第二章 花弁の目覚め 第五節 名の呼び声(転生の確定)
世界が、微かに呼吸した。
甘い薔薇と、乾いた墨の香が空気の隙間をすり抜けてくる。
その香りは、風ではなく、声だった。
「クラリッサ・ヴァーレントお嬢様──
お目覚めでいらっしゃいますか?」
——
呼び声が、扉の向こうで香として広がる。
薔薇は敬意、墨は形式。
香の配列が“礼儀”を示していた。
クラリッサは、瞬間的に理解した。
これは、会話ではない。
嗅覚で受け取る文法化された呼称だ。
「……声の香。」
彼女は静かに息を吸う。
香が肺を満たし、意味が脳内に展開される。
呼ばれた名──“クラリッサ・ヴァーレント”。
それは、自分のものであって、自分のものではない。
“ヴェイル”という音が記憶の底で小さく揮発する。
CIAの記録は遠ざかり、香の記録が上書きされていく。
「ヴェイル、消去。……ヴァーレント、入力。」
独り言のような報告が、唇の裏で零れた。
呼吸が、再び通信を始める。
——
彼女は周囲の香を確認する。
花弁の香は落ち着きを、
布の香は身分を、
そして扉の向こうの香は“待機”を示している。
訓練された本能が反応する。
状況の分析。
任務環境の再構築。
敵味方不明。言語体系未知。
「状況確認──転送成功。
新規任務領域:香言語圏〈アザレア王国〉。」
声に出すと、音が香へ変換されていく。
その瞬間、部屋の空気が微かに震え、
彼女の存在が“この世界の記録”として確定した。
——
鏡の中。
薔薇の香をまとった少女が、静かに微笑んでいた。
その笑みは、かつてブリーフィングルームで見せた
任務前の無表情と同じもの。
「了解。任務、続行。」
彼女は立ち上がり、
香る世界へと一歩を踏み出した。
——
花の香が、彼女の名を再び撫でる。
“クラリッサ・ヴァーレント”。
それは、死の向こうに生まれた新しい記録名。
揮発した情報が、再び世界に香りを持って帰還した瞬間だった。




