Ⅰ たぶん、あいつのことだから
放心状態、と言えばいいのだろうか、朝の一件以来、ものすごいスピードで周りの全てが過ぎ去っていった。移動教室に遅れるわ、昼休みのうちにお弁当を食べきれないわ、わたしだけ時間に置いていかれているんじゃなかろうか。気が付けば放課のチャイムが鳴り、周りは次々に帰っていく。
それでも、身体は机にへばったまま動いてくれない。見かねたのだろう、朝一緒だったクラスメートがなんとも神妙そうな表情でこちらへ近づいてくる――それは分かったんだけども、やっぱり自分から動くことはできず、結局相手の反応待ちになってしまった。
しかし、クラスメートも言葉に困っているようだ。わたしの前に立ってからも何度か口をパクパクと動かした末、口元をグイと引き上げて放った言葉が、
「きょ、今日は運の悪い日だったね!」
なんて、「今日はいい天気ですね」並みの台詞だったのだから、これはもう相当気を使ってきているに違いない。その心遣いがなんだかおかしくて、わたしはようやく、笑いながら上体を起こすことに成功した。
「ありがと。今日はほんと、どこまでもアンラッキーな日だったなって」
「ふぇ!? 今なんで『ありがとう』なんて言われたの?」
「アンラッキーな一日だって気付いてくれたから……かな?」
「それはみんな気付いてたよ? 体育の時間、準備運動でバランス崩すなずなちゃんなんて初めて見たし」
「そうそう、それに体育の後の英語、問題当てられてるのに気付かないし」
「……それはいつものことだと思うんだけど」
「えっウソ!? ないない、いつもってことは流石に」
我が身を振り返ってみても、英語の授業でそんなことをしたためしは思い当たらない。いや待て、ひょっとして四月の初め、やっぱり体育の後の英語で寝ていたことを覚えていたのだろうか。だとしたら大した記憶力――
「どうやってもなずなちゃんが答えないから、最近は英語の先生が気を利かせて当てないようにしてくれてるんだよ」
「――ぶふっ!?」
「今日だって、当たったっていうか、先生がなずなちゃんのこと心配して声を掛けてたっていうか……」
「今度お礼言っとく。教えてくれてありがと」
ここまでやり取りして、ようやくあちらも自然な笑顔になったので、少し安心した(いや多分、安心したのはあちらの方なんだろうけど)。
「でも、今日は本当、クラス中なずなちゃんの話題で持ち切りだったんだよ。元気ないのは寂しいねって。わたしはほら、朝一緒にいたから余計に色々考えちゃって」
「それはごめん。これはわたし自身の問題で、そっちは全然関係ないんだけど」
「なずなちゃんの問題? と言うより、あの反応からすると、なずなちゃんと瑞葉さんの問題なのかなって」
「まあ……流石に気付かれるよね」
五条瑞葉。なんとなく由緒正しそうな苗字だけど、実際にはお爺さんの代にのし上がった家らしい。それでも十分に凄いとは思う。
そのいいとこ生まれのお嬢様とわたしは、小学からの幼馴染みだった。別にわたしは釣り合うほどの名家でもなく、庶民の一人として瑞葉と接していたのだが、なぜか結局、瑞葉はわたしとばかりつるんでいた。
小さい頃のことはよく覚えていないが、お母さん曰く、わたしが瑞葉を無理やり家へ連れてきたのが始まりらしい。なんでも、ある日の夕食で、
『おかあさーん! お人形さんみたいな女の子がいてさー!』
なんて噂した次の日にはもう自分の部屋へ連れ込んでいたようだ。実際、小さい頃の瑞葉は人形みたいで、その頃から今の大和撫子っぽい見た目が完成されていた。
そんなお嬢様とわたしは当時から凸凹コンビ扱いだった。気が合ったのだから凸凹もへったくれも無いと思うのはわたしだけだろうか。でも、瑞葉の方がよく本を読んでいたのは事実だ。わたしがいない時の瑞葉は、五つくらい上の子供でも分からなさそうな分厚い本をよく手にしていた。それで、だいたいわたしが、
『うわっ! 何その本! よく分かんない字がいっぱいある!』
なんて突っかかると、
『……これは、この間習った漢字』
『ウソだ~! だって前のテストでこんな字一回も書かなかったし!』
『なずなの漢字テストはいつも三十点だから、正解を書いていないだけ』
……なんだか良くない思い出まで思い返している気がする。とにかく、おおよそそんな会話の後、たまらなくなったわたしが自分の部屋へ誘うと、瑞葉は大抵、その分厚い本を抱えたまま歩き始めるのだ。なんにせよ持っているものが重いので、瑞葉はいつも、わたしの三歩後ろにいた。わたしたちにとって、それが自然な距離感だった。その距離感のままわたしの部屋へ来て、特に何かするわけでもなく、ずっと喋っていた。
「……なんて、自分語りしちゃってごめん。つまんないよね」
「ううん。わたしはなずなちゃんのこと知れて嬉しいから気にしないで。なずなちゃん、あんまり昔の話しないし。瑞葉さんと幼馴染みだったっていうのも、今初めて知った」
「なぜか誰も信じてくれないから、言わなくてもいっかなって」
「信じてくれないのはまた別の理由だと思うけど……うん、でも、わたしは面白い組み合わせだなって思ったよ」
そう微笑むクラスメートの目は若干泳いでいた。凸凹コンビだな、と思っているに違いない。
「信じるも信じないも事実として幼馴染みなんだから、周りがどう思ってるかなんて、わたしにとってはどうでもいいんだけどね。それに、中学二年でクラスが分かれてからほとんど話せてないし」
「中学で幼馴染みの関係が崩れるって、ちょっとしたあるあるだよね。それじゃ、高校が一緒だったのは偶然だったんだ」
「ん~いや、知ってるかどうか分かんないけど、わたしたちと違って、瑞葉は特進科じゃん。中三の六月にはもう推薦が決まっててさ。その噂を聞いて、わたしも本気で勉強したってかんじ」
「瑞葉さん、見るからに頭良さそうだもんね。入学式の新入生代表挨拶、あんまりにも姿勢が凛としてるから、思わず見とれちゃった」
「最近は良くない噂ばっかり立ってるけど。髪も黒から茶に染めたらしいし」
正確には、中三の終わりくらいから、悪い評判を耳にするようになった。色恋沙汰でなんやかんやあったみたいだけど、それ以上は知らない。わたしとしても踏み込みづらかった。
「そういう悪い噂が立ってる中であの朝の騒ぎだったから、ちょっとショック大きかったってところかな。覚悟はしてたけど」
「良かった~……って言ったらあれかな。でも、なずなちゃんの元気が出なかった理由が知れてほっとしたよ。わたしのせいじゃなかったってことも分かったし」
「さっきも言ったけど、むしろ気にしてくれてありがと。人に話せてすっきりした。やっぱり一回、瑞葉と話してみる」
「それがいいと思う。月曜のお昼休みとかに……」
「ううん。今から行く」
「今から!? ちょっと焦り過ぎじゃないかな!? というかそもそも、瑞葉さんどこにいるか知ってるの?」
「特進科の教室」
「いやいるとしたらそこだと思うけど、もう帰ってるとか部活に行ってるとか……」
「幼馴染みの直感。瑞葉は多分、特進科の教室にいる」
こうなっては腹をくくるしかない。瑞葉と……うん。瑞葉と会って、根掘り葉掘り聞き出そう。それが、幼馴染みとしての務めだろうから。
茫然としているクラスメートに軽く声を掛け、鞄も持たずに席を立つ。クラスメートはようやく我に返ったようで、例によってちょっと大げさな身振りでストップを掛けてきた。
「あっ、なずなちゃん、ちょっと待って」
「できれば一人で行きたいんだけど」
「そうじゃなくて。幼馴染みの時間を邪魔するつもりはないけど……その。また今度、なずなちゃんのこと、話してくれたら嬉しいなって」
「? 構わないけど、聞いて面白い?」
「さっきも答えたけど、わたしにとっては面白いよ。だから、次はもっとしっかり時間欲しい、かな」
「りょーかい。それじゃ、わたしは瑞葉のとこ急ぐから」
「……うん。じゃあ、今度もよろしくね。……ばいばい」
なぜか若干悲しげにそう言うと、クラスメートは荷物をまとめ、教室から出ていった。
わたしは、その反対側の扉から、玄関と逆方向、建物の突き当たりにある特進科の教室へ、ゆっくり――ゆっくり、足を向けた。
「お腹痛い……」
クラスメートには決断良く言い放ったものの、特進科の教室が近づくにつれ、明らかに胃が悲鳴を上げ始めた。当たり前だ。これから会いに行くのは、数年来話していない幼馴染み、最近良くない噂が立っている問題児、そして……わたしの片想い相手なんだから。
中学時代、たかがクラスが分かれた程度で、わたしと瑞葉の関係が終わるわけあろうか。その程度の関係だったら良かった。クラスが分かれ、お互い離れ離れの時間を持つようになって、わたしはかえって明らかに、瑞葉を意識し始めた。憧れの女子は完全に大和撫子という名前の瑞葉になり、そのくせ、調子の悪い時には瑞葉と目を合わせることもできなくなった。
わたしの瞳に映るものと言えば、まず瑞葉の艶やかで豊かな黒髪。その他、整った鼻立ち、柔らかな口元、きちんとしていながら中学生らしいフレッシュさを感じさせる制服の着こなし、黒一色のハイソックス……我ながら下心しかないな、これ。それでいて瑞葉の心には触れられないのだから、やっぱりわたしは恋に戸惑う乙女なんだと思う。
そうこうしているうちに、瑞葉は推薦を決め、わたしはただ追いすがるように勉強しなければならなくなった。特進科はもう無理でも、普通科で――そんな願いが実った頃だった。瑞葉が学校の外で彼氏を作ったと聞いて絶望したのは。
「こんな話、他人に話してすっきりさせられるわけないもんね……」
廊下の窓に映る自分に話しかけてみる。幻のわたしは、現実のわたしと同じように、だいぶげっそりしていた。幻くらい、爽やかな笑顔でいて欲しかったのだけど。
幻から目を離し、少しだけ遠くを眺めると、もう夏至の太陽はとくとく沈み始めていた。今日はやたら時間の進みが早い。お腹を痛めたわたしのことなど、世界は気にも留めていないかのようだ。あるいは、瑞葉も……やめておこう。もう少しばかり自分を傷つけるだけだ。
しかし、怖い。瑞葉がわたしを待ってくれていないのではないか、という恐怖は、確実に迫っていた。瑞葉が特進科の教室にいると確信している理由は、別に幼馴染みの直感なんかではなく、朝見たポスターに小さく、「希望者は放課後、一年特進科教室へ」と書いてあったからなのだが、だとすると、もう「希望者」が現れている可能性もある。これは怖い。全精力を注ぎ込んで聴覚を研ぎ澄ますと、特進科教室から話し声が漏れてきた。
『――さん! 朝方、ポスターを拝見しました! 彼女になってくださるというのは本当ですか!』
やたら声のデカい男子だ。そんな威勢よく言ってどうにかなるものなのか。いや、無いよりはいいか、今のわたしみたいに。というか、よく聞けば朝決闘していた男子の片割れだ。なら、冒頭聞き取れなかった人の名前は瑞葉で間違いないだろう。お腹が痛い。
しかし、瑞葉の声がしない。昔から声の大きさ自慢ではなかったが、流石に何も聞こえないというのはおかしい。二人の間に沈黙があるということだろうか。その僅かな望みだけを頼りに足を進め、もう一度盗み聞きにトライ。
『もしよろしければ、俺と……自分と、お付き合いいただけませんか!』
決闘に勝利したであろう男子は、いっちょ前に一人称を変えてまでカッコつけている。決闘なんてするような男子ならカッコつけるか。そりゃそうだ。普段は乱暴で気が利かないくせに、こういうところではキメッキメに決めてこようとするから、男子は油断ならない。
だが相変わらず沈黙だけが横たわっている。これは瑞葉的にはノーだろう。瑞葉は、苦手な相手から話しかけられると黙り込む癖がある。わたしの願望がだいぶ入っているけど。
数分後、会話が全く聞こえないまま、大きな足音が立ち始めた。数歩大股で歩いた後、特進科の扉が開き、男子が一人現れた。ぎゅっと目をつぶったその顔が、告白の結果を分かりやすく示していた。わたしの傍を通り過ぎる時も、その男子はずっと背筋を伸ばし、涙を堪えていた――こういうところは凄いと思う。わたしなら泣く。
大きな身体が過ぎ去ると、わたしの視界には、開きっぱなしの扉と、特進科の教室が現れた。その一番奥、窓に背中を預ける、やや背の高い女子。
その子の黒い瞳と、一瞬、目が合った。ドキリと心臓が跳ねる。はやる心を落ち着けながら、一歩ずつ、その女子のシルエットを大きくしていく。教室の敷居を跨いで、わたしは、言葉を探した。
「ひさっ、久しぶりっ!」
やたら大きい声が耳に付く。わたしの声だった。しかも噛みっ噛みの。
……死にたい。
いっそ殺してくれとも思ったが、瑞葉はじっとその言葉を堪能したように微笑んだ。
「……久しぶり。今日は、なんのご用?」
長らく聞いていなかった幼馴染みの声は、昔のように少し気取っていながら落ち着いていて、それでふっと肩の力が抜けた。どうしてわたしは、こんな簡単なことから逃げていたのだろう。
「ご用って言うか……なんていうか、あれ? ちょっと気になったっていうか」
しかし、わたしの口から放たれる日本語は、緊張のある無しにかかわらず下手くそだった。恥ずかしさから、なんとなく視線を宙に逃がしてしまう。これではいけない、なんて、ハリボテの理性でもう一度瑞葉を捉える。瑞葉も、ほんの少しだけ、顔に影を作っていた。
「……そう。まあ、あれだけ事が大きくなれば当然でもあるけれど」
「あっ、今ので伝わったんだ。わたしが一番驚いてる」
「生きてきて、なずなが一緒にいた時間と、なずながいなかった時間、まだトントンくらいだって気付いていたかしら」
幼馴染みバンザイ。言葉なんてなくても、わたしたちは繋がっている。なんならもうそれだけでお腹いっぱい。
そういえば、いつの間にかお腹の痛みは消えていた。ありがたい。お腹の底からパワーを振り絞って瑞葉に――今の瑞葉が抱える謎の事情に挑める。
「人生の半分連れ添った幼馴染みだから一応聞くけどさ。あれは何? っていうか『カレシになります』ってどういうこと?」
「……それは、そのままの意味。『理想のカレシになります』という事実を知らせるために、ポスターを作った。それだけ」
「彼女じゃなくて?」
「ええ。『カレシ』になるの」
「それで、さっきの男子は振ったと」
「聞いていたの? まあ、なずなだし聞いていそうかな、とは思っていたけれど」
「わたしたちの心、まだ通じ合ってるみたいで安心した。なんでいきなりそんなこと思い立ったのかは分かんないけど」
そこで瑞葉は一息入れた。事情を説明しようかどうか悩んでいるのか、はたまたはぐらかそうとしているのか。瑞葉は、そこまでは心を開いてくれていない。
「……色々あったの、色々」
瑞葉が選び抜いた言葉は、五歳くらい年上の人が使っていそうな、大人びた表現だった。
「そ。詳しくは聞かないっていうか、今度ゆっくり聞かせてもらうけどさ。一つ確認したいんだけど、『カレシ』になるってことは、今募集してるの彼女だったりする?」
「…………ええ」
とびきり長い逡巡の末、瑞葉は首を縦に振った。あるいは、会話のどこかでノーを言いたかったのだろうか。あるいは、わたしがこれから喋ろうとしていることにノーと言いたいのだろうか。それでも、引き返せない。もうこれだけリラックスした状態でアプローチを掛けるチャンスは巡ってこない気がする。今度はわたしが一息、二息入れた。
「幼馴染みとして……幼馴染みとして、言っとくけどさ。ああいう目立つかんじのポスターはあんまり作んない方がいいよ。勘違いした男子が決闘始めちゃうからさ」
「決闘は、私の責任ではないと思うの。それに、『カレシになります』と大きく書いたのだから、『カレシ』を欲しがっている男子でなければ最初からお断りだって気付くでしょう。さっきの男子は例外」
「『カレシ』を欲しがってるなら男子でもいいんだ……」
「……念頭にあったのは、女子だけれど」
今度は明らかに、お互いが意識して、目線が交差した。チャンスは今しかない。幼馴染みとしてのアドバンテージを活かし、できるだけ軽い調子で。うん。それなら断られてもダメージは小さい。覚悟は決まった。
「あんまりそういうことが続くようだとさ、先生からも睨まれそうじゃない? それならさ、何があったか知らないけど、わたしを彼女として置いてみるとか……」
「ええ」
「……へ?」
瑞葉にしては非常に珍しいことに、わたしの言葉尻を切ってきた。軽い言葉に隠した覚悟がぶち切られたようで、思わず拍子抜け。瑞葉って、こんなことするタイプじゃなかったんだけど。
疑うように、改めて顔色を窺う。瑞葉の目は、まだわたしをじっと覗き込んでいた。
「……だから、いいということ」
「いい、というのは、つまり……」
「その案で行きましょう」
それだけ告げると、瑞葉は颯爽と自分の席へ戻り、鞄を手に取った。
「それじゃ、明日早速、デート、しましょうか」
「……えっ、で、でで、デート? 明日? 土曜? えっデート?」
初めて彼女ができた男子のような挙動不審っぷり。はっきり言って、全く状況が呑み込めていない。
明日、デート、瑞葉と。頭の中で復唱しているうちに、瑞葉はもう帰る準備を済ませ、教室を出ようとしていた。
「明日はよろしく、私の彼女なんだから」
いつの間に覚えたのか、意地悪さをスパイスにした笑顔を残して、瑞葉はわたしを置いていった。
…………。
「……………………えええええええええっっっ!!!???」
絶叫の余韻を、下校のチャイムが引き継いだ。今日はやたら、時間に置いてけぼりにされる。
どうやら、わたしに『カレシ』ができたようだった。初めて彼氏ができた女子の反応として、叫ぶという行いが正しいものだったのかどうか、わたしには分からない。