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第八夜.青月の聖女 後編

 精緻な魔導術式が刻まれた銀の籠手ガントレットが魔物の胸部を痛烈に打ち抜く。突き抜けた衝撃波で周囲の砂利や埃がぶわっと円形に吹き払われた。

 逃げる隙は与えず、追いかけた右拳が頭部へ直撃。籠手ガントレットから損傷部分を介して魔法が流れ込む。黒光りする体へ、瞬く間に駆け巡った魔法が魔物を内から崩壊させた。


「――っと、そろそろ夜明けか」


 拳を振り抜いた姿勢のまま顔を上げたその人は、はたと琥珀の眼を瞬いて空を見上げた。東の空が白んできている。その分、天頂と西は夜よりもぐっと暗くなっていた。


 今夜も守りきることができた、そう小さく息を吐いた琥珀アンバーの瞳のその人は、随分と幼く見える少女であった。二つ結びの茶髪が朝の匂いのする風に揺れている。

 と、その直後に白い炎に包まれた魔物が彼女の近くに落下してきた。白木蓮に似た気品ある魔力の匂い。慣れ親しんだ仲間のそれに、少女はニッと笑って上を見上げる。


 それと同時に、建物の上から黒衣の青年に抱えられた聖女がひらりと降りてきた。


「よォ、おつかれ」

「はい、お疲れ様です、聖戦士殿」

「アンタもな、『柘榴の君』」


 聖女を丁重に石畳の上へ下ろした黒衣の青年は、そう声をかけられてちらと彼女を見下ろすとそのままとぷん、と聖女の影の中へ沈んでしまった。


「つれないなァ」

「ごめんなさい、彼はあまり人が得意でないみたいで」

「気にすんな、構やしない」


 銀の籠手ガントレットに包まれた手をひらひら振って聖女の謝罪を断る少女は、『聖戦士』の名で呼ばれる『教会』の主要戦力の一人だ。子供のように見えるがそれは持って生まれた魔力の性質のためで、中身は三人の主要戦力の中で最も老成している。


「日も昇ってくることだ、帰るか」

「ええ、そうですね」

「そっちは変わりねェか? アタシんとこは今夜はちょっと多かった気がしてるよ」

「こちらも、数が増えています。このところずっとそうです」

「はぁ……まったく、嫌になるね」

「……ええ」


 聖女は物憂げに月長石ムーンストーンの目を伏せた。


 王都に降る魔物の数は増える一方で、真面目に記録を付けている聖女曰く去年より二割以上増加しているらしい。数ヶ月前に聖女が連れてきた『柘榴の君』が戦力に加わって一旦は負担が軽くなったとは言え、このままでは状況は悪くなっていくばかりだろう。


 聖戦士は溜め息を一つ溢して「考えてもしょうがないね、帰ろう」と頬を掻いた。






 彼女たちが拠点である『青月大聖堂』に戻ると、丁度聖騎士の青年も帰還してきたところだった。『教会』の主要戦力三人が聖堂前で各々を労う。彼らに率いられて帰還した戦闘用員たちは憧れの眼差しでその三人を見た。彼らは魔導士として憧憬を集める実力者であり、国防の要として頼りにされる存在である。


「腹減った、アタシは飯食って寝るよ」

「お疲れ様でした、私も記録を付けて休みますね」

「オレも寝る! あんま根詰めすぎちゃダメだよ聖女サマ~!」

「ええ、気をつけます」


 ひらひらと手を振って大食堂の方へ歩いていく聖戦士を見送って、彼女は聖騎士と宿舎の方へ歩を進めた。昇ってきた朝日に彼女の青みを帯びた白銀の長髪が淡く輝いている。それをちらと見下ろし、幾度か瞬いた聖騎士は「聖女サマ、あのさ」と口を開いた。


「はい、何でしょう?」

「その……何て言ったらいいんだろ」

「ふふ、珍しいですね、貴方が言い淀むのは」

「もー、オレ真剣なんだけどー」

「分かりました、何でしょう?」

「……あのさ、アイツのことあんま信じない方がいいんじゃないの」

「…………」


 聖騎士の碧眼は微かな不安を浮かべて、心配そうに彼女を見ている。皆まで言わずとも、彼が『柘榴の君』のことを、つまりは数ヶ月前に突然彼女の隣に現れた正体不明のもののことを警戒しているのが分かった。


 彼女は困ったように眉尻を下げて「大丈夫、皆さんに何か起こるようなことはありませんから」と答える。刃のような白銀の双眸は、複雑な感情で月長石ムーンストーンのような潤みを幻視させた。


「そうじゃなくて……!」

「大丈夫ですから、ね?」

「だってそれは……」


 聖騎士の言葉は、彼女がゆるゆると首を横に振ることで押し止められる。曖昧にも思えるが明確な拒絶。気にしてくれるな、と言うこと。


「……分かったよ」

「ごめんなさい、聖騎士殿」

「……ごめん、先に行く」

「ええ」


 傷ついたような顔をした聖騎士は、ふっと視線をそらして俯くと足早に歩いていってしまった。その背を、足を止めて見つめた彼女を、不意に背後から誰かが抱きしめる。


執拗しつこい男だな」

「私を心配してくれているんです」

「……そう」


 すり、と背後から彼女の頭にすり寄せられる冷たい肌。黒衣の彼は、誰もいないところではこうして彼女に触れたがる。彼からは、冷たくて幽かに甘い、夜の気配にも似た香りがするのだった。


「今夜もありがとうございました、貴方のお陰で機動力が上がって、より多くの魔物を倒すことができています」

「……うん」


 冷淡な色を帯びていた声が和らぐ。彼女に絡み付いていた両腕から力が抜けて彼が納得したのが伝わってきた。君のためなら、と微笑しながら移動した彼が隣に並ぶ。


「貴方も休んでくださいね」

「僕に休息は必要ないよ。君こそ、いつも記録と研究で全然寝ていないじゃない」

「性分でつい……」

「今日は記録だけにして。いい?」

「……はい」


 白い指が彼女の目元を優しく撫でる。隈ができていることを見咎められたな、と彼女は気まずそうに目をそらした。この黒衣の彼は、彼女のどんな些細な変化にも気づいてしまう。それが、何だかこそばゆいような、そんな気分にさせるのだった。





――――――





 ふっ、と意識が戻る。一瞬暖かな記憶を回顧していたような気がして、ここがどこだか再認識するのが遅れた。宙を舞う己に気づいてハッとする。


(っ、そうだ私……!)


 夜警の最中、最早「群」と呼称できそうな大群で押し寄せた魔物を相手に戦っていたところ不意打ちで尾の一撃を頭に受け、意識を飛ばしてしまっていたのだ。そう理解した直後、体に染み着いた動作で何とか足から着地する。


 魔物の尾の表面にある突起で怪我をしたらしくどろり、と頭の傷特有の流血が頬へ伝い落ちてきた。それを乱雑に拭って追撃を仕掛けにきた敵を焼き払う。

 だが、焼け焦げてさらさらと崩れていくそれを押し退け次の魔物が飛び掛かってきた。そこへ、別の場所へ行っていた黒衣の彼が滑り込んで魔物を蹴飛ばす。


「ごめん、遅れた……!」

「大、丈夫です、動けます」

「血が出てる、取り敢えずこれで押さえて」

「ありがとうございます」


 黒衣の下のシャツを裂いた彼に傷を押さえてもらいながら、油断した、と杖を握り直す。その時、近くから悲鳴が上がった。自分の部隊の者の声だ、と悟るなり彼女は走り出す。

 混戦になっている中、隊員の一人が三体の魔物に群がられていた。黒の中に、白い肌と飛び散る赤が見えて、顔を顰めた彼女は杖を振るった。溢れ出した白炎が魔物だけを炙って退ける。


「大丈夫ですか?!」

「せ、聖女、さま……」

「すぐに救護員を……!」

「ぁ、ぐ、痛い、です……」

「大丈夫、大丈夫ですから」


 救護員が駆けてくる道を炎で作って守り、痛いと呻く年下の隊員を蒼い顔をした救護員に引き渡す。


「よろしく頼みます」

「はい、必ず助けます……!」


 悲鳴や負傷の音が増えていくのに焦燥感を覚えつつ、立ち上がって次へ。いくら倒しても石畳の道に溢れ返る魔物の数は減らない。どんどん空から降ってきているからだ。

 流水を溢れさせて転んだ味方を守り、くるりと返す杖の先で炎を生み出す。まとめて向かってきた五体を、波濤の如し白炎で倒しきろうとした直後、隙間を抜けた一体がパッと飛び上がっていった。


 討ち漏らした――視線だけで追い掛けた敵は石畳の上に降り立ち、そのまま裏路地へ飛び込んでいった。そちらに入り込まれるとまずい、その先には市民の住宅地が集まっている。


「っ、柘榴の君! あちらへ……!!」

「分かった」


 そちらは彼に任せ、彼女は前に向き直る。討ち漏らした原因は明らかだ。今まで夜警の最中に尽きたことなどなかった魔力の底が見え始めている。それ故に体が無意識に魔法の出力を抑えた。主要戦力たる自分でこれなのだ、他の魔導士たちにはもう戦えるだけの魔力は残っていないかもしれない。


「魔力切れの兆候のある者は今のうちに撤退を!! 倒れてしまっても、この状況では守れません!」


 彼女がそう声を張り上げたのを聞いて、動き出す人数を目視で数える。五人、六人と数えて計八人。部隊のほぼ全員だ。この場で戦えるのはもう自分と柘榴の君だけ。


(これは、まずいかもしれない)


 体中の魔力を掻き集め、ただひたすら戦いに没頭する。他のことを考えるのは後だ。黒衣の彼の力を借りて屋根に上がり、街に降りてしまったものは上から片付け、降ってくるものは撃ち落とす。

 街中、自分の担当区画の屋根の上を駆け回ってそれをひたすら繰り返し、ついに魔力が尽きかけて足が縺れたその瞬間、ふっ、と遠くから白い光が差す――日が昇ってきた。


 残っていた魔物たちが悲鳴らしき声を上げて陰に逃げ込むも虚しくさらさらと粉々に崩れていく。日の光から逃げる仕草をするわりに、彼らは光を浴びなくとも“日が昇った”或いは“朝が来た”という現象によってこうして崩れ去るのだ。


 それを確認した彼女はぼんやりした意識のまま「守りきれた」と安堵し、限界を迎えていた体から力が抜けた。そして、縺れた足のまま屋根の上から転げ落ちる。


「――っ!!」


 陰を渡ってきたのであろう、物陰の黒の尾を引きながら飛び出した黒衣の彼が寸でのところで彼女を受け止めた。流石の彼も無茶な体勢であったので腕の中の華奢な体を抱え込んで石畳を転がる。その衝撃で、彼女は朦朧としながらも白銀の眼を開いた。


「……お疲れ様、頑張ったね」

「朝、ですか……?」

「うん。大丈夫、もう終わったよ」

「終わった……良か、っ……」


 そこが限界だったのだろう、言葉が途切れ目蓋が閉じる。彼はそんな彼女を抱き上げ、額に口づけてから歩き出した。

 昨夜の戦闘で無傷ではいられなかった街の様子が朝日に照らされて明らかになっている。捲れ上がった石畳、崩れた建物。多くの魔導式街灯が折れて、剥き出しになった配線から魔力が漏出していた。


(……この街はもう長くはもちそうにないな)


 それでも、彼女は戦い続けるのだろうなと思う。今更ながら出会った日の約束を思い返して苦笑する――全てが終わったら、とはいつになるのだろうか。自分もまた、空から降る異形のたちの悪さを読み違えたようだ。


 歩く内に『青月大聖堂』が見えてくる。そこは『聖騎士』の名を持つ男の管轄だ。壮麗な青の丸屋根ドームにも魔物が爪を立てて滑り降りたであろう傷ができている。彼の鋭敏な嗅覚がこの距離でもあちこちに散っている人間の血の匂いを嗅ぎとった。


 死者の気配はしない。幸いなことだ、誰か死ねば彼女が悲しむ。


 そのまま進むとぐったりした聖騎士の部隊が見えてきた。こちらは何人か、朝まで持ちこたえた一般隊員がいるようであちこちに傷を作って座り込んでいるのが見えた。そんな彼らに声をかけ、立つのを手伝っている聖騎士の姿が視界に入り、黒衣の彼はきゅ、とやや不機嫌に眉根を寄せる。あの男は彼の大事なひとに好意を抱いているのだ、その上で警戒をもって見られるのは決して愉快ではない。


「あ、お前……っ!!」


 彼に横抱きにされた聖女を見つけた聖騎士が駆け寄ってきて凄まじい顔をする。


「寄るな、彼女は僕が医務室まで連れていく」

「っ……変な気を起こしてみろ、許さないからな」

「お前が何を言おうと関係ない。僕は彼女との約束を守るだけだ」


 ふん、と小さく鼻を鳴らし、押し黙った聖騎士の横をすり抜けて大聖堂へ向けて歩を進めていった。




――――――




 それからというもの、魔物の襲来は激化していく一方だった。死傷者が増え、三人の主要戦力たちも怪我をすることが増えた。討ち漏らす数も少しずつ増え、ついに昨晩市民の家が襲撃を受けることになってしまった。


 しかしそれでも魔物は毎夜やって来る。彼らは治らないままの怪我を抱え、戦い、更に傷を増やすのだった。





「――っ、これで!」

「聖女様っ、そちらに……!」

「はいっ、任せてください!」


 白い炎が舞う。あちこちが抉れ、捲れ上がった石畳の上を、足をとられないよう踊るように駆け抜ける。

 味方が追い込んだ敵を一掃するのにも慣れてきた。人は、極限状態でこそ進化するのだなぁと思わずにはいられない。魔力の使い方も更に効率的になったと感じていた。


 跳んで、背後に迫った魔物へ杖を下から振り上げる。その軌道に沿って溢れる白炎。塵になる魔物の断末魔。塞がりかけていた二の腕の傷が開く感触。今は痛みより血が滲むことへの不快感の方が勝る。


 そばの建物を振り仰げば、屋根の上に上がった柘榴の君が黒衣の裾を翻して魔物を薙ぎ倒しているのが見えた。彼だけは、いつだって一筋の傷も作らずに夜を明かす。決して負傷せず倒れぬ味方の存在。それが、近頃の彼女の密かな心の支えだった。


 彼はきっと本当は自分以外の人間を守りたくないんだろうと彼女は気づいている。彼は約束の結び手である彼女だけを守ることができればそれで良くて、でもその約束によって彼女に願われれば他の人間を見捨てることはできない。きっともどかしいだろうな、と思う。


 だからいつも、朝の来る頃彼女が傷だらけで戦闘を終えた姿を見て苦しそうな顔をするのだろう。初めて会った夜に言っていたのだ「君をほんの少しであっても危険にさらしたくないんだ」と。彼が何故自分を求めているのかは分からない、がきっと酷なことを強いているのだろうとは分かっていた。


(……初めて(・・・)……?)


 胸の奥に子猫の爪が引っ掛かったような、脳の裏を鳥の羽が掠めるような、そんな小さな引っ掛かりを覚える。何の脈絡もなく、脳裏に浮かぶ荘厳な古代神殿の景色――これは、一体?


(っ、駄目、集中しなくては……!)


 突如として胸に去来した懐かしさのような感覚を振り切って杖を握る。襲い来る魔物をいなし、焼き払って、全力を尽くして狩る。昨夜、討ち漏らしの結果市民に危害が及んだのは彼女の管轄地区だ。もう二度と、そんなことはさせない。


「この身、尽き果てようとも……!!」


 白木蓮の唇から決意が放たれると共に、彼女の身に白炎が纏う。神秘の熱に青銀の長髪が翻り、奇跡の体現者たる『聖女』の呼び名に相応しい神聖さ溢れる姿だった。


 そうしてまた彼女たちは一夜を越える。白い頬に傷を付けられ、装束も破れ、あちこちに血が滲んでいた。それでもあの最初の夜のように気を失うことはなく自分の足で歩いて『青月大聖堂』に戻ってくることができる。


「ただいま戻りました。今夜は誰一人欠くことなく帰還できて喜ばしい限りです。皆さん、しっかり休んでくださいね」

「はい、聖女様」

「聖女様もどうぞきちんと休息を」


 隊員たちを笑顔で労い、宿舎へ向けて背を押した彼女の元へ、聖堂前で待っていた聖騎士が歩み寄ってくる。


「おかえり。お疲れ、聖女サマ……また、傷が増えたね」

「お疲れ様でした、聖騎士殿。この程度、掠り傷ですから」

「……そっか、キミは強いね」

「いいえ、とても“強い”とは。皆さんの存在あってのことです……」


 彼女の背後で黒衣の彼が柘榴の瞳を凍てつかせて自分を見ているのを知りつつ、聖騎士は謙遜する彼女の頬に触れた。黒衣の彼の視線が尖る。


「……つらくない?」

「……ええ。この国と、民と、何より同胞たる皆さんのためなら」

「…………そっか」


 聖騎士の碧眼に葛藤が揺れる。華やかな彼の美貌にも、毎日塗り込まれる疲労の色が明らかに現れていた。目の下の隈は今や『教会』に所属する魔導士たち全員がお揃いだ。

 名残惜しげに、彼女の輪郭を指先でなぞりながら聖騎士の手が離れる。何もしやしないよ、と剣呑な表情を隠しもしない黒衣の彼へ向けて肩を竦め、数歩下がった。


「聖女サマが頑張ってるから、オレも頑張っちゃうよ」

「……貴方も、どうか無理をせずに」

「ウン、だいじょーぶ。オレ、強いからね」


 そう言ってニカッと眩しく笑った聖騎士は身を翻して歩き去っていく。入れ違いに「ただいまァ!」と門から響く声は聖戦士のもの。振り返った彼女へ、快活に笑った聖戦士が銀の籠手ガントレットに包まれた手を振る。


「おかえりなさい、お疲れ様です」

「おう、おつかれィ」

「ご無事で良かった」

「まあな。アタシは飯食って寝るからね、アンタも早く休みな。折角の美少女が三割減だ」

「はい、そうします」

「……アイツは平気かねェ」

「……恐らく、お疲れでいらっしゃいます」


 琥珀アンバーの瞳が気遣わしげに見やるのは丁度宿舎の戸をくぐるところである聖騎士の背中だった。戸の向こうへ消えていく銀の鎧のあとを追うかのようにしばらくそこを眺めていた聖戦士は「まァ、みんなそうだよな」と呟く。


「アタシは、この戦いはいつか終わると信じてる。だから折れやしねェ」

「……私もです。きっとこれは魔物の襲来の初期段階であるが故の、一過性のものと考えています」

「真面目に記録付けてるアンタが言うと信頼感が違ェな」


 右手の籠手ガントレットを外して、彼女はちょっと背伸びをして聖女の華奢な背を軽く叩いた。


「頑張ろうぜ、この国と、民と、仲間のために」

「ええ、必ず来る朝日のために」


 顔を見合わせ、二人は笑った。互いが在るから戦えるのだと分かっている顔だった。そのために互いがどこまでも戦い続けていてくれると信じている顔だった。


 いつか朝日にまみえず夜の中で死ぬかもしれない互いを、それでもどうか、と切に希う顔だった。





――――――



 


 限界まで張り詰めた糸が切れる時、或いは限界まで注がれた水の溢れる時。


 それは、いつだって不親切にも突然訪れる。


 その日、今まで決して負傷することのなかった柘榴の君が初めて怪我をした。切り裂かれたビスクドールの頬からは、一筋の血だって流れてこなくて、彼が人とは違うものだということを闇のように黒い切り傷が示していた。


 そして、聖女の名を持つ彼女も今までにない傷を負った。足を折られた隊員を守ろうと魔物との間に飛び込み、左肩を大きく切り裂かれたのだ。救護員が応急処置をしたので大事には至っていないが、その後も戦い続けたので出血は止まりきらず、戦いの終わる頃にはその顔は今にも倒れそうな蒼白あおじろさになっていた。


 それでも、また見ることのできた朝の目映い光の中、彼女は確かに満足して『青月大聖堂』に戻ってきたのだ。




 張り詰め過ぎた糸は、注がれ過ぎた水は――聖騎士の彼だった。




 顔面蒼白で左半身を血塗れにして、柘榴の君に支えられながら戻ってきた彼女を見た瞬間、見開かれた彼の碧眼はどろりと暗く濁った。


 けれど誰もそれに気づかなかった。これだけの重傷を負いながら生きて戻った聖女に、皆気を取られていたから。


 わらわらと集まってくる人間たちに、柘榴の君が嫌そうな顔をする横で、彼女は無理して微笑んでいた。大丈夫、すぐ動けるようになる、そう言って皆の動揺を鎮めようとしていた。


 そこへ、ふらり、ふらりと彼は近づいていった。誰にも見咎められず、剣を抜いて、正気を失い尽くした疲れきった目をして。


「キミが……傷付くのを、オレはもう……見たくないよ……」


 大好きな女の子には平和な場所で、穏やかに笑っていてほしいじゃないか。


「もう……無理だ……なら、ならいっそ……」


 彼にはもう未来が見えなかった。きっとこの国は、自分たちは、もっと増えるであろう魔物の大群に呑まれて死ぬ。この国を、自分たちを愛している彼女はきっと悲しみ、苦しみ、そして同じように死んでいくのだ。


「……そんなの……耐えられない」


 そんな思いを、大好きな彼女に味わわせるくらいなら――いっそのこと、この手で。


 彼の剣が魔法を纏ったその時、殺気とは呼べない溢れんばかりの悲哀に柘榴の君が気づいたその時には――彼と彼女の距離は致命的なものになっていた。


「オレはっ、キミのことがっ……!!」

「ッ――!!」


 振りかぶられた銀の剣。ただ驚愕に見開かれた月長石ムーンストーンの双眸。焦燥と憎悪を燃やした柘榴の瞳。白い手が最後の意地で彼女の細い肩を掴んだ。



「っ、あ……!」

「――ごめんね、約束、果たせそうにないや」



 一閃。正気を失って尚、鍛え上げられた一撃はどこまでも哀しく正確だった。


 黒衣の彼の胸が切り裂かれる。ただの刃なら良かったのに、奇しくもそれは魔を祓う浄滅の一閃。彼の胸に埋め込まれた紅い宝石に――彼の核たるそこに、刃の先は届いてしまった。


 柘榴の目を切なく細め、白皙の美貌に悔しそうな、でも満足げな表情を浮かべて、黒衣の彼はゆっくりと倒れていった。


「っ、柘榴の君――!!」


 痛む肩を無視して、彼女は彼の体を抱き止めた。あまりの軽さにゾッとして、その体が足の先から影に溶けるように崩れていくのを目にしてしまう。彼はすでに目を閉じていた。もう、応える声はない。


「っ、そんな、嘘、だめ……!」

「あ、あはは……泣かないでよ聖女サマ……」

「――聖騎士ッ、テメェッ!!」


 黒衣の彼を抱きしめて、嗚咽を漏らしながら崩れ落ちた彼女と、虚ろな表情でもう一度剣を振り上げた聖騎士との間に、遅れて帰還した聖戦士が飛び込んだ。間を置かず、容赦のない拳の一撃が聖騎士を吹き飛ばす。


「ッ、やっぱり見ておくんだった……! おいッ、柘榴の君は?!」

「っひぐ、っ、お願い、目を、目を開けて……!」

「っ、クソッタレ!!」


 聖戦士が空に吠える。聖堂の壁に突っ込んだ聖騎士は虚ろな顔のまま小さく笑い続け、聖女は黒衣の彼の躯を抱きしめて涙を流した。


「どうして、どうして……!」


 彼女の腕の中で、ついに黒衣の彼の体は完全に消えてしまい、最後に残った紅い宝石が名残惜しげに彼女の手のひらからゆっくりと滑り落ち、地につく前に砕け散った。


 皆の希望であるはずの朝の目映い白い光の中で、たった一本の張り詰めすぎた糸の断裂、或いはたった一杯の注がれ過ぎた水の決壊によって全てが狂い、変わり、終わってしまった。


 誰一人としてその場から動けなかった。


 一人の発狂から、一人の絶望から、この場の誰もが今日この日まで必死に保ち続けてきたものが、ぷつん、と切れてしまったのである。


 今日この日まで、確かに国の希望として、民のための剣として――いずれ夜明けを迎えるその日のためにと、ただがむしゃらに戦い続けてきた対魔物国防組織『教会』の、崩壊の始まりであった。


次章『天文台の射手』来週土曜、前編投稿です。

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