第三章 鏡の記号 第一節 鏡の前の“自己二重化”
鏡の前に立つと、空気がわずかに震えた。
光ではなく、香が像を返す。
淡く薔薇の匂いが立ちのぼり、それが輪郭を形づくる。
鏡は、芳香の密度で世界を写していた。
クラリッサは息を止め、ゆっくりと目を凝らした。
そこに映るのは──“自分”のはずの何か。
肌は白磁のように冷たく、
触れれば粉のように崩れそうだ。
髪は淡い金の糸。
花弁を撫でたあとに残る香を帯び、
光よりも柔らかく空気に溶けていた。
瞳は青白く、液体のように揺れている。
その奥には、どこか遠い場所の記録が沈殿していた。
そして──唇の端。
そこだけが、勝手に笑っていた。
「笑っている? ……誰が?」
声に出すと、鏡像が微かに香を震わせた。
まるで、自分の言葉に反応して呼吸しているようだった。
その笑みは、彼女の意思ではなかった。
この身体が持つ“記録上の表情”──
かつてこの名を生きた〈クラリッサ・ヴァーレント〉という人物の、残り香。
この世界では、人格は香記録として宿る。
表情とは、感情の再生ではなく、記録の再演だ。
「ヴェイル」
前の名を呟く。
音が虚空で霧散し、香にならない。
この世界では、存在しない名。
もう一度、鏡を見る。
ヴァーレントの顔が、微笑を保ったままこちらを見返している。
ヴェイル──CIAの諜報員。
ヴァーレント──王国の悪役令嬢。
二つの自我が、鏡面でゆっくりと重なり合う。
香の層と記憶の層がずれるたびに、
世界がわずかに音を立てて軋む。
「なるほど。これは記録の反射だ。」
クラリッサは冷ややかに結論する。
鏡は、光を返すものではなく、
“名の記録”を反射する装置なのだ。
自分がこの肉体を持つということは、
誰かの“記録”を再生するということ。
その認識が、ひどく静かな恐怖を連れてくる。
しかし、彼女の唇──いや、“ヴァーレントの唇”は──
再び微かに笑った。
「……まあいいわ。どんな記録でも、観察対象にはなる。」
息を吸うと、鏡の中の香が再び形を取り、
笑う少女の輪郭が、完全に世界へ溶け込んだ。




