14106 プレリュード
──黒い風と共に流れてくる、鉄錆の匂いが鼻を突っついた。
──その度にこれは、現実なのだと痛感した。
どうしてこんなことになってしまったのだろうか……。
この運命は避けられぬ定めだったのだろうか……。
思考が停止しそうになる中、俺は自分自身に問いかけた。
さっきまでメープルと林道を歩いていたはずだ。
それがどうしてこんなことに?
俺達はいつの間に、四方を森の木々に囲まれた場所にいたのだ。
だが、今いる場所は不自然に木がちょうど一本も立っていない。
月がスポットライトの様にその場を照らしていて、まるで今から起こる惨劇の為に作られた舞台のようであった。
そこに広がる、惨烈な状況を見て、飛んでいきかけた意識が脳に重々しく引き戻された。
地面にへたり込み、重たい顔を上げ前を見る。
眩しい月の光と共に、視界に入る巨体。
そこにいるのは、熊だろうか?
狼だろうか?
そんな得体の知れない化け物が、ついさっきまで人間だったものの腹を裂き、丁寧に取り出した内蔵を無造作に喰い散らかす。
麺を吸う様に、腸を食べ。口直しをするかの如く、死体を持ち上げ血を飲む。
彼女の腕と足は骨まで綺麗に切り落とされ、その周りに赤黒い水溜りを作っている。
それは生暖かく、息が詰まるほどの異臭────いや、悪臭を放っていた。
その光景を見て、俺は今更ながら自分の死を確信した。
嘔吐が止まらない。
吐き出した胃酸がびちゃびちゃと汚い音をたてる。
仲間のことなんか見捨て、早くここから逃げ出したい。
しかし、恐怖のせいだろうか。
その場からまるで動けない。
俺の『逃げ出したい』という考えを察したのか、化け物が返り血に染まった顔をこちらに向ける。
汚れた口元を舌で綺麗に拭き取り、残酷な笑みを浮かべた。
その歪んだ表情は、『次はお前の番だ』とでも言うようだ。
そうだった、この世界は残酷だ。
甘言に惑わされてこの世界にきたが、今まで良いことなんて一つもなかった。
死に物狂いで必死に色々やってきたってのに、ほんとに死んでしまうなんて笑えねえな……。
「もういっそ殺せよ…………」
思わずそう口にしていた。
そんな冷静ぶったことを言っても、下半身は生暖かくなっていくのだ。
本当は死にたい訳がない。
化け物の動きが止まる。
そして顔を上げこちらに近づいてくる。
そいつとの距離は2メートル弱だというのに、ゆっくり、ゆっくりと。
一歩一歩、そいつが踏み出す度に何かが首元で揺れる。首元のそれは何なのか、考える余裕なんてもうない。
近づいてくるに連れ、死への実感が大きくなってゆく。
俺は仰向けになり、静かに目を閉じる。
早鐘のように鳴っているこの心臓を早く止めてくださいと願うように。
その瞬間、左腕に激痛が走る。
見ずとも分かる。俺の左腕は切り落とされていた。
「がああぁぁぁあぁあぁぁああぁぁぁぁっ」
鮮血が吹き出す。
そして、左肩が滲むように熱くなっていく。
「いだいよぉぉやめでえぇぇええぇえっ。おかあざぁあああぁぁん!」
痛い 痛い
死ぬ 痛い
痛い 死ぬ死ぬ また死ぬ
死ぬ 死にたくない
死にたくない 痛い
頭がボーッとする。
そして、世界がぐちゃぐちゃに壊れる様に、視界も歪んでゆく。
「た……たす……け……………て……。こ……ろ……さ…………ない……で………………」
神にでも縋るような思いで助けを呼ぶ。
神なんて、広い世界のちっぽけな存在に気づく訳もない。
──まさしく、俺の様な存在に気づく筈もないのだ。
現に、こんな惨たらしいことになっているのだから。
実際、神頼みして神に助けられた人など存在し無い。
でも、神しか頼れないのだ。
瀕死だと言うのに、頭だけはよく回った。
しかし腹の中をぐちょぐちょに掻き回された時には、その頭は錆び付いて固まりかけた。
ちょうど、それくらいだっただろうか──
「助けて欲しいの?」
突然に誰かの声がした。
少なくともその声は好意的ではない。
と言うよりも、酷く残念そうな声だ。
美しくて、それでいて愛おしい雑音。
俺はその声を知っていた。
そこにいたには、神ではないが××だったのだ。
瞬間。
俺は、何かを思い出した。
とても、抽象的な何かを。
羽を失った鳥が、もがき続けるように。
無謀なことを。
ずっと、このまま────
────。
アパートの一室でハッと目を覚ました。
夢の中で、急に現れた段差に落ちた時の様に、身体が大きく跳ねた。
真っ暗な部屋の中で、付けっ放しにしたパソコンの光が目に突き刺さるようで痛い。
パソコンの機械音と心臓の音が、嫌に耳に響いて鳴り止まない。
また、怖い夢をみた。
毎回毎回、自分が死ぬ夢だ。