第十夜.天文台の射手 後編
ふっと気づくと、そこはじっとりと重たい湿気の積もった石造りの建造物の中だった。
――ああ、夢か。
そうして、彼女はいつものようにはたとそう気づく。生まれてからずっと繰り返し見る夢なのだ。
どこからか差し込む青白い光で、湿気に濡れた石材がてらてらとまるで内臓かのようにぬめっている。その質感のリアリティは、いっそ感心するほど。じゃり、と床を擦る音が洞窟の中のように響く。
夢の中の彼女は、明瞭に“今”の意識でもってこの場所を眺めている。あちこちに点在する奥の見えない鉄格子に「ここは牢獄かしら」などと思考するのだが、夢の中の彼女の足取りは意識とは違い、夢になっている“過去”をなぞるように彼女が知らないはずの道順を辿っていくのだ。
不意に、すすり泣きが聞こえてくる。
いつもと違う、そう気づいて彼女は内心首を傾げた。しかし夢の中の彼女は弾かれたように顔を上げ、すすり泣きの聞こえてくる方へぱっと駆け出す。
いくつもの鉄格子の前を通り過ぎ、次第に青白い明かりが減っていく中を、夢の中の彼女は走った。知っている声なのだろうか、と意識の方で思いながらいつもと違う夢の中の景色を見つめる。
やがて、夢の中の彼女は奥まった場所にある一つの鉄格子の前にやって来た。
その鉄格子の中にはとっぷりと緞帳のような闇が満ちている。一切の光の差し込まないそこから、すすり泣きは聞こえていた。夢の中の彼女の白い手が鉄格子に触れる。刺すような冷たさがクリアに伝わってきた。
「――――」
何か彼女の唇から言葉が紡がれた。闇の中ですすり泣いている誰かへ声をかけたようだ。
視線の先、闇一色の黒が身を捩ったように見える。漆黒の中、鮮やかな柘榴色が垣間見えたような気がして――
「――君に、もう一度会いたいだけなのに」
闇の中から、重たい執着と確かな思慕の音色が縋るように響いた。初めて聞くはずの声なのに、どこか懐かしくて愛おしい音をしていた。
(貴方は誰?)
訊きたいことは夢の中の彼女の唇からはこぼれてこなくて、もどかしさを覚えるその間にくらりと視界が眩んで堪らず目を閉じる。
(私は、貴方を知っている気が……――)
――はっと覚醒して、彼女は見慣れたはずの天井を何だか知らないような気持ちで見た。
首がぐるりと一周痛むような気がする。就寝用の薄明かりの中で首を撫で擦った。
起きるにはやや早い時間だったがもう一度眠る気にはならなくて、彼女はするりと寝台を下りる。
いつも見ていた夢に変化があったからだろうか、どこか浮わついて落ち着かなかった。
夜に留まり続ける『浮遊天文台』には日光が差さない。そのため「朝刻」「夜刻」を定め、朝刻は館内に疑似太陽光の照明を灯し、夜刻は点灯する照明数が減る。
個人の部屋は明かりの調節が自在で、皆就寝時はそれ用の照明を灯すのだ。掠れた声で「点灯」と囁けば白々とした明かりがつく。一つ溜め息をついて立ち上がった。
シャワーを浴びて、ようやく意識が明瞭になった気がした。身支度を整え、いつものハイヒールを履いて職員階を出る。
昇降機で上がる先は三階。天文台所属職員の腹を満たす食堂の役を担うカフェテリアと天文台の心臓たる狙撃台、鷹の目である観測室が詰め込まれたエリアだ。
カフェテリアのキッチンには魔導式自動人形が配置され、朝刻夜刻問わずどんな時間でも温かいものが食べられる。
コーヒーには砂糖を二つ。やや甘めが彼女の好み。どんなときも最適且つ最良の魔力操作をするためには脳にきっちりと糖を補給してやるのが一番だからだ。
流石に早すぎる時間故、カフェテリアには誰もいない。窓際の席へ腰を下ろし、変わることの無い夜一色の成層圏の景色を眺めた。半ば無意識の癖で胸元の石に触れ、そう言えば夢の中の牢獄の闇から覗いた柘榴色はこの石とそっくりだったな、とぼんやり思い出す。
――『これだけは、全部違う僕たちの唯一のお揃いだね』――
不意に、そんな嬉しそうな声が脳裏に蘇ってきて、彼女は表情を変えないまま目を伏せた。こんなことを言って、少年のようにはにかんで見せたのは一体誰だったかしら。
(……生まれてこの方ずっと、誰かの魂の気配を感じ続けている。追い縋られるような、そんな感覚だわ)
そう、件の夢といい、こうして不意に浮上する謎の記憶の断片といい、彼女は自分の中に自分の知覚できない部分があって、その部分がずっと「追いかけられている」と感じているのを長らく意識していた。
(私、追いかけられるのは好きじゃないのだけれど。追いかける方が性に合っているもの)
繊細な指先が紅色の石をころり、と弄ぶ。自身を隅から隅まで完璧に管理していたい彼女にとって、自分が知覚できない己の中のブラックボックスの存在はやや不快であった。
(天文台を下りる日が来たら、その正体を探りに行くのもいいかもしれないわね……)
狼の金瞳が淡く細められる。成層圏の濃藍を写し取って尚、その黄金は明けの陽光の鮮やかさを灯していた。
――――――
外殻の異常に硬い“卵”の初襲来から一月が経過した。
「――以上が報告内容です。増加傾向からして今後はあの“卵”が主となってくるのではないかと、観測班の意見は一致しております」
観測班からの報告を首席用の執務室で聞きながら、彼女はふむ、と報告書を眺める。
一ヶ月の間で、アレが生み出しこの星へと送り出した“卵”の数はいつもと変わらない。しかしそこにあの硬い“卵”の占める割合は日を追うごとに増加傾向にあった。
現在、“卵”――ひいては異形の襲来数は一ヶ月に大体十五から二十の間を保ち、一日に複数の襲来があることはまずない。今度の件もその状態は維持され続けている。
しかし、現状硬い“卵”に対応可能な人員が少ない、と言うか、首席の名を戴く彼女一人きりだ。今ならまだ少ない襲来に都度呼び出されて対応するだけで済んでいるが、これ以上数が増えれば彼女も疲労して能力を十全に発揮できなくなっていくだろう。
「……地上への確実な到達、ねぇ」
「はい。今までと違って大気圏突入で外殻が割れない以上、天文台からの狙撃を避け、確実に地上へ到達することが目的なのではと推測しています」
「そんな気はしているわ。天文台が建造されてから十三年、異形は一度たりとも地上に到達できていないもの」
痺れを切らしても仕方ないわ、と彼女は無表情で首を振った。
「最悪の場合、落下地点を計測して地上での撃破を選択肢に入れる必要が出てくる。その場合は戦力を分けなければね」
「それは……」
「現代の魔導士の中で特に戦闘に優れた魔力傾向の持ち主が天文台に集められている以上、そこから人員を割いて地上部隊を編成するしかないわ」
「……そうですね」
苦い顔をした観測班員に「そんな顔をしないで。まだ仮定の話よ」と苦笑し、彼女は報告書をダウンロードした自分の端末を持って席を立った。
「貴方、この後は開発班への報告でしょう? あの“卵”の破壊に必要な魔力量や出力方向性のデータが欲しければ遠慮なく呼んで、と伝えておいて」
「奴らは端からそのつもりでしょうよ、首席」
「ふふ、まあそうね」
肩を竦めた観測班員に笑いかけ、開発班に報告を聞いてもらうの憂鬱だなーと呻く彼と一緒に彼女は執務室を出た。首を振りながら去っていく彼を見送って、さて、と身を翻す。
向かうは四階、狙撃訓練室だ。
「あっ、首席! こんばんは!」
「こんばんは、調子はどうかしら?」
「バッチリです!!」
ぶいっ、とVサインを突き出してくるのは金のおかっぱが綺麗な女、射手の一人である『白露』だ。その隣ではいつも一緒にいる褐色肌の美しい『日輪』が汗を拭っていた。
「首席も訓練ですか?」
「そうね……ちょっと力を借りたいのだけれどいいかしら?」
「勿論!!」
「ええ、首席の頼みとあらば」
助かるわ、と微笑んで彼女は訓練用狙撃砲を起動する。
これは、発射の瞬間までは本物の魔導式狙撃砲と何ら変わりなく動くのに、発射の直後に放たれた魔力弾を砲身へ再吸収する特別な魔導回路を組み込んだ優れもの。開発班渾身の品だ。
微かな駆動音を立て始めたそれをするり、と白い手で撫で、彼女は二人を振り返った。
「私以外で、あの“卵”を破壊できる射手を育てなきゃと思っているの。訓練メニューを考えたから、ちょっと試してみてほしいのよ」
「「……頑張ります」」
この首席が考えた訓練メニューなんて絶対キツいやつだ、と白露と日輪は恐々顔を見合わせたが「死なば諸とも」と手を握り合って頷いたのだった。
「出力方向性の調節は二人とも得意よね?」
「ええ、それなりに」
「超得意~!」
「よろしい。それでね、あれの破壊において重要なのは狙撃に込める魔力量よりも、どちらかと言えば出力方向性を鋭質へ傾けることではないかしらと感じたの」
「鋭質に~? あっ、なるほどぉ、面での破壊じゃなくて、点で貫いて崩壊させるってことか~!!」
「その通りよ、白露」
「なるほど、では私たちは鋭質の出力を上げるようにすれば良いと言うことでしょうか」
「ええ、そうね」
こっくりと頷いて、彼女は訓練用狙撃砲をとん、と軽く叩いた。注ぎ込んだ魔力を弾丸に変換するのは射手ではなく魔導回路の刻まれた砲身だ。しかし、その弾丸の性質を決めるのは射手である。
「私の推論にはなるけれど、要求される鋭質出力は120以上よ――できる?」
見定めるように細められた金の瞳。赤い唇が柔らかく弧を描いている。白露と日輪はごくりと唾を飲んだ。鋭質出力120だなんて、恐ろしいことを簡単に言ってくれる――けれど。
「「やります」」
二人は声を揃えて答えた。敬愛すべき首席から期待されているのだ、できるできないではない。やるのだ。青い瞳と茶の瞳が爛々と輝く。
その答えに、彼女は小首を傾げて笑みを深めた。世が世なら傾国と呼ばれそうな、老若男女の心を絡め取る完璧な微笑である。勿論、二人はとっくに虜だ。その自覚がある。
「ふふ、よろしい。ならば、やってもらいましょう」
彼女の手が訓練用狙撃砲を指し示す。まずは撃ってみよ、とそう言うことだ。白露と日輪は頷いて、緊張しながら進み出たのだった。
――――――
魔導式スコープの視線の先、穿たれた“卵”が内から崩壊していく。内側のものも一緒に崩壊するのを確認してスコープから目を離す。
「まさか二月で襲来内容の全てがこれになるとはね……」
増加傾向にあり、占める数を増やしていくだろうとは予測していたがそれ以上の推移となった。肩を竦めた彼女へ、傍らに控えていた開発班員が「流石におっつかねぇですワ」と白目を剥いて首を振る。
「先月仮定で言った地上部隊の編成がまさか現実になるとは思ってもみなかったわ」
「更に言えばその隊長が首席になるなんて思わなかったっス。オレらの研究対象が……!」
「あの“卵”を撃てる射手も増えたもの。ならば一番動ける人間が下へ降りるべきよ」
「クソッ、国際協働軍めッ……!!」
「ふふ、射手でなくなるわけではないから戻ってくるわよ。貴方たちが開発中の自動狙撃砲が完成したら、ね」
「爆速で完成させてやりますワ」
「楽しみにしているわ」
次席の雪星を筆頭に、白露、日輪、その他三名が一月の訓練の結果、件の“卵”を破壊できるようになった。
そして、それとほぼ同時に、襲来数の全てをこの“卵”が占めるようになったため、万が一の撃ち漏らしを想定して地上部隊が編成される運びとなったのである。少数精鋭となるその部隊の隊長に選ばれたのが首席の彼女だ。
永世中立国に置かれた国際協働軍総司令部で待機し、浮遊天文台からの報告を元に落下予想地点へ出撃する。撃ち漏らしがなければ出番のない部隊に射手の首席を引き抜くのは相当揉めたらしい。
だが、今後襲来数がどう変化していくかは誰にも分からないのだ。万が一に備えるなら多くの一般魔導士を配備するより、少数の強者を置く方が理に適っている。
肉弾戦になっても対応可能な魔導士となると射手より更に限られる。そも、現代の実力派魔導士はよっぽど魔力傾向の相性が悪くない限り『浮遊天文台』に集められているので、地上部隊の構成員もほとんどが『浮遊天文台の射手』からの引き抜きだ。
盛大に溜め息をついた開発班員の目が彼女の個人端末の画面をふと見た。そこに表示された電子書籍のページをさらりと読んで、彼は片眉を跳ね上げる。
「んぇ? 首席、今更『青月の聖女』読んでんですか?」
「ええ、ちょっと気になることがあってね」
「ふーん、さいですか。首席が気になるんなら何らかあるんでしょーね」
金の瞳がきゅ、と淡く弧を描く。
「戦力は多ければ多いほどいいもの。そうでしょう?」
白い指先が五十年前の記録をなぞる。
――『柘榴の君』と言う名を、狼の金瞳が見つめていた。
次章、最終章となります『解呪の乙女』来週土曜、前編投稿です。