第九夜.天文台の射手 前編
重たく蠢く闇が、狂おしく身を捩った。それは闇の主たる者の悲哀と絶望の表れだった。
「――もう、終わりだ」
晴れない闇の中、解かれざる封じの呪いの中で、唯一抱き続けた希望が砕ける。闇を切り分け、記憶を与え、仮初めの魂に愛した女の頭骨から作り出した核を埋め込み、“彼女”を連れてこいと送り出した分体が、その核ごと彼の手の届かぬ場所で壊れたのだ。
最後のよすがだった、たった一つこの手元に残されたものだった。
闇の中、彼は膝を抱えて蹲った。もう、“彼女”に手を伸ばす術が一つもない。悠久の闇に浸された命では消えることも壊れることもできず、ただただもう二度と会えぬ女のことを思い続けるしかできない。もう一度会いたいと、そんな細やかな願いすら叶わないのだ。
「……っ、何が、いけなかったんだろう」
後悔も、怒りも哀しみも、愛も、何もかも抱かぬ獣であれればよかったのに。
「お願い……どうか僕を――」
消えてしまいそうな声が、最後の祈りを一粒の涙と共に溢した。
――――――
――魔導科学宇宙観測狙撃拠点、通称『浮遊天文台』。
そこは宇宙から飛来する異形を観測し、撃ち落としてこの星を防衛することを目的とした魔導式滞空施設だ。
魔導科学の天才たちが世界各国から集められており、常に最新の観測方法、狙撃方法を生み出し続けている。そして、実力を認められた魔導士たちが『浮遊天文台の射手』の称号を与えられてその狙撃装置を動かすのだ。
浮遊天文台は、世界中の魔導科学者が持ち得る技術の全てを惜しみ無く注ぎ込んで建造された施設であり、所謂成層圏と呼ばれるエリアに浮かべられ、滞空している。
魔法によってそこに固定され、惑星がいくら回ろうともそれに付いていくことはない。それ故に、いや、その存在意義に基づき、浮遊天文台は夜に留まり続けている。
宇宙から来る異形は、約百三十年前に初めてこの星に降ってきた。そして約五十年前に襲来数はピークを迎え、それ以降徐々に落ち着きを見せ、大体十五年前から現在に至るまでは人類が対処できる数に留まっている。
過去の襲来と違うのは、数の変わりに質が上がってしまったことだ。十五年間の中で襲来数を増やした大型の異形は、それまで降ってきていて次第に襲来数を減らした小型の異形の数を上回り、今や襲来する異形のほとんどを占めている。地表へ降りた場合、人類社会にもたらす被害は凄まじく、着陸前に天文台が撃ち落とすことが一番の対処法であった。
「――五十年前に記録を付けてたこの人は、増えていく襲来数をどう考えてたんだろうねぇ」
「ああ、『青月の聖女』? あたしも読んだけど、よくもまぁ、あんな細かく記録を付けたよねぇ。当時は魔導科学も瀕死で、人力だけで対処してたんでしょ?」
「記録に残ってるだけでもあの数だもの。それを限られた魔導士数で……ゾッとする~!」
女は肩を竦めて首を振った。顎の高さで切り揃えた真っ直ぐな金髪が美しい女である。そんな彼女の言葉に頷くのは豊かに波打つ黒髪の女で、日光に祝福された艶やかな褐色の肌に良く似合うゴールドのブレスレットが手首でしゃらりと鳴った。
「でも結局、青月大聖堂は襲来数が減少するまで戦い抜いたんでしょ?」
「そうよ。聖女は途中で力尽きたらしいけれど『青月の聖戦士』だっけ、彼女はまだご存命のはずだわ。もう老年だろうけど」
「へぇぇ、凄い。生き延びたんだ~……」
金髪の女は目を丸くしてカフェラテの紙カップを意味もなく両手の間で転がした。頷いた黒髪の女は「同じ魔導士として尊敬してるわ」と微笑んだ。
人の少ない時間帯のカフェテリアに、そっと差し込むような沈黙が降りる。コミックみたいに大仰な表情で顔を見合わせた二人は「やだちょっと何で急に静かになるのよ~!」と同時に言ってきゃらきゃらと笑った。
「――おはよう。朝刻から楽しそうね」
そこへ、同じようにコーヒーの紙カップを手にやって来たのは、腰まである黒の長髪と狼のような黄金の瞳の長身の女。全身隙の無いブラックのパンツスーツスタイル。黒いエナメルのハイヒールのソールは目が覚めるような赤色だ。
「あっ、首席! おはよう!!」
「おはようございますー!!」
「ふふ、元気のいいこと。相席しても?」
「勿論、どうぞ!」
「朝刻からお会いできるなんてラッキー!」
首席、と呼ばれた女ははしゃぐ彼女たちに少し苦笑しながら席に座る。透き通るようなデコルテに揺れる小粒の紅色は、聞くところによると彼女が生まれた時右手に握り締めていた不思議な石であるそうだ。
「首席は読みましたか、『青月の聖女』」
「ええ勿論。先人の奮闘の記録だし、この天文台に何かあったらこうすればいいのだと良い勉強になったわ」
「ひぇぇ~、怖いこと言わないでよ~! あたし絶対長距離走れないもん、最初に死ぬやつじゃんー!!」
「安心なさい、いざとなったら私が抱えて走るわ」
「え、好き……」
「あなたいつも言ってるわねそれ」
「だって首席のこと好きだしぃ」
きゃらきゃらとじゃれ合う二人を、女は微笑ましいものを見る目で眺めている。頬杖をついて薄く微笑んでいるだけなのに、黒金剛石のように絢爛な雰囲気を感じさせた。
「好いてもらえて嬉しいわ。守るべきものはあればあるほど良いもの」
「っか、格好いい~ッ……!」
「好きです首席愛してます……!」
テーブルへ突っ伏した二人へ、女はとても楽しそうに笑みを深めて「ふふふ、愛いこと」と囁いて更に叫ばせるなどした。彼女は可愛いものをつつくのが大好きであった。
その時。
『緊急事態発生、緊急事態発生、全射手は至急狙撃台へ集合してください。繰り返します、全射手は至急狙撃台へ集合してください』
鳴り響いたのは滅多に鳴らないアラート、緊急事態を知らせる放送も合わせて。ふざけ合っていた三人の顔がキリ、と弓弦の如く引き締められた。三つの紙カップを置き去りに、射手たちは素早くカフェテリアを飛び出す。
「アラートを鳴らすほどのことって何かしら」
「天文台へ向けて降ってきてるのがいるとかかなぁ?」
「今の時間の射手は『雪星』よね。彼女が対応できない事態となると……」
「雪星さんがダメじゃもう首席しかいないじゃないですか……」
清潔なリノリウムの廊下を厚底ローファーと革のサンダル、ピンヒールの足音が移動していく。角を二つ曲がって直進、緊急事態故に開けっ放しの金属扉の向こうが迎撃台だ。別の角からも射手が続々と走ってくる。
「首席、お疲れ様です」
「お疲れ様、『花鳥』」
「あの雪星さんが緊急事態出すなんて何ですかねぇ」
「文字通りの緊急事態なのでしょうね」
花鳥の名で呼ばれる青年魔導士は「うわぁ」と言って顔を、ぎゅっ!!と盛大に顰めた。彼はのんびりとした口調に反して表情筋の忙しい男である。
そうして忙しなくも統率のとれた集合で観測狙撃拠点に所属する『浮遊天文台の射手』二十四人が狙撃台に集まった。
存在意義故に『狙撃台』とまとめて呼ばれるこの部屋には観測用の計器の類いと、その他様々な機器や空中投影されたモニターが立ち並び、常に宇宙の果てに在る異形の生まれ出るモノを監視し続けている。
そして奥に構えられている、魔導強化ガラスドームを外へ向けて張り出させた一段高い場所がこの部屋の呼び名の由来になっている狙撃台だ。中心に据えられた天体望遠鏡のような、大きく長い白銀の魔導式狙撃砲は先端がガラスドームから外へ突き抜けており、これを射手が魔力と腕力で動かして狙撃を行う。狙撃砲の砲身はガラスドームと繋げられており、狙撃砲の動きに合わせてガラスドームも隙なく回転稼働するような機構だ。
そこに、髪から瞳まで全身真っ白な女が申し訳なさそうな顔をして立っている。彼女がこの時間の射手であり、今回の緊急事態アラートを発令した魔導士である。
「すみません、対応の方は首席にお願いすれば良さそうなんですが、皆さんに共有しておくべき事象かと思いまして召集をかけました」
彼女はそう言って、狙撃台へ上がってきた首席に狙撃砲を譲る。天体観測宛らにそれを覗き込んだ首席は「いつもと変わったところは見受けられないけれど」と呟く。そんな彼女へ雪星は「そうなんですが」と途方に暮れたように首を振った。
「大気圏突入前にもう数回、撃ったんです」
「……そういうことね、分かったわ」
首席は頷いて、本格的に狙撃体勢に入る。長い黒髪をさっと払って狙撃砲の前に据え付けられた回転椅子に腰掛け、黄金の眼でスコープを覗き込む。魔導式スコープで睨む先、大気圏に突入している黒い塊――“卵”があった。
「まだ割れていないのね、不思議だこと」
「え? 大気圏に突入しているのに……」
「まあいいわ」
あの“卵”が大気圏突入時の衝撃で割れると中にいる異形が出てくる。中身に合わせ、黒光りする“卵”もそれ相応の大きさをしており、相応に硬い。“卵”の段階で狙撃し、破壊することができる射手は首席の彼女と雪星しかいない。
狙撃砲を覗き込む姿は、天体観測をする様子にそっくりだ。左右の持ち手から魔力が流れ込んでいく。白銀の目映い砲身に刻み込まれた魔導回路が鮮やかな黄金色に輝き始める。その鮮烈な明け黄金は浮遊天文台の射手の中で最も強く、最も美しい狙撃が行われる合図だ。注ぎ込まれた眩しい黄金色の魔力のその全てが、魔導回路を通って仕込まれた術式を起動させながら砲口へと集束していく。
「――発射」
命令には魔力を込めて。それがこの魔導式迎撃砲の発射コマンド。星を穿つような、射手の名に相応しい鋭い金の光の矢が砲口から放たれた。
金の光が“卵”の向こうへ突き抜けるのが先、撃ち抜かれたことに遅れて気づいたようにして崩壊が始まるのが後。迎撃台は拍手喝采、我らの首席がまたしてもやってくれた!!
流石首席、そんな声が上がる中、狙撃砲から手を離し、立ち上がった彼女は腑に落ちないような、納得できないような、そんな顔をしている。それに目敏く気づいた花鳥が「どうしたんですか」と小首を傾げた。
「……念のため、最大出力で撃ったのよ」
「それって」
「いつもと同じ硬度ならば崩壊があまりにも遅い――明らかに“硬い”わ」
自分の能力に絶対の自信と莫大な信頼を持つ女であるが故の違和感。この天文台で積み重ねた経験が言う――あれは今までの“卵”と違う、と。
「観測班を呼んで。アレに変化があったのか確認しなければ」
「お任せください」
駆けていく花鳥を見送り、彼女は狙撃台を振り返った。
人類の生存を赦さぬ成層圏の濃藍。それは、その向こうにある宇宙の至極を透かした故の色彩なのだと言う。
その塗り込められた至極色の中にぽっかりと浮かんでいる異形の生まれ出るモノを睨むような気持ちで、彼女は空を見た。
この星へ向けて降る異形。
それは、宇宙の果てに浮かぶとあるモノから生まれ落ちている。
この星から難なく観測できるほどの巨大なモノ。熱源反応は無い、冷えきった塊。
それは――胎児の形をしている。
それはずっと遠くからこの星を追いかけ続けている。超遠距離の衛星のように距離を保ち、位置関係を保ち――そして異形の“卵”を放つのだ。
胎児の、口に当たる部分から、異形の“卵”は生み出され、この星へ向けて飛んでくる。
約五十年前に、その事実を知らずにただ「空から来る魔物」と定義して降り注ぐ異形と夜な夜な戦い続けた者たちはどれほどの不穏と恐怖を感じたことだろうか。
現代、その出所を知って尚、人類は不穏と恐怖を覚えずにいられない。
「――いずれお前も撃ち落としてあげるわ」
狼の金瞳が、人の目には見えぬ不穏と恐怖の主を睨む。異形や“卵”に変化が現れる度に彼女は、いつか宇宙の果てすら射貫く一撃を、と誓うのだ。
不敵に笑み、彼女はさっと身を翻した。
絶対の自信に裏打ちされた強者の自負は、人類を脅かす不穏と恐怖程度ではそう簡単に折れも挫けもしないのだ。
――自分が折れも挫けもせず先頭に立ち続けることで、後ろに続き、戦い続けてくれる同胞がいることを、彼女はよくよく理解しているのだった。




