第四夜.緑の瞳の娼婦 後編
それからと言うもの、彼はかなりの頻度――いや、ほぼ毎日娼館『マルガリタリ』を訪れ、白百合の待つ北の塔へやって来た。女将は毎晩売上を確認しては気分を良くし、上機嫌な日はおやつに全員分のショコラを買ってきてくれるほどだった。
「わーっ、お、おいしい……!!」
「生まれて初めて食べた……」
「あの時お客に貰ったのは安物だったのね……落ち込むわ……凄く美味しい……」
娼婦たちはわいわいきゃいきゃいと普段は食べられない高級なおやつに舌鼓を打った。それを長椅子に寝そべって眺めながら、白百合は楽しそうにころころと笑っている。彼女は妹たちが楽しそうにしているのを見るのが一等好きなのだ。
「姉さんのお客様々だわね」
「全てのお客がああであれ……!」
「しかも信じられないくらい格好いいよね」
「どこかの役者さんだったりするのかしら」
人ならざる彼は、エントランスを見下ろす二階と三階から手を振る彼女たちに、他の客のような下卑た視線を送らず、白百合の妹たちだからと静かに微笑んで会釈するものだから「きゃーっ、見て、紳士よ!」「絶滅何たら種よ!!」と大騒ぎされていた。
「何者なのかしら……」
「姉さんは知ってる??」
「確かに、姉さんのお客のことは姉さんに訊くのが一番よね!!」
突然水を向けられた白百合ははたはたと長いまつ毛に縁取られた目を瞬いて、それからゆぅるりと甘く微笑んだ。
「くふふ、だめよ。それはひみつ」
その「ひみつ」の甘いことと言ったら! 妹たちはきゃーきゃー騒いで頬を赤くした。姉さんが秘密と言ったならそれは絶対の秘密なのである。
きっと姉さんにだけは話してるのよ、なんて囁き合ってはきゃいきゃい言う妹たち。あの美しい男が人ならざる者だなんてとても言えないけれど、ただの秘密を甘美なものにすり替えるのは彼女の十八番。妹たちに害が及ばず、妹たちが楽しければそれでいいのだった。
そこへ女将がやって来て手に持ったものを白百合に差し出す。
「白百合、手紙だよ」
「あら、どなたから?」
「伯爵家のボンボンからだ。あいつも金払いがいいんだ、逃がすんじゃないよ」
「くふふ」
娼婦宛の手紙は娼館の女将が受け取り、仕分けの後に中を改められ、女将の判断で渡しても問題ないとされたものだけが娼婦の手元に届くようになっている。届くのは金払いのいい上客からの愛の言葉がほとんどで、それに対してどんなふうに客を引き寄せる返信を書くかに娼婦の教養が試されるのだ。
近頃、あの人ならざる彼が誰より高値をつけて白百合の夜を買い上げるため、他の常連たちは「恋しい」「会いたい」と、そんな手紙を書いて寄越す。白百合はいつも通りに「私も会いたい」といった旨の返事をしたためるのだ。会いたければ、それに見合うだけの対価を支払ってね、と匂わせて。魔物によって際限なく吊り上げられていく値に、彼らが破滅覚悟でついてくれば、白百合は勿論彼らにそれに見合う夜を提供する。ただ、それだけだ。
「――あなたが私の値を吊り上げるから、他のお客様が拗ねてしまっていてよ」
「もう他の人間に、君に触れることを許す気はない」
「くふふ、そう。なら頑張って私の一夜を捕まえ続けてちょうだいね」
陶器のような白皙の横顔をするりと指先でくすぐれば、柘榴の瞳がちらと横目で白百合を窺う。可愛いひと、独占を続けることを拒まれやしないかと怯えているのね、と彼女は静かに微笑んだ。
「大丈夫、捕まえられているうちは、ちゃんとあなただけのものだから」
白い頬にキスを落として、白百合はくすくすと小さく笑う。
「……僕と、来てはくれないの」
「それはだめ」
「……何故」
「くふふ、可愛いお顔だこと」
拗ねたような表情をした彼をからかうように微笑んで、白百合は「そうねぇ」と呟いた。
「あなたが欲しいのは“白百合”でなく“私”だから、教えてあげてもいいかしら」
「……?」
どこか幼い仕草で小首を傾げた魔物の手を引いて、夜のような静謐な香りのする彼に身を寄せながら寝台に腰かける。
「この『マルガリタリ』の娼婦たちはね、そのほとんどが戦争孤児なの。私もそう、飢え死ぬところを女将に拾われて、衣食住と教育を与えられて、今日まで生きてきた」
今でこそ華やかに栄える姿を見せているこの国であるが、十数年前は国土のほとんどを戦火に焼かれていた。都にすら敵国の兵が踏み込んだ敗色濃厚な状況から、見事戦況をひっくり返した現国王は勝利王と讃えられている。だが、勿論その鮮烈なる勝利の栄光が生んだ影には数多の死者と、家族を失った者たちがいるのだ。白百合は、そんな影の側の子供だった。
「この店は、元々そんなに上等な娼館ではないのは知っている? 今、妹たちが飢えずにいられるのは私がいるから。一夜に千金を稼ぐ私がいなきゃ、『マルガリタリ』はたちまちのうちにこの華やぎを失うわ」
娼館の経営は何をおいても金がかかる。どの店でも女将が「守銭奴」と呼ばれるほどにがめつくなる一因は、自分が抱える娼婦たちを飢えさせまい、という女将のプライドである。
「私は、私の信念をもってこの店を守る。だって私は妹たちが大好きで、女将のことも大好きだから」
愛してる、と息をするように囁く女の唇からこぼれた「大好き」という言葉は、この世のどんな愛の言葉より真摯で誠実な音に聞こえた。
「だからだめなの。分かった?」
「……“君”はいつも、僕が会いに行く前にたくさんの大切なものを抱えてしまうね」
「くふふ。あなたの見ている“私”は随分身勝手な女ね」
「君もだよ」
「あらあら」
柘榴の双眸を剣呑にひそめた彼の両足の間に膝をついて、悪戯っぽく翠の目を細めながらその白皙を見下ろした白百合は「怒っちゃいやよ」と微笑んだ。
「これ以上お話ししたらもっと怒らせてしまうかしら」
「君が相変わらず勝手だから……」
「くふふ。じゃあ勝手な私のこの口を塞いでくださる?」
「っ、君ってひとは……!!」
眦を紅くした彼は、白百合の華奢な体を引き寄せて寝台に引き倒した。柔らかなそこに転がされた彼女はころころと楽しそうに笑い声を上げる。こんなふうに乱暴を装っても、結局この人ならざる者は彼女を傷つけないよう慎重に振る舞って、挙げ句高級娼婦の一夜を独占しておきながらその柔肌を暴くことなく、隣に寝転んで過ごすだけで充分満足らしい。
「キスしてくれないの」
「……してほしいの?」
「そうねぇ」
「…………意地悪」
「くふふっ、可愛いこと」
して頂戴な、と白百合が微笑んだら簡単にくらくらと酔わされてしまう彼はもう抗えないのだった。
――――――
「――全てお断りしてちょうだいな、女将」
「とは言ってもね、白百合」
「どんな破格の身請け金と言っても、私がこの先稼ぐお金の方が多いはずよ」
「そりゃそうさ。だが相手はあんたの常連たちだよ、断りきれるかねぇ」
「私からもお断りを入れるわ。だから、勝手に決めたりしちゃいやよ、女将」
「はいよ」
どうしたもんかね、と呟きながら自室へ向かう女将の背を眺めながら、白百合は細く溜め息をついた。表情を抑え、長いまつ毛をそっと伏せて黙考していると、一夜千金の華が鳴りをひそめ、憂いを帯びた退廃的な美が匂い立つかのようだった。
身請け。それは娼婦を妻、あるいは愛妾に迎える行為。その娼婦が将来稼ぐであろう金を考慮しての凄まじい額の身請け金を払える者だけが叶えられる道楽。
白百合ほどの高級娼婦であれば、大店の旦那の妻に迎えられることも珍しくない。何せ、それに足る教養と美貌を持ち合わせているからだ。
いずれは身請けの声がかかるだろう、とは白百合も分かっていた。そして、端から断る気でいた。この『マルガリタリ』の稼ぎ頭は自分である。身請けされずに、将来は女将を継ぐのもいいと思っていたし、身請けされるにしてもせめて、次に娼館を支えられるだけの妹が育つまではと考えていた。
今、白百合の予想より早く身請けの話が持ち上がった理由はよく理解している。
人ならざる彼が白百合の夜を捕まえ続け、それによって彼女の値を際限なく吊り上げ続けているからだ。それで白百合に会えなくなった常連たちが痺れを切らし、長らく牽制し合っていた状況を破って身請けの話を持ち出したのだろう。
白百合の馴染みの常連客たち四人はその財産も身分も、白百合を身請けするに充分なものを持っているのだ。それは、四人で競い合って身請け金を上げていっても問題ない、ということを意味する。断るのは至難の技だ。
「……ふ、儘ならないものね」
彼女はふっと静かに自嘲した。それは、魔性の一夜千金とは違う、彼女本来の諦念を帯びた吐息であった。
ゆっくりと身を起こし、ドレスの裾を引きながらバルコニーへ向かった。窓の外は夕暮れ。そろそろ夜が来るから、入浴を終えた妹たちが化粧室で出入りの美容師に髪を巻いてもらっている頃だろう。きゃあきゃあと騒がしい様子を想像して、暗い表情が少しだけ和らいだ。
手摺に肘をのせて頬杖をつく。今日は道を眺めて集客する気が湧かなかった。どうせ、こうしているだけでふと自分を見上げた人間が勝手に釣られてくれるだろうし。
きっと今夜も彼が来る。人ならざる者のくせに変に素直で真っ直ぐで、女を買うには一途で初すぎる彼が。
「……絆されてなんて、ないわ」
だって私は一夜千金の白百合ですもの、と。彼女は物憂げに囁いて目を閉じた。毒花は死ぬまで毒花でいなければ。
それが、彼女の価値なのだから。
嗚呼、誰かに見つめられているような気もするけれど支度をしなきゃ。とっぷりと欲深い、千金の夜がやって来る。
「……具合でも悪い?」
「あらなぁに、藪から棒に」
「いや……何だか元気がなさそうだったから」
彼の指先が彼女の頬を労るように撫でる。嗚呼、だから困るのだ。人の心を読むのに長けた娼婦だからこそ白百合には分かってしまう。その純粋な優しさが、夜に浸った身には眩しすぎるのだ。魔物のくせに、と心の中でらしくなく毒づいてみてもどことなく覇気がない。
「くふふ。私、あなたに甘えてしまっているみたいね。弱っているところを見せてしまうなんて娼婦失格だわ」
「はぐらかさないで。何かあった?」
「……だめよ、娼婦の心の中まで見ようとしちゃあ」
翠玉の瞳がふぃ、とそらされる。追いかけるように動いた彼の手が、寝台の上に投げ出された彼女の手に触れ、指を絡めた。冷たい手だ、血の通わない魔物の手。彼女を決して傷つけない、一夜千金の仮面を剥いでしまいそうな優しい手だ。
「僕が、“君”の変化に気づかないと思う?」
「……あなたが何であれ“私”にも、気づいてほしくないことはきっとあるわ」
「ねぇ、お願い、こっちを見て」
「……なぁに」
「拐ってあげようか」
一夜千金の高級娼婦なら絶対しない表情で、ちらと横目で見やった先の彼はどこまでも真剣な顔をしてそう言った。血の通わぬ白皙の中に鮮やかな柘榴の双眸は、いっそうんざりするほど真摯だ。
「……私の承諾が欲しいのね。ふ、魔物らしいこと」
「……そうだよ、僕は、君に選んでもらわなきゃ君を拐うことすらできないんだ。だから――」
「だめ。前にも言ったわ。私は『マルガリタリ』を、妹たちを守りたいの」
「……っ! それを聞いて僕が、君の大事な妹たちもろともこの娼館を破壊するかもとは考えないのか……?!」
「ふふ、しないくせに」
「~~ッ!! 君ってひとは本当に……!!」
眦に朱を浮かべて怒りの形相をした彼のタイを掴まえて引き寄せ、白百合はその口を塞いでしまった。今日は、これ以上話していたら駄目になってしまいそうだったから。
「静かにしてちょうだいな、可愛いひと。これ以上私を惑わさないで」
その夜はそれきり、白百合も彼も一言も話さなかった。娼館の絢爛たる一夜だと言うのに客も娼婦も沈んだ顔をして、互いに背を向けながら寝台に横たわっていた。
白百合は、彼によって諦念に満ちていた己を癒され、絆されてしまった事実を苦々しく噛み潰していたし、人ならざる男は白百合が囚われている儘ならないこの状況に絶望していた。
(ねぇ、どうしてそんなに優しいの。あなたがもっと血も涙もない魔物であったなら、きっと私、一夜千金の白百合のままでいられたのに……)
(君は、どうしたら僕の手をとってくれる? それともやっぱり、僕は、“僕”は……“君”を助けられない運命にあるとでも言うのか……?)
二人は背を向け合ったまま「嗚呼、救いようがないな」と、同じことを思いながら悼むように瞑目した。
――――――
妹たちのはしゃぐ声で、白百合はハッと目を開けた。昼間の、いつもの定位置で、いつの間にか眠ってしまっていたらしい。睡眠は充分にとれているはずなのに。
原因はよく分かっていた。心が、疲れきってしまったのだ。マルガリタリと芽生えてしまった愛との間で揺れてばかりの最近だから。
長椅子の真ん中に座り直し、額に手をやって小さく溜め息をつく。そこへ近づいてくる足音が一つ、二つ。
「姉さん、最近大丈夫?」
「顔色が良くないよ……?」
「……あぁ、オパリ、スフェラ。ええ、うん、大丈夫よ。問題ないわ」
「でも……」
「……身請けのお話のせい?」
「ちょ、スフェラ!」
「だって、その話が出てから姉さんは疲れた顔ばっかりしてるもん……!」
「……ふ、優しい妹がいて私は幸せね」
苦笑した白百合は、いらっしゃい、と二人を引き寄せて自分の両側へそれぞれ座らせた。
「昨晩、クシフォス様がね、直談判にいらっしゃったでしょう。私はお会いしなかったけれど……」
「あの伯爵家のね。あたしあの人嫌い、地に足ついてない感じで」
「ふふ、手厳しいこと。それで、いくらでも払うからこの場で白百合を身請けしたいって、女将に言ったそうなの」
もう、娼館街を出た外ですら、今国で一番有名な高級娼婦の身請け話が人々の話題に上がるほどらしい。自分には関係なくとも、とんでもない巨額が動くのに人間は敏感なのだ。
それで更なる身請け希望者が出ては敵わないと考えでもしたのだろう。伯爵家の放蕩息子はかなりの財産を好きにすることを実家に許されているようだが過去には高級娼婦を後宮に迎えた国王もいた。話題になることで自分以上の金持ちが興味をもって動くことを恐れたのかもしれない。
「勿論、娼館のルールの上で許されることではないから女将は断ってくれたみたい。けれどどうしても、憂鬱にはなるもの」
「そっか……」
悲しげな顔をしたスフェラが労るように白百合の手を握る。その反対側で、沈痛な面持ちをしたオパリが「もしも」と口を開いた。
「姉さんは、あたしたちの内の誰かが姉さんみたいに立派になったら、自由に、なれる?」
寂しそうな、けれどどこか強い意志を感じさせる声色だった。白百合は、可愛い妹のそんな声を聞くのが初めてで、思わずその緑の目を丸くする。
「オパリ……」
「だって、姉さんは『マルガリタリ』を守るために、あたしたちを守るために、ここに居続けようとしてるんだよね?」
「それ、は……」
「あたしバカだけど、それくらい分かるよ。姉さんが、あたしたちのこと、とっても愛してくれてることも」
「わたしも知ってる、姉さんはわたしたちを一番に思ってくれてるってこと」
白百合は何か言おうと唇を震わせて、結局何も言えずに口を閉じる。そのまま薄紅の唇は淡い弧を描き、困ったような、愛おしいものを見るような、そんな苦笑を浮かべた。
「……ありがとう、オパリ、スフェラ。そうね、あなたたちは、あなたたち自身が思うより聡明ですもの。言う通りよ、私は『マルガリタリ』を、あなたたちを守りたいから、誰のものにもならないの」
姉さん、とスフェラが白百合の肩に頬を寄せる。いつの間にか、周りで話を聞いていた妹たちも神妙な顔をして黙っていた。
「あのね、姉さん。きっとやだろうからごめんねは言わないけど、あたしたち、姉さんにも幸せになってほしいよ」
「わたしももっと頑張るし、皆も姉さんのためなら頑張れる。きっとやっていけるよ、だから、だから……」
にぎ、と白百合の手を握って、オパリとスフェラはそう言い募った。今なら、あの好青年がいる。正体不明でも、彼ならきっと、皆の大好きな姉さんを大事にしてくれるはずだから。
そんな妹たちの心をきちんと察して、白百合は眉尻を下げた。
妹たちの気持ちは痛いほど切実な響きで、白百合の胸を打つ。きっと妹たちも理解していることだろう、自分たちでは無理だと。白百合の魔性は天性の才だ。
だから白百合はただ静かに微笑んで、妹たちを優しく宥める。華奢な肩を撫でて「ありがとう、二人とも」と囁いた。
――その時、不意に慌ただしい足音が近づいてきて、広間の扉が乱暴に開かれた。
「っ、姉さんっ、皆っ!! 一階で火が!!」
その言葉の意味を悟った白百合は翠玉の目を見開いてすぐに立ち上がる。
「皆、火事よ! ほら立って、慌てずに逃げるのよ!」
「か、火事?!」
「何で、食堂は一階じゃないのに……!」
ざわめく妹たちを連れ、白百合は広間を飛び出した。飛び出した先の廊下で、手摺を掴んで階下を覗き込む――火の巡りが異様に早い。
(ただの火事ではないかもしれない)
階下では女将があれこれと指示を飛ばしており、水を被った妹たちやメイドたちが勝手口を目指しているのだろう、ぞろぞろと列をなして走っていく。取り敢えず一階は心配ない。
建物を舐め上げる火の色と熱に、幼い頃の記憶が疼くのを覚えつつ、白百合は手洗い場に駆け込んで桶に水を汲んで妹たちの元へ戻る。
近い者から順に頭から水をかけ「階段を下りて! 煙を吸い込まないように手巾を当てるのよ」と背中を押していく。白百合の意図を察した者が同じように動き出す。
姉さんは、と狼狽える者に笑いかけて「平気よ、あなたたちが優先に決まってるわ」と肩を叩いた。あの火の様子ではもう消火は間に合わない。避難は時間との勝負になる。
「オパリが先導してくれる、あの子は目敏いからその後をついていけば大丈夫。いいわね」
「ほら急いで、私も必ず合流するから」
「ザフィリ、髪は纏めなさい、危ないわ。このリボンを貸してあげるから」
「泣くのはあとよ、グラナテ。大丈夫、これはあの時の火とは違うのだから、ね?」
広間で寛いでいた妹たちを全員濡れ鼠にして送り出すまでに、火は柱を這い上がってすぐそこまで来ていた。その赤が、都を、家族を、焼いた戦火に重なる。
けほ、と咳き込みながら首を振った白百合は自分も水を被ろうとして、ふと階下から「姉さん逃げて!!」と叫ぶ声を聞いた。直後、視界の端に人影を捉えて振り返る。
「――酷い女だな、白百合」
「……あら、こんな火の中でどちら様かしら」
この都では何ら珍しくない浮浪者。だが今ここにいるのは不自然だ。娼館は開店前の時間だったし、この見てくれの人間をエントランスの係員は中に入れない。白百合の聡明な頭がすぐに真実を導き出す。
「私に会うために火をつけたのね。文字通り、熱烈だこと」
「あ、あはは、やはり、やはり覚えてないのか、あんなに愛し合ったのに……!!」
「会ったときから随分変わってしまったみたいなんだもの」
白百合の頬に焦燥の汗が一筋流れる。口ぶりからして、一夜の夢を買って破滅した人間の内の一人だろう。狂気に陥って、店に火を放つとは……恐ろしいことだ。
「しかも、っみ、身請けされると言うじゃないか!! 酷いぞ、この売女っ、私を騙したんだな!!」
「落ち着いて、このままじゃお互い火に巻かれて死んでしまうわよ」
「それが何だ! 構うものか、私にはもう何もない!! それならせめて、お前を連れて死んでやる!!」
「っ……!!」
垢で汚れた手に握られた、自分の腹くらい簡単に刺し貫けそうな刃物を見て、白百合はパッと身を翻した。
広間に飛び込み、バルコニーへ。ここは三階だ、飛び降りたって命はないだろう。だが狂気に呑まれた男と火とが、目前には待ち構えているのだ。どちらがマシかは分かりきっていた。
(皆、無事かしら。私のせいだもの、誰か一人でも助からなかったら、私は……)
館を建て直すにはどれくらいの資金がいるだろうか。その間、妹たちは、自分は、どこに身を置くことになるのだろうか。自分がさっさと身請けされていれば、こんなことは起こらなかっただろうか。
白百合の細い手がバルコニーの手摺を掴む。同時に、追いついた浮浪者の手が翻った亜麻色の長髪を掴んだ。
「私と共に死んでくれ、白百合」
「あ……」
心臓を刺し貫かれるのは、痛いと言うより熱いのだと、白百合は――“彼女”は、不意に“あの時のこと”を思い出した。
ぐっ、と念を押すように更に押し込まれた刃が白い肌を後ろから破り、アイボリーのドレスに穴を空け、その白を赤く染め上げる。
(あんなふうに迎えを寄越して……きっと寂しいのね、確かにそういうひとだったもの、“貴方”は)
熱の次にやって来た激痛に呻き、淡紅の唇から赤い血を溢しながらも、白百合は最期の意地で男を振り払い、手摺に飛びついた。
「――ごめんなさい。また、“貴方”を置いていってしまうわ」
身を、投げる。下からどよめきと悲鳴が聞こえて、白百合は目を閉じた。
(まだ、まだ死んでは駄目。私は一夜千金の毒花、こんなふうに殺されてたまるものですか)
全身が強く叩きつけられたその瞬間、例えようのない激痛と共に安堵を覚えて、都一番の高級娼婦はその命を手放した。血に汚れた死に顔すらも、手折られた白百合のように儚く、美しかったという。
群がる野次馬を押し退け、突き飛ばし、彼はようやくそこに辿り着いた。
燃え上がる娼館、その前で咽び泣く若い娼婦たちと、彼女たちに抱きかかえられた美しい死体。流れ出た赤と、冷たくなっていく白い肌。
「そん、な……」
がくり、と崩れ落ちるように膝をつく。動いていない心臓が締め付けられるように痛い。目に見えるものが、信じられなかった。
「どうして……!」
いつも、“彼女”の命は“彼”の手からこぼれ落ちていく。どんなに手を伸ばしても、運命が嘲笑うかのように、“彼”の目の離れた刹那に“彼女”を拐っていってしまうのだ。
偽物の魂がひび割れていく。嗚呼また、叶えられなかった。
彼はゆっくりと立ち上がり、ふらり、ふらりと歩き出した。もうあの翠玉が彼を見て微笑むことはないのだから、戻らなくては。そしてもう、彼が“彼女”を探しに出ることはないだろう。次の“彼”が「今度こそ」と旅立つはずだ。
彼は陰る石畳の道を歩き、ゆっくりと日陰に溶けるようにして、それきり振り返ることはなかった。
次章『花の都の魔女』来週土曜、前編投稿です。