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「初夏の彩りと新緑の香り」

作者: *sho

午前四時半。

目が覚めてしまったのではない。眠れなかったのだ。


窓を少しだけ開けると、肌寒い風が入り込んで、カーテンの縁をゆっくり揺らした。

それが何かの合図のように思えて、着替えもせずにパーカーだけ羽織って外に出た。


無心の散歩は、心の整備点検みたいなものだ。

考えることをやめる代わりに、視界に映るものをぜんぶ受け入れる。

歩道の縁を揺れる影、遠くで始まった朝刊配達のバイク音、低く光る空。


同じ道なのに、時間が違うだけでぜんぜん違って見える。

これが毎朝の「日常」なんだと思うと、不思議と胸の奥がすこしだけ動いた。


坂の途中、アパートの駐車場で猫がのびをしていた。

通りすぎる僕をちらりと見て、また目を閉じる。

その何でもなさが、羨ましいと思った。

人間は、過去の影を引きずって歩く生き物だ。

猫は、たぶんそうじゃない。


ふいに、あの日の彼女の後ろ姿が頭をよぎる。

手の届く距離にいたのに、あのとき僕は言葉を選びすぎて、なにも言えなかった。

「正しいこと」と「伝えるべきこと」は、いつだって少しずれている。


心の中でずっと反芻してきた言葉がある。

でも今さらそれを伝えたところで、彼女が微笑む景色はもう、僕のいない世界のどこかで続いている。


思い出は、冷たい水みたいだ。

触れた瞬間に、目が覚めてしまう。

だから本当は、触れたくなんてなかった。


公園に着いた。

ベンチの背もたれには、昨夜の雨が少しだけ残っている。

それを指でそっと払うと、水滴がひと筋、落ちていった。

その動きが、自分の感情みたいに見えた。

伝えきれなかったものは、こうして静かに消えていく。



───────────



──ベンチに腰を下ろすと、朝の空気が一層、輪郭を帯びて肌に触れた。

空はまだ淡い灰色で、夜と朝が静かに引き継ぎの会話をしているようだった。


空気の匂いが変わった。

冷たさの奥に、草の湿り気と、どこか遠くの花の気配。

季節が少しずつ、確実に動いている。

それだけで、なぜか胸の奥がざわつく。


ふと、子どもの笑い声が聞こえた。


まだ眠そうな目をした男の子が、父親の手を振りほどいて公園の広場を駆けていく。

その足取りは、あまりにまっすぐで、まるで「希望」という言葉をそのまま走らせたようだった。


「おーい、こっちに来なさーい!」

父親が笑いながら追いかけていく。

その光景に、なぜか涙腺が緩みそうになる。


自分にも、こんなふうに笑っていた時期があったんだろうか。

いつからだろう、何かを失うのが怖くなったのは。

いつからだろう、誰かを信じる前に、距離を測るようになったのは。


…それでも、と思う。


風の中に混じる新緑の匂いが、静かに背中を押してくる。

「まだ、やり直してもいい」と、どこかの誰かが囁いたような気がした。

それはたぶん、今の僕自身の声だった。


思い出に形があるなら、

それは今、靴紐の結び目くらいの大きさで、

ほどいて、結び直して、また歩き出せる程度のものなのかもしれない。


立ち上がって、背伸びをする。

空はもう、昨日より少し青くなっていた。


不安も、期待も、あいまいなまま連れていく。

誰かに見せるためじゃなく、

自分のために。


季節のはざまを、歩いていく。

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