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『青薔薇の毒名録(The Blue Rose Codex)』 — 毒と理想、愛と記録の交わるところに。  作者: 南蛇井


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第一章 記録の終端 第二節 侵入

夜は、無音の装置のように稼働していた。

風も、虫の声も、存在を拒む。


クラリッサ・ヴェイルは、ヘッドセットのノイズを指先で一度だけ確かめ、廊下の角を滑るように進んだ。

靴底が床を叩かない。音の代わりに、彼女の思考だけが響く。


「風速、一定。監視カメラ三基、赤外線検知反応なし。

温度は十八度。香りの成分──無臭。」


報告用の囁きは、まるで自分の声ではない。

彼女は訓練によって、自身の声を“データ”として発する術を覚えていた。


だが、その言葉の中で、一語が引っかかった。

無臭。


人のいない空間でも、通常は匂いがある。

金属、塵、冷却液、あるいは時間の匂い。

ここにはそれがなかった。

空気が空気としての役割を失っている。

呼吸が、ただ機械的な作業に感じられる。


彼女は唇を動かさずに息を吸う。

本能が、何かの欠如を嗅ぎ取っていた。


——


研究区画の中央扉には、生体認証と旧式の手動ロックが併用されていた。

設計思想が奇妙だ。

最先端と時代遅れが並列される建築は、常に何かを隠している。


クラリッサは手首の装置で脈拍を落とし、静脈の走行パターンを変化させる。

指紋、網膜、心拍、呼吸リズム──

すべてを一時的に“無個性化”する訓練。


扉が開く。


——


白。

すべてが、無表情な白で覆われていた。

床、壁、天井、機材。

光源がどこにあるのかさえわからない。

影が存在しない空間。


まるでこの部屋だけ、物理の法則が削除されているようだった。


彼女は歩く。

靴音が返ってこない。

音を吸収するほどの静寂。


そして、中央にそれはあった。


金属の蓮の花。

花弁の一枚一枚が、極細のチタン合金で形成され、中心には液体を湛えた球体。

青。

微かに発光する青。


クラリッサは息を止める。

光ではなく、匂いが先に届いた気がした。

無臭のはずの空間に、初めて生まれた香。

冷たく、金属的な、それでいてどこか懐かしい“情報の匂い”。


「……これが、神経情報兵器〈NEURO-M-01〉。」


囁きながら、彼女は胸の中で定義を組み立てていく。

任務報告用、冷たい言語で。


「感情を香として保存する。

つまり、心を化学式に変える機械。」


それは科学の装いをした祈りのように聞こえた。

人間が、記憶を永遠に残すために発明した香炉。

魂の保存装置。


だがクラリッサの目には、それはただの兵器だった。

感情を抽出し、解析し、再現し、支配する。

この装置を使えば、国家は“心”を量産できる。


「……美しい、けれど不快。」


彼女はそう呟いた。

訓練のせいで、声にはほとんど感情が乗らない。

けれど耳を澄ませば、その一音の奥に、ほんのわずかな震えがあった。

“美”と“不快”の中間にしか生まれない、人間の呼吸。


——


装置の表面に、触れるべきかどうか、一瞬だけ迷った。

CIAのマニュアルでは、“未知の化学装置に触れるな”と明記されている。

だが諜報員の本能は、それよりも古い命令を知っている。

——知りたいものは、触れなければならない。


指先が、青い光に沈んだ。


その瞬間、空気が変わった。

無臭が崩れ、香が立ち上がる。

音を持たない青が、脳の奥で形を変えていく。


彼女は吸い込む。

感情ではなく、情報としての香を。


——


呼吸が、記録のように再生された。

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