第三節(終) 香と毒の文法
セリーヌが下がり、扉が静かに閉じる。
部屋には、紅茶と薔薇と微かな鉄の残り香だけが漂っていた。
クラリッサはゆっくりと息を吸い込み、
情報を整えるように、香の層を解析する。
「ここでは、毒は言葉であり、香は文法だ。」
肺に入る空気が、意味を持つ。
呼吸は、世界との通信。
そして、毒とはその“通信の強調記号”──強意の句読点。
彼女は指先でカップの縁をなぞりながら、
香の残滓を思考の中で整理していく。
「命を奪う香と、心を伝える香が、同じ瓶に詰められている。」
情報と感情。
殺意と愛慕。
ここでは、それらが化学的に区別されない。
嗅覚の文法が、それらを同じ文として構成する。
彼女は立ち上がり、鏡の前に歩み寄る。
芳香の反射が、再び彼女の輪郭を描き出す。
鏡の中の“クラリッサ・ヴァーレント”が、静かに微笑んでいた。
「罪を演じることが、この世界の礼儀。」
その笑みは、この肉体に記録された社交上の仮面。
けれど今、クラリッサはそれを理解していた。
悪役令嬢──それは罰せられるための役ではなく、
毒の秩序を保つための役職。
恐れられ、嫌われることが、この社会の均衡を支える。
「なるほど。敵役の皮を被った、調停官……。
舞台装置としての“悪”ね。」
そして、その立場こそが、
諜報活動には最も都合がよい。
宮廷の秘密。貴族の通信。香の配列。
そのすべてに“悪役令嬢”は出入りを許されている。
クラリッサは、鏡の中の笑みを模倣して、
ゆるやかに口角を上げた。
「諜報とは、いつだって礼儀の中に潜む毒。」
「……ようやく、呼吸しやすい空気を見つけた。」
そう言って、静かに深呼吸する。
青薔薇の香が、肺を満たす。
世界が再び、呼吸とともに形を取り戻す。
彼女は新しい文法を吸い込み、
そのまま、
“ヴァーレント”としての一日を始めた。
──呼吸するたびに、情報が咲く世界で。




