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第三夜.緑の瞳の娼婦 前編

 男は、とっぷりと重い闇で満ちた牢獄の前に膝をつき、項垂れていた。


「――役立たず」


 闇の中から怨嗟にまみれた声がする。項垂れた男はビクッと肩を揺らし、怯えた顔で牢の中を見上げた。白い頬に血涙を伝わせ始めた柘榴の瞳が、じわり、じわりと色を失っていく。


「何故、彼女が死ななきゃいけなかった?」


 隠しきれない渇望が滲む音が響く度、項垂れた男の、動いていない心臓がギリギリと締め上げられた。その痛みに声もなく呻く彼を、闇の中のものがじっと見下ろしている。


「何のためにお前を作ったと思っている?」


 カン、と苛立ちを滲ませる硬い音が牢の中から響いた。


 その直後、操り人形が糸を切られたかのような唐突さで男が倒れる。呻き声も、ぱったりと止んだ。そしてその体が、纏っている服ごと真っ黒な液体に変わる。そのまま、この世のものとは思えぬそれは染みになり、彼の心臓の辺りにきらりと紅く光るものが残った。


 それは、スーッとひとりでに動いて牢獄の鉄格子の間を抜け、闇の中に消えていく。


「……なんで、僕を選んでくれないの」


 ぽつりと、寂しく哀しげな声が闇の中から溢れた。そしてそれきり、また牢獄には沈黙が降りた。





――――――





 とびっきり綺麗な月夜に、それは突然彼女の前に現れた。


「――やあ、会いたかったよ」

「お客様ならエントランスから来てちょうだいお馬鹿さん。お金を払わない人は嫌いよ」

「へっ?!」


 窓辺に降り立った夜より美しい男を、彼女は何の容赦もなく蹴り出した。男がきょとんとした顔のまま窓の向こうへ転がり落ちていったのを見届けて窓を閉める。


最上階ここまで登ってくるだなんて、凄い人もいるものね」


 さあ、お客様が来る時間だ。今宵も値千金の夢を見せ、この店を守らなければ。


 艶やかな亜麻色の髪はそのまま背に流し、瞳と同じ翠玉エメラルドを耳朶に飾って彼女は部屋を出た。







 この華やぐ都に娼館は数多あれど、今最も名の知れた娼館はここ『マルガリタリ』だ。壮麗なエントランスをくぐると広がる瀟洒な一階ホール、そこから繋がる二階、三階の部屋で三十人の娼婦が客を待っている。館の北側、ぽつんと飛び出た塔はその瞬間娼館内で最高級の名を持つ女の住まいと決まっていた。


 そんな『マルガリタリ』の名を一気に広めたのは、現在の塔の女主人。白百合の異名で知られる翠玉(エメラルド)の瞳の高級娼婦である。


「なぁ、白百合。お前は罪な女だなぁ」

「くふふ、なぁに、急にそんなこと言って」

「誰のものにもならず、誰の心をも掴んで離さない。これが罪と言わず何だと言うんだ」

「そんな私が好きなくせに」

「この悪女め、堪らんなぁ」


 小首を傾げて微笑んだ白百合に、常連の男はくつくつと喉を鳴らし、その陶器のようにすべらかな頬を撫でた。橙色の薄明かりが彼女の象徴とも言える耳朶の翠玉(エメラルド)をとろりと艶めかせ、同色の瞳に宿る感情を分かりにくくする。


「私は皆が好きなだけよ。くふふ、だから誰か一人を選べないの」

「よく言う。何より高い毒花であるくせに」


 白百合のもう一つの異名は一夜千金。彼女と一夜を過ごすには千金と言える大金がいり、それを払って過ごすことができる一夜には文字通り値千金の価値がある。そういう名だ。

 故に、常連となれる客もそれだけの金を払うことができる者だけに限られる。この男の他にはあと三人。大商家の当主、伯爵家の放蕩息子に世界を飛び回る宝石商。彼ら以外は皆、一生に一度の思い出のために金を掻き集め、一夜の夢の後で破滅していく。


 だから、白百合は毒花なのだ。人の魂を絡め取る手練手管。大金を使わせ、それを当然と受け止める精神力。払われた金の分だけ跳ね上がる高級娼婦の価値は、そのまま白百合のプライドである。


「仕方がないじゃない、それが私の価値なのだもの」


 夢見るような声色でくふふ、と笑って誘うように寝台に横たわれば、男は苦笑した後その白い肌に手を這わせたのだった。




――――――




 次の朝――と言っても娼館が女将の声で目覚めるのは昼頃なのだが――白百合が寝ぼけ眼で二階まで下りてくると、彼女が妹たちと呼ぶ年下の娼婦たちがわらわらとその回りを取り囲む。


「おはよう、姉さん!」

「ふぁ……おはよう……」

「聞いてよ、昨日の客がさ、酷かったの!」

「きゃはは、何言ってんのオパリ、酷くされんの好きなくせに!」

「はぁ?! 黙ってなザフィリッ!」

「ん……よしよし、おこんないおこんない……」

「んにゅ、んふふふ」

「かわいいね、オパリ。よしよし」


 頭を撫でられてでろでろし始めたオパリとその他の妹たちを引き連れて食堂へ向かう。この時間になっても一向に覚醒しない白百合は、まるで夢遊病患者のような足取りだ。それを誰が支えて食堂へ連れていくかで妹たちはいつも熾烈な争いを繰り広げている。


「それでもうあたし怒っちゃって尻を蹴っ飛ばしてやったの!!」

「うん、うん……」

「そしたらアイツ何て言ったと思う?『今のは最高だった、もう一回!』って!!」

「キャハハッ、変態じゃん!」

「いいじゃない、今後も蹴っ飛ばしてれば常連になってくれるかもよ」

「ヤだよあたしそういうのキライだもん!」


 うとうとと微睡んだままの白百合の口許へ食事を甲斐甲斐しく運びながら、乙女たちはきゃいきゃいと騒がしく愚痴や自慢を投げ交わしている。最初の「聞いて」はどこへやら、むにゃむにゃと曖昧な相槌を打つばかりの白百合を気にすることはなく、オパリの愚痴は他の女たちに囃し立てられながら解消されていった。


「ほら、姉さん、口開けて」

「ん」


 横に座った金髪のスフェラがフォークに刺した桃を差し出すと、白百合は微睡んだ顔のまま素直に口を開けた。紅を差さずとも艶やかな薄紅の唇が甘やかな果汁に濡れ、得も言われぬ色香がふわりと漂う。細い顎を伝った果汁を、反対から手を伸ばしたザフィリが手巾で拭った。


 この、朝に弱い美しい姉さんの食事の世話を焼く時間は、彼女を慕ってやまない妹たちにとって癒しの一時ひとときである。引くほど苦い白百合専用の珈琲を女将が運んでくるまでは、彼女たちの美しい姉さんはしゃきっとした普段と違って、微睡みの中で言われれば素直に口を開く鳥の雛のようないとけない、可愛らしい存在なのであった。


「ほら白百合、これを飲んでシャキッとおし」

「ん……」

「あーっ、女将っ、珈琲早くない?!」

「まだ姉さんのお世話したいんだけど!!」

「喧しい子たちだね全く、お前たちもさっさとお食べ!」


 ほどよく冷まされた珈琲のカップをゆるゆると傾ける。淡い紅色の唇が、吟味するように少しずつ黒色を迎え入れる様は何だかとても蠱惑的だ。自分たちの朝食を進めながら、妹たちはそれをどきどきと眺めた。これもまた、彼女たちの癒しの一時。


 珈琲が白いカップの中からすっかりなくなる頃に、ようやく白百合の翠玉(エメラルド)の目がはっきりと開く。


「――……おはよう、皆」

「おはようっ、姉さん!」

「二回目のおはよう!!」

「元気のない子はいないかしら、皆健やかでいて?」

「うん! みんな元気よ!!」

「あたしも元気!」

「さっきまで愚痴ってたくせにー!」

「くふふ、それなら良いわ」


 二回目のおはようも毎朝の恒例行事。必ずこうして皆を気にかけてくれる美しい姉さんのことが、娼館『マルガリタリ』の女たちは大好きなのだった。




 遅い朝食を終えたら、娼婦たちはしばらく自由時間を楽しむ。新聞やお気に入りの本を読む者もいれば、仲良しとひたすらお喋りに興じる者もいる。そんな喧騒から離れて一人、バルコニーで煙草をむ者がいると思えば、そんな彼女に絡みに行く者もいる。


 長椅子からそんな妹たちを眺め、白百合は楽しそうに微笑んでいた。もう少ししたら自分もバルコニーに出なければ。


 今最も名の知れている娼館の最上、一夜千金と名高い女。しかし宝石と同じで、大事にしまい込まれているだけでは価値は落ちると白百合は考えていた。

 白百合と一夜を共にするには金が要る。それを簡単に用意できる人間相手なら、宝石箱にしまわれた宝石のままでもいい。相手には鍵を用意する力があるのだから。けれど容易にそれを叶えられない人間は? 見たこともない女に会うために、有り金を掻き集めて破滅してくれる者が果たしてどれだけいるだろう。

 だから、白百合は時折ふらりとバルコニーに出てみせる。気だるげに通りを見下ろして、行き交う人々に意味ありげな視線を送っては時々ふっと微笑んでみせるのだ。


 白百合は毒花である。

 そして、その自覚がある女だ。


 美女揃いの娼婦の中でも一等美しい己をたまたま目にした人間が「もっと近くで」と望むことを、正気を引き留めようと足掻く理性の箍を微笑み一つで外してやることを、当然と受け止めている女なのである。


 そうする理由はただ一つ。


 丁度、隣へやって来て「何故姉さんは店を出ていかないの」と問うた妹に微笑みかける。


「――ひみつ」


 さあ立って。高嶺の花より人を狂わせる魔性の花を、燦然と見せつけにいかなくては。




――――――




 耳朶に翠玉(エメラルド)を飾り、一つ吐息をこぼした白百合の部屋の戸が、軽くノックされる。この時間にあるノックはただ一つ、女将が来客を知らせるそれだけだ。

 どうぞ、と言えば戸が開いて、白髪交じりのブルネットを結い上げた女将が入ってくる。その顔に、いつもと違う表情を見て取って、白百合はゆったりと小首を傾げた。


「今日はどなた?」

「ご新規だよ、白百合。あんた、あんな美丈夫いつの間に引っ掛けたんだい?」

「美丈夫? あら、覚えがないわ」

「この辺じゃ見ない顔だけどね。まあいい、金払いが良さそうだから今回もきっちり捕まえるんだよ」

「くふふ、はぁい」


 微笑んで頷けば女将は「しっかりおやり」と言って身を翻す。あとしばらくで女将に先導され、その美丈夫とやらが塔を上がってくることだろう。初回で白百合の部屋へ通されるなんて一体どれだけ金を出したことやら。良いお客様だこと、と白百合は小さく笑った。







「――あら」

「……やあ」


 淡い明かりの中、それでもなお白さの際立つ端正な美貌。そんな中、気まずそうにそらされた柘榴色の瞳の鮮やかなことと言ったら。これは確かにあの女将が「美丈夫」と称するのも納得の顔だ。


「くふふ、無事だったのね。まあ、何となく人じゃないような気はしていたの。ねぇ、当たっていて?」

「うん……」


 昨晩、白百合が容赦なく窓から蹴り出した青年だった。


「くふふ、そうなの。なら良かった。でも不思議ね、お金があるなら初めからお客様として来れば良かったのに」

「経済活動は人間の特性でしょ」

「あらあら、貴方が払ったお金が煙になると困るのだけれど」

「ちゃんと人間が持っていたものだから安心してよ」

「くふふふ、ならいいわ」


 ちょっと不貞腐れたような顔で答えていた彼は、そんなふうにあっさりと「いいわ」なんて言われて目を丸くした。


「気にしないの」


 人ならざる者が「人間が持っていた」と言うのだから元の持ち主は死んでいると魔物自ら白状したようなものだが、白百合は夢見心地のような顔で微笑んだ。


「別に、どんな来歴だろうとお金はお金。気にしないわ。私、お金をきちんと払う人のことは好きなのよ」


 細い指が白皙の頬をくすぐる。色のない唇をきゅっ、と引き結んでから手を伸ばしてその指を捕まえた彼は「一夜千金の女にしては明け透けすぎるんじゃないの」と囁いた。


「くふふ、一夜千金の名を舐めてかかっちゃ嫌よ。貴方が“白百合”ではなく“私”を求めて来たことくらいお見通しだわ」


 そう言って白百合は彼の黒いタイを掴んで引き寄せ、唇の触れ合いそうな距離でくすくすと笑ってみせた。


「けれど、その理由までは分からないの。だからね、教えてくれる?」


 その甘い声に、動いていないはずの心臓が激しく暴れたような気がして、彼は初な子供のようにぎゅっと両目を固く瞑った。耳元でくすくすと鈴を転がすように笑う声に酔うような心地になりながら、彼は悪戯っぽく手を引く白百合に大人しく従うしかなかったのだった。


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