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『青薔薇の毒名録(The Blue Rose Codex)』 — 毒と理想、愛と記録の交わるところに。  作者: 南蛇井


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19/70

事件の導火線 ― 毒入りの杯

蒸留宮の天蓋が、青い光を孕んで震えていた。

王都アザレアの空気そのものが、ひとつの香炉のように息づいている。


壇上に立つ王子アレスレッドが、金の杯を掲げた。

液体は光を宿し、炎のように揺れながらも、どこか無音だった。

その一滴が空気に触れるたび、音もなく世界の輪郭が淡く滲む。


「この香をもって、我らの理想を冠とする。」

王子の声は、鐘の音のように澄んでいた。


杯が傾けられる。

青薔薇香が、霧のように空間へと解き放たれる。

その瞬間、音楽が高鳴り、群衆が一斉に息を吸い込んだ。


幸福が、波となって押し寄せた。

香が脳の深層に届き、記憶と快楽の中枢を撫でる。

微笑みが連鎖し、瞳が潤み、会場全体が“至福の呼吸”で満たされていく。

人々の表情が一様に安らぎ、現実と幻の境界が融けてゆく。


クラリッサはただ一人、静かに呼吸を制御していた。

幸福の膜が嗅覚を包み、感情を麻痺させようとする。

その中に――微かに、異質な波があった。


“苦い”。


舌の奥をかすめるような焦げの苦味。

幸福の甘香に混じる、わずかな“異物”。


彼女はゆっくりと瞬きをする。

まぶたの裏に、光の粒子が散った。


「……これは、構造が違う。」

香の分子が、別の調香式に干渉している。

幸福の幻覚の底に、確かに――毒の波がある。


人々がまだ祝福の夢の中で息をしているとき、

クラリッサの意識だけが現実に戻りつつあった。


「美しい香りほど、死に近い。」

彼女は誰にも聞こえぬ声でそう呟き、

杯のきらめきを見つめた。


「……苦い?」


最初の異変は、ほんのさざ波のように始まった。

群衆の中央で、一人の貴族が眉をひそめる。

幸福の陶酔に満ちていた空間に、その一言がひびのように走る。


次の瞬間、空気の香調がわずかに軋んだ。

甘やかな青薔薇香の層の奥に――

“焦げた砂糖”の匂いが混じる。


香りは熱を帯びて揮発し、金属の苦味を残す。

それは、クラリッサの嗅覚がよく知る警告の構造だった。

即ち――毒。


彼女の呼吸が一度、深く沈む。

幸福の膜を突き抜け、分子の震えを一つずつ辿る。


「アルカロイド系……しかも加熱反応型。

 天然の香料じゃない。化学的な……干渉。」


香の層が音もなく揺れ、青から灰へと濁っていく。

群衆のざわめきが次第に高まり、誰かのグラスが床に落ちて砕けた。


クラリッサは動かない。

ただ、瞳だけで風の流れを追う。


「……青薔薇香が反応している。

 誰かが、“別の香”を混ぜた。」


香の層の重なりが崩れ、空気が乱反射するように震えた。

そのとき――壇上近くで、ひとりの貴族が崩れ落ちた。


焦げた砂糖と鉄の匂い。

それは、死の香だった。


会場の中央で、音が止まった。


杯を握ったまま、一人の上級貴族が崩れ落ちる。

金糸の衣が音もなく床を滑り、

その周囲の香が一瞬で冷たく変質した。


焦げた砂糖――

甘く、しかし焼けただれたような苦味。

そして鉄。

血と金属とを混ぜ合わせたような、重い香。


その二つが絡み合い、空気の底で震える。


それはこの国で“死”を告げる香。

人が息を止めた瞬間、体内の香素が崩壊し、

焦げと鉄の匂いに変わる。

つまり、この香は――生の終端そのもの。


群衆の香が一斉に乱れた。

恐怖の揮発。驚愕の濃縮。

香の層が崩れ、音楽が歪む。


青薔薇香の輝きは、死の香に濁されていく。

幸福を象徴していた青光が、

灰色の霧となって天井に溶けていく。


クラリッサは静かに目を細め、

空気の分子振動を読むように囁いた。


「……死が、香に変換された。」


その言葉と同時に、宮殿の呼吸が止まった。


混乱の渦の中――ただ一人、王子だけが動かなかった。


崩れ落ちた貴族の傍らで、侍従たちが息を呑み、悲鳴が空気を裂く。

香の層は乱れ、幸福と恐怖が入り交じり、

まるで世界そのものが錯乱しているようだった。


だが、その中心に立つ王子アレスレッドは、

まるで嵐の中の氷柱のように微動だにしない。


静かに、金の杯を卓上に戻す。

響く音は、鐘のように澄んでいた。


そして、彼は声を発した。


「香の秩序を壊した者は、香の中で裁かれる。」


――その瞬間だった。


空気が、音もなく反転する。

乱れていた香が、一斉にひとつの波形へと収束していく。

青薔薇香も、死の香も、恐怖の香も、すべて。


残ったのは、王子自身の香――

「鉄と白百合」。


冷たい金属の清廉さと、無垢な花の静謐が混ざり合い、

空間の全てを凍りつかせるように支配する。


ざわめきが止まり、誰もが息を潜めた。

その静寂は“秩序”と呼ぶにはあまりに完璧で、

“恐怖”と呼ぶにはあまりに美しかった。


クラリッサは胸の奥が微かに冷えるのを感じながら、

その香の支配構造を解析する。


「……恐ろしい。」

彼女は唇の裏で呟く。


「香で……群衆の神経反応を調律している。

 恐怖も動揺も、すべて“凍らせた”のね。」


まるで彼の香そのものが、この場の“法”であるかのようだった。



クラリッサは、静かに息を整えた。

騒ぎの渦の中、彼女だけが呼吸のリズムを乱さない。


吸う――吐く。

香が流れる。

吸う――吐く。

情報が流れる。


空気の層が、彼女の意識の中で幾何学的に展開していく。

分子の動き、温度の傾斜、王子を中心に生まれる気流の渦。

彼女の脳裏では、香の拡散が光の軌跡となって描かれた。


「……違う。」

思考の中で、一つの経路が弾かれる。


毒の発生源は――王子の香ではない。

彼の香はあまりに安定している。

鉄と白百合の波形は一切の混入を許さない。


「青薔薇香の“補助香料”……」

クラリッサの瞳が細く光を反射する。


香を空間に均等に分布させるための“媒体”。

その拡散剤は、王族の香と混ぜられ、儀式のたびに空中に散布される。

だが――その一部に、わずかに異なる化学波形が混ざっていた。


「揮発性毒素……拡散剤に仕込まれていたのね。」


つまり、暗殺者は“王子の杯”を狙ったのだ。

だが気流の微細な誤差――王子の安定した香が風の流れを変え、

結果として、毒は別の貴族の吸気層へと逸れてしまった。


クラリッサは唇をかすかに噛んだ。


「精密すぎる計画……けれど、失敗した。」


青薔薇香の幸福の層の裏で、

彼女だけがその“死のアルゴリズム”を嗅ぎ取っていた。


クラリッサは、深く息を吸った。

香が肺に入り、神経の奥を震わせる。

幸福の残滓と、死の焦げた残香が、微妙な調和を保ちながら彼女の中で交錯する。


――導き出される結論は、ひとつ。


「狙いは王子。毒は青薔薇香の主流拡散ルートに合わせて放たれていた。」


彼女の思考は、冷たく正確に回転していく。

拡散経路、風向、香圧、温度分布。

それらをすべて照合した結果、毒素は王座の真上へと流れるはずだった。


だが、現実には――隣席の貴族が崩れ落ちた。


「……会場の気流制御が、微妙にずれていた。」


蒸留宮の内部は、王家の香政機構によって空気の流れまで精密に制御されている。

誤差が生じるはずがない。

それでも風は、ほんの一瞬だけ逆流した。


クラリッサの心拍が静かに上がる。

偶然ではない。

誰かが、意図的に風向きを変えた。


「この誤差……仕組まれている。」


視線が壇上の王子へと吸い寄せられる。


アレスレッド王子は、なお微動だにせず立っていた。

冷たい理性の香――「鉄と白百合」が空間を安定させ、

群衆の感情を凍らせたまま、静寂を支配している。


彼の表情は穏やかで、しかしどこか――見透かしているようでもあった。


クラリッサの胸の奥で、ひとつの問いが生まれる。


「あなたは本当に“狙われた”の……?」

「それとも、自らを狙わせた――“香の支配者”なの?」


青薔薇香の青光が、王子の背に揺らめく。

その香はもはや祝福ではなく、

“支配”という名の結界のように、会場を包み込んでいた。





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