春、遠く
灰色の空に灰色の雪。
中学三年生の二月の世界はまさにどんより灰色で、けどそれは受験生だからってわけじゃなく、三年前から春も夏も秋もあたしにとっては今と同じくこの色だった。
でもこの日、雪の中を一人とぼとぼ傘を差して歩いていると、後ろから急にあたしにとって唯一のイロドリが「由美ちゃん!」と声を掛けてきた。
跳ねる心臓。
だって昔から聞き馴れたその声で、名前を呼ばれるのは本当に久しぶりだったから。
不自然じゃないようにゆっくり振り返ると、裕くんが曲がり角から小走りで駆けてくるところだった。あたしの前で足を止め、細長い身体を軽く屈めて白い息を整える。
二月の空気は乾燥していて、まだ冷たい。
「おはよう。どうしたの?」
「良かった会えて。由美ちゃんだけにどうしても聞きたいことがあったから、追いかけてきたんだ」
少し照れたような、はにかんだ笑顔。でも、その顔はいつもより弱々しく翳って見える。
「遅刻しちゃうから、歩きながら話そうか」
裕くんは鞄以外に何も持ってなかったので、あたしが果敢に腕を伸ばし傘の中に入れてあげると、小さな声でありがとう、と言って、傘の柄を優しく攫っていった。ああ、これって相合傘。
「聞きたいことって?」
「うん……。あのさ、由美ちゃんにこんなこと聞くのも変かもしれないんだけど……。沙織の、ことでさ」
予想はしていたけど、いざ現実になってみるとやっぱりがっかりした。そうだよね。そうじゃなきゃこんなに一生懸命になるはずないもんね。
「聞いてないかな? 何か、その……、今回のことで」
藪から棒に今回のこと、と言われても、あたしには何のことやらさっぱり解らなかった。解らなかったけど、切れ長の黒々とした瞳でいつも優しそうにニコニコしてる裕くんが珍しく緊迫した表情で見つめてくるので、勝手に血圧がどんどん上がる。
「知らない、ていうか、ここ数日沙織姉とは特に話してないし。何のことか、解んない」
明らかに落胆した顔。
「そう、知らないんだ……」
知らないよ、そんなこと。裕くんが思ってるほどうちの姉妹は仲良しじゃないんだよ。
(これでもう今日の役目は終わりかな)
裕くんはそわそわしてるけど、あたしとしては二人に何があったのか、知りたいけど知りたくなかった。だから、何があったの?って、訊けない。そういうもんでしょ?
二人とも息を詰めて黙って足だけ動かしているところに、積もった雪の層がさらさらとピンクの傘から滑り落ちた。
裕くんの乗るバス停が見えてきた。バス停の前には裕くんと同じ制服を着た高校生たちが既に列を作って並んでいる。
「昨日、電話で」
あたしはびくっとする。
ああ、聴かされる。聴かされてしまう。怖いけど、でも、耳を塞ぐ勇気も無い。
意を決して告白されるこの言葉を、一言も漏らさないよう意を決して聴く。これは裕くんにとってきっと都合の悪いこと。それはもしかしたら……。もしかしたら。
「沙織に、別れようって言われた」
喜ぶべきとは解ってたけど、あまりに唐突過ぎて、本当に嬉しいのかどうか咄嗟に判らなかった。
ただ、驚いた。膝が抜けて足が溶けて……、そう、身体が蒸発して無くなるんじゃないかってくらい、驚いた。
ばたばたと廊下を走る音。こらっ、という誰かの声を完全無視してあたしは走る。
それにしても放っておいて欲しい時に限って意味の無い運を呼び寄せるのは一体どういう法則? 今日は数学も理科も社会でも当てられた。ついでに日直で掃除当番。
いつもなら受験の苦しみを分かち合いながら友達と一緒に帰るのに、今日に限っては誰とも口をきかず、校外まで一目散だった。
『納得できないんだ。こんないきなり、今更遠距離恋愛になるから別れよう、なんて。こんなこと由美ちゃんにしか頼めないんだよ』
朝の裕くんの言葉がずっとぐるぐる廻ってる。今のあたしには中点連結定理も摩擦抵抗もポーツマス条約も隣の国の言葉だ。
その時。校門を出て他の生徒をぐんぐん追い抜いて行くあたしに、またしても後ろから声が掛かった。しかも、朝と全く同じ声で。
「由美ちゃん!」
確認するまでもなくそれは隆二に違いないんだけど、どうやら「由美ちゃん」を呼んでるみたいなので、仕方なく立ち止まってみた。
「足速すぎ! さすが元バレー部だね」
思った通りの相手が追いついてくるまで、あたしはこんなに急いでるってのに暫くの間じっとしてなきゃいけなかった。
「これ、由美ちゃんのだろ? 下駄箱に、忘れられてたから、さ」
小さくて細いだけの、薄っぺらい身体。その左手にはしっかりとピンクの傘が握られていた。
あたしは仕方なく傘を受け取って、まだゼイゼイいってる隆二を複雑な気分で見下ろす。塾通いが忙しいモヤシっ子の隆二では、引退したとはいえ三年間運動部だったあたしの体力には足元にも及ばない。
「別にいいのに。どうせ明日も学校来るんだから」
「でも、せっかく同じ方向に帰るんだし」
あーあ、一緒に帰ることになっちゃった。あたしは正直邪魔くさいなあ、と思った。早く帰らないと親が帰って来ちゃうから今日は急いで帰りたかったし、それ以前に今はこいつと一緒にいたくない。
「由美ちゃんは受験対策順調? 本番もうすぐだけど、頑張ってね」
「そのセリフ、実際言われる立場になったらスッゴイ嫌なもんだよ」
「あ、ごめん」
「ま、あんたは頭いいから関係ないか」
隆二はいっこ下の裕くんの弟で、家が近くて年も近いってだけで昔から何かと腐れ縁だ。声と顔は裕くんに似てまあまあ有望だけど、中身は無神経で口うるさくて生意気で、兄とは全然違う。おまけにガリ勉。
「それに今、それどころじゃないの」
ぐい、っと隆二のマフラーを引っ張って、置き去るように歩調を速めたあたしに、隆二は必死な顔で付いてきた。
そう、全然それどころじゃない。
あたしにとって一見あの二人の別れは喜ばしいことだったけど、それにしても我が姉の心変わりについては心底謎だった。つい最近まであんなに仲が良かったのに。
胸がざわざわした。
コートを脱ぎながら家に入ると、中には幸いにも沙織姉しか居なくて、リビングのソファで長い脚を投げ出しながら初心者向けの料理本を読んでいた。
こんな風に家でただ寛いでるだけなのに、写真みたいにサマになってる。華奢な身体と柔らかで賢そうな顔は本物のモデルみたいだ。
「沙織姉、あたし、今日裕くんに会った」
「へえ」
栗色のサラサラの髪を少し揺らした程度で本から眼を離さずに応える様子は、不自然なほどいつも通りだった。とても年下で人気者の幼馴染と昨日別れ話をした人とは思えないくらい。その姿は着々と新生活の準備に入ってる、いかにも就職先の決まった気楽な短大生、そのものだった。
あたしはそんな態度にイラッとする。この人にはいつもいつも本当にイライラする。
「あの話ってほんと? ほんとに別れるの?」
ページを捲る、あたしとは違う細くて長い指がぴたりと止まる。やっと上げた淡くて透き通った顔は少し意外そうな表情だった。
「あんたにそんなこと、言ったんだ」
「うん、納得できないって」
沙織姉の横にゆっくりと引き伸びた唇の動きを見て、あたしは不愉快になった。というより、嫌な予感がした。
「そう。由美を使うなんて何だかいかにも裕一ってかんじ。で、何を頼まれたの?別れる本当の理由とか、ヨリを戻したいって伝えてくれないか、とか?」
この人のこういうところが本当に嫌だ。
私は何でもお見通しなのよ、という、こっちをとことん子供扱いする穏やかで傲慢な態度。そして実際にお見通しな勘の鋭さも。
あたしは唇がへの字になるのをどうしても抑えられない。
「当たり?じゃあ裕一にはこう伝えて。やりなおす気は無いって。ごめんねって。裕一には別の可愛い彼女見つけて欲しいの。たとえば由美とかね。あたしと別れてチャンスなんじゃない?」
これにはさすがにカッと来た。
裕くんの知りたいことを聞き出すまでは我慢しようと思ってたけど、もう限界!
「最低!」
首から剥ぎ取ったマフラーをばしっ、と投げつけて、そのまま自分の部屋へ乱暴に駆け上がる。
許せない許せない許せない!
悔しさと恥ずかしさと裕くんを軽く扱うあの態度が許せなくて、あたしはベッドに突っ伏して声を殺して泣いた。
どうしてあたしはいつも沙織姉に泣かされてるんだろう……なんて、本当は解ってる。それはあたしが勝手にやってることだ。勝手に振り回されて、勝手に傷ついて。
ずっとそうだった。沙織姉に憧れて、沙織姉の持ってるものや好きなものを真似ばっかりしてた。上が飽きれば下はお下がりを貰えるし、しつこくねだるあたしに根負けしてか、はたまた姉としての優しさだったのか、時には気前良く譲ってくれることもあった。
でも、そういうものをいざ手に取った途端、とことん思い知る。これは沙織姉のものだったから輝いてたんだって。自分には全然、残酷なほど似合ってないって。
二つ隣に住む三つ年上の幼馴染が五つ年上の姉に恋心を抱くようになったのは、あたしの淡い恋心が彼に芽生えたずっと後だった。
物心ついた頃から優しくて大人びていて私のワガママも余裕の笑顔で叶えちゃうようなかっこ良い裕くんだけが好きで、他の誰のことも好きじゃなかったのに、彼はあたしが子供じゃなくなるまで待ってはくれなかった。「兄妹みたいに」仲良くされることに満足しているうちに彼はすっかり「年上のきれいなお姉さん」への初恋にのめり込んで、あたしが小学六年生になった年に、それまで自慢だった大好きなお姉ちゃんがこの世で一番大好きな人の彼女になってた。
どうして?
当時は思った。
お姉ちゃんはどうしてあたしから裕くんをわざわざ取るの?
でも、そんなこと十二才のあたしが十七才の沙織姉に言えるわけない。そんなことが言えるほど自分は大人じゃないっていうことが解るほどには、あたしは子供じゃなかった。
そしてとても悲しいことだけど、もし大きくなっても沙織姉みたいになれないってことには子供ながらに気付いてたから。美人だね、とは決して言われない顔。短くもないけど長くもない手足、ゴワついた太い髪。多少の変動はあっても並のカテゴリーからは抜け出せない素材だってことに。
そうやって並じゃない姉が、あたしの世界から特別なイロドリを鮮やかに奪っていった。
ひりひりする瞼を指で軽く触ってみると、ますますひりひりする、ってことをわざと再確認してみる。
(疲れた)
泣き疲れて顔を起こすと外はすっかり暗くなっていて、カーテンも閉めていない窓から白い月がくっきり見える。
今何時だろう、とぼんやり考えてると、信じられないことに「由美。入っていい?」と、ドアの向こう側から沙織姉の窺うような声が聞こえてきた。
無神経にも程がある。
ふざけんな、って怒鳴りたかったけど、声を出すと泣いてるのがバレるのでぐずぐずしてるうちに、ドアが遠慮がちに(しかし勝手に)開いてしまった。
「泣いてるの?」
何を驚いてるんだろう?
誰のせいだバカ! って怒鳴りたかったけど、もう今となっては何かどうでも良くなって、そんな気力が全然湧いてこなかった。
その代わりに思いっきり睨んでやる。持てる悪意の全てをぶつける。
「そんな怖い顔しないでよ。可愛い顔が台無し。ねえ、さっきはごめん。ちょっと意地悪だったよね」
何が可愛いだ! とムカムカしながら、ブスな泣き顔を見られたくなくてベッドにうつ伏せになってる あたしから一メートルくらい離れたところに沙織姉は腰を下ろし、暗い中で膝を抱えた。
「何しに来たの?笑いに来たの?とっとと出てってよ」
頑張ったけど、やっぱりあたしの声はまだぐじゅぐじゅと泣いていた。まあ、そうだとは思ってたけど。
「そんなわけないじゃない。あたしはね、由美に言わなきゃいけないことがあるの。一度ちゃんと話そうって、思ってたんだけど」
「え……?」
「大事なことなの」
何か言わなきゃとは思ったけど、喉が詰まってうまく返事できなかった。だってこの人とはここ数年ろくに口をきいていない。今日お母さん遅いんだって、とか、あたしの洗濯物こっちの部屋に紛れてない?とか、せいぜいそんな程度で、だから沙織姉の言ってることにはとても違和感があったのだ。
でも、そんな気まずいわだかまりなんて次の沙織姉の神妙な一言で瞬滅することになる。
「あたしね、好きな人がいるの」
思わずあたしはガバッと顔を上げた。好きな人?
「何それ? いつから! もしかしてもう付き合ってるの!?」
あたしの剣幕を沙織姉は緩やかに受け止めて、困ったように唇だけで笑った。
「ううん、付き合ってない。私の片思い。向こうは私の気持ちにも気付いてないと思う」
「……いつから?」
「いつから……。いつからだろう?わかんない。はっきり自覚したのは、四年前かな」
「四年前?……それって」
「うん、裕一と付き合う前からね、他に好きな人がいたの」
あたしは一瞬青ざめ、沙織姉にもはっきり音が聞こえるくらいの勢いで息を吸い込んだ。
積み重なった端々の怒りや悲しみや妬み惨めさ……それらが一気に自我を持ったように心の奥底から湧き出してきて、頭を真っ赤に沸騰させた。
「じゃあ、どうして裕くんと付き合ったの!?何で、そんな、あたしが裕くんのこと好きなの知ってたくせに!」
抑えられない、これはとても常識的な、正当な怒りだ。あたしには今、目の前のこの人に対して怒りをぶつける権利がある!
肩を上下させて喘ぐ妹の姿がよほど異様だったのか、沙織姉は両手を口元に当てて眉を寄せている。
「ごめん。ごめん、由美」
見開かれた瞳が震えながら細くなって、みるみる涙が溜まっていった。
ああ、ずるい。あんたにそんな風に泣く権利は無いはずなのに。
「でも、裕一じゃなきゃダメだったの。だって、そうじゃなきゃあの家に入れない。お兄ちゃんの彼女として、堂々と話しかけられる。ただの近所のお姉さんじゃどうしても我慢できなかったの」
奇跡的な豪雨に遭ったみたいに、身体中の真っ赤なマグマがものすごいスピードで固まっていった、のをあたしは感じた。
何を。何を言ってるの、この人は。
「私ね、隆二のことが好きなんだ。おかしいでしょ?」
「――!」
声が出なかった。息するのも忘れてたかもしれない。
「……本気で?」
「本気だよ。就職先それで変えちゃうんだよ。本気じゃなきゃありえないでしょ?」
あたしは思い出す。確かに沙織姉の就職先は土壇場で変更された。東京本社の大手商社にせっかく内定を貰ったのに一月になっていきなり地元のガス会社に応募し、それまでの本命をあっさり蹴って入社を決めた。沙織姉と裕くんが遠距離恋愛になったのはこのせいだ。裕くんはわざわざ沙織姉を追いかけるつもりで東京の大学に進学を決めたのに。
でも、そんなことって。十四才の隆二を二十歳の沙織姉が好き? しかも四年前ってことは、隆二は十才……小学四年生だったんじゃないの?
「なんで……?」
「わかんない。でも、ずっと前から可愛いって思ってた。それが話しかけられたりする度に嬉しくなってお菓子のオマケとかどうでもいいものくれただけですごくすごく嬉しくなって。昔は全然話なんて噛み合わなかったのに、少しずつ大人っぽくなって私にも気を遣ってくれるようになって。そうやってちゃんとした男の子に成長していくのが堪らなく眩しかったの」
懺悔するように呟く顔が月に白く照らされて、しっとりと恍惚としている。
「裕くんは? 裕くんだって、」
「確かに裕一も私に勿体無いくらい素敵だと思う。だから東京で、隆二から離れて裕一とちゃんと付き合おうって思った。でも、やっぱり無理で。代わりになんかならないんだよ。違うんだよ。解るでしょ?」
「それで、ここに残ってどうするの? 社会人と中学生で恋愛でもするつもり? 隆二なんてまだ子供じゃん!」
沙織姉の瞳に溜まっていた涙が悲しそうに満ちて、そして零れた。静かに、音も立てず。
「そうだね。年の差は埋まらないもんね。最初は弟みたいに思ってるだけって思うようにしてたよ。あの頃は小学生相手にドキドキするなんて、って自分でもびっくりしたし、でも、もう誤魔化せないの」
月明かりの中の必死の告白は、いつも飄々としてるこの人のどこにこんな情熱があったんだろうってくらいに剥き出しだった。
でも、それが一体何だってゆーの? 強い想いがあれば、そのために何を蔑ろにしてもいいっての?
「そんなの、勝手だよ……」
沙織姉は脅えたように小さく顔を上げる。
「今まで散々代わりにしてたくせに! 大迷惑だよ! 裕くんはそれで進学先決めちゃったんだよ? お姉ちゃんのこと今でも好きなままで、それを、自分だけ……!」
許しを請う眼。丸々三年以上、今感じてる罪悪感は少しも湧いてこなかった? 違うでしょ? 自分の目的を優先して眼を背けてきたんでしょ?
「うん、……うん、解ってる。裕一にも由美にも、酷いことしたって。でも、今更虫のいい話だけど、だからこそ由美には頑張って欲しい。裕一も由美とならあたしと付き合うよりずっと……、幸せになれると思う」
本格的にしくしく泣き始めた姉をあたしは呆然と見下ろす。
「バカじゃないの……」
この人はバカだ。大バカだ。
「泣きたいのはこっちだよ」
もうイヤだ。この人の要らなくなったモノに縋るのは。
(でも、そういうモノしか欲しくない)
――本当に、泣けてくる。
今、裕くんとあたしは世界一の不幸者だ。
三日後の土曜日、裕くんにメールで呼び出されて二件隣の懐かしい家にやってきた。久しぶりに入る部屋はダンボールだらけでガランとしてて、この人は来月本当にここからいなくなっちゃうんだなあ、って思った。
まだ辛うじて生活の跡が残るベッドに腰掛けたあたしは青いベッドカバーを握り締める。
ここで裕くんと沙織姉はキスとかしたのかな、なんて、不毛な妄想は封印しとく。でもそういう想像も今までの頭を掻きむしりたくなるような感じじゃなくて、どこか芯の乾いた、皮肉な感じだった。
「で、沙織何か言ってた?」
紅茶とクッキーを出してくれて、裕くんは学習机の椅子に座った途端、そう訊いてきた。
この三日間の可哀想な気持ちが痛々しいように伝わって来て、苦しい。
「ううん、裕くんが嫌いになったとかじゃないみたい。でも、意志は固いと思う。沙織姉の中では……もう、終わってるって」
何度も頭を捻って練習した台詞を言い切ると、前のめりになっていた裕くんの肩からみるみる力が抜けて行った。肩の力だけじゃなくて、一緒に生きていく力みたいなものも落ちて行く。
「そう……。そう言ってたんだ」
ねえ、やめて、そんな顔しないで。あの人のためにそんな情けない顔。いつもみたいにきりりと優しく笑っててよ。
「そっか。そっかぁ……。じゃあ、もう、どうにもならないのかなぁ」
片手でおでこを押さえるその姿をあたしは見てられなくなって顔を伏せた。
言えない。本当は始まってさえいなかったなんて。裕くんは、ずっとダシだったんだよ。利用されてただけで、好きだから付き合ってたわけじゃないんだよ……。そんなこと。
「俺、本気で好きなんだけどなぁ」
少し声が震えてる。その言葉に私の胸がずきんとなった。綺麗な黒髪が眼にかかっていて、裕くんの表情は見えない。
「裕くん」
言いたい。あたしだってあなたが本気で好きだって。あたしもう子供じゃないよ。もうすぐ高校生になるの。あんな自分勝手な人より、あたしの方がずっと裕くんを想ってる。だから、だから……。
ベッドからゆっくりと腰を上げて、足を一歩、踏み出した。
おそるおそる、節ばった大きな手に、自分の右手を置いてみる。そのリアルな温もりに、じぃん、と静かに心が昂ぶるのを感じる。
この手は、もう誰のものでもないんだ。
――だったら、私のものになってもいい!
「もう、こんなに誰かを好きになるなんて絶対無理だ」
開きかけたあたしの唇が、静止した。
「由美ちゃん、沙織に電話しても出ないしメールも返って来ないんだ」
重なっていたあたしの手が、裕くんの右手の中で素早く握り締められた。
「もしかしたら読んでないかもしれない。だから最後にひとつだけ伝言を頼まれてくれないか。沙織がもし俺のこと好きじゃなくなっても、俺はずっと沙織のことが好きだって」
真摯に縋る瞳に射抜かれながら、あたしは裕くんの湿っぽい手のひらからゆっくり自分の手を引き抜いて、黙って頷いた。
心の中で、泣き叫びながら。
玄関で裕くんに見送られながらのろのろ靴を履いてると、隆二が塾から帰ってきた。
「ただいま……、あ、由美ちゃん」
その顔を見た瞬間。
突然の。出所不明の暴力的な衝動が、抑えられないくらいに膨れ上がってきて、爆発しそうで、怖くて、あたしは無言で隆二の横をすり抜けた。
「由美ちゃん!」
一瞬裕くんかと期待したけど運命はとことんあたしに冷たい方針のようで、振り返ってみると追ってきた声の主は隆二だった。
兄弟の家と姉妹の家に挟まれた齊藤さんちの門前で、あたしたちはぴりぴりと非友好的に対峙する羽目になる。
「何よ」
「どうしたの? 兄貴もびっくりしてたよ」
「そんなことどうでもいいし、自分でも解んない。もし解っててもあんたには言いたくない」
あたしのいつもの悪態に隆二はちょっとだけ傷ついた顔をする。勿論、演技だ。
「ひどいね。兄貴の前ではいつもあんなにいい子なのに」
「当たり前でしょ」
「ごめんね、兄貴じゃなくて。でも俺本気だから。何度振られたって諦めない。俺がいつか、由美ちゃんの片想いを終わらせるから」
ああ、この子は二人の破局を知らないんだな、と何となく思った。あの人たちは別れたんだよ。あんたのせいで。暢気にピンクのマフラーなんてしてるあんたのせいでね。
期末テスト学年一位のご褒美に買ってもらったとかいう新品のスマホを握り締めて、ライン教えて! と大騒ぎされたのが二ヶ月前。
毎日の中身の無いライン攻撃の挙句、「卒業前に言うって決めてた、由美ちゃん、好きだ!」と、バレンタインに告白された。
笑い飛ばして相手にしないあたしに、一つ違いなんだから子供扱いするなとか、兄貴を好きなのは知ってるけど高校は進学校に行ってスポーツも頑張って俺も由美ちゃんに似合う男になるとか、兄貴と沙織ちゃん、俺と由美ちゃんが付き合うのが一番自然だよとか捲くし立てるラインにムカついて、夜中に呼び出して女の子みたいに喜ぶこいつをここで思いっきり蹴り飛ばしたのが一週間前。
それでもラブコールは止まらない。
「今となっては、あんたが一番まともだわ」
「え? どーゆうこと?」
「教えない」
あの日の夜、沙織姉はこんなにいっぱい話したのは久しぶりだね、と、ちょっとだけ嬉しそうに、小さく笑った。悔しいけどそれにはあたしもちょっとだけ同感だった。
『私ね、自分が由美だったらどんなに良かったろうって、いつも思ってたの。隆二と仲良く学校通って。同じ話題で盛り上がって。普通に喧嘩したりじゃれ合ったり。そういうのがどれだけ羨ましかったか』
可哀想なお姉ちゃん。可哀想なあたし。
隆二のピンクのマフラーにあたしは手を伸ばす。両端を掴んで、顔の前でゆっくりと交差させ、鼻から下を隠してしまう。
こうすればこの子は裕くんになる。
でもあたしは知ってる。裕くんは沙織姉に似合うブルーが好きだ。決してこの子みたいにあたしがピンクを好きだからって男のくせにピンクのマフラーを巻いたりなんかしない。
隆二は奇怪なあたしの行動を不思議そうに眺めていた。でも、嫌がったり止めたりしない。いつだって、そうなんだ。
どうしてこの子を好きにならなかったんだろう。こんなに一途に一生懸命私のことが好きなのに。声も顔も裕ちゃんと似てるのに。ただ、中身が違うってだけで。
『でも、やっぱり無理で。代わりになんかならないんだよ。違うんだよ。解るでしょ?』
解るよ、沙織姉。こんなに解る。それってつまり、こういうことだよね。
「由美ちゃん、苦しいよ」
隆二の訴えにあたしはパッと手を緩める。気付いたらマフラーを掴む手に思いのほか力が入ってて、自分でも驚いた。
「イライラしてるの?」
危うく首を絞められるところだったっていうのに、非難するでもなく黒々とした瞳で心配そうに見上げてくる。
どうしてそんな風にこんなあたしを見るの。
「そう。イライラしてんの、あんたが嫌いだから」
「嘘だよ、そんなの」
「じゃあ、あんたがバカだから」
「ええ? 何で?」
「ついでに言うとあんたの兄貴もバカ」
隆二はむう、っとむくれた。
そして勿論沙織姉とあたしは大バカだ。全く揃いも揃って皆何てバカなことをしてるんだろう。あたしたちは全員がこの上も無く自分自身の首を絞めている。自分の幸せを望む代償を他人に払わせながら。
でも、止まれない。この四つの不幸な灰色の道は一体どこに辿り着くんだろう?
眼に沁みるピンクのマフラーの端っこで、隆二があたしの頬をそっと撫でた。
「由美ちゃん、何で泣いてるの?」
「みんなに春が、来ればいいと思うから」
隆二は意味が解らないという風に、きょとんと首を傾げた。
湿った薄暗い雲から、水分をたっぷり含んだベタッとした雪が落ちて来た。
あたしの目尻から、溶けた雪が零れ落ちて行った。