第七夜.青月の聖女 前編
彼女は、祀り上げられた彼のための巫女だった。
闇から生まれ落ちた魔の物として、気の向くままに暴虐の限りを尽くしていただけの彼を神と崇めた人々が、彼の無聊を慰めるためと言って差し出した五人目の巫女。
国には、ある決まりがあった。神が一人の人間に入れ込んでしまっては危険なので、その兆候が見られた場合、『魂送り』の儀を執り行って巫女を完全にあちら側の者にしてしまう、というものだ。
四人の巫女に何ら興味も湧かず過ごしてきた彼はその儀式のことを知らなかった。何せ、人間が勝手に始めた信仰で、儀式だ。彼が知りえるはずもない。
だから、初めて自分の心を奪った彼女に夢中になり、深く愛してしまった。
ある日、いつもの時間にいつものように微笑んだ彼女がやって来る代わりに、厳かな顔をした神官たちが輿に乗せた彼女の首を持ってきたときに、彼は人間というものの悍ましさと身勝手さを思い知った。
目の前が真っ赤になって、気づいたときには国は崩壊していた。彼は、彼女と過ごした神殿の真ん中で血塗れになりながら彼女の首を抱いて座り込んでいた。
そこでようやく涙が溢れて。
こんな感情、知りたくなかったと泣いた。
そんな涙を拭ってくれる手もなくて、あらあら仕方のないこと、と頬を撫でてくれた苛烈で優しいあの女はもう死んでしまったのだと思い知らされるようで、とても悲しかった。
そのまま、彼女の首が骨だけになるまま抱いて過ごし、国一つを一夜にして滅ぼした災厄を封じんとやって来た魔導士の手で神殿を牢獄に作り替えられて闇の中に閉じ込められた頃。
彼はやっと決意して顔を上げた。
「……もう一度、君に会いたい」
弱った体と衰えた魔力で、抱いていた彼女の頭蓋骨を一粒の紅い宝石に変えた。
その紅の眩しさに彼女の瞳を思い出し、彼はまた泣きそうな気持ちになりながら、それを核に牢獄に満ちた闇を掻き集めて己の分身を作り出した。
ぼんやりした顔で牢の外に現れた分身に記憶を流し込み、彼女との日々の記憶だけは自分の中に大事に沈めて、自意識らしきものの現れ始めた分身に「行ってこい」と命じる。
もう一度、もう一度だけでいいから。
冷たい闇に身を浸して、肌を刺すような孤独感に目を閉じる。
もう一度、もう一度だけ。
私、あなたのこと好きよ、と少し照れくさそうに微笑んだ眩しさを思い出す。
もう一度。
「……君の声が聞きたい」
ただ、その一心で彼は――
――――――
杖の先から迸った白い炎が飛び掛かってきた魔物を焼き払う。聖女様、と震えた声を上げた少女に「さぁ、今のうちに」と避難を促して前方に向き直った。
「負けません。私は、私の愛するものを守るのだから」
そう念じ、杖を強く握り直す。神秘の使い手として生まれた以上、自分たちがこの国を、民を、守らなければならないのだ。
はじまりは、約八十年前に滅びた保護区『花の都』に降ってきたものだったと言う。
それを皮切りに、それらは続々と空から降ってくるようになった。この世のものとは思えぬ形をした黒光りする体、悍ましく輝く黄色い眼。様々な姿をしているそれらに共通するのは人間を襲うということと、魔法でしか倒せないということの二つ。
空からやって来るそれは年々数を増やし、今ではほぼ毎夜黒い空から降ってくる。
この国は、この厄災を『魔物』と呼称し、対抗できる人間である魔導士をかき集め、対魔物国防組織『教会』を結成。国の各所に拠点を置いて日々、夜の見回りを行い、魔物が降ってくれば戦って倒す。そうして民を守ることを決めたのだった。
彼女は『教会』の中でも力の強い魔導士である。それ故に『聖女』の名で呼ばれており、国の心臓たる王都の防衛を行う『教会』の本拠地『青月大聖堂』の所属である。
神も信仰もない国防組織なのに聖女とは、と思いはしたが民衆はこうした名に心の拠り所を求めるものだと教えられた。それで、取り敢えずは納得することにしている。
強化繊維で作られた服を纏い、魔法の威力を底上げする杖を手にして、夜になったら幾人かの部下を率いて街中を見回る。朝は、夜間に集められた討伐記録を取りまとめて敵についての研究を進める部門に提出。自分用にも複写をしておいて戦い方の研究を続けている。
昼頃にようやく眠りについて、しばらく休息を取るが、日照時間の短い冬季はあまり長く眠っていられない。日が翳れば、あれらは容赦なく空から降ってくるから。
魔物の襲来により、約八十年前に絶頂期を迎えていた魔導科学は消滅の寸前まで追い詰められてしまった。その頃の技術がもう少し残っていれば対処の仕方も違っただろう。
無い物ねだりをしても仕方がないのだが、伝え聞く情報や、僅かに残る魔導科学の遺物を知る度に「それが今あれば」と思わずにはいられないのだった。
「おそよう、聖女サマ」
「……こんばんは、聖騎士殿」
「一日くらい休めば? 疲れた顔してるよ」
「私は『教会』の主要戦力の一人。休んでいられません」
「オレ含めてもう二人いんだよ? オレも聖戦士サンも頑張るしさ」
「王都防衛には三人の主要戦力が必須です。お二人も休んでいないでしょう」
「……このところ多いしね」
艶々した金色の巻き髪をくしゃり、と掻き混ぜた聖騎士は「困っちゃうよねぇ」と言って苦笑した。
対魔物国防組織『教会』の本拠地たる『青月大聖堂』に属する防衛の要は三人。聖騎士と呼ばれる魔導剣士の彼と聖戦士と呼ばれる魔導戦士の少女、そして聖女の名を関する彼女。
決して狭くはない王都を、彼らは三分割して夜警と防衛を行っている。誰か一人が欠けたらその地区の防衛力はがくっと下がってしまうのだ。きっと、聖騎士もそれは理解している。その上で彼女を気遣う声をかけたのだろう。一番働き詰めなのが、彼女だから。
「せめて、正体が分かればと思いますが……」
「空から来るからどの国も観測機は動かしてるみたいだけどね」
二人は揃って溜め息をつき、日の暮れ始めた空を見上げる。きっと今宵も変わらず、魔物が降ってくるだろう。主要戦力三人と僅か三十人の魔導士で、何とか王都を守りきることができるのはいったいいつまでだろうか。
「さ、夜が来るよ。うんざりするけどね」
「ええ、行きましょう」
何もかも先行き不透明なこの日々を、彼女はそれでも全力で駆けていくと決めていた。自分の命に代えてもこの国を守りたいのだ。ここは、異端者と謗られた自分を迎え入れ、居場所と仲間を与えてくれた国だから。
黒光りする翼を広げた魔物が、黄色い目をぎらぎらと輝かせながら石畳に降り立つ。身の丈以上に長い尾を揺らして、異様に長い首を左右へと傾げながら「キキキキキ」と金属を軋らせるような鳴き声を上げている。生き物のような仕草をするものの、その体を腑分けしてみると全くもって生き物とは言い難いデタラメな内部構造をしているのだ。
三年、彼女はこれと戦い続けている。
研究の結果、今のところ一番有効なのは火の魔法だ。火が効く、というと古い文献にある魔物と同じだが、空から来るあれらは古代この地にいたという魔物とは全くの別物。彼らには血肉があったとされ、あれらには心臓すらない。
握り締めた杖は銀を芯に据え、トネリコで覆った長杖。先端に水入水晶の大玉を取り付けており、杖全体で彼女の持つ魔法の力を増幅する役割を負っている。
「いくら来ようとも、私は負けません」
白銀の双眸が魔物を真っ直ぐ射貫く。吹き抜ける風が青みを帯びた銀の髪を揺らした。杖を振る動作につられて水晶の中の水泡が、ぽこ、と透明な玉の中で動く。
そこに宿る彼女の魔力を魔物の黄色い眼がじっと眺め、ふっと風の止んだ瞬間に長い爪が生えた足が石畳を蹴った。
振りかぶられた前足を躱し、三歩下がって杖を振る。全身を巡る魔力を手から杖へ。言霊が放たれることはなく、豊かな魔力と強固なイマジネーションが結び付き、水晶玉から白い炎が溢れ出した。
魔物の黒い体を白炎が包み込む。確かにその光景は、神聖な炎で魔の物を浄化するかのようで聖女の呼び名に相応しい姿に見えた。
悲鳴も上げず、体が崩れるのも構わず向かってくる魔物を見据え、聖女と呼ばれる少女は静かに杖を構え続けている。潤沢な魔力をつぎ込まれて溢れる炎に照らされ、その白銀の瞳は月より明るい光を灯していた。
(……お前たちは、何のためにこの地にやって来るのですか。胃袋も無い身で、何のために人を喰らうのですか)
訊いたところで答えは返ってこない。分かりきっているからこそ、彼女は心の中で問うにとどめる。その答えは、いつか自分で見つけ出すのだ。
魔物が焼け果て、炭と化してからようやく彼女の魔法が止まる。
夜の市街地を明るく照らしていた白炎がふっと消えて、寝静まった石畳の街にまた夜色の静寂が降りる。風が魔物の死骸を粉にして吹きさらっていった。
(……この戦いに終わりはあるのでしょうか)
ふと、そんなことを考えてしまって。
――死角から飛び降りてきた魔物への反応が遅れた。
「っ……!!」
咄嗟に杖身を魔物と己との間に差し込む。降下の勢いのまま彼女を石畳へ押し倒した魔物の牙がガギッと杖の柄を噛む。尖った爪の生えた前足が杖を握る彼女の手に触れた。そのまま押し込まれてトネリコの杖身と手の骨がみしみしと軋む。
(っ、夜警の最中に集中を切らすなんて……!)
魔力を巡らし、白炎へ――魔法発動のその瞬間に、魔物が彼女を嘲笑うかのようにキキキキキッと喉を鳴らした。何を、と考える間も無くその理由を悟る――魔法が発動しない!
「そんな、っく……!」
何故、なんて考えている暇はない。魔法が使えない以上、どうにかしてこの魔物を倒さなければ死ぬのは自分だ。ぐぐぐ、と杖を押し込まれながら必死に思考を回す。何か、何か手は。
「――何だか“君”は、いつも死と隣り合わせだね」
柔らかな男の声が降ってきて、両腕にかかる重みがふっと消えた。瞬きの間に魔物が姿を消している。それに気づいた直後左側から轟音がして、見れば通り沿いの建物に魔物が突っ込んでもうもうと砂埃を撒き散らしていた。
「――やあ、いい夜だね」
そうして音もなくいつの間にか傍らに立っていた黒衣の青年は、淡く微笑みながら彼女へ向けて手を差し出した。
「立てる? 怪我はしていない?」
「は、はい……」
「良かった、僕はいつも出遅れてしまうから」
困惑した様子の彼女の手をとり、優しく引き寄せるようにして立つのを助けた彼はそんなふうに言って自嘲するような顔をした。雲間から差し込んだ月光がその瞳の人間離れした柘榴色を艶めかせる。
「あ、あの、貴方は一体……?」
「君を迎えに。でも、きっと今回の君も頷いてはくれないよね」
「その、ごめんなさい、何のことか……」
「いいんだ、こっちの話だから」
青年は困ったように苦笑して、直後瓦礫の崩れる音を聞いて視線を凍てつかせた。つられるように同じ方を見れば、状況からして彼が吹き飛ばしたであろう先程の魔物が、建物の外壁に空いた穴から石片をぱらぱらと落としながら這い出てくるところだった。
「キキキキキ……」
「思ったより頑丈だな」
異音を鳴らしながら立ち上がる魔物を、青年は悠然と小首を傾げて睥睨する。そんな彼の前へ進み出て、彼女は杖を構え直した。トネリコの柄に走った僅かな亀裂から魔力が微量漏出する気配はあるがまだ使える。
「下がってください、あれには魔法しか……」
「うん、知ってる。君たち人間が戦うには魔法しかない」
「え……?」
思わず振り返った彼女の華奢な肩にそっと手を置いて自然に二人の位置を入れ換えながら、青年はビスクドールの白皙に柔らかな表情を浮かべた。
「それと、あれに触れてしまうと体内の魔力の流れが狂って一時的に魔法が使えなくなるから気をつけて。さっきのはそういうことだよ」
「それ、は」
「ここは僕に任せて。君をほんの少しであっても危険にさらしたくないんだ」
「ま、待って……!!」
手を伸ばしたが、止める間も無く青年は魔物の方へ駆けていってしまった。靴音すら鳴らない足運びで魔物の目の前まで。顔を上げた魔物が前足を動かす前に、すらりと持ち上がった彼の足が魔物の頭を蹴り飛ばした。
凄まじい蹴りを食らって頭の黒い外殻が砕け散り、そのまま首から引きちぎられて飛び、石畳の上を数回跳ね転がってから粉になる。残された体は頭が粉になったその瞬間に石化したかのように停止し、追いかけるようにさらさらと崩れた。
その様子を、中途半端に杖を構えたままの彼女は呆然と眺めていた。優秀な頭脳が混乱の最中でも何とか働いて現状の分析を始めている。
(魔物を、魔法無しに倒せる存在)
人とは思えぬ脚力、振り返って優しく細められた柘榴の瞳に爛々と光る瞳孔。どこか浮世離れしたモノトーンの美貌は、人間がこの状況に遭遇して浮かべられるものとは思えぬほど穏やかな表情をしていて――
(――間違いない。これこそ、本物の魔物)
彼女は半ば無意識に杖を強く握り締めた。こちらへ向けて悠々と歩いてくる黒衣の魔物を見つめて、一つの考えが浮上する。
(何故か私に友好的な彼を、戦力にできたら)
古代の魔物、王都の防衛戦力、日ごとじわじわと追い詰められていくような戦況、人外との契約、魔の物からの好意――思考を巡らせて、彼女は即座に決意した。
(彼を、人ならざるものを、利用する覚悟)
たとえこの身の何を差し出すことになったとしても。
(守るべき、この国のために)
ついさっきまで混乱に揺らいでいた白銀の双眸が、すっと銀刃にも似た輝きを宿す。顔を上げた彼女のそんな表情を見て、黒衣の魔物は楽しそうに微笑みを深めた。
「何かを決心したときの“君”の顔、やっぱり好きだな」
人一人分の距離までやってきて足を止めた彼はそう言ってゆぅるりと小首を傾げる。血の色にも見える柘榴の瞳が、彼女を透かして遠くの誰かを見ているのが分かった。
「それで、君は僕に何を望むのかな」
「……私に力を、貸していただけますか」
魂を取られる契約だとしても構わない。
「この国を、民を、守るために」
「――うん、君がそう望むなら」
黒衣の魔物はこっくりと頷いて彼女の右手をすっと持ち上げる。白い指の背に、冷たい唇が静謐な口づけを落とした。
「代わりに、全てが終わったら僕と来て」
「ええ、約束します」
柘榴の双眸がきゅ、と嬉しそうな弧を描く。
「君のために力を尽くすよ」
「よろしくお願いします」
頷いた彼女に、黒衣の魔物が「僕のことは好きに呼んで」と告げる。その顔を見上げたまましばし考え込んだ彼女は「では柘榴の君と」とほんの少し目を細めた。近頃張りつめてばかりいた彼女なりの微笑みだった。




