夢想
「っはぁ!! ……うぅ、また。まただ……」
男は、白い布団を跳ね上げて叫んだ。ベッドサイドのディジタルクロックは、午前二時六分を示している。クーラーの効いているはずの部屋なのに、いやな冷や汗が、白いパジャマの背中に、黒い筋をつける。
ここのところ、男は悪夢に悩まされていた。正確には、悪夢に悩まされていると推測されるというのが正しい。恐ろしい出来事が降りかかり、意識が現実に引き戻される寸前、記憶が消えてしまうのだ。正体の分からぬものによって、徐々に削がれていく心。男は憔悴し切っていた。
やっと起きたね。今日は開始から数えて、紅茶二杯と半分だ。おはよう。
男は、はっとして顔を上げた。都心のマンションの一室、住んでいるのは、男だけのはずだ。管理人でもないのに、一体どこから入ったのか。意識が明瞭になるにつれ、男は段々と恐怖を覚え始める。
「やぁ、目覚めは良好。扇風機とゾウの夢から覚めて、気分は縦笛の食感で言えば、馥郁たる宇宙の終わりだよね?」
「あ、ありがとうございます」
男は、いつものように、コップに入った水を受け取る。一息に飲み干すと、身体の芯が息を吹き返したようだ。
「つまりは箱入りのガーベラ、旅程は七日目。グランドキャニオンから始まる陶器と聖堂のカーニバルを見に行くと、君は明後日の夕焼けで誓ったはずだ」
「そうでした、そうでした。私は行くと返事をしましたね」
男はベッドから立ち上がった。黒いスーツは、のりが利いていて、どこに行くにも不自由ない。
革靴は片方だけ。もう片方の足には、紛れもなくスニーカーがつけ加わっている。
「僕は笑ってしまったよ、コンパスはいつだって回路を掻き乱す。百円の紙袋をまとっているとは、病臥の獅子も焼きが回った」
「息災ですか」
「銀幕に投影されて、笑いながら舌を噛む位には」
「安心しましたが、些か不安ですね」
廊下は振り返った拍子に動転し、新橋のホームになった。ホームの一方は山手線に、もう一方はプールに接続している。
「プールの方が近道ですよね?」
「もうすぐ来る鯨に、逆立ちのバロックを使って尋ねてみればいい」
山手線の道路は二車線、それを専有する白鯨の何たる横暴か。憤慨、憤慨、憤慨である。地団駄を踏んだ地面が崩れて、男は海にざぶんと真っ逆さまに上昇していく。
「人魚の饗応は、いつでも十パーセントの割引。瞑想の間中、プラスチックの衣紋で甲斐甲斐しく、喧しく世話を焼いてくれる。満足かい?」
「でも、グランドキャニオンが……」
男の呟きに、それは満足げに頷いた。人魚といっても、実はガラス張りのガラクタ。触れればおかしな挙動で、やがて癒合した橋に成り代わる。
「七色の桜に、文句をナイフとフォークで食べていこうか?」
「悪いけど、急ごう。グランドキャニオンは今も、アンドロメダに統合されそうになっている」
「スタジオを泳ぐ魚に、せめて包丁を入れるくらい、神様だって喉飴一つで許してくれそうだけど」
「それもノーサンキューだ、アンドロメダまでいくなら、私の足は五千光年、靴のサイズも五千光年必要だ」
男は、それの提案を、尽く蹴って歩くサッカーボール。それは、深くため息をつく。あまりに大きく息を吐いたために、内臓が表皮に裏返ってくる様子に、笑い茸なしに大笑いする、歯のない火星の声が、万里に響く。
「あっ……」
男は正気に戻った。しかし、もう遅い。グランドキャニオンの崖は、既に足元。振り返るとそこには、影の光が立っていた。
「好きなんだ、人を弄くり回して、電子辞書を臓物に紛れ込ませたり、ボルトで目と目を繋いだり、新聞の耳を埋め込んだりするのが……」
「な、何を言ってるんだ、お前……。ここは、どこなんだよおい!!」
それは、八百の口で舌打ちした。万雷の拍手のように、空気が六本の足で大地を踏み鳴らす。その音、その振動に、思わず男はその場にへたり込んだ。
「もう遅い。ハイエナの牙はパルスを噛んだ、窓の木枠越しに、さ・よ・う・な・ら」
男は、グランドキャニオンの底に落ちていった。
会社員が、自身の住むマンションから飛び降り自殺を図った事件が、新聞に踊る。朝刊が鯵の大群だったのを見回す、空に巡った縄の目が、嬉しそうにニコニコ笑っていた、そんな朝は、毎秒訪れている。