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『青薔薇の毒名録(The Blue Rose Codex)』 — 毒と理想、愛と記録の交わるところに。  作者: 南蛇井


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第五節:青薔薇の呼吸

夜。


アザレアの屋敷は眠っていた。だが、風だけが醒めている。

バルコニーに立つクラリッサの頬を、青い薔薇の香が撫でた。


それは光の代わりに漂う香――月光のように空を染め、街の屋根を静かに撫でていく。

香の層は風に乗り、まるで“色”が流れるように形を変えた。

アザレアの夜は、呼吸そのものが美学だった。


クラリッサは、冷えた金属の手すりに指先を置く。

指先が微かに震えた。金属が熱を返さない。

ただ、そこに“情報の冷たさ”だけがあった。


ひとつ、息を吸い込む。

香は薔薇のはずなのに、どこか無機質だ。

化学的な均衡を保った、完璧すぎる分子構造。


「この空気……香料じゃない。」

彼女の声が夜気に溶ける。

「化学的に安定しすぎている。まるで、データの層みたい。」


鼻腔を抜ける感覚に、電子のざらつきが混じっていた。

生きた香ではない――再生された香だ。

空気が“呼吸”ではなく“再生信号”のように脈打っている。


クラリッサの神経が、微弱なノイズを拾った。

〈注意せよ〉と訓練の記憶が告げる。

この感覚は、嗅覚による異常検知。世界の“実体”がずれている。


彼女は唇をわずかに噛み、囁く。

「ここは……あの装置の中の記録なの?」


その瞬間、視界の端を青い閃光が走った。

爆風のない光。だが、脳の奥で神経が一斉に点滅する。


――〈NEURO-M-01〉。

記憶の奥で、その名が冷たく響く。

かつてCIAの情報生体研究部で見た、あの神経情報兵器。


彼女の記憶の奥底で、青い爆発が香のように咲き、

“現実”と“記録”の境界が、一瞬だけ曖昧になった。


彼女は、ふと壁に手を当てた。


冷たい。だがその冷たさは、物質のそれではない。

香が指先に反応して、肌の上で微細な粒子が跳ねた。

粒子の動きが、まるで彼女の指紋を“読み取る”ように、脈打ちながら肌に食い込んでいく。


クラリッサは息を呑む。

「……皮膚の電位に反応する?」

違う、と次の瞬間、思考が修正される。

「これは再生。私が世界を解析しているんじゃない。世界が――私を、読み取っている。」


背筋が粟立った。

呼吸が乱れる。


吸い込むたびに、空気が書き換わる。

吐くたびに、周囲の景色の一部が揮発していく。

まるで呼吸そのものが、世界の更新プロセスだ。


香の粒子が光を含んで震えた。

床、壁、空気、皮膚――すべてが“情報体”として同じ密度を持っている。

クラリッサはその連続性を嗅覚で感じ取った。


「呼吸は、通信。」

小さく呟く。

「世界が私を読む。私が世界を吸う。

──なら、私は“記録”としてここにいる。」


心拍がわずかに加速した。

彼女はそのリズムを意識的に抑えながら、冷静に分析を再開する。

情報員としての反射だ。


思考は淡々と結論を描く。

「これは、保存状態。

私は生きているのではなく、再生されている。」


バルコニーの空気が一瞬ざらつく。

青薔薇の香が波打ち、脳裏に数字のような匂いが並ぶ。

彼女はそれを“香のアルゴリズム”として認識した。


「……〈NEURO-M-01〉。」

記憶の底から、無機質なコードネームが浮かぶ。


「私の意識は、あの装置の中の香記録。」

青い薔薇が夜風に溶け、世界がほんの少し、呼吸を止めた。



バルコニーの欄干に、ひときわ淡い光を放つ花が咲いていた。

夜気の中で、青薔薇が静かに震えている。

月光の代わりに、花自身の香が光を放つ。


クラリッサはその一輪に指を伸ばした。

花弁の縁が、青白く脈動している。

触れた瞬間、香が微細な粒子となって空気中へと散り、波のような揺らぎを生んだ。


「……青薔薇。」

彼女は囁くように言う。


この国では“存在しない理想”を意味する花。

人工的な香でしか再現できず、自然界には決して咲かない。

青は調香師の夢想、そして神への反逆の色。


クラリッサは花を掌に転がす。

香の分子が皮膚に触れ、情報のように解析を始める。

化学的な整合性が完璧すぎた。

不自然なまでに均一な甘みと、わずかな電気的刺激。


「完璧に設計された香……理想の再現。」

彼女は目を細める。

「だが、どんな理想も、揮発する運命にある。」


風が吹いた。

青薔薇の香が夜気に溶け込み、空間全体にノイズのような波紋を広げる。

視界の端が一瞬、ざらついた。

欄干の線が揺らぎ、遠くの街の灯が歪んで見える。


まるで世界そのものが、保存データの再構成を行っているかのように。


クラリッサは静かにその現象を見つめ、

嗅覚の奥で、世界の“編集”を感じ取っていた。



風が頬を撫でる。

その風の流れの中に、クラリッサは言葉を落とした。


「記録であっても、任務は任務。」


低く、淡々と。

それは誰に向けたものでもなく、ただ世界に告げるような声音だった。


「私の仕事は、世界の裏構造を読み解くこと。」


言葉が風に溶けると同時に、空気の層がわずかに震える。

香が動いた。


青薔薇の人工的な甘さの下に、別の“香の記号”が潜んでいた。

それは鉄の冷たさと、白百合の微かな清香。

同時に発されることのない、矛盾する二つの香が、静かに世界の構文を揺らす。


クラリッサの呼吸が一瞬止まる。

その“調香パターン”を、彼女は知っている。

情報の網の奥に潜む、支配者の香。


「……鉄と白百合。」


唇が僅かに笑みを描いた。


「王子アレスレッド。あなたの香、危険すぎる。」


脳裏に、青い光が再び閃く。

爆風と電子音の中で崩れ落ちた〈NEURO-M-01〉の光景。

それと同じ周波数の香が、王子の名に重なる。


「あれは支配の香だ。理想を封じ込めた、毒なき毒。」


クラリッサの体内を、冷たい震えが通り抜けた。

同時に、懐かしい感覚が戻ってくる。

標的を定めたときの、あの鋭い集中。

諜報員としての血が、再び呼吸を始める。


「任務、再定義。」


彼女は小さく息を吐く。

香がその息に乗って、夜の街へと散る。


「標的:王子アレスレッド。

 ――その香を解析する。」


夜風が静かに返答するように、青薔薇の花弁がひとひら、舞い上がった。



夜風が、静かに彼女の髪を揺らした。

屋敷のバルコニーの上、青薔薇の庭がゆっくりと揮発していく。


花弁が一枚、ふわりと浮かぶ。

それは重力を拒むように、淡い光の粒となって夜空に散った。

香が、音もなく消える。

世界が、息を止める。


クラリッサはその消失を見つめ、唇をわずかに動かす。


「この世界の香りは、誰かが作った“記録”……」


声ではなく、香として言葉が流れる。

空気が応えるように震え、青い光が遠くの雲間で瞬いた。


「ならば私は――」


彼女は一拍の沈黙を挟み、微笑んだ。

冷たくも穏やかな、諜報員の決意の微笑。


「その記録を破壊する毒でいよう。」


香が彼女の喉を通り抜け、夜気に混ざる。

その瞬間、周囲の空気の分子がわずかにざわめいた。

青薔薇の香が淡く滲み、世界の輪郭がひと呼吸ぶんだけ緩む。


「情報は揮発する。記録は香る。」


彼女の囁きが、風の中に完全に溶ける。

音も色も、すべてが静まり返る。


「――私は、その香を消す風になる。」


最後の言葉のあと、青い光が一筋、夜空を横切った。

その瞬間、アザレアの街全体が息を止めるように沈黙する。


香の世界が、一瞬だけ“無香”になった。

そして、再び呼吸が戻る――

その風の中に、クラリッサの姿はもうなかった。





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