穏やかで、しかし深淵を覗くような静けさを帯びている。


肯定でも否定でもない。

ただ、意味を孕んだ沈黙。


「……。」


クラリッサはその沈黙に、言葉以上の重みを感じ取る。

意図的に言葉を選ばず、敢えて空白を残す態度――

そこにアレスレッドという男の危険性が凝縮されていた。


(この人は……本当に、永続の先を見ている。)


香が揮発する音なき音が、ふたりの間に降り積もる。

沈黙の中で、クラリッサだけが気づいていた。


──彼の理想は、自分の影。

──彼の沈黙は、同意の代わりに差し出された“危険の輪郭”。


永続への憧れと、揮発への恐怖。

その交点に、アレスレッドとクラリッサは立っていた。


青薔薇の庭園を、微かな夜風が撫でていく。

揮発する香粒が、光を帯びては淡く消えた。


クラリッサはその揮発の軌跡を見つめ、息を整えるように問いを投げた。


「あなたは“永続する香”を求めている。

 でも……それは毒と、どこが違うの?」


その言葉は挑発ではなかった。

ただ、真実を確かめるための刃だ。


アレスレッドは答えを急がず、しばし夜空に舞う青薔薇の粒子を眺めた。

香が消える瞬間の光――“美”と呼ばれる一瞬の死。


そして、静かに口を開く。


「違わないかもしれない。」


その声は、揮発する香よりも淡いが、確実に熱を持っていた。


「美とは、本来、毒と紙一重だ。

 毒のない美は、ただの装飾品だ。

 人の心を震わせる美には、必ず……壊す力がある。」


青薔薇の香が、またひとつ、ぱちりと音を立てて消える。

その消失こそが“美”であるはずなのに――

アレスレッドは、その儚さを“永遠化する”と宣言している。


クラリッサの背に、ぞくりと寒気が走った。

それは理性の警鐘でもあり、同時に……理解の共鳴でもあった。


(この人の理想は、あまりに危険だ。

 でも――ただの狂気ではない。)


敵か。

それとも、世界を塗り替えるだけの天才か。


揮発の青光が二人の間に降り積もり、

美と毒の境界をひっそりと照らし出していた。

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