第二夜.黒髪の王女 後編
鐵塔の朝は遅い。
王宮内の朝の支度を済ませた後で、その日の当番に任じられているメイドが、災厄を招く黒髪に怯えながら湯のたらいと着替えを運んで来る音が起床の合図だ。
二人の牢番それぞれが持つ鍵で、螺旋階段の始まりと終わりの鍵が開く。そして中腹の鍵は当番のメイドが持ってくる決まりだ。これによって、塔の最上階にいる罪人が侍女を脅しても塔からは逃れられないようになっている。
陽光はすっかり朝らしい白々しさを失い、すでに王宮も街も活気付く時間帯に、ようやく身支度を整えて次は朝食。
災厄を招くと恐れられる身とは言え、王家の直系長子である。衣食住の世話は充分にされていた。毒見を経ない食事はいつも温かい。
カトラリーを手に、一人きりの朝食が始まるとメイドは一度塔を出る。次に来るのは昼食の支度の頃。鐵塔にまた静寂が戻ってくる。
「――本当に、罪人扱いだな」
「ふふふ、おはよう。ご機嫌いかが?」
「……朝はあまり好きじゃない」
「そう。確かにあなたは夜の方が似合うわ」
「…………」
唐突に背後に出現した気配、同時に静かな声で話しかけられても、彼女は何も動じず楽しそうに答える。どうしていつもこんなに肝が据わっているのだろう、と思わずにはいられない。魔物は静かに溜め息をついた。
「あなた、お食事は?」
「いらない」
「それは『必要ない』ということ?」
「うん」
「ふぅん、不思議ね」
彼女は他愛ない言葉を魔物と交わしながら器用にオレンジを剥いていく。誰かと話しながら食事を摂るなんて人生初めてのことだ。微笑みからあまり動かない表情とは裏腹に、とても楽しかった。
「食べられはするのかしら?」
「……そうする必要があれば」
「ふふ、そうなの。なら、一ついかが?」
そんなことを言って、彼女は剥いたオレンジを一房背後の彼に向けて差し出す。いらない、と言おうとした彼の柘榴の瞳が、溢れた果汁を伝わせる白く細い指に吸い寄せられる。
冷たい手が、彼女の手首を柔く捉えて引き寄せると、華奢な指先ごと鮮やかな橙の果実をそっと口に含んだ。ひんやりとした舌が指先に触れ、ほんの一瞬絡めるように舐められてからゆっくりと解放される。
魔物は音もなく溜め息を漏らした。使わなすぎて鈍った味覚が、唯一彼女の指先の、えも言われぬ甘さだけを感じとる。このまま食んでしまいたい。冷えた身の中で欲が熱を持つ。
「甘いね」
「驚いたわ。あなた、口の中まで冷たいなんて」
「はぁ……ほんと、君って人は……」
「あらなぁに?」
「……何も」
一体どうしたら彼女の余裕を崩すことができるのだろう。溜め息を一つ溢した。平気でオレンジを食べ進める彼女の背後を離れて、テーブルの端に腰掛ける。
ちらと横目で見下ろした先、ゆったりと食事を続ける彼女は美しい。日の光を吸い込むような漆黒の長髪、昼間の明かりの中でも鮮やかな青玉の双眸。陶器のような肌は、血の通わぬ彼と同じくらい蒼白だ。
前の彼女はそれは目映い金の髪をしていたなぁと、ぼんやり共有されている記憶から思い出しながら、彫刻作品の様な顔を眺めていたら、青い瞳がふっと彼の方を見上げた。
「ねぇ、あなたの言う『私』について教えてくれないかしら?」
「……構わないけど、本当に聞きたい?」
「ええ、気になるわ。何故あなたがそんな顔をして私を見るのか、理由はそこにあるのでしょう?」
「……まあ、そうだね」
魔物は、彼女から目をそらして鉄格子のはまった窓を見やった。白皙の横顔に様々な感情が浮かんでは過ぎてゆく。それから、囁くような吐息を一つ挟んで彼女に視線を戻す。
「――“君”は、ある時突然“僕”の前に現れた」
彼にとっての“本体”が、彼ら“分体”には決して共有しない『初め』の彼女の記憶。彼女はどんな姿をしていたのだろう、どんな声で笑ったのだろう。“彼”の魂を絡め取って、それ以来ずっと追わせ続けている女性。
「“僕”は“君”が愛おしくて……だから“君”が君のように生まれ直す度に探しに出かける。見つけ出して、捕まえて……連れ帰ることは一度だってできたことがないけど」
捕まるのはいつだって僕だ、と彼は乾いた苦笑を溢した。
「いつも変わらないんだ。“君”は絶対に折れない。強くて真っ直ぐで、とても綺麗だ」
いつの間にか手を止めていた黒髪の王女はその言葉にじっと耳を傾けて、それからふわりと微笑んだ。蕾の綻びのほんの最初と同じくらいに幽かでありながら、それは確かに明瞭な笑みだった。
「素敵ね」
「……他人事みたいに言うじゃないか」
「あら。只人に、その話を聞いて実感を持てと言う方が酷というものでなくて?」
「……かもね」
「だから、代わりに信じるわ。あなたの言うことが真実だとね」
音もなく立ち上がった彼女が、テーブルの端に座った魔物にするりと身を寄せる。なに、と横目で問う彼に、猫のように擦り寄った彼女は囁くように笑った。
「……それで、今回の“私”はあなたを捕まえることができたのかしら?」
体温の無い彼の身に、彼女の決して高くはない体温がじんわりと染み入る。テーブルに付いていた右手に、温かくて華奢な白い手が指を絡めてきた。
「……分かってるくせに」
「あらそう?」
「……、……くすぐったい」
「可愛いこと」
「っ……」
恥ずかしくなったのか、魔物はふいっと顔をそらす。血の通わぬビスクドールの白皙が、何の原理でか耳の先まで赤くなっていた。その頬に彼女の指が柔く触れ、すりすりと慈しむように撫でられる。
「捕まえられたのなら重畳だわ。災厄を恐れず私に触れようとする誰かをずっと求めていたのだもの」
想像していたよりずっと可愛らしくて、体は冷たくて、何よりとっても美しかったけれど、と笑うと魔物はそらしていた顔をほんの少し彼女の方へ向け直して、至近距離でその青玉を見つめる。
「……ずっと、寂しかった?」
「……ふふ、そうね」
柘榴と青玉と、真反対の色彩で見つめ合ったまま唇が触れ合う。お互いに、相手を逃がすまいとする視線だった。
「ふ、オレンジの香り」
「僕には君の味しか分からないけど」
「そう。それならそれでいいわ」
そう笑ったあとで、彼女はようやく目を閉じた。その唇は、喩えようのない甘露だった。
――――――
鐵塔の影に魔物が潜むようになって大体三年が経過した頃。
いつも通りにのんびりと遅い朝を迎えた鐵塔であったが、その日の彼女の横顔は何故かいつもと少し違っていた。
朝食の配膳を済ませたメイドが青い顔をして去った後で、窓を眺める黒髪の王女の背後に魔物がその姿を現す。
「――おはよう、ご機嫌いかが?」
「いつもより静かだね。どうしたの」
「……敏いこと」
彼女は銀月の美貌に幽かな苦笑を浮かべ、魔物を振り返る。その白い頬に口付けを一つ落として、魔物は「それほどでも」と囁いた。
「……あなたがここへ来た頃に、私、確か言ったわね。私の死んだ後は好きになさい、と」
その言葉に、魔物の白皙に隠しきれない不安が浮かぶ。動揺した柘榴の瞳を見上げ、彼女は小さく笑った。素直ね、と呟く。
「その時が来たわ」
「嘘だ」
「私がこんなことで嘘を言うと思って?」
「嫌だ、信じない」
「しょうがないひと」
顔を顰めた彼を宥めるようにその両頬を手で包んで引き寄せる。三年の間に散々彼女の策略を味わわされてきた彼は二人の間に手を差し入れて「誤魔化されないよ」と怒りを露にした。
彼の言う通り、キスで有耶無耶にしてしまおうとしていた彼女は、冷たい掌に唇を当てたまま「バレてしまったわ」と笑う。
「丁度今日で、成人した弟妹が三人になったはずよ。私の命の期限はその頃だろうと、常々考えながら生きてきたわ」
窓の外、少し遠くの王宮で忙しなく整えられていく華やぐ祝い事の準備。メイドの挙動に違和感はなかったから朝食に毒は入っていない。だとしたら最後の晩餐は昼食だろうか、夕食だろうか。最期を齎すものが毒かどうかすら不透明。もしかしたら、今すぐにも牢番がこの部屋に踏み込んでくるかもしれない――頸椎を一撃で叩き斬れそうな斧を持って。
「不思議なことに、自分の死期と言うものは何となく感じるものなのね。ふふ」
「っ、逃げよう。今すぐ! 僕なら君を逃がしてあげられる!」
「考えたのだけれど、今までの“私”もこうして短命だったのでないかしら? それは捕まえるのに苦労するわけよね」
「僕の話をっ……」
「駄目よ。初めに言ったでしょう。私の命には責務がある」
遮る彼の手を掴んでどかし、彼女は今度こそ冷たい唇にキスをした。
「災厄を招く黒髪の王族として生まれたからには、王家の呪いとして、きちんと祓われなければならないの」
だからね、と言葉を継いでから更に深く口付ける。
「あなたが私を拐うと言うなら、私はその前に自死しなければならなくなってしまうわ」
そんなことさせないでちょうだいな、と青玉の双眸が淡く弧を描く。
魔物の美貌の中にカッと憤怒が沸き、次いで泣きそうな悲哀が溢れ出した。彼女の細い手首を掴み、背後の窓に押し付けて喰らい尽くさんばかりに唇を貪る。冷たく乱暴なキスの感触に彼女はそっと瞑目して浸った。彼女がこの人生で知る唯一のキスの感触だ。
嗚呼、可哀想なひと。拐いたければ四肢を切り落としてしまえばいいのに、そうできない優しすぎる魔物。
そうできない理由があるのかしら、と考えてみて、だとしたら必要なのは私の同意ね、と一人納得する。
可愛いこのひとに頷いてあげたいけれど、それだけは叶わない。自分は災厄を招くと疎まれた黒髪の王女。王家のため、ひいてはこの国のために、きちんと処分される最期を迎えなければならないのだから。
「泣かないで」
「っ、誰の、っせいだと……!」
「ふふ、私ね」
「いやだ、っ、なんで君が、死ななきゃいけない……!」
「あらあら、涙も冷たいのね。可愛いこと」
白皙の頬にぼろぼろと溢れ落ちる涙の雫を指先で拭い、縋りついてくる魔物の背を撫でて宥める。見上げる彼女の頬で砕ける涙は夜露のように冷たかった。
「最期までそばにいてちょうだいな」
「っ、君は、勝手だ……!」
「ええ、承知していてよ」
螺旋階段を上がってくる足音が聞こえる。あまり使われない階段がキィキィと軋みを上げて来訪者を告げるのだ。嗚呼、思ったよりも早かった。
魔物の胸板を軽く叩いて「人が来るわ」と囁く。魔物はふるふると首を振ったが「いきなり殺されるなんてことはないはずよ」と宥め透かして影に沈ませた。
「――失礼致します、王女殿下」
「入っていらっしゃい」
そうして、しずしずと戸を開けて進み出てきたのは兵を二人連れた年嵩の女官だった。手には銀の盆。その上には、美しい装飾を施されたゴブレットが載っている。
「国王陛下からこちらをお預かりして参りました」
召しませ、と差し出されたそれを黒髪の王女は迷いなく手に取った。繊細な金の装飾に縁取られた紺碧のガラスの中、ゆらりと揺らめく液体の色は読み取れない。
女官と兵はそのまま壁際に下がる。ああ、見届けるまでが仕事なの、と王女は嘆息した。
ゴブレットの縁に口を付ける。花の香のような匂いがした。きっとそれが、毒の香りだ。
唇に液体が触れる、そう思って瞑目したその直後。
「――ぎゃっ」
男の悲鳴。彼女がハッと目を開けると兵の一人が喉元を押さえて崩れ落ちるところだった。その手指の合間から止めどなく流れ落ち、手甲の銀を汚しているのは血液だ。
続いてもう一人の兵も短く悲鳴を上げて膝を屈する。同じように喉元を押さえて床に伏した彼の下にじわじわと広がる赤黒い水溜まり。突然のことに、怯えと恐れに溢れた様子で振り返った年嵩の女官の前に立つ、黒衣の魔物。
「ヒッ――!」
彼女の前では見せたことのなかった鋭い爪を振り上げる。すでに赤く染まったそれは、白い手によく映えた。
「――おやめ」
途端、魔物の手は止まった。主従の契約など交わしていないのに、彼女の一声でその凶行は止められてしまった。
「……何故止めるの」
「私が望まぬことくらい分かるでしょう」
「……僕は、せめて君の死の尊厳だけでも守りたいんだ」
「それは分かっていてよ。ありがたくも思う。けれど、それは駄目よ」
「…………」
「お、王女殿下っ、こ、これは……?!」
「静かにしていらっしゃい。魔の物の機嫌をこれ以上損ねたくはないでしょう?」
「ま、魔の物っ……」
「お下がり。毒杯はきちんといただくわ」
蒼白な顔で黙った女官の後ろで、ごぼごぼとくぐもった咳をしていた兵たちが静かになる。あれだけの出血だ、相当深く切り付けられたに違いない。可哀想なことをした、と彼女はそっと黙祷した。
「仕方のないひと。こちらへ来て」
「……」
女官がふらついた足取りで部屋を出ていったのを見届けてから、彼女は毒杯を片手に揺らしたままベッドに腰掛けた。そのそばに魔物を呼び寄せる。いっそ不穏とすら言えそうなほど沈痛な面持ちで黙していた彼はふらり、と近づいていってその足元に跪いた。
「ねぇ、あなた。私を見て」
「…………」
「三年も共に過ごしたのだもの、分かるでしょう? 私、嬉しそうでなくって?」
「……君は、酷いひとだ」
「そうね。だって、まさかこの命が誰かに惜しまれるだなんて思ってもみなかったんですもの。たった一人だとしても、嬉しくて仕方がないわ」
「……その『たった一人』のために、生きてはくれないんでしょ」
「ふふふ、ええ。ごめんなさいね」
「ばか」
「可愛いこと」
「君は本当に勝手だ」
「知っていてよ。そして、あなたがそんな私の勝手に付き合ってくれることも、分かっていてよ? そうでしょう?」
忠実な犬のように膝にすり寄る彼の白皙を優しく撫でて、彼女はくすくすと楽しそうに笑った。青玉が歓喜に蕩ける。
「あの女官も愚かではないから、じきに神官がここへ来るわ。その前に、私を看取ってちょうだいな」
「そんなの、僕の敵じゃ……」
「ええ、それでも、彼らもまた私の民よ」
「……っ、狡い」
「あなたに会って私、強欲になったみたい。ふふふ、欲深いって楽しいのね、知らなかった」
罪人のように幽閉され、民になんて触れてもこなかったくせに。そう詰ると「それでもよ」と平気で重ねられる。
「きっと眠りに落ちるようなものだわ。あなたがいるもの、怖くない」
柘榴の瞳からまた冷たい涙がほろほろと溢れ始めるのを見つめ、またふわりと笑みを深めた彼女はついに毒杯を呷った。
「っ……」
「ふふ、お父様の優しさかしら。甘いわ」
魔物は泣きながら立ち上がり、そんなことを言って笑った彼女にキスをして押し倒した。彼には効かない猛毒が彼女の唇を濡らしている。嗚呼、確かにこれを選んだのは顔も知らぬ国王の慈悲なのかもしれない。眠りに落ちるより早い、苦しみのない死を齎す花の香の劇毒だ。
「ね、甘いでしょう」
「味なんて分からない」
「そう」
「……好きだよ、大好きだ。“君”だけじゃない、今の君のことも、愛してる」
「ふふ、ふふふ。ありがとう、嬉しいわ」
柔らかなベッドに横たわった彼女の横に寝転がって、彼は彼女の黒檀の長髪を撫でた。そんな彼を楽しそうに眺めていた青玉が次第にとろとろと眠たげに潤み始める。
「……ねぇ、あなた」
「……なに」
「……次も……探しに来てくれる?」
「うん。何度でも、探しに行くよ」
「……ふふ、そう……良かった……」
ふっ、と嬉しそうな吐息が淡紅の唇から漏れて、それきり彼女の息は続かなかった。うっとりと夢を見るように目を閉じて、黒髪の王女は疎まれ続けたその生に、静かに幕を下ろした。
「……大丈夫、次も、必ず見つけるからね」
もう応える声はない。
魔物は、彼女の額にそっと口付けてからゆっくりと身を起こした。偽物の魂がきりきりと締め上げられるような痛みを訴えている。彼女を亡くしたからではない。与えられた任を果たせなかったと、彼女の死でもって裁定を下されたからだ。
「っ、ぅぐ……」
戻ってこい役立たず、と遥か彼方から呼ばれている。動いていない心臓を握り潰されるような激痛の中、彼は彼女と三年を過ごした部屋をふらふらと横切り、鉄格子のはまった窓を拳で叩き割った。
「……ごめん、次はもう“僕”じゃないんだ」
ベッドに横たわる彼女を最後に振り返り、眉尻を下げて哀しげに囁くと、彼はそのまま窓の外へ身を投げた。
それきり、その国の影に彼の姿が現れることはなかったと言う。
次章『緑の瞳の娼婦』来週土曜、前編投稿です。