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◆菩薩のいいんちょ◆

 ガードレールに腰掛け、パックの牛乳をちゅうと飲みながら西の空を眺めております。

 いつもより一時間ほど早い出勤です。

 陽が傾き、夜の気配が漂い始めた頃合いで、いわし雲も淡香(うすこう)に染まりかけております。

 人々が織りなす様々な活動(くらし)が終息に向かっている――なんとなく胸中がきゅっと締め付けられます。


 人通りも(まば)らな歩道の彼方から、女性が一人こちらへと向かってくるのが見えます。

 近付くにつれ、胸の奥がじんわりと熱を持ち始めました。


 上下黒っぽいスーツにバッグを提げた姿は、私も初めて目にするものです。

 顔を上げた彼女の眼鏡が一瞬きらりと光り――こちらに気が付いて、歩きながら軽く微笑を浮かべました。


 目の前に立った彼女は軽く目礼して、


「お久しぶりです。随分髪も短くされて――スッキリいたしましたねえ」


 眩しそうな顔をしました。


☆☆☆


 裏口から事務所へと(いざな)い、二人掛けのソファをすすめ、私はいつもの椅子に座りました。

 テーブルにペットボトルの温かいお茶をそっと置きます。

 来る途中観音裏で買い求めた、生醤油たっぷりの煎餅を目の前にして、彼女は「我が意を得たり」と軽く頷いて、バッグから何やら取り出しました。


「揚げ饅頭です。仲見世の」


 六個入りです。こんなに?


「ご丁寧にどうも。そういえば餡子(あんこ)お好きでしたね。お夕飯に差し支えませんか?」

「一個にしておきます。歩いて帰りますから、カロリーは消費できるでしょう」


 澄まし顔で仰いました。

 彼女のお宅は鳥越です。おおよそ二十分ほど歩くことになります。


「残りは神幸(みゆき)さんが召し上がってください」

「まじっすか? (かたじけな)いです」


 一個ずつ食べて二個お持ち帰りいただくとして……残りを夕餉(ゆうげ)にしましょうか、と右手の指を折りながらゆっくり数えていると、

 

「少し元気になったようですね。労働意欲があるということは」


 眼鏡奥の目を細め、どこか揶揄(からか)うような響きがあります。


「おかげさまで。『働く』というほどのこともありませんが」


 言いつつ、早速お饅頭に手を伸ばしました。丁度おなかも減っております。

 彼女は煎餅を手に取ると遠慮することなく、気持ちよくバリッバリ咀嚼しました。



★★★



 昨日「いいんちょ」と話していて彼女のことを思い浮かべた私は、家に帰り着くやノートパソコンを開き、久し振りに彼女にメールを送ったのでした。


 即座に反応した彼女と日付けが替わるまで近況を遣り取りいたしました。


 今日、千束方面(所属する支部があるそうで)へ用事があるという彼女が帰りに寄ってくださるというので、開店前に待ち合わせることとなったのでございます。



☆☆☆



「お忙しい中ご足労いただき申し訳ないです。……委員長もすっかり社会人て感じですね。スーツ姿もお似合いです」

「その女の子じゃないですけど、『委員長』はおやめください。それこそ委員長でもないのに」


 グレーのストッキングに包まれた、美しい曲線を(まと)う両脚をきっちり揃え楚々と座る彼女は、若干はにかんで膝をポリポリ掻きました。

 見慣れたポニーテールではなく、背中にかかる黒髪を下ろした様は、嘗ての姿より一段大人びた雰囲気です。ちょっと見惚(みと)れてしまいました。


「落ち着いたら連絡を……いつまでもお待ちしております、と言ったのはわたくしですから。ご連絡いただいて嬉しかったです」


「お心遣い痛み入ります……ところで――その後『お兄様』とはいかがで?」

「? おに――兄といかがとは――」

「普通に『お兄様』で結構ですよ――無理すんなブラコン」

「ニャっ?! ニャにおーーーっっっ?!」

「バレバレですから。何を今更」


 私が兄を「兄様」と呼ぶようになったのも彼女の影響なのです、お母さま。

 試しに「兄様」と呼んでみたところ、少し驚いた風でしたが満更でもない顔をされましたので、「こりゃイケる!」と密かにガッツポーズをした私は、以来、そう呼び続けております。



 彼女は鳥越明神裏の古民家(精一杯持ち上げてこの程度の外観)に実兄と二人暮らしです。

 彼女の「お兄様」は、パート勤務の傍ら行政書士を副業で営んでおり、彼女も春からお手伝いされているそうです。


「補助者です。私も資格取得を目指して、この間受検しました。ああ、華菜も一緒に」

「華菜……お懐かしい、柔道少女ですね。彼女も進学はおやめになったのでしたね」


 思えば、このお二人だけでした。お昼を一緒に過ごしてくだすったのは。


「高校時代、お二人には本当によくしていただきました。あらためて御礼申し上げます。ぼっちの私なんぞにお声がけいただき……」

「神幸さんはソロプレイヤーとして既に大家(たいか)でしたからねえ……ご迷惑かも、とは思いましたが……」

「で――お兄様とは如何(いか)に」

「容赦ないですね……ベッタベタに血が繋がっております、どうもなりませんよ。わたくしは側にいれるだけで……」


 あっさりと観念したものか、急にサバサバと吐き出しました。


「それと……お兄様はどうやら、『ご卒業』と相成ったようで」

「な、なんとっ?! まさか……『街の人に聞いた! 今週の拗らせ童貞第1位!』殿堂入りの『お兄様』に限って! バカな、青天の霹靂っ!」

「そんな噂はどこにもありません。ごく内輪の話でしょうに」


 私なんぞ、最低あと八年は我慢しなくてはならないかもしれないというに……ちくしょう。


「み、美冬(みふゆ)ちゃんはまだ『同志』ですよね、ね?」

「同意を求めないで。わたくしは『好き』で拗らせているのですから」


 背筋を伸ばしコクコクお茶を流し込む彼女は全く慌てた素振りもなく、つるりとした白い能面のような顔でございます。

 私は饅頭を口一杯に頬張ったまま、しばし脱力したのでございました。しょぼーん……。



☆☆☆



 こちらに向き直った彼女は、キリッとした顔で眼鏡の縁をキラリ光らせ、


「それはそうと神幸さん。生ける(しかばね)だった貴女(あなた)が気力を取り戻したということは、ここでのお仕事があなたを蘇生させた(何気に辛辣)ということですか? お悩み相談――とは違うと仰っていましたが」

「ですね。私の方が勝手に『お悩み相談』にしてしまい、失敗することが多いです。最初に兄様から命令されたのは……」


《——多少なりと落ち込んでいる人の話を、「()()()」「()()()」聞いてあげてほしい、それだけだ》


 ――それだけのことが、これほど難しい……。

 ただ、おかげで私に欠けている(と思われる)感情の正体が、朧気(おぼろげ)ながらわかってきた気もいたします。



 瞬きもせず無言で聞き入る彼女はやがて。


「――素敵なことと存じます。お優しいお兄さまです……あ、毒舌は控えてくださいね神幸さん」

「毒舌ですか私?」

「多少。それが無ければ、殿方からも引く手数多(あまた)でしょう」

「まさかの美冬ちゃんに言われるとは……」


 ふと負け惜しみ(?)で、


「こう見えて、私には婚約者(?)ができたのでぃす!」

「まあ、それは重畳。どのような殿方で?」


 余すことなく、詳細をたっぷりとご説明申し上げました。



☆☆



 聞き終えた美冬ちゃんはやや身体を引き、憮然(ぶぜん)とした顔でぽかんと口を開け、


「そ、それはまた……」

「爽太くんもやがて夢から覚めて……現実と向き合うことになるでしょう。それは仕様がないことです」



 ふいに菩薩のような柔らかいお顔で、彼女が呟きました。


「それは……どうでしょうね。お二人は、出逢うべくして出逢ったのかもしれません」


 眩しい微笑を向ける彼女の顔を、私は仏さまでも仰ぐように、目を細めて見つめたのでございます。

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