専業主夫、希望します!~結婚決まりました!
「じゃあ、坂上さん、家事スキル、磨いてくださいね!」
有子が柾に高らかにお願いしてしまってからほぼ二ヶ月。有子は久しぶりに同期の友人たちと会えた。もちろん、高田と矢田の二人組である。
本日のネタも坂上氏の話題だ。乾杯するなり、あれこれ進展状況を問いただされ、坂上氏に家事スキルを磨いてねと言っちゃったーと有子が言ったところですかさず矢田が突っ込んだ。
「それじゃ、もしかして坂上氏は家事修行しているっていうの?」
「うん。ほら、柾さんは何もしたことがないから、友達に相談したらしいよ。そしたら、最初は大学時代の友達が一人暮らしをしているから、そのマンションで、居候しながら家事ってなーに、みたいなことをやるってことになったみたいなの。それで、いろいろやらかしたらしくてね、ほぼ一ヶ月をそこで過ごして、家に戻ったんだって」
「家で家事修行ってどういうこと?」
矢田がさらに追求する。
「住み込みと、通いのハウスキーパーさんがいて、その人たちに日々張り付いて修行しているらしいよ。料理担当の人と、そのほかいろいろやってくれる人がいるんだって」
「おおー。ハウスキーパー。しかも何人もいるのか。さすがセレブ」
高田がこくこくとうなずきつつ感心した。
「それにしたって、家事修行とは、坂上氏は本気出してるねー」
高田が焼き鳥に手を伸ばしながらあきれたように言った。有子は苦笑するしかない。
「うーん。まあわたしも勢いで言っちゃったんだけど、ほんとうに主夫になろうとしてくれるなんて思わなくて。でも、なんか、わたしがどこかに行ってもついてきてくれるっていうし、修行して主夫やってくれるっていうし、有り難いなーと」
「それって、坂上氏、マジで専業主夫やるつもりなの?」
「大マジ」
高田の言葉を有子が肯定すると、友人二人は目を丸くした。
「うわー。ほんと、優良物件だわ、それ」
「うらやましいわー」
「で、結婚するでしょ?」
「えー。そう言う話は出てないけど」
「だってそれってもう、結婚前提じゃんか」
高田が決めつけると矢田も同調する。
「そうそう。だって、有子、次の異動で、どこかの県の課長になるとしてだよ、普通はあちらが住まいを用意してくれるじゃないの。そこに、結婚していないのに、男性同伴で行くってなったら、それを聞いた受け入れる方はちょっとどうかと思うでしょ」
「あー。まあそうなるね」
「はっきりさせておかないと、面倒なことになるよ」
「うーん。柾さんがそこまで考えているかなあ」
「いやいや、資産家の御曹司だよ。あちらにも世間体ってものもあるでしょうが」
その日はそんな話題から先輩の結婚話へ話題が移り、二人の追求はそれで終わった。
しかし、矢田と高田から口々に結婚について言われた有子は考え込むことになった。
柾から求婚めいたことを言われたことはない。むしろ、専業主夫になってもいいと言った柾に家事修行を求めた有子の側が求婚したように見えなくもない。
あれ、これっってもしかして、わたしが求婚して、坂上氏がそれに応じたことになっているのでは?
有子は首を傾げてみたものの、柾がまめに寄越すメッセージには結婚を匂わせるような言葉はない。日々の家事修行について楽しそうな報告が連なるばかり。
柾はそこのところ、どう考えているのか……。
さて、その後、柾が一人暮らしをすると突然報告してきた。柾が一人暮らしだろうが実家暮らしだろうが別にどうでもいいと思った有子だが、さすがにそれは表には出さなかった。
出さなくて良かったと安堵したのは、一応礼儀として一人暮らしの理由を尋ね、その理由が家事修行の仕上げにあると知ったからだ。
専業主夫修行もかなり進み、実際の生活を経験する必要があると判断した柾は、霞ヶ関駅にほどちかいマンションに転居したのだ。なんでも、自社所有の物件だという。それって、あの「無職お断り」事件の後に有職になろうと奮闘した挙げ句、就職が叶わずに、発想の転換をして会社を設立したときに購入したやつか、と遠い目になった有子である。
柾が有子の職場に近接したマンションを選んだ理由を尋ねればその理由はただ一つ。
「有子さんに僕の手料理を食べてもらいたい」
そんな理由で家賃が馬鹿高い場所に転居するなと言いたくなったが、そもそも自社物件。しかも、真剣な表情で、「有子さんのために修行したんだよ。食べてくれるよね」と懇願されると何も言えなくなった。
その上、柾の姉の冴子から、「心配しなくて大丈夫よ。二人きりにならないよう、坂上家にずっと勤めている鎌田の弟を柾のマンションに常駐させることにしたから」という、安心していいのか、一人暮らしじゃなかったのかというツッコミ待ちなのかわからない助言があった。これで柾のマンションに行かないという選択肢はつぶされた。
なぜか冴子には逆らいづらい有子である。
そんなこんなで、最近の有子の食生活は改善されている。何しろ、昼の弁当が朝の出勤時に届けられるのだ。入館前に有子が受け取れるようにスタンバイされては断れない。
昼は柾の弁当、夕食は、残業に突入する前に柾のマンションで二人一緒にいただく。これまで、昼はコンビニ弁当か職場に併設の食堂、夜は時間が無くて食べたり食べなかったりという食生活だったのが一気に改善したのだ。
しかも、柾には料理の才能があったようで、坂上家の料理を担当しているハウスキーパーの教えを受け、きちんと基礎を習得し、和洋中の基本的なレシピを覚えると、様々な料理に挑戦を始めた。
何しろ柾は表向き社長業があるといっても従兄に丸投げしているので、実際の所時間のほぼ全てを有子の食事のために使えるのだ。
こうなれば、有子が時間をひねり出して居酒屋デートをする必要もない。弁当箱を返しに行くついでに柾が料理した夕食をごちそうになり、職場まで送ってもらう。有子は心置きなく残業にいそしみ、終電を逃せばタクシーで帰宅する……はずだった。が、家が有子の職場に近くなったので、柾が残業帰りも送ると言い出した。
ほぼ毎日残業が深夜に及んでいるので有子は一旦は断った。
しかし、「有子さんが仕事をしているのに、僕が何もしないでいるのは心苦しいし、深夜に何かあっては悔やんでも悔やみきれない」と切々と訴えられた。
さらに、柾のサポート要員として坂上家から送り込まれている鎌田弟からの援護射撃があった。
「柾様は、専業主夫になるために、ペーパードライバーを返上して、改めて教習所で自動車の運転の練習をなさいました。昼間、私も同乗いたしまして、運転技術を確認させていただいておりますので、安心してお乗りください」
加えて、話を聞きつけた冴子からも「柾が人のために何かするなんて素晴らしいことだから是非柾に送らせてちょうだい」と強く迫られ、結局有子は押し切られ、柾に送ってもらうことになった。
ちなみに、お迎えに現れた柾が運転していたのは、高級車といわれる部類の車ではあったが、国産車だったのでほっとしたのは坂上家関係者には内緒である。
そんなこんなで豊かな食生活を送っていると、季節は過ぎ、冬の終わりに人事の季節がやって来た。今日も今日とて柾のマンションに上がり込み、夕食をごちそうになる有子である。
「今日はイタリアンにしてみたんだ」
有子の目の前には、本日のイタリア料理がこれでもかと思えるほど並べられている。サラダ、プロシュート、ブルスケッタ、二種類のピザ~多分、マルゲリータと、有子が好きな数種類のチーズをたっぷりのせたものだと思われる~、トリッパのトマト煮込みなどなど。残業の合間に夕食を摂る有子のために、コースにはせず、全品をずらりと並べるのが柾の心遣いである。
「わあ、今日もおいしそう!」
「プロには敵わないけど、頑張ってみたんだ」
有子がうれしげに声を上げると、柾は照れくさそうに笑みをこぼす。スマートなイケメンのはにかんだ笑顔は最強である。笑顔のごちそうも追加され、有子はありがたくフォークとナイフを手に取った。
料理初心者であるはずの柾の料理は、基本に忠実かつレシピにも忠実なため、外れがない。安心して手を伸ばし、どれもこれもおいしいと舌鼓を打つ。その間約三十分。仕事の合間なので有子にはこれが限界だ。
食べきれなかった分は、ピザのように持ち運べて簡単に食べられるものだと、柾宅のよろず雑用係である鎌田弟がきれいにラッピングして持たせてくれる。残業の息抜きになるので、同僚たちからも好評である。
その日、昼間のうちに秘書課に呼ばれていた有子は、食事を終えてそろそろ仕事に戻ろうというときに、何気ない調子で柾に切り出した。
「そうだ。あのですね、もしかすると、しばらくこんな風には会えなくなるかもしれないです」
柾は片付けの手を止めてきょとんとした。
「珍しいね、出張なの? 何日くらい?」
穏やかに尋ねる柾に対して、有子は首を横に振った。
「何年かになると思います」
すると、柾は大いに動揺した。慌てて有子のそばへやって来てひざまずく。
「え、僕と会うのがいやになった? 僕、何か悪いことしちゃった? あ、今日のご飯おいしくなかった?」
有子は苦笑した。
「大丈夫、ちゃんとおいしかったです。いつもありがとうございます」
柾がほっとするのを確認し、ワンクッション置いて有子は説明した。
「実は、異動があるかもしれないんです。女性活躍、ということで、ちょっとタイミングが早いですけど、どこかの県に行くかもって、今日、話がありました。行くとすれば、この四月からなので……」
異動といっても、有子の職業の場合、一旦辞職してどこかの県などに割愛採用されるのだ。新規採用のときもそうして遠く山陰の方へ行ったのだった。今回、どこへ行くかはまだ明らかにされていない。
そう説明すると、柾がほっとした表情を浮かべた、と思うやいなや、嬉々として、文字どおり諸手を挙げた。
「じゃあ、専業主夫をやるからついて行くね!」
「え。でも」
「だって、有子さんが遠くで一人暮らしをするなら、家事をする人がいた方がいいでしょう?」
「それは、そうですけど」
「そうでしょう。有子さん、そう言っていたものね。僕に家事スキルを磨いてほしいって。だから、ちょっと待ってね」
柾は鎌田弟に「あれ、持ってきて」と指示をした。鎌田弟は心得たようにうなずくと、どっしりしたキャビネットの引き出しからクリアファイルとビロード張りの小さな箱をふたつ持ってきて柾に渡した。柾はクリアファイルから書類を取り出して皿を片付けたテーブルの上に広げた。カラフルな花柄で彩られた見慣れない書類だった。だが、表題に「婚姻届」と書いてあるように見えるのは気のせいか。
さらに柾はふたつの小箱の蓋を開けて中を見せるのも忘れない。一つの箱にはうっすらとピンクに輝く宝石とそれを取り巻くきらきらのダイヤモンドの指輪が一つ。
これって、もしかしてピンクの石もダイヤモンドなの?
おそるおそるそのきらきらしい指輪から目を離して隣の箱を見れば、もう一つの箱にはおそろいの指輪が一対並んでいた。ゴールドの細い指輪だが、一列に小さなダイヤモンドが並んでいる。
有子はいぶかしげに柾を見る。この指輪が意味するところはもしかして……?
「……これは?」
「見てのとおりだよ。婚姻届と婚約指輪と結婚指輪」
柾はにっこり笑った。
「はい? え? 婚姻届? 指輪?」
やはりこれは婚姻届なのか。まじまじと紙を見れば華やかなデザインが施されているのは周囲だけで、中央には、いわゆる届け出用紙の書式がちゃんと印刷されている。婚姻届に見えたのは見間違いではなかった。安堵すると同時に混乱する有子である。
それに、婚約指輪と……結婚指輪?
婚約指輪を柾が選ぶのは当然としても、結婚指輪って二人で選ぶんじゃないの? と明後日の方向で疑問を呈する有子に、そもそも、どれをとっても前触れもなく準備してあること自体が問題でしょうと突っ込む者はいない。
「結婚するでしょう。有子さんが専業主夫にあこがれるって言って、僕が専業主夫になって有子さんについていくって言ったよね。あのとき、有子さんは僕に家事スキルを磨くように言ったもの。あれって、結婚の約束だよね?」
柾が同じ話を繰り返し、有子に念を押した。
やはりそうなるか。あのやりとりは、有子の求婚だったことになっているらしい。有子がひとりで納得していると、柾はかまわず続けた。
「結婚なんかしなくても、僕はついて行くし、有子さんのお世話をするつもりでいるよ。でも、有子さんはお堅い職業だからね。世間体とか体面とかがあるから、結婚していないのに僕が専業主夫やるわけにはいかないと思うんだ。だから、入籍は、有子さんが異動するタイミングがベストだよね」
世間体、これも友人たちが想定したとおりである。外国でならいざ知らず、今の日本では、柾の理屈はもっともなことでもある。とはいっても、有子はあまりにいきなりの展開で固まってしまい、反応できないでいる。すると、柾はなお一層ニコニコしながら有子の左手を取り、ダイヤモンドの指輪をその薬指にはめた。
あまりにぴったりなので驚いていると、柾は「よかった、サイズに間違いなくて」とつぶやき、有子に笑いかけた。
「有子さん、僕はどこへでもついて行って、専業主夫するからね。婚姻届、一緒に書こうね」
「は、はい……?」
異動の可能性の話をしただけなのに、なぜか結婚することになった有沢有子であった。
後日、「どんなお式がいい?」と有名結婚情報誌が山積みにされ、有子が「ま、負けた……」と口走ったのを誰も聞きとがめなかったのは幸いだった。
派手な婚姻届の用紙は某雑誌の付録を見てこれは良いと舞い上がった柾が特注したものだったり。
※この物語はフィクションです。登場する人物・団体・名称等は架空であり、実在のものとは関係ありません。