七・三ヶ月後の二人と、これからのこと
アリシアがダリルを連れ帰り、領地に戻って既に三ヶ月が経った。またアリシアが王宮で学んだ書類承認システムを始めとする知識や技術は、ゲネシス公爵領でもう根付きつつある。やはりアリシア直轄の地域ではその利便性が伝わるのも早く、今年の領内税収トップを狙えそうだ。しかし、アリシアの兄や両親の直轄地も外国との貿易を新しく開拓したらしく油断はできなかった。
そして、アリシアとダリルであるが、結論から記すのであれば二人は婚約をした。アリシアがただの少女のようにわたわたとしている内に、ダリルはさっさと外堀を埋めにかかったのだ。普段であれば政敵やライバル、友人知人や使用人の動向さえもおおまかに把握しているアリシアであるのに、ことダリルの動きに関してはそれが遅れ対応が後手に回ってしまった。ダリルの手腕が素晴らしかったということにしておこう。
いつの間にか両親や兄に気に入られた様子のダリルは、顔色一つ変えずにアリシアの婚約者の座を手に入れたのだ。アリシアはもう呆れ半分で笑うしかなかった。
いろいろと急ではあったが、優秀な為政者であっても公爵家を継がないアリシアにとってダリルは理想的な婿だった。ダリルは婚約者になったからといって横柄な態度をとるわけでもなく、丁寧で従順な騎士のようにアリシアに寄り添っている。アリシアの長話に文句も言わず付き合い、思いついた政策に有用性があるかを一緒に考えてくれ、よそ見もせずに彼女だけを見ている。ここまでされては反対する理由など、どこにもなかった。始めこそダリルの言動に狼狽えてばかりだったアリシアだったが、三ヶ月経った今ではもう慣れつつある。ただ……。
「あの、ダリル?」
「何でしょう、アリシア」
「わたくしは確かに、買い物に付き合ってくれたお礼に何か一つお願いを聞きますと言いましたが、あの、これは一体?」
現在アリシアは、ソファに座ったダリルに後ろから抱きかかえられている。ダリルの足の間に挟まるという、小さな子どものような格好だ。目の前のローテーブルにはたくさんの美味しそうな茶菓子と飲み物が並んでおり、一見してお茶会でも始まりそうな雰囲気であるのに、ダリルはアリシアの肩に頭を乗せて動かない。
「そうですね、強いて言うならスキンシップでは?」
「えぇ……?」
婚約者になっても、ダリルは敬語のままだ。アリシアは敬語も敬称もいらないと言ったが、ダリルは首を縦に振らなかった。敬称だけは取れたが敬語のままなので、アリシアもそれにつられて敬語だったりそうでなかったりしている。それでも二人は着実に心の距離を縮めていた。ダリルは存外に人の懐に入るのが得意らしい。
今日は午前中にシムラクルム侯爵領の菓子職人と商人がやってきて、いくつかの菓子を買い付けたのだ。砂糖で一財産を築いたシムラクルム領の菓子はさすがとしか言いようがなく、味も細工も素晴らしかった。主催する茶会やパーティーで出すのが今から楽しみで仕方がない。流通が整備できれば、安価なものを市場に出してもいいかもしれない。
アリシアはそのあとも複数の商人と交渉をし、ドレスやら布やらフルーツやらを購入し、本や宝石や野菜などを購入させた。それらは予定にはなかったが、馴染みの商人たちが近くに来ているというので呼んだのだ。
午後になってもサンドイッチを軽く摘んだだけで、そのまま休憩せずに交渉を続けようとするアリシアに、ダリルは一度だけ苦言を呈した。しかし、彼女が『この買い物に付き合ってくれたらお礼に何か一つお願いを聞きますから』と言うとあっさり分かりましたと引き下がったのだ。そのお願いがこの状況である。やはりまだアリシアには、ダリルの言動の予測はできないようだった。
「アリシアはすぐに動き回ろうとするので、暫くここにいてください」
「え、あ、そういう?」
「そういうもこういうもありません。選考会の時から思っておりましたが、貴女は休むという行為が下手でいらっしゃる」
「下手ってなんです、下手って。ダリルだって人のことを言えないでしょう。むしろわたくしより働いていません?」
「私は適宜休んでおります」
「あら、わたくしにずっと付きっきりでそんな暇はないように思いますが?」
「アリシアを休ませつつ、私も休んでおります」
つまり、現在休んでいると言いたいのだろうか。アリシアは眉間に皺を寄せた。
「もっとほかになかったのですか、お願い。駿馬が欲しいとか、家具を一新したいとか」
「あの程度のことの対価にしては豪勢でいらっしゃる。しかし、そもそもそういう話ではないのですよ」
「ううん……」
「では、何でもいいので菓子を一つ取って、私の口に入れてください」
「え? はあ、まあ、いいですけど」
アリシアは言われるがままにテーブルの上にある小さな焼き菓子を一つ摘んで、ダリルの口元まで持っていってやった。あまり行儀のよいことではないが、別に誰かが見ているわけでもなし構わない。けれど、はた、とアリシアは固まった。
「ん、ありがとうございます」
「……あの、ダリル?」
「はい」
「これは、何というか、とても近いのではなくて?」
「何がです」
「何がって、あの、わ、わたくしたちの距離、が……」
頬が触れ合うぎりぎりのところで、二人は黙って見つめ合った。ダリルの表情は読めなかったが、反対にアリシアは耳まで真っ赤にしている。その沈黙を破ったのはダリルだった。
「ふはっ、今更ですか」
ダリルは、またアリシアの肩に顔を埋めて笑い出した。口を引き結び表情をあまり変えないダリルだったが、最近ではアリシアの前でだけならこうやって笑うこともある。婚約者として気を許してもらっているようで、そんな特別を嬉しく感じているのはアリシアの秘密の一つだ。しかし、今は優越感に浸っている場合ではない。
「わ、笑わないでくださいな! だって、さっきまではどうしてこんな状況になったのかが分からなすぎたのですもの!」
「くく……っ、冷静になってみると近いと?」
「そうです! とても結婚前の男女の距離感ではなくてよ!」
「それはアリシアが知らないだけです。普通ですよ、普通」
「え」
「大体、エスコートだってダンスだって体を密着させるでしょう。それと変わりません」
「そ、そういうもの、なの?」
「ええ、そういうものです。ですが、こういったことは公にしないのがマナーですからね。ご婦人方の集まりであっても言いふらさないほうがよろしいですよ」
アリシアは一瞬だけ口を閉ざし、そしてダリルをゆるく睨んだ。
「ダリルがそう言う時ってほとんど嘘ですよね」
「まさか、本当のことです」
「貴方が平然と嘘を吐くタイプの人間だということは、もう知っているんですよ……」
この三ヶ月だけでも、どれ程その嘘に踊らされたか。アリシアはふうとため息を吐いた。婚約者は必ず朝にキスをするだの、手を絡めて繋ぐのだの、一日に一回はぴったりと寄り添って愛を囁き合うのだの。ダリルの嘘は、ほかにもいくつかある。この生真面目そうな騎士が嘘を吐くということ自体は始めはひどく衝撃的だったが、けれど別に害のないものだからと放置をしているのが現状だ。
「お嫌ですか?」
「別に……その、嫌ではありません。少し恥ずかしいというか、照れているだけです……」
「では、慣れてください。こういうのは遅いか早いかのどちらかというだけです」
「……それは本当?」
「さあ?」
「え」
「ふ、ははっ」
今度は顔を上げたままで、ダリルが笑った。なんというか、下手な笑い顔だとアリシアは思う。眉間に皺が寄ったままで、無理矢理に口角が上がっているような不格好な笑顔だった。それを指摘するとダリルは『笑うことの少ない人生でしたので、笑い方を忘れてしまったのでしょう』などと言っていた。
いつ見ても、不格好な笑顔だ。でも、アリシアはこの笑顔に弱かった。自分のことを笑われているというのに、ダリルが笑顔になるとどうにも強く出られない。アリシアにとってはこんなことは初めてのことで、けれどどうしてダリルの笑顔に弱いのか、その理由にはまだ目を背けていたい気分だった。
「人のことを馬鹿にしてませんか……?」
「くく……はあ、してませんよ。慣れていただけたら嬉しいという話です」
「嬉しいの?」
「ええ、とても嬉しいです」
「そう、では、そうですね。ダリルが喜ぶのなら頑張ってみますけど、あの、お手柔らかにお願いしますね」
「……」
「ダリル、顔が」
「アリシアが突然可愛いことを言うのが悪いのでは?」
「わたくし、貴方のそういうところが本当に分からないの」
ダリルは、たまにひどく怖い顔をする時がある。これは、アリシアのことを可愛いと思っている時の表情らしい。いっそのこと嫌われているのではないかと思う程の恐ろしさだが、どうやらこれは本当のことらしく、何故かアリシアは彼女の兄に『そういう感情を詳しく聞いてやるんじゃない』と咎められた。
「このままではいけないので、話題を変えましょう」
「何が……? まあ、いいですけど」
「そうですね。アリシアは、クニクルス伯爵令嬢の件、上手くいくと思いますか?」
「ニア様? そうねえ……」
王太子妃の選考があんな形で終了してしまったものの、王太子妃候補として集まった令嬢たちには規定より少し多めの報奨が与えられた。報奨の上乗せにはあの騒ぎに参加させてしまったことへの謝罪と軽い口留め料が含まれていたが、どちらにしろ公にしなければならないことが多すぎたのであまり意味をなさなかった。
王子エドガーの失態は、瞬く間に貴族の知るところとなった。選んだのが、ニアとアリシアだったというのも悪かったのだ。
ニアの父、クニクルス伯爵は爵位こそ上から三番目の伯爵位であるが、かなりのやり手だ。外国からの使者の中には国王との謁見が終わり次第、すぐに彼に会いに行く者もいるくらいのコネクションの持ち主である。領地は田舎と呼ばれる地域にあるが、彼の代になってからの発展は目覚ましいものがあると評判で、既に下手な侯爵家よりも多くの富と名声を持っていると有名だ。
そんな勢いのあるクニクルス伯爵の娘を妃にしようとした挙句、古くから権力を持つゲネシス公爵家の娘をあろうことか側妃にしたいだなどと、普通に考えて正気の沙汰ではない。アリシアはどうしてそれが受け入れられると思ったのかを、純粋な気持ちでエドガーに問いただしたかった。両家と二人の令嬢への尊敬の念がひとかけらでもあれば、ああはならなかっただろうに。
ちなみに、アリシアが側妃を持ちかけられた時にエドガーを護衛していた近衛は、直接彼に考え直すよう進言していたそうだ。そしてそれを不敬だと咎められ、王宮の地下牢に入れられていたらしい。騒動が片付き、すぐに地下牢から出されたらしいが、その優秀な近衛は職を辞した。
王族であることの驕り、自身への根拠のない自信、諫言をする者を遠ざける愚行。これら全てが次期国王に相応しくないとされ、エドガーは王太子の地位をはく奪された。現国王の次は、エドガーの妹である王女が女王として君臨するのだ。血統が正しい者に戻ったと言って憚らない者もいるが、その不敬ともとれる発言に対して否定する声は少なかった。
そして、一番の被害者であるニアとアリシアには、報奨とは別に慰謝料が支払われた。慰謝料とあるが内容としては金銭だけではなく、アリシアには魔法剣の騎士であるダリルが下賜されており、ニアには――。
「まさかニア様が殿下を欲しがるなんて、さすがのわたくしでも予測不能でしたわ」
「あれには何の意味があったのでしょう。復讐でしょうか?」
「どうでしょう、わたくしはそうは思いませんが」
ニアには、エドガーの身柄が渡された。ニアがそれを望み、彼女の父であるクニクルス伯爵が王家と交渉をしてそれを実現させた。身柄というと犯罪者のようだが、それ以外に言いようがないのだ。そのまま婿入りする以外にエドガーの身の振りようはなさそうだが、現在二人は婚約関係にない。
一応未遂で済まされたことと現王の直系が二人しかいないこともあり、エドガーは王位継承の順位を下げられはしたものの未だに王族である。けれど今回の一件で確実に信頼を地に落とし、王宮では持て余されるだけの人になった。表面上はそんな憐れなエドガーを、ニアが慈愛の精神でクニクルス伯爵領に呼んだという話になっている。
「では、何の目的でクニクルス伯爵令嬢は殿下を?」
「ニア様に直接聞いたわけではないので、わたくしの独断と偏見での見解になりますがよろしくて?」
「ええ、もちろん」
「まず、ニア様は“復讐”という言葉自体に忌避を感じるでしょうから、そもそもそういう発想にすらいきつかないでしょう。ですから、本当に彼女が自分の意思で殿下を望んだのであれば、復讐はあり得ませんね。大体、確かにわたくしたちは面倒に巻き込まれましたし家の尊厳を傷つけられましたが、結果だけを見れば損害はそこまで大きくありません。ただ、ここで言うところの損害とは、感情を計算に入れていない場合のみです。ニア様は期間中のほとんどを殿下と過ごされていましたから、あの方のあの言い分にひどく傷ついたのは事実でしょう」
アリシアが一方的に話すのを、ダリルは目線だけで返事をして静かに聞いている。話し過ぎたとアリシアがここで途切れさせると、続きを促されるだけなので最近ではもう気にしないことにした。
「傷ついた、けれど、殿下を手元に呼び寄せた。相反するようですが、彼女は面白い人ですからね。もしかすると、本当に二人でなら苦難を乗り越えられると信じていらっしゃるのかもしれません。王位継承権自体のはく奪はされなかったにせよ、現状、エドガー殿下はただの邪魔者でしかないのです。味方はおらず、今まで彼の周りにいた人間は軒並み逃げて行った。自業自得ですが、その状況だけを見るのであれば“かわいそう”ではあるかもしれません。一度は恋した人が“かわいそう”だから、今度こそちゃんと二人でやり直そう……なんて、いえ、そこまであの人、お花畑かしら……」
話しながら、アリシアは悩みだした。ニアは確かに貴族としての知識も覚悟も足りてはいなかったが、頭が悪かったわけではない。少なくともアリシアはそう感じていた。さすがにそこまで感情で動くだろうか。
「では仮定として、クニクルス伯爵令嬢はそれでいいとしても、クニクルス伯爵はどうお考えなのでしょう。娘を傷つけた相手をわざわざ自領に引き込むメリットがあるのでしょうか」
「え? クニクルス伯爵については分かりやすいですよ。ニア様は一人娘ですから、殿下をそのまま婿に貰うつもりでしょう」
「……そう、なのですか?」
「そんなに意外ですか? 殿下は王族です。しかも一応、王位継承権をも持っていらっしゃる。現在の継承順は先代王弟閣下の血筋よりも低くなっていますが、それでも王族は王族です。本来ならば伯爵家に婿入りするようなことはありませんからね。王族の血を取り込むことによって家の繁栄を狙うのは、おかしなことではないでしょう。普通の貴族であれば、そこに娘とはいえ個人の感傷など加味しないでしょうから。というか、こちらの方が説得力があるんですよねえ……」
「説得力とは?」
「クニクルス伯爵が主体的に殿下を欲しがったというのであれば、むしろ簡単なんです。目的が明確ですからね。娘を傷つけた責任をとらせるという形で丸く収まることですし、持て余しているとはいえ現国王の第一王子を王宮で飼い殺しにするにも限度があります。殿下は出自が複雑ですし、放っておけば邪魔に思った誰かが彼を深淵に隠してしまう可能性だってあります。おそらく、国王夫妻もそれは望んではいないのでしょう」
最近流行りの氷を入れた冷たい果実水を口に含んで、アリシアはふうと息を吐いた。話すのは好きだが、こんなに長々と話しているとさすがに疲れた気もする。けれど、ダリルはまだ納得ができていないようで、話の続きを待っていた。
「……その上、いくら持て余すとはいえ先程も言いましたが殿下は王族です。その王族の一員をいつまでも不遇に扱っていると王室全体の権威を下げかねません。そうでなくても今回の件は王族が臣下に折れてしまっていますからね。殿下より臣下をとった判断は間違ってはいませんが、絶対王政においてはいいことばかりでもありません。そして将来的にも国王が王女殿下に王位を譲る時に、嫌われ者で扱いの難しい兄君が王宮にいるなんてことになってはことです。パワーバランスからしても、伯爵位であればニア様と殿下の子どもが生まれたとてすぐにどうこうできるような位置にないですから、国王夫妻からしても願ったり叶ったりでしょう。ですが……」
「ですが?」
「やはり、ニア様の心の内は分からないわ。少し調べさせたのですけれど、やっぱり殿下を望んだのは父君ではなくニア様本人みたいなの。いきなり貴族として目覚めて父君や国王夫妻に貸しを作ろうとしている、とか、殿下との間に子どもをもうけて、その子を新しい国王に据えて国家転覆を狙っている、とか。どちらも彼女にはできそうにないもの。考えもつかないのではないかしら」
今後のことは分からないが、三ヶ月前に王宮で出会ったニア・クニクルスという人はその程度には幼かった。幼く、拙く、けれど一生懸命で度胸のある人だった。子ども向けの物語の主人公にありがちな善性を持ち、優しく可愛らしい人。それがアリシアから見たニアだ。いい意味でも悪い意味でも裏表のないニアに、そんなことができるとは思えない。アリシアはううん、と小さく唸った。
「恋愛感情の暴走であるのか、それともほかに考えがあるのか。次にいつお会いできるか分からないけど、その時に聞いてみようかしら。でも、そうね。あのお二人が上手くいくかどうかでしたら、上手くいってほしいとは思っています」
「……貴方に恥をかかせたというのに?」
「あら、わたくしは恥なんてかいていませんわ。むしろ、殿下が勝手に自滅しただけのこと。でもまあ、自滅が早くてよかったのではないかと思いますよ。あのまま国王になっていらっしゃったら、それこそ血が流れていたことでしょうから。それに殿下はともかく、わたくしはニア様のことを気に入っているんです。彼女がこれからどんなふうに生きていくのか、彼女がクニクルス伯爵領を継いだあとどうなるのか、とても興味がありますわ」
「……」
「何ですか、その顔は」
「いえ、独特の感性をお持ちだなと」
「わたくしに向かって面白いと言った人が否定できるようなことではありませんよ」
「ふ、そうかもしれませんね」
「かもではありません、そうなんです」
アリシアはふうと息を吐いて、果実水を飲んだ。これでこの話は終わりだ。所詮は他家の話、アリシアは動向を見る必要はあれど、あやれこれやと心配をする立場にはない。ダリルも話の続きを聞かないということは、納得をしたという証なのだ。
「……ねえ、ダリル。いつまでこうしているんですか?」
「私が満足するまでですかね」
「ですかねって……。ねえ、休憩するのだったら自室で休んできてもいいのよ? わたくしが動き回るのが気になるのなら、わたくしも部屋で本を読んだりしてすごしますし……」
「お断りします。これは、私がアリシアの買い物に付き合った対価ですので」
「う、そうでした……」
無意味に指を遊ばせながら、アリシアは少し首を横に倒した。アリシアとて、ゆっくりと何も考えずぼうっとする時間は好きだ。いつもいつもせかせかと働き蟻のように動き回っているわけではない、と思っている。けれど、さすがに婚約者の足の間に座りながらじっとしているのは落ち着かない。ダリルは慣れと言ったが、こんなことに慣れる日がくるのかは疑問だ。
「アリシア」
「はい」
「……アリシア」
「? ……はい、何でしょう、ダリル」
「いえ、ただ呼びたかっただけです。あの時、貴女に心を預けたのは本当に正解でした。自分で自分を褒めてやりたい」
「そ、そうですか」
「照れています?」
「て! ……う、くっ、人をからかわないでくださいませんか!?」
「くくっ、からかってなどいません」
「その笑いが何よりの証拠です!」
「ふはは!」
「もう!」
部屋の外に漏れている主人たちの楽しそうな声に、ゲネシス公爵領の使用人たちは顔を見合わせて微笑んだ。彼らの主人であるアリシア・ゲネシスは昔から才気ある人であったが、しばしば自身の体力を過大評価しては数ヶ月に一度は熱を出して寝込むような人でもあった。昔から仕えているような古参の使用人の忠告には、うんうんと頷くものの何故かそれをすぐに忘れてまた無理をすることを繰り返すのだ。
しかし、ダリルという騎士がやってきてからというもの、アリシアが倒れることはなくなった。恋が人を変えるのか、それともただ強制的に休みを取らされているのか、使用人たちにとってはどちらでもいいことである。自分たちにとってよい主人が、健康に楽しく日々をすごしているのならそれに越したことはない。
主人たちの明るい声を聞きながら、使用人たちは本日も平和だと仕事に戻った。
読んでいただき、ありがとうございます!
最近、暑くて語彙力がなくなりそうなくらいですが、皆様いかがお過ごしでしょうか。お元気でしたら幸いです。お元気な方もそうでない方も皆様、どうかご自愛ください。
さて、序章のあとがきにも書いてしまったのですが、作者はテンション高い系ヒロインが好きです。テンション高い系ヒロインがきゃっきゃしてるのが好きです。アリシアはもっときゃっきゃしてくれてよかったのですが、そういうヒロインがヒーローに押されているのも好きです。つまり楽しかったです。
よろしければブックマーク・評価などしていただけると、とても励みになります。よろしくお願いいたします。
以下、補足(書こうと思っていて、やっぱり止めたところ)
ダリルはかなり強く、アクション系だったら主人公枠レベルです。ですが、両親に「危ない、野蛮だ。そんなことをお前がしなくてもいい。働きに行くなんてとんでもない。婿入りだって、そちらの家でいじめられたらどうするんだ」と延々言い続けられ、いろいろなことが面倒になりました。
ダリルの両親は、毒親かそうでないかのぎりぎりのラインの人です。善意の押し付けの強い版というか、悪意でないから誰も助けてはくれないし、むしろ「ご両親の気持ちも分かってあげて」と言われる感じの家庭でした。ダリルの兄もそのタイプで、実家に味方はゼロ。でも家族は味方のつもり。爵位も貰えず飼い殺されるくらいならと、事後報告で近衛騎士になりました。近衛になってしまえば、魔法剣の騎士なんて珍しく価値のある人間を王宮が伯爵家に戻すわけがないのです。アリシアとの結婚にもぐだぐだ言いそうだったのですが、そこはゲネシス公爵が交渉してくれました。伯爵が公爵に逆らうなんて、そんなそんな。
アリシアには父によく似た兄がいます。父は自分の顔が子どもに怖がられるので好きではないのですが、兄はその強面を使っていろいろと上手いことできるタイプ。アリシアの母は強烈で厳しく、ゲネシス公爵家はかかあ天下と呼ばれています。けれど、本当は父にベタ惚れで惚気話をしだすと止まらないような人です。アリシアと兄は、母に怒られるのを回避するために惚気話を聞くという手を覚えています。
アリシアが悩んでいたニアとエドガーの件ですが、まず、ニアは復讐は考えていません。目の前にあったシンデレラストーリーが崩れ去り、怒りも悲しみもありましたが、何故かその感情の行きついた先は、純粋な同情と自分がエドガーを育てなければいけないという使命感でした。
ニアは早くに母親を亡くしています。父であるクニクルス伯爵は後妻はとらず、けれど忙しく動き回る人でニアは使用人たちに育てられたといっても過言ではありません。たまに顔を合わせると父は「もっと勉強をしろ。情勢を見ろ。貴族として恥ずかしくないように生きろ」と言い続けましたが、ニアはいまいちそれにピンとこず、逃げるように奉仕活動ばかりをしていました。奉仕活動をしている時は、感謝をされ「立派な人だ」と言われ、自分の居場所がそこにあると錯覚をしていました。
選考会の期間中に王妃やアリシアに「貴族としての何たるかが足りない」と指摘されたことはニアにとって痛いところを突かれたのです。ここはクニクルス伯爵の思惑どおりでした。恥ずかしい思いをすれば、今後の勉強に身が入るだろうと王太子妃選考会を勧めたのですから。
自分はあまりにも勉強不足で、だからエドガーが側妃を持ちたいだなんて言い出したのだ。そして、エドガーの言い分に何の反論もできない。そんな自分が、ニアは恥ずかしくて仕方ありませんでした。しかし、すぐに叱責を受けたエドガーを横目で見ながら「ああ、この人も勉強が足らないのだ」と理解します。
足りない自分たちで、これから学んでいけばいい。だって、あんまりにもエドガーがかわいそうだから。許せないし、許さない。大勢の前で恥をかかされたことを恨んでもいるけれど、一度は夢を見せてくれた人だから一度だけならチャンスをあげる。そんな傲慢な考えでエドガーを自領に呼びよせたのです。
おそらくここから頑張ってくれる、はず。
クニクルス伯爵は父親としては微妙。でも、彼は彼なりに娘を大切にしてきたつもりでした。ダリルの両親と違うところは、抑圧をしなかったこと。ニアが過剰に奉仕活動をしていても、一応社会経験だとして認めていました。ぶっちゃけ年頃の娘と何話していいのか分からないおじさん。ニアが赤ちゃんだった時も、子どもだった時も、どう接していいのか分からなかったおじさん。ちゃんと使用人からニアの話は聞いていたし、できる範囲の教育はしていました。跡取り娘だからもっと学をつけさせねばと焦っていたものの、でも壊滅的に教育が下手でどうにもならなかった。後妻をもらうべきだったおじさん。エドガーとの件は、「ふざけんなクソガキ」と思っています。でも、やっぱり貴族的には美味しいので、いらない王子ならもらっておく。さあ、スパルタの始まりだ。もう二人とも容赦はしない。
エドガーは、馬鹿です。でもまだ救いようのある馬鹿です。出自が複雑であったから、王宮の人々はエドガーにとにかく優しかった。しかしその優しさは同情と憐憫。それに反抗するタイプだったらよかったのですが、エドガーは優しくされて当たり前だと思うタイプでした。まあ、だからこそ精神を病まずに生きてこれたのかもしれません。そんなふうなので、自分の思いどおりにならないことはないと信じていました。ガチギレされたのも初めて。国王夫妻にも見放され、どん底を味わい、ニアに救い上げられて、人生ジェットコースター中。でもエドガーも図太い人間なので、もしかすると、上手くいくかも。頂点にいては駄目なタイプ。
国王夫妻は、頭が痛い。そもそもエドガーの件を子爵夫人に頼むべきではなかったのか、いやでももう終わってしまった話しだし。二人の間に王女が生まれたあとも、エドガーを王太子にし続けて彼を大事に育てていたつもりだったのに。子育てなんて、親の思いどおりににはなりませんから。落ちた王室の求心力を、王女が即位する前に立て直さなければならなくて大変。頑張ってほしい。
王女はエドガーと仲が悪くないですが、とびきり良いわけでもない。国王夫妻と違って、どこかでこうなることは分かっていたかもしれない。でも、優しい兄の記憶もあるから、ちょっと苦しむ。こちらも頑張ってほしい。
子爵夫人は我関せず。お腹は痛めたけれど、生まれた瞬間にエドガーは彼女の子どもではなかった。何かしらの情は、貴族としての矜持が殺した。今後も一切かかわらない人。
以上が設定です。細かく書き出すと十万字以上かかりますね!
アリシアとダリルにはもっといちゃついてほしかった。省略した選考期間中に昔の少女漫画みたいなべたべたのやりとりをしているはずです。高い所の本を取ってあげるとか、不意の接触とか、笑顔が可愛いとか!
タイトルを変え「有能公爵令嬢でも護衛騎士からの求婚は予想外です!!」として女性向け電子コミック誌『コイハル』コイハルvol.36にて、26/1/20コミカライズしていただきました。担当は駆けだしポメラニアン先生、短編読み切りとなります。ご覧になっていただけると幸いです。
ここまで読んでいただき、ありがとうございました。




