シー・セッド・シー・セッド
疲れていたからだろう。由美は夫が眠るベットに俯せて寝てしまっていた。フェード・インで始まる「エイト・デイズ・ア・ウィーク」の三連符のベースがけたたましく鳴るのに起こされた。
「うっかりしてた」
由美は目を擦った。昼夜問わず身体を鞭打っての仕事が続いていた。全ては夫の入院費を稼ぐためだった。植物人間状態の夫の命を繋ぐためだった。
いつも流しているビートルズもそうだった。彼女はドラマのような奇跡を待ち望んでいた。夫の大好きだったビートルズをかけ続ければ、夫は生き返りそうだった。
その一方で、こんなことをしても無駄だと感じることもあった。しかし死んだ人間に花を添えるように、夫に尽くすことで、少なくとも自分がしてあげられることをすることで、由美は自分を納得させていた。
ボンヤリする頭痛と戦いながら、彼女は夫を見た。きれいな顔をしていた。ベットに手をついて、椅子から立ち上がろうとした。音楽は「アイム・オンリー・スリーピング」に変わっていた。逆回転するジョージ・ハリソンのギターソロが、二日酔いで気怠い気分の時のようにねちっこく脳内を襲った。その時だった。
「えっ…、や、やだ」
由美の全身に、恐怖に似た驚きが走った。彼女は夫の指先が微かに動いたのを見逃さなかった。由美は慌てて個室から廊下に出ると、大声で人を呼んだ。気が動転していてナースコールを押すことさえ忘れていた。
「どうしました?」
騒ぎを聞いて年輩の看護婦の一人がやって来た。
「夫の指が動いたんです」
由美が顔面蒼白で言うと看護婦も驚いて、
「えっ、ちょっと待ってください、すぐ先生呼んできますから」
と廊下を走って消えた。
医師は夫の脈や瞳孔、肺に呼吸を送るポンプや心電図などを執拗にチェックしていた。
「どう動いたんですか?」
「あの、指先が一瞬ピクッて」
医師はうーん、と唸って夫の指先を軽く握った。
「ベットの揺れが伝わったとか、それとも単なる見間違いじゃないですか?」
看護婦が小声で医師に告げた。彼女は自分が不信に思われていることにむっとしたが、そう言われれば、そうだったかもしれないと不信の矛先は自己に向かった。
「もしかしたら明日にでも目を覚ますかもしれないですね」
医師は笑って由美の肩を叩いた。悲惨な無理難題を傍観者が励ましているようだった。
それから何日かして由美がいつものようにベットに戻ると、そこに夫の姿はなかった。
ビートルズの音楽だけはいつものように流れていた。「ストロベリー・フィールズ・フォエバー」だった。それは由美にはとても力無く聞こえた。
由美は椅子に腰掛け、ベットを眺めた。白いベットを手のひらで撫でながら涙が出てきた。手が動いたのは一体何だったんだろう。相当参っていたから、そこに希望の幻想を見たのかもしれない、と由美は感じた。
その時、扉が勢いよく開いた。驚いて振り返ると、看護婦が凄い形相でこっちを見つめ、叫んだ。
「岩田さん、大変です!」
けじめの附いていた由美の感情は冷静なまま対応できた。
「夫はどうしたんですか?」
「ご主人は目が覚めて、今集中治療室で診察されています!」
「えぇっ?」
由美は視界が徐々に外から白くなっていくのを感じて倒れそうになった。
(完)