黒髪 二
「誰、誰、その相手って……」
と、言い終わらないうちに、窓際に置かれたベッドから身軽に起きあがった弓は逃げてしまって、後を追った日輪子も開けっぱなしのドアの向こうのリビングに出ると、すでに弓は軽く後ろ向きにジャンプするようにソファに飛び乗ったところだったから、普段はぼんやりしているこの子が時折見せるすばしっこさは、なんだか子猫のようだと感心しながら、ソファの前に敷きつめられた毛足の長い、白と栗色がまだらになったカーペットの上まで行くと、日輪子は弓を真正面から見上げる場所にぺたんと座った。
そのまま口を不機嫌そうにぎゅっとつぐんで、あからさまな横目で視線を逸らしている顔を見ていると、思わず可愛いとつぶやいてしまいそうで、そのまま黙って鑑賞していたい気もしたのだが、やがてそれが、もっと詰問してほしいという弓なりの媚態だとわかったから、
「ねえ」
と強く言って、ソファに広がったスカートの両端をぐっとつかんだ。
「あそこの人……」
とだけ答えて、弓は背後の、六角荘の入り口にあたる方角を指さす。
「えっ、まさかあなたのお姉さん?」
思い切りしかめた顔を激しく横に振るから、日輪子は二の腕を隠すほどに長く垂らした自分の黒髪の先をいじりながら少し考えていたが、
「もしかして、あの管理人さん?」
と言うと、弓は一つ、小さくうなずいた。
訊いてみると、弥尋が裏庭で管理人の仲西すみれと親しげに話しているのを、半月ほど前に廊下の窓から見たのだという。
「半月前っていうと、まだ九月よね。わたしがここに越してきたのが八月三十一日で、その後すぐに、あの仲西さんって人が来たんだから、初対面の挨拶でもしてたんじゃない」
「あの人は、そんなことしない」
と、弓が小声で言った。
「だったら直接彼に訊いてみればいいじゃん。何話してたのよ、って」
「そんな……」
「そもそもあんたたち、どういう関係なの? 隣に住んで付き合ってるなら、いっしょに住めばいいのに、弓はわたしと暮らしはじめるし、あっちも男の同居人を引っぱり込むし」
「べつに、なんにも」
「え?」
「あたしはあの人を見ていられればいいの」
「何、それ、じゃあ、弓が勝手に思ってるだけってこと?」
「ううん」
と、弓は瞼を閉じて、ゆっくりと頭を横に振っていたが、
「あの人もあたしのことを思ってくれてるけど、口に出しては言わないの。なんとなく、ちょっとずつ、ずーっとそんな感じで、でも、あたし以外には誰も見ていなくて……」
「そんな、昔話の王子様と村娘じゃないんだから」
「うん、あの人は夜の王子様なんだって」
「ちょっ、ちょっと、何、それ」
と、日輪子が吹き出すと、弓も我慢ができずに笑いだしてしまった。
「……それはね、あの人のお母様が言ってたの。あの人が近くにいないときにあたしをこっそり呼んでね、何を言うのかと思ったら、小声でそんなこと言うから、あたしも、そうだったんですか、と驚いたふりをして」
日輪子は弓から、弥尋の母親が以前から精神を患っていたけれど、弓が食事の世話をはじめた頃には、死病が勢いを増すにつれてそちらの病状は落ちついたと聞いていた。けれどもわからないなりに、いったん精神の荒廃した時期を過ごした人は、そういった妄言を口にしがちな状態になるのかもしれないと思って笑いを呑みこんでしまったのだが、それにしても自分の息子にそんな愛称をつけるなんて、たとえ妄想の症状だったとしてもどこか微笑ましい。
実際、隣室に住む須々木弥尋は、そう呼ばれてもおかしくないほどの、どこか透きとおった影のあるような、痩せぎすで美形の青年だった。
「そのお母様って、有名な方だったんでしょ。そういえばわたし、須々木沢子って名前、見たことがあるなと思って、気になって検索してみたら、昔、たくさん映画の脚本を書いた人だったんだね。子供のころの夏に、戦時中の家族の生活みたいな映画をリメイクしたドラマを観たけど、あれの元になった話を書いた人だったんだなあって」
「よく知らないけど、リビングの壁は天井まで本がぎっしり」
「ふうん、お隣の部屋は広いんだろうし」
六角荘のアパート部分は三階建で、各階に三つずつ、合わせて九つの部屋があり、裏庭に面した北東側には各部屋に続く廊下があるのだが、行き止まりの北西の角部屋の前で廊下は途絶えているから、縦三つの角部屋は廊下の幅だけ居住面積が広くなっていて、このアパートのなかでも特別感を漂わせている。
「でも、お母様が亡くなって、あの王子様はどうやって生活してるの」
「知らない。お母様のお金があるのかも」
「そうかな。お金がある人はルームシェアなんてしないでしょ」
「ふうん……」
と、弓は小首をかしげてから、
「あの人は持病があって、働きに出るのは難しいみたい」
「こりゃ前途多難だな」
小声でつぶやいた日輪子のことばが聞き取れず、弓は、ん? と息を漏らしたまま考えごとをはじめたようで、そんな様子を見ながら、日輪子もまた弓のことを考えている。
小学校、中学校を通じてクラスメイトになることが多かった弓は、友達でいられることが誇りに思えるような存在で、というのもあの頃は、天才少女などと渾名される評判の子供だった。とにかく記憶力がよくて、数字に強い。数学の難問も自分なりのやり方ですらすら解いてしまったのだけれど、やがて公式を使って解く問題が出題されはじめると急に勉強に興味を失ったようで、高校は共学の進学校に合格した日輪子に対して、弓は誰でも入れるような女子校に進んだ。隣県の国立大学の哲学科を出て、実家から通勤できる出版社に就職した日輪子が久しぶりに再会してみると、子供の頃に知っていた弓とほとんど変わっていなかったことに、なんて変わった子なんだろうと逆に驚かされたのだった。
誰に対してもものわかりよく振る舞う優等生だという印象も昔のままなのだけれど、自分の守りたい部分を守ることにかけてはひどく頑なでいて、そこに触れる可能性がある相手にはつねに無口でぶっきらぼうなのも以前と同じで、日輪子が今も自分を受け入れてくれる人だとわかると、とたんに子供のような無邪気さを見せてくるようになった。
そんな、いつまでも少女ぶりたがるような相手に接すれば、普段の日輪子なら、いい大人が現実を見ろよと突き放したくもなるのだが、弓の場合、人生で与えられた時間や持ち前の頭の良さを、世間的に損な生き方だと思われても、こうありたいという自分をそうあらしめるためにだけ使うことが、一種の潔さを感じさせる。少女ぶっているわけではなく、頑なに少女性を貫いている。
あいかわらずかっこいいんだな、と日輪子は思った。
実は彼女は、一見子供じみた考えかたで、ときおり教師をやり込めてしまった子供時代の弓を見て、しかも自分が悪目立ちをしそうな場面ではふっと身を退いて内にこもってしまう様子を観察しながら、先に老成してしまった孤独のようなものを感じてひそかに憧れていたのだった。弓のように賢くなりたいと思って成績を伸ばすために必死になったのだけれど、その頃には相手は受験競争への参加そのものを、日輪子のほうは少女時代の自分を放棄してしまっていた。
ずっと心に引っかかっていた弓に再会してみると、スーパーのパートで働いている、想像以上に「ただの人」になっていたのだけれど、弓がずっと守ってきた高潔な少女性とでもいうべきものが、通俗的に浪費されることなく保たれていることに驚かされ、しかもそれが、これも負けず劣らず世間から清潔に隔離されたかのように見える須々木弥尋という対象に全力で向けられているという稀な事態に自分が直面していることにあらためて思い至ると、急にざわざわと胸が沸き立って、なかば冗談で口にしてしまった、自分の真壁に対する急ごしらえの思慕を一気に越える高揚を感じた。
目の前に投げられた両手首をつかまえて、激しく揺さぶりながら、
「うん、大丈夫だよ。弓は案外逞しいから。わたしも応援してるし」
と言うと、それまで眠たげにしていた目を見開いた弓は、
「笑ってごめんね。応援したいのはあたしもだよ。でも……」
と、少し表情を曇らせながら言った。
「もしもあの人にあたしが触れるようなことになったら、何かすごいことが起こりそうな気がしてるの」




