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第十二夜.解呪の乙女 後編


「まあ、凄まじいこと」


 彼女を下ろすなりそそくさと去っていったタクシーのエンジン音が聞こえなくなり、辺りにしん、と霧そのもののような静寂が降りた直後の台詞である。


 樹海の前に立った彼女には、そこから滲み出す拒絶の気配が手に取るように分かった。これがヴァーメイユ樹海の呪いだ。何人なんぴとも立ち入ってくれるな、という魔の物の拒絶の意志がそのまま渦巻く魔力になって人間を狂わせる。


 なるほど、保有魔力量の少ない人間は数秒ももつまい。浮遊天文台の射手に選ばれるほどの魔導士でやっと問題なく探索が可能である、と結論付けた。つまりは、世界中の魔導士の中でも上澄みの上澄みの上澄みレベルでないとこの樹海には踏み込めない、ということ。


「ふふ、面白いじゃない」


 嫌いじゃないわ、と微笑んで彼女は歩き出した。何の躊躇いもなく、白い霧を纏う樹海へと踏み込んでいく。ざわり、と森が震えた。侵入者を察知して呪いが蠢く。白霧と共に、魔力の渦が彼女の肌を撫で上げ――弾かれたように身を引いた。


 金の眼がきゅっと細められる。やはりこの森は自分を知っている――ブラックボックスの蓋が震える感触、眠っている記憶が目を覚まそうと身動ぎする感覚だ。


(……『星落の禍神』、神と名のつくもの)


 この樹海の奥の神殿に封じられた魔物の記録上の呼称。もしかしたら、元々かの魔物はそこにいたのかもしれない――嵐を意味する紋様を刻まれた神殿に。


 縦横無尽に苔むした木の根が張り巡らされた大地は歩きにくいことこの上ない。鍛えられた体幹を発揮して一歩一歩を確実に進む。ふと思い立って来た道を振り返ってみれば背後の景色はすっかり白い霧で覆われていた。


 常人であれば霧と魔力の渦とで方向感覚が失われるだろう。呪いを何とかはね除けても次に襲いかかるのは前後不覚の不安。微かな風の音しかしない静かな樹海は人間に根源的恐怖を覚えさせる――自然の中で人間は斯くも無力である、と。


 そんな中でも彼女の紅い唇から笑みの形は消えなかった。魔導士とは得てして探求を好む生き物である。禁足地に踏み入り、そこに関わる自分の中の未知を暴くなんて、楽しい以外の何ものでもない。


 胸の奥、記憶の底から浮かび上がる確信。魂の声とも言えそうなその感覚を頼りにひたすら真っ直ぐ歩く。間違いなく目的の場所に辿り着くという自信があった。


「……見つけ出してあげるわ」


(“何を”か“誰を”かも、まだ分からないままだけれど)


 霧と共に渦巻く樹海の呪いが、戸惑うようにゆらりと彼女の足元で揺れた。





――――――





 ――この国には、嵐のような神がいる。


 決して大衆の前に姿を現すことはないし、祈りに対して何かを与えてくれたり返してくれたりするわけでもない。


 ただ、外敵がこの国を――彼の縄張り(テリトリー)を侵したその時、彼の力は振るわれる。文字通り嵐のような力が。


 彼が周辺国の侵略を徹底的にはね除け、再起不能になるまで叩き伏せたことで、この国は穏やかに文明を、文化を、育むことができた。


 国王や民はその事実に感謝し、闇を引き連れた彼が暮らす古い牢獄――彼の住処をせっせと改築して大きな神殿を立て、無聊を慰めるべく巫女をつけ、嵐なる者、とその力を讃えた。


 巫女。美しい名で飾り立てただけの体のいい贄である。私たちが祀る神に“絶対”はない。元は敵味方なく荒れ狂っていた存在である。だから、彼が万が一その力を国に向けた時に真っ先に身を差し出して怒りを鎮めるように、と用意された人身御供。


 そして私は、五人目の巫女。


 年齢を理由に引退した先代が言うには、彼は今までどの巫女にも興味を示したことがないらしい。神殿の奥まった薄暗いところでじっとしているばっかりだという。嵐なる者という名があまりしっくりこないほど大人しくて静かなんだとか。


 何故かしら、と興味が湧いた。


 持って生まれた柘榴石の瞳故に気味が悪いと疎まれたこの命。明日の夜からは嵐の神に差し出される贄。それでも私は、霧深く緑豊かなこの国が好きだ。人も神秘も共に生きる、この大地が好きだ。


 そう。私は、どんなに惨くとも、どんなに拒まれていようとも、己の居場所を愛している。


 だから巫女の役目を果たして死ぬことは怖くない。愛すべき国のために最期は神の威に穿たれて死ぬのだとしても、今は静かだと言うその傍らに侍ろうではないか。


 だからほんの少しだけ、この好奇心を満たすことを許してほしい。


 私は、私たちの神を知りたい。


 そんな決意を胸に秘めて、私は禊の泉にそっと体を沈めた。





――――――





 もう一時間は歩いただろう。樹海の中は今やとろりとして見えるほど濃い白霧に満ち、足元もよく見えない。

 彼女は胸中に灯る確信を頼りにひたすら進んでいた。恐らく、樹海の呪い故に阻まれてきた前人未踏の領域に入りつつある。


(……これは)


 その時、踏み出した足が苔むした木の根とも湿った土とも違う感触を捉えたので彼女は立ち止まってしゃがみ込んだ。そこにあったのは苔に覆われた平らな石。苔を払って確信する――人工物だ。


「…………」


 片膝をついた姿勢のまま前を見た。もしやと思い、苔を払った手を持ち上げて魔力を集め、突風を生み出して放つ。一時的に重たい霧が払われ、瞬きの間に戻る。天文台の射手として訓練され尽くした彼女の金の瞳にはその一瞬で充分だった。


「道、ね」


 自然に呑まれかけてはいるが人工的に敷かれた石畳が奥へと伸びている。すっと立ち上がった時、彼女の白皙の美貌は好奇心できらきらしていた。


 迷いなく、石畳の道へ足を踏み出す。


(ああ、“私”はここを知っている!)


 霧で見えないそこを、何の躊躇いも覚えずに進むことができた。確信が、魂が、道を指し示している。この先に、目指すものがあるのだ。




 そのまま、苔に覆われた石畳は緩やかに曲がったり真っ直ぐになったりと続いていき、時折傍らに朽ちた建物の残骸や、かつての文明の面影を彼女の目に届けた。


 そうして記憶の蓋を少しずつ開けるような心地になりながら歩き、十五分ほど経過した頃。


 不意に、水の音が聞こえてきた。


(ああ、禊の泉の……)


 ごく自然にそう気づいてからハッとする。禊の泉? 知らないはずなのに、何の引っ掛かりもなく溢れた名。理性の困惑を他所に、そう言えばこの辺りだったと魂が思い出す(・・・・)


 ゆっくりと、石畳の道を逸れる。木々の合間を縫って、霧を掻き分けて、水音の方へ。


(……森は育ってしまってすっかり変わっているけれど、緑の匂いと、霧の冷たさは何も、何一つ変わっていない)


 確信に満ちた足取りで進み、辿り着いた先に現れた透き通る泉――記憶の蓋が、外れる。


「……随分、時間が経ってしまったわね」


 溢れ出る千年前の“彼女”の記憶。優秀な彼女の頭脳でなければきっとオーバーヒートを起こしたであろう人間一人分の生の軌跡の奔流。かつて身を清めた冷たい泉を前にして、金の瞳から一筋の涙が白い頬を伝う。


「“私”に追い縋っていた気配の正体は、貴方だったのね」


 千年と少しをかけて追い求め続けられていた魂がついに気づいた。そして――


「――やっぱり私、追われるより追う方がしょうに合っているみたい」


 追われ続けることに飽いたらしい“彼女”の金の瞳が、狼の鋭さを灯した。





――――――





 嵐なる者は本当に静かなひとだった。


 彼は美しい男の姿をしていて、新たな巫女として装束の裾を引きずりながらやって来た私を暗がりの中からちらと見てすぐに興味がないとばかりに目をそらした。

 白皙の横顔に瞳の真紅がえも言われぬ神秘を添えていて、私の瞳と同じ色なのに不思議、と思う。美しいものは好きだ。だから、そっと近づいていって「ねぇ」と声をかけた。


「嵐なる者、そんな名で呼ばれているのに貴方は物静かなのね」


 元々、神への畏怖はあまりない。私が生まれた時代はすでに平和だったから、彼の力を知る機会がなかったもの。彼を目の前にしても畏れを感じることはなかった。人と同じ姿をしているからだろうか。


 それ故に変に敬うこともなく怯えるでもなく話しかけてきた私に彼は驚いたらしかった。柘榴の色の目を丸くしてこちらを振り向く。


「ふふ、やっと目があった」

「…………」

「巫女ってすることが全然ないの。話し相手になってくれる?」

「…………僕が、怖くないの?」

「ふ、声が聞けて嬉しいわ。そうねぇ、怖くないわ。怖がってほしかった?」


 言葉が通じるなら尚更。小首を傾げて問えば彼はおずおずと首を横に振った。一言でも分かった、彼は名に似合わぬ柔らかい語彙を使うらしい。神にこんなことを思うのは不敬かもしれないけれど「愛らしい」と思った。


「嵐に例えられる存在だから、常に荒れているのかと思っていたわ。穏やかで物静かなひとは好きよ」

「……昔はそうだったよ。でも、君たちに祀り上げられてこうなった。人外(僕たち)は祈りとか、そういう人間の集合的無意識に左右されやすいんだ」

「ふぅん、そうなの……良かった、貴方がそう在ってくれて。神殿に一人って退屈だもの、仲良くしましょう?」

「……君みたいな巫女は初めてだ」

「ふふ、人間てね、信じられないくらいたくさんいるのよ」


 私が笑うと、彼もぎこちないながら小さく笑った。彫像のような白皙が温度を持つ。笑うとちょっと幼く見えるのはなんとも愛おしいことだなと思った。


 巫女のお務めは一月ひとつきの八割を神殿で過ごし、残りの二割を神官団の元で修行することのみ。神官団からは腫れ物扱いを受けるし、神殿では一人きりだと思っていたから相当退屈だと考えていたのだ。

 だから、彼が話のできる相手で良かった。愛する国と大地のためにこの身を捧げるお務めとは言え退屈な時間は苦痛である。


 それからと言うもの、私は神殿にいる間はずっと彼の傍らで時を過ごした。彼は次第に口数が増え、笑顔が自然になり、私との触れ合いに慣れていった。


「これだけは、全部違う僕たちの唯一のお揃いだね」


 そう言って彼が自分の瞳を指し示したとき、不気味な目だと疎まれ続けたこの命の意味が救われたような気がして。涙が溢れて彼を慌てさせてしまった。


 こんなふうにお役目が続くなら、私は幸せなのかもしれない。そう思った、思っていた。けれど――私は、知らなかった。



「これより、魂送りの儀を執り行う」



 神が一人の巫女に執着して問題が起きないよう、そうなりつつある場合は巫女の魂をあちら側へ“送る”という決まりがあるなんてことを。


 背後から胸を貫く刃。痛みより、まず熱さが胸を焼いた。こんな不意打ちの仕方、なるほど『魂送り』を巫女に教えない理由が分かると言うものだ。逃げられたり、この儀式の存在を神に伝えられては困るからだろう。


 耐えきれず膝をついた私を、神官長が感情のこもらない目で見下ろす。倒れてなるものか、と力を振り絞って睨み上げた。


「きっと、彼は……怒る、わよ……」

「神を知ったような気になるでない、愚かな巫女よ」

「ふ、知った気でいるのは、っ……どちらかしらね……?」


 きっと彼は悲しむ。その悲哀が、もしかしたらこの国を滅ぼすかもしれないと思う。私は愛されている自覚があった。そして、彼を愛している自覚も。だからこそ悔しい。こんなふうに彼を独りにしようとしている自分が。


「大鉈を」

「……必ず、また」

「首を落とせ」

「っ、私は、貴方に……」


 ――会いに行くわ。


 込み上げた血が溢れる唇に囁くようなその音を乗せた直後、鈍色の大鉈が振り下ろされた。





――――――





 魂と記憶、心の底からの確信でもって彼女は駆けた。禊の泉を離れ、苔むした石畳を蹴り、木々の枝を避けながら、白霧に沈む樹海の奥へ奥へ。記憶に焼き付いた彼の瞳の色に胸を焦がしながら走る。


 ヴァーメイユ樹海に踏み込み、記憶の断片を拾い集めながら歩き続けて二時間あまり。彼女はついに、とっぷりと重ねた紗布の様な霧の中に佇む神殿を見つけた。

 ああ、と泣きそうな吐息が漏れる。息を切らして走った。遥か千年をかけてまたここに戻ってきたというのに、神殿までのこの距離すらもどかしい。


 樹海に渦巻く呪いの根源。国を、文明を、丸ごと破壊し尽くし、天の星すら落としてきっと力を使い果たしたろうに、それでも浄滅が叶わず封じ込められた、かつて神と呼ばれた魔物の社。


 千年、千年経ったのだ。

 千年も、待たせてしまったのだ。


 胸元に吊るした石が明確に熱を持つ。触れている肌を焼きそうなほど熱く、しかし決してそうはならない幻の熱度。多分これは、“彼女”の魂が訴える感情の熱なのだろう。


 石材を割って張り巡らされた木の根、彫り込まれた紋様を埋め尽くして蔓延る蔦。かつてはあんなにも荘厳で美しかった大神殿は、今や自然の猛威と白い濃霧の中に囚われている。

 入口を覆う木の根を魔法で切り払い、霧の湿度でぬめる石の床を蹴り、彼女はかつて彼が独り寂しそうに座っていたあの場所へ一直線に突き進んだ。


 神殿の最奥、目指す正面に、緞帳のような闇を閉じ込めた鉄格子の牢獄がある。


――『何故わざわざ牢の中にいるの?』――


 かつては彼の出入りのために開けられていた右側の壁は封じの魔法が込められた岩肌に姿を変えていた。封じの魔法は、古すぎて最早雁字搦めの呪いのようだった。


――『ここが一番暗くて落ち着くんだ。人間は近づきたがらないし』――


 だってそこはまだここが牢獄だった頃重罪人を閉じ込めて嬲り殺すための部屋だったのだ、誰が進んで近づくのだろう。


――『ふふ、まったく変なひと。私が来なければ一日どころか一月ひとつきでもそこにいるつもりね』――


 彼はちょっと気まずそうに目をそらして、小さく「うん」と頷いたっけ。


(そして、“私”は――)


「『――仕方のないこと。さあ、出てきて。私とお話ししてちょうだい』」


 あのときとそっくり同じ台詞が、彼女の紅い唇から溢れ、同時に、深い絶望に微睡んでいた牢の中の闇が跳ね起きるように身を捩った。






「――……“君”、なの?」


 やがて、か細い声が闇の中から響いた。

 今の彼女が初めて聞く、“彼女”にとって世界で一番愛おしい声。


「ひとりにしてごめんなさい。千年も待たせてしまったわ」


 “彼女”が、ずっと伝えたかった言葉。


 彼女の黄金こがねの瞳が牢の表面に蠢く封印(呪い)を見据える。その先で、白い手が闇の中から伸びてきて鉄格子に触れた。夢の中で見た景色と同じ。彼の手は、封じに阻まれて鉄格子を掴むことすらできない。


「本当に……?」

「あら、私のことが信じられなくて?」

「だ、だって……!」

「今気づいたけれど、これは“私”ね」


 信じがたい、と震える声を前に、彼女は胸元に吊るした石を細鎖ごと引き千切って差し出した。彼女の手は、すんなりと鉄格子の間をくぐり抜ける。一瞬怯えたように離れた白い手が、それが消えてしまわないか案じるような手つきで彼女の手に触れてくる。その冷たさは“彼女”にとってこの世で一番大事な体温だ。


 彼女の手の中の柘榴の粒のような石に、彼の指先が恐る恐る触れる。


「どうして、君がこれを」

「生まれたときに握り締めていたそうよ。覚えがあって?」

「……“初め”の君の……遺骨、で、“前”の君を守って、砕けてしまったはずなんだ」

「そう。ならば貴方に返しましょう」


 彼の手首を片手で掴まえて、その手のひらの上に石を置く。震えた手が石を握り込んだ。


「――けれどね」


 そう言った彼女の手が鉄格子を抜けた。あ、と小さな声が漏れて追い縋るように彼の手が追いかけてくるが、封じに阻まれて止まる。


 引き抜いた手を固く握り締める。そこに、旋風つむじかぜを生むほどの魔力が集まり始めて、牢の中から彼の戸惑う声がした。


「“私”を求めてもいいけれど、あなたを捕まえに来たのは今のこの私よ。お分かりね?」


 常日頃から、宇宙からやって来る呪いのような異形を狙撃し、破壊し続けている浮遊天文台の首席射手なのだ。古代の封印(呪い)など、彼女の敵ではない――!


 魔力の渦を纏う握り拳を、雁字搦めになった封じが蔓延る鉄格子へ何の躊躇いもなく打ち込む。腰の入った良い一撃。女性らしい優美な腕から繰り出されたとは思えぬ魔力衝撃波が神殿を揺らした。闇が、封印が――解ける。


「千年の間、貴方は“私”を追ったわね。けれど――もう、追われるのには飽きたの」


 千年の戒めから解放された鉄格子。封じの魔法によって留められていた時が動き出し、千年が経ったことを今知ったかのように劣化してばらばらと砕け落ちる。

 淑女のように乱暴な魔力によって闇が吹き払われたそこに呆然と座り込んだ黒衣の美しい青年が、柘榴の色をした目を丸くして彼女を見上げていた。


 彼女(彼女)は、きゅっと機嫌よく目を細めて笑った。彼が愛した笑顔だった。


「ねぇ、私のものになる覚悟はできていて?」


 柘榴の瞳から涙が溢れ落ちて、千年の孤独の終わりをしめやかに告げた。





――――――





 その後は少し大変だった。


 彼は、白皙の美貌を赤くして泣きながら彼女に張り付き、失われた古代の言葉でもにゃもにゃと泣き言を言い、現代の言葉で「もう二度と離れない」と低く唸り、柘榴の瞳の溶けそうなほどぼろぼろ泣き、また古代の言葉をめそめそと言い連ね、彼女をぎゅっと固く抱き締め、幾度となく「もう会えないかと思った」と呟いてまためそめそしくしくするなどした。


 彼女は、そんな彼の背を撫で、ひたすらに宥めていたのだが、流石千年と少しの間一人を求め続けた魔物なだけありいつまで経ってもずーっと張り付いて泣いているばかりなので「そろそろ立って、一緒に来てちょうだい」とその耳にキスをお見舞いして泣き止ませた。


 うぶな少年のようにピシッと固まった彼の腕から抜け出した彼女が立ち上がると、伸びてきた手が彼女の手首を掴まえた。まだ潤んでいる柘榴の瞳と目が合って、彼女は小首を傾げて「何?」と囁く。


「……君と、一緒にここを出て、その後は?」

「貴方を頼りたいことがあるから、それまでは私のそばで好きに過ごしてくれていいわ。その後も、貴方の好きにして構わない」

「…………」

「どうしたの、言ってみて?」

「……いずれ、君はまた、僕を置いて逝くんだろう」


 そう言って、悲しい顔をした彼は掴まえた彼女の手に頬をすり寄せた。人と、魔物。歩む時間の違いすぎるもの同士の宿命。


 また泣き出しそうな彼をじっと見下ろしてしばらく思案した彼女は、やがてゆっくりと膝を折り、彼に視線を合わせる。その顔には、穏やかな慈しみがあった。


「――ならば、貴方が私と共に死になさい」


 事情を知らない者が聞けばぎょっとするような容赦のない言葉。けれど、そこには確かに深い愛が込められていて、それに気づいた彼がハッとする。それは、終わりなき者へ捧ぐ最上の愛の言葉だった。


「貴方の魂を約束で縛ってあげる。貴方のようなものにとって契約は絶対。だから、互いの魂をかけて縛りましょう?」


 堪えきれずに再び涙をこぼし始めた彼の頬を撫で、彼女は優しく微笑んだ。涙に濡れる美貌をそっと引き寄せて、冷たい唇にキスを贈る。


「私は貴方のもので、貴方は私のもの。死が二人を迎えに来るそのときまで……いいえ、死出の旅路のその先まで、ね」

「っ、うん……今度こそ、絶対に……!」

「だから泣かないで、愛しいひと。もう二度と貴方を独りにするつもりはないわ」


 ぽろぽろ泣きながら何度も頷く彼を、仕方のないこと、と苦笑して抱きしめた。


(寂しがり屋のこのひとを迎えに来るために、私はかつての“私”の形見を抱いて生まれたのね……ふふ、つくづく、お互いにどうしようもないほど惚れこんでしまったことだわ)


 死者のように冷たい、愛おしくてたまらない体温がこの腕の中にある幸福を、彼女はそっと瞑目して静かに確かめた。もう二度と、この傍らを離れるつもりはない。


最終話は明日の昼頃更新です。どうぞ最後までのお付き合いをよろしくお願いいたします。

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