第3話 ふたつの過去からのひとつの希望を紡ぎ出す話(1)
虹の色は何の色?
赤 青 黄色 緑 紫
まだまだあるよ 橙 藍色
君たちみんな 光の落とし子
じゃあ 虹は光の子供? 光だけのもの?
光あるところ 影もあるよ 影もあるよ
じゃあ虹の影って なんのこと なんのこと……?
(眠くないって……いいもんだなぁ)
心の中でそう呟いて、ふああとあくびをひとつ。
まだ肌寒さの残る夜明けの森の中、冒険者志望の少年マランは、昨日のあの地獄のような眠気との激闘を振り返りながらも、その同じ場所へ、今度は逆方向に元気良く駆け抜けていた。
ぐっすり寝たおかげで慣れない徹夜の苦しみから開放された喜びは計り知れず、それに加えて、朝の日の光を浴びた森から感じるエナジーのようなものが、心身共に「森の民」であるマランを一層元気にしてくれる気がした。
昨日はただ倒れないように歩いているだけで精一杯で、辺りを見る余裕なんてまるで無かったのだが――改めて見渡してみると、もう十何年も御馴染みのはずの、流れるように過ぎていく緑と光と風とが、何だか今朝に限ってはとても新鮮で、眩くて、心地よくて、とても清々しく感じられた。
だけど、そんなマランよりも、心身の軽やかさをより一層大きな喜びとして感じているのは、きっと彼の前を同じように駆け抜けている、黄髪の民の少女の方に違いなかった。
彼女の金色の髪、そしてワインレッドのやや風変わりな服の艶やかな色合いは、まわりの緑によってより一層映え、そして朝日の木漏れ日によって輝きに溢れていた。
息を弾ませながらの彼女のその顔には、何かを吹っ切ったような、朝日に負けない眩い笑みが溢れていた。
初めて出会ってまだわずかに二日弱。されどそれからはずっと行動を共にしてきた、思えば不思議な縁のある少女は、その出会ってからの間に、喜怒哀楽のみならず、他にも色々と実に多彩な表情をマランに見せてくれていた。
不思議な雰囲気を持っているだけでなく、何処か引き付けられる魅力をも持った少女。
そして今見せているのは――この方が動きやすいからと、頭のところでひとつに束ねた髪型のせいもあるのだろうか――これまた今までのどれでもなかった生き生きとした笑顔。
――その表情もまた、マランを魅了するのに必要十二分なものだった。
「へぇ~、スラックスってこんなに軽いものなんだ!」
早朝、まだ人数の少ない自警団の監視の目を縫って、裏口からこっそりと表に飛び出し、ひとまず街の外まで思いっきり駆け抜けた後の、息を弾ませながらの彼女の最初の呟きがこれだった。
聞くと、彼女はこれまでほとんどスカートしか履いた事が無く、ましてやスラックス姿で走り回った事などこれが生まれて初めてなのだそうだ。
――と、いうことは彼女、今まではいつも、ちょうど昨日まで着ていたようなあんな丈の長いスカート姿で、飛んだり跳ねたりしていたのだろうか。
実際、出会った瞬間も彼女は森の中からその格好で走って出てきたのだし、マランに後を追われたり、その逆に、マランについていったりした時も、もちろんその姿だった。しかも、幾ら重い肩掛けカバンを背負っていたとはいえ、それでも森の中を駆け抜ける事に慣れているマランに、ロングスカート姿でそこそこ張り合える脚力を見せていたのだから、その足の速さは女の子にしてはかなりのものになるだろう。
そんな訳で――足にまとわりつく物から開放された彼女の走りは、今や力強くさえあったのだ。
そんな活発な彼女を見ていると、確かにマランの方も何となく嬉しい気分になりはするのだが――されど、今更原形をとどめていないはずの心の中の「王女像」に、またひとつ大きなひびが入った気がするのは何故だろうか。
彼女の名前はイリス。
もはや名のみになってはいるものの、それでもこの島を含めたバグアレッグ諸島の支配者であるハーバル王の娘――
(名のみ、名前……あ、そういえば)
「名のみ」でマランはふと思った。いわゆる「ファーストネーム」しか持たない庶民とは違い、「王女」と言うからには、やはりもっと長い本当の名前――それこそ「何とかハーバル」みたいに――を持っていたりもするのだろうか、と。
王族に限らず、王家や貴族やその家臣の一部はそういう「ファミリーネーム」――実態はほとんど代々受け継いだ「役職名」のようなモノらしいのだが――を持っていると聞いたことがある。
だからきっと、イリスのその「何とかハーバル」も、それ自体で「ハーバル王国の王女」と言う意味を指すのだろう。その名が何なのか、マランは急に知りたくなってしまったのだ。
理由はふたつほどある。
ひとつは、これはまた別の何かで聞いたことがあるだけだが、そういう「本名」を相手に伝えるのが、その人を心から信頼する証である、との事らしいから。
そしてもうひとつが、長老――きっとこの人にも、そしてばっちゃんにもそういう「本名」があるに違いない――に何気なく聞いて以来、ずっと心に引っかかっていた、とある「名前」の事を、もしかしたらイリスなら知ってるかな、と思ったから。
「ん? どうしたのマラン? 早く行こうよ」
(あ……)
が、そんな「好奇心」は、不意に振り向いた彼女の輝くような笑顔にあっという間に浄化されてしまった。
そう、彼女は今、せっかく「王女」という名のしがらみから解き放たれた状態なのだ。今そのしがらみの一部である「本名」を聞くのは、マランにとってはともかく、彼女にとってあまり良い影響を与えるとは思えない。
(それに、聞いた話じゃ「本名」とは相手から能動的に教えてもらうものらしいからな……自分から聞くのはマナー違反なんだよな、きっと)
それを、もし教えてもらえなかったらどうしよう、という考えに対する逃げの方便として、マランは自らの「好奇心」をとりあえずは封じこめることにした。
イリスはイリスだ。今、それ以上何が必要なのだろう? まして、胸中そのものは、明るい笑顔をしている彼女の方がよっぽど深刻だというのに――
――そう、彼女は二日前、不可思議で理不尽な、まさしく悪夢のような出来事により突然親を失い、更には残りの王家の面々からも断絶されて、ただひとり、この辺境の島に取り残されたのだ。
そしてマランは、この取り残された少女と偶然知り合い、更には彼女の不可思議な悪夢の一部を共有するにまで至った。
以来マランは、そんな悪夢からなんとか立ち直ろうとしている彼女の面倒を見る形で、彼女と行動を共にしている。
今だって、彼女が自分の知らなかった「事の真相」を知ろうとするために、とある地に向かっているのだ。
ただ、その場所はイリスにとっても、またマランにとっても、出来れば近寄りたくない場所ではあった。
そう、そこに近づくのは非常に危険な行いであったから。
避けていたトラブルを自ら悪化させてしまう危険。
嫌な思い出を蘇らせる危険。
そして、知らなければ良かったのかもしれない事を知らされるかもしれない危険。
それでも彼女をそこへ向かわせたのは、きっと自分のためだけではないのだろう。
きっとそれは、そこでじっと待つひとりの「少女」の願いを受け取ってあげなければと思ったから。
――少女の、最期のメッセージを。
王女の服から冒険者の服に変わった時、彼女はまた、王女である自分のことも変えようとしていたのかもしれない。
そしてこれは、きっと本当の意味での「冒険者」としてのイリスの第一歩――
そのイリスの足が不意に止まった。
道中二度目。
一度目は街を抜け、坂をあがってはっきりと目標物が見えた時。
その時は、明らかに足がすくんだように見えたのだが、それでも気合いを入れ直してイリスがまた足を踏み出したので、マランもそのまま後をついて走り出したのだった。
そして道程も残りわずか、すっかり日は昇り、今度は目標物をすぐ目の前にして立ち止まったイリスの表情は、恐怖と言うよりもむしろ怪訝さを大きく浮かべていた。
『ラナの大樹』と言う名の目標物。
かつて、幹から枝から葉から、夜なお美しく全身緑に輝くその姿から、付近の港町レノでは『御神木』とまで崇められていて、それが故に何人をも拒んでいた不思議な樹。
でも実際はそんなものではなかった。
「魔法生物」――
ナルロ島と、何処か遠くにあるはずのハーバル城とを結ぶ、いわば「瞬間移動ゲート」。
しかし今では、その何もかもが黒く焼け焦げ、原形だけを残して無残な姿をさらけ出している。
どう見ても漆黒の残骸のようにしか見えないが――それでもなお、この樹はまだ生きている。
いや正確にはもう瀕死なのだろう――それ故か、それなのにか、ともあれ彼女は、その最期のメッセージをイリスに伝えようとしているのである。
そう、この樹の本当の正体は「魔法生物」ですらないのかもしれない。
自分の言葉を唯一聞く事の出来る能力者である、『虹の魔力』を受け継いだイリスに、別れを告げるつもりで、倒れそうになるのを懸命に堪えながら、じっと彼女の来るのを待っているひとりの少女。
その少女の名前は――
「ラナが……消えちゃった」
「えっ?」
その声に、同じく立ち止まってイリスの様子をうかがっていたマランも驚き、そしてイリスの視線の先を同じように仰ぎ見た。
「……」
今や黒い固まりにすっかり変わり果てた『ラナの大樹』だったが、その姿は先程と変わりはない。
「一瞬だけ、今消えたの。……ラナが」
イリスがそう付け加えた。
「……そう」
彼女は何時の間にか「ラナ」としか言わなくなっていた。
だからそれが『ラナの大樹』のことを差すのか、それともイリスの話してくれた夢の中の少女のことを差すのかはよく分からない。
だが、その事自体はあまりたいした事ではないのだろう。
今の彼女に何が見えているのかは知らないが、それでも多分イリスは「見たまま」を言ったのだろうから。
そして、彼女の告げた「事実」が何を意味するのかは分からないが、少なくともそれが良い知らせでないことだけは確かなのだろうから。
(何せ「魔法生物」だからな……)
『無から生まれたものは、無に帰す』
不意にマランの頭にそんな言葉が過ぎった。「魔法生物」というから、無論魔法で作られるのだろうが、残念ながらどうやって生まれ、そして滅びるのかまでは、魔法の心得などある訳のないマランには分からない。
「……命、尽きかけているのかな……」
「……急ぐよ」
イリスの不安めいた言葉を、マランは無理にかき消す事しか出来なかった。
同じ事を思っていた以上、何をどう返事しても、より悪いようにしか言えそうになかったから。
そして、目指す目標物が、視界のほとんど全てを覆うような距離まで近づいた時。
「……」
「……」
必死に走ってきて、荒い息を吐きながらも、お互い見合わせた顔には、まだ「彼女」がそこにいた事への安堵感があった。
「あの……私、来たよ」
走って来たためによる荒い息を整えるのもそこそこに、イリスは本当に、まるで既知の友人であるかのように樹に近づいて話し掛けた。
かつては近づく事も許されずに、遠くぐるりと囲まれた柵越しに眺める事しか出来なかったはずだった樹。それがあの大火で全てが一変してしまった。
「……」
マランはその後ろで、同じく息を整えながらも、何も物言わぬそれをじっと見上げる。
改めて見ても大きな樹。
そして不気味はほどに全身が漆黒に染まった樹。
朝の光に反射する事もなく、逆に朝日がその漆黒に全て吸い込まれていくようだった。
樹の焼けた後の姿にしても、それはあまりに不気味で不可思議としか言いようがなかった。
幹の黒。
枝の黒。
そして、葉の黒。
今や辺り全てが焼け尽きて、ただその大樹だけが変色したのみで残る更地に、強い風が吹く。
樹はその葉に至るまで、まるで黒い石のようにまったく動く気配を見せなかった。
マランの前で、大樹と向かい合うイリスの後ろに束ねた髪が揺れ散った。
そして、わずかに彼女の目から溢れていたものも。
「ラナ……ラナ……返事してよ」
返事――それはどういう形なのだろう。天から言葉が降ってきたりするのだろうか。
頭の中に、呼びかける「声」があるのだろうか。
それとも、もう、「声」は――
じっと樹の正面を見据えるイリスを、同じくじっとその後ろで見ていたマランは、彼女と同じ方向へ向けていた視線を、もう一度、そのままもっと上の方へと移してみた。
ゆっくりと視線を上げたからか、視界に大きな幹の最初の枝が入ってくるまでにちょっとした間であった。そのまま視線を枝に向けて、自分の真上に伸びてきている枝を見た。
小さいながらもはっきりそれと分かる漆黒の葉。そこからも微かに光が漏れるのか、光の穴のようなものが所々に開いて、キラキラと輝いていた。
――そういえば、さっき見た時は陽光が枝の黒さに吸い込まれているように見えたんじゃなかったっけ? と、思ったその時、
「うわっ」
突然眩しくなって思わず目をつぶると、そのまますてんとしりもちをついてしまった。
「い、今……」
マランがしりもちをついたのに気付いたのか、イリスが振り返る。
少し目の赤い、沈み顔。
「さっきラナが消えたって言ったの、この事なんだね」
突然、それも一瞬だけだったが、確かに――
「……うん」
イリスが何とも言いようのない表情をしていたので、
「呼びかけるんだよ、ラナに。大丈夫、まだ大丈夫だよ。まだ、『消えかけて』いるだけだから」
マランは確信を込めてそう勇気付けた。
「……そうね、そうよね」
そしてイリスは向き直り、より大きな声で、
「ねぇ、ねぇったら! 返事してよ、ラナ!」
そう叫んでドンドン、と手を幹に叩きつけた。
ごわごわして固そうな幹の表面のことなど、まるで気にしていないようだ。
そのイリスに手を貸す策を思い付けず、複雑な表情をしながら様子を見ていたマランは、
(ん……?)
ふと、大樹の左側に何かへこんだ部分があるのを見つけた。
(これは……)
左へ回ってみると、それが樹のうろのような物である事が分かる。
(また随分と……)
大きいなぁ、と思った。
樹の内部がごっそりくり貫かれているような、そんな感じだった。
元々が何人手を繋いだら囲めるか、と思われるほどの大きな樹の内部。だが、そのうろの規模は樹の大きさから考えてもかなり大きかった。
まるで樹の内部が薄い壁を残してほとんど空洞化しているような感じで――そう、普通の人間であれば、無理しなくても十人は軽く入れるほどの大きさ。
(十人かぁ……)
こっちにやって来た時は、ちょうどそのくらいの人数だったのかなと、ふと、この森が燃えていたあの晩に、炎の壁の中に飛び込んだハーバルの兵士達の姿を思い浮かべて、マランは苦々しい思いに駆られた。あの後あの兵士達、そしてあの男は一体どうなったんだろうか。
試しにマランは中に入ってみた。
いわゆる「転送装置」は恐らくここなのであろう。が、薄暗く、辛うじて朝日で見える程度であったその内部は、期待に反し、ごく普通の樹のうろの内部といった感じがした。
(どうやって転送していたんだろう?)
実際、転送の瞬間と思しきものを目撃した以上、向こうからやってくるだけでなく、こちらからも移動出来るはずなのだが。
きっとそれっぽい装置の類があるかと思いきや、やはり何処を探しても何ら奇妙なものは見当たらなかった。
だとすれば、やはり中に入って呪文のようなものを唱えたりするのだろうか。
(それにしても……なんか奇妙というか、不自然な所だよなぁ、ここは)
程なくマランはそれに気が付く――というのも、確かに側面や上面は大きな樹のうろそのものなのだが、おかしな事に底面だけは普通の樹のうろと異なり、中に入っても段差のない「地続き」だったのだ。何だか、適当に外周を掘った地面の上に大きな樹の形のオブジェを据え付けたような、そんな感じだった。
それはまぁ確かに、「魔法生物」で、しかも実用用途まであったのだから、何もかもそこいらの樹と同じというわけではないのだろうけど――それでも「似て非なる」というのは、なまじまったく似ていないよりも、妙に心に引っかかりを覚えてしまうものなのであった。
(ともあれ、樹の外で叫び続けるよりも、この中に入って何かやった方が効果的かもしれないな)
そう思ったマランは、イリスを呼びに外に出てみた。
そういえば、外の声が何時の間にか聞こえなくなっていたのだが――
「……何してるの?」
「外の声」の主だった者は、今は声を上げる代わりに、笑顔で目を潤ませていた。
「……ん、やっと……聞こえたの……」
本当に嬉しそうに震わせている声。そして、目を閉じた時に涙の輝きが一筋。
――彼女は、大樹の幹に大きく手を広げてぴたりと身体を貼り付き、顔をこちらに向けて、右の耳で大樹の声を聞いていた。
「ラナ……いたんだ」
「うん……まだ、生きててくれたよ……」
「良かったね」
もうちょっと、思いやりのある言葉をかけたかったが、こういう時に限って率直な言葉しか出てくれない。
「うん、よかった。ラナも会えて嬉しいって言ってくれたし」
彼女には見えるのだろう、その少女の姿が。
――消えかけている姿が。
「じゃあ俺……」
「友達とのお別れ」を邪魔しちゃ悪いなと、マランはその場から立ち去ろうとした。
「あ、待ってよ」
と、そこでイリスに止められた。
「ラナがね、マランにも会いたいって」
「……え?」
意外な言葉に、少なからぬ驚きの声をマランは上げた。
「……付き添いへの挨拶なんて、要らないんじゃないの?」
「ううん、違うみたい。ラナがね、マランにも話したい事があるって」
「話したい事だって……?」
まぁ、やはりマランは意外そうな顔をする事しか出来ない。
もちろんイリスが冗談か何かでモノを言っているとは思ってはいないが、『虹の魔力』だか「王家の血筋」だかの特殊能力とはまるで無縁の田舎の少年に、一体どうしろというのだろうか。
「ほら、早く来て」
「って、そんなこと言われても、『虹の魔力』も何もない俺に聞こえるわけないじゃないか」
「大丈夫よ」
根拠があるのかないのか、ともあれそこまで強く言われると、もう無下に断るわけにもいかない。
そんなわけで、マランも仕方なくイリスの横で、彼女と同じように腕を広げて貼り付いた格好で、ゆっくりと目を閉じつつ大樹に耳を寄せてみた。
(聞こえてくるとすれば樹木の中を通る水の流れの音とか……)
「……」
元々すんなりとラナの声を聞けるとも思ってはいなかったのだが――実際本当に何の音も聞こえてこないと流石に少々がっかり来る。
「……聞こえた?」
何やら遠慮がちにイリスが聞いてくる。
「……」
こちらも何だか悪い気はするが、嘘をついても仕方がないので、痛くない程度に軽く首を振ってみた。
「……そう」
イリスは悲しそうに目を伏せると、
「じゃあ、これならどう?」
と、マランが伸ばしていた右手にイリスが左手を伸ばし、指を絡めてぎゅっと握り締めた。
瞬間、マランの鼓動が高鳴る。
そして――その高鳴りと共に頭の中を何かがふっと通り過ぎた。
(なんだ、今のは……?)
一瞬垣間見た姿に驚いて、パチパチと目をしばたかせる。
頭を過ぎったものは一瞬だけだが、しかしその姿は頭の中に鮮明に焼き付いていた。
それは、少女の姿。
「……」
すぐ隣でイリスが耳を樹に当て、目をつぶっているので、マランも再びそれに習ってみた。
すると――始めはぼんやりと、そして徐々に瞼の向こうに人の形が見えてきた。
果たしてそれは、かの少女の姿であった。
(……君は一体……?)
『ア……ヤットハナシガツウジルノネ……ヨカッタ……』
声にならない声でマランが話し掛けると、今にも消え掛かりそうな小さな花の呟きのような声が、マランの頭の中にこだました。
『アナタガ……まらん、ナノネ……』
とてもたどたどしい呟き。目を閉じているからか、既に自分が大きな樹に抱き着いているという感覚が頭の中から離れて、あたかも本当に小さな少女の真正面に立っているような心持ちになっていた。
辺りは一面闇のような灰色。
その中で、今にも消え掛かりそうな、色のない少女がひとり。
これが「魔法生物」というものなのだろうか? ――いや、「魔法生物」といえば、物の本で見た椅子や宝箱に目や口がついているようなものをどうしても想像してしまうし、それらと同一視するのは、何だか彼女が可哀想な気がする。
そう、見た目の印象としては、「魔法生物」というよりもむしろ――
(……精霊?)
『ウン、ソンナモノダヨ』
口は動いていないが、にっこり微笑んで少女はそう言った。
(じゃあこの子は樹の精霊……ドライアド?)
物心ついた頃から森の中は自分の庭も同然だったマランだが、もちろん精霊の姿を見る事など、これが生まれて初めての事だった。存在そのものは物語や長老様の説教などで何度も諭されたのだけれども。
そういえば精霊の力を借りた魔法というものも大昔はあったという。だが、魔力のあった昔の人間ならともかく、魔力も何も無い今の世の人間、それもただの田舎の冒険好きの少年がそんなものを見るなんて。
それとも『虹の魔力』とやらは手を繋いだくらいで、簡単に他人から受けられたり出来るものなのだろうか。
(君が……ラナなんだね)
『ウン、ソウダヨ』
まぁ、そんなことはどうでもいい。
精霊はいなくなったわけじゃないのだから。
今の人間が魔力と共に、精霊を見る力を失ってしまっただけだから。
何かの拍子に再び見る事が出来れば、それはそれで嬉しい事ではないかと。
(で、俺に伝えたい事って、何だい?)
どうも彼女の姿を見ていると、幼い子供に話し掛けるようなやんわりした口調になってしまう。
『アノネ……』
と、笑顔で話そうとした彼女が突然苦しみ出し、
『アッウウッ……!』
絹を切り裂くようなというのか、甲高いうめき声を上げた。
と、マランの身体に一瞬だけ前につんのめるような感覚が起こった。
(……大丈夫? そんな顔してるけど、君、本当は……)
『ダイジョウブナノ、シンパイ、シナクテイイヨ』
苦しんだ顔を押し殺したように、ラナはまた先程と同じような笑みを浮かべた。
不思議なくらいに先程と何ら変わりない笑顔のはずなのに、それでもかなり苦しそうに見えてしまうのは何故だろう。
――もちろんさっきのつんのめるような感覚の理由は分かっている。
彼女がまた一瞬だけ「消えた」からだ。
そしてその消えるまでの間隔は、明らかに前よりも短くなっていた。
ぐぐっ。
と、今度は手ぶらなはずの右手に何か圧迫感のようなものが伝わってきた。
(……?)
『いりすガ、ヨロコンデイルンダヨ』
苦しそうな笑顔の少女が、更に無理をしたように微笑みを増す。
(何故?)
『ジャア、アノコニ、キイテミレバ……』
そう言って、少女はふっと姿を消した。
意識的にか、無意識なのか、マランは再び目を開ける。
そういえばイリスの方を向いていた眼前には、握った手に力を込めて……涙を流しているイリスの顔。
「そうなの……そうなのね……?」
何事か呟いている。
「良かった……お父様は生きているのね……」
先程の右手の圧迫感は、イリスが感極まって左手に力を込めたものだったらしい。
そしてその内容は、イリスの父親の生存をイリスに告げたものであったらしい。
それはやはり――あの炎の中での、傍から見ると無茶とも思えた「転送」がうまく行ったという事なのだろうか。
(……)
本当に良かったと言えるのか、どうもマランはまたしっくり来ない気分を感じたのだが、
(……あれ? そう言えば……)
その時ふと、マランの心に疑問が湧いた。
イリスも恐らくはマランと同じようにラナと話しているのだろう。でも、そのイリスとラナとの話の内容は、イリスの呟き以外ではマランにはまったく伝わっていなかった。
それどころか、ラナと話していた時、傍らにイリスの姿さえなかったのだ。
(じゃあ、俺と話していたのは……)
ラナ以外の誰か? ――いや、もうひとりのラナ?
(つまり、ラナは俺とイリスに別々に話し掛けているわけか……)
どういうことだろう? 能力的なことなのか? それとも――もしかして、何かふたりに個別に話したい事情でもあるのかもしれない。
理由はよく分からないけれど――ともあれ、そうだとすれば、彼女の最期のメッセージはイリスだけでなく、マランにも受け継がれる事になる。
しかもそれは、きっとマランにしか伝えられないメッセージ――
(……)
マランは樹をしばし見上げ、そして覚悟を決めたように、再び目を閉じた。
(うわっ、なんだこれは……)
その途端、何色かの光の束が突然マランを襲ってきた。
始めはマーブルだったそれは、その内に幾つかに集約され、更には区切られたそれぞれ別の色の輝きとなってマランの眼前に映し出された。
しばしあっけに取られた後、マランが一体何色があるのだろうかなどと呑気に数えようとした時、更に光は再び束になって、そのまま凝縮しつつ変形し、最後にはひとつの両手ですっぽり包めるほどの大きさの宝石の姿となって眼前に映し出された。
上下に尖った多角柱の形。そしてくるくるとゆっくり回る幾つもの側面の、そのひとつひとつに違う色がついている。
赤。
橙。
黄。
緑。
青。
藍。
そして――紫。
一周するとまた同じ色に戻っていく。
一見水晶のようにも見えるが、普通水晶は六角柱の形を取っているのに対し、この宝石は明らかにそれ以上の面数を持っていた。
(これって……?)
もしかして、これがかの『虹水晶』と呼ばれるものなのだろうか?
だとすれば、なるほど、確かに美しい。「魔宝石」は普通の宝石に比べても格段に美しいと聞いた事はあるけれども、この美しさは更に別格だと思われた。
こんな見る者全てを一瞬で魅了するような輝きを放つものが、この世にあっただなんて――
(凄い……綺麗だなぁ……)
しばし、マランはこの目の前に現れた宝石の魔性めいた輝きに、魅入られたような心持ちになっていた。
何もかも忘れ、ただその輝きに身を任せたくなるくらいの夢見ごこちになろうとしていた――
――はずだったのだが。
(あれ……?)
と、不意にこの宝石に何か不審なものを感じると、途端にその夢見ごこちから一気に覚めてしまった。
いや、実際自分でも何故そんなことに気付いたのかがよく分からなかったのだ。
それどころか気付いた直後の自分でさえ、何でこんなことに気付いてしまったんだろうか? と不思議に思ったくらいであった。
そして、ついさっきまでその宝石をただ見ているだけで、なんとも言えない心地好さを感じていたはずなのに、一度その夢のようなものから覚めてしまうと、これまた不思議な事に、もうその宝石からは別段何の感慨も得ることはなくなってしまったのであった。
もう目の前の光景は、ただ綺麗な宝石がくるくる回っているというだけという印象。
そしてくるくる回りながら、七色の側面を一色ずつ輝かせるその立体。
普通であれば、当然その側面が七つある七角柱であると思い込んで、わざわざはっきり確かめたりなどしないだろう。
だが彼は、何気なくその回転する多角柱を眺めていて、はたと気付いてしまったのだ。
(七色全てを映し出したのに……一周してない……?)
そう、ほんの少しだけのズレ――先程赤い色を放っていた側面は一周したあと、なんと別の色を放っていたのだ。
その色は――橙。
そして、更にもう一周した時には、その面は黄色く光っていた。
(この宝石……八角柱なんだ……!)
「魔宝石」とは良く言ったものである。まさにこんな不可思議な輝きは、魔法の力とでも考えない限りとても理解出来ないものだった。
そして、マランはそこからまたひとつの、突飛とも思える仮説を得る。
(じゃあ……もしかして、実は見えないだけで、あと一色隠れていたり、とか?)
例えば、本当は各側面がただ一色のみ輝くはずだったのだけれど、その色が欠けているために他の色がそれを補おうとして、それで一周するごとに色がズレていくとか――
そんな奇妙な事を思い付いたのは、冒険の旅に出て以来、わずかの間ながらも、それでも幸か不幸か色々と不可思議なものに遭遇し過ぎていた影響なのかも知れない。それで何時しかマランの発想も、ほんの少し今までとはズレ始めてきているのだろう。
ただ、冒険者としては、そういう発想「も」持てるということは決して悪いものではないはずだ――そう考えたマランは、だからそんな突飛な発想をバカげているとは思わなかった。それどころか充分にありえる話ではないかとすら考えていたのだ。
『ヤッパリ、キヅイテクレタンダネ』
久々にこの声を聞いた気がする。
『アナタナラ、キヅイテクレルト、シンジテイタヨ……』
と、不意に宝石が消えたかと思うと――あの少女の姿がまたふっと現れた。
心なしか、先程よりもより一層生気が失せたような笑顔だった。
(これが……君が見せたかったものなのかい?)
少女は静かに頷いた。
『キヅカナイヒトハ、ソノママ、トリコマレテシマウカラ……』
そして、悲しい表情。
そして――また笑顔。
『アナタナラ、アノコヲ、タスケテアゲラレルヨ。キットネ……』
(え……?)
『タスケテ、アゲテネ……』
(ちょっ……と?)
イリスを――助けるだって?
さりげなく彼女の言ったその一言が、どれだけの意味を持っていたのか。
いきなり託されたその言葉に、マランは頭が白くなりそうになった。
重い言葉だというのは分かるが、その重さがまるで分からない。
だが――
『ワタシカラモ、オネガイスルヨ……』
精一杯であろう明るい笑顔でそう言った少女の頼みに――
マランは、頷いた。
少女は、これ以上ないくらい愛らしく、そして儚げに微笑んだ。
そしてそれが、彼女の別れの合図である事も分かった。
(ひとつだけ、聞いてもいい?)
少しずつ薄くなっていく彼女に、マランは尋ねた。
それは彼の頭にあった「仮説」の答えを確認するものだった。
(最後の一色は、何色なの?)
少し驚いた顔をした半透明の少女は、しばらくして一言。
『……ヤミ』
そう答えた。
(やっぱり……そうなんだ……)
その答えは、不思議と思った通りであったような気がした。
ヤミ。
やみ。
――闇色。
虹の七色に、無いはずの色。
『スベテ……』
(ん……何?)
『ワタシガシッテルノ……オヤクニタテタ?』
ほとんど消えかけた最後の微笑みが、マランに向けられていた。
大きな樹に長い間棲んでいた小さな少女。
一晩火にさらされながらも、それでも懸命に耐えてきた、大きくて、そして小さな命。
――きっと、何十年に一度来るか来ないかの人間の姿をじっと待ちわびていたりもしたのだろう。
彼女の悲しい定めも、今、終わりを告げようとしている。
マランはゆっくりと頷いた。
『オヤクニタテテ、ヨカッタ』
その言葉からは、満足したといった感じが溢れていた。
マランも悲しみを堪えてその少女を見送ろうとしていた。
ありがとう、そしてごくろうさま、と。
君の最期のメッセージは、ちゃんと受け取ったよ、と。
ただの冒険者志望の田舎の少年だけど、こんな俺でも良かったら、きっと、なんとかしてみせるよ、と。
――ただ、それで終わるはずだったのに。
『サヨウナラ、まらん……モウイチド、アエテヨカッタ……』
(……え?)
予期せぬ一言。
「……『もう一度』だって?」
思わず、本当に声に出して叫んでしまう。
一瞬、何を言われているのか分からなかった。
いや、言っている意味は分かったが、それが何故なのかがすぐには分からなかった。
『サヨ……ナラ』
右手の甲に冷たい雫が垂れたような気がして目を開けると、目の前にはただ焼け野原と遠くに森、そして青い空が広がっているだけだった。
「ラナ……消えちゃったね……」
何時しか傍らにいたイリスがそう呟く。
そう言えばまだ手は握ったままだった。
無理に手を離す理由もないので、しばらくの間そのままだった。
マランの頭の中ではラナの言った「モウイチド」の言葉がくるくると回っていた。
「……ねぇ、何を話していたの?」
しばらく間があって、イリスがそう話し掛けてきた。
間をあけたのは、多分考え込んでいる様子だったマランに気を利かせてくれていたのだろう。
やはりイリスも同様に、マランが「別のラナ」と話していた内容を知らないみたいだった。
「あ、もちろん私も全部話すから、ねっ」
イリスにそう言われたのはとても嬉しかった。
だが――そのイリスの慌てたような表情を見て、マランも戸惑ってしまった。
そんなに他人に話したくないような顔でもしていたのだろうか、と――もちろんマランにそんな気はなかったのだが。
ただ、一体どう話したものか、ラナからの話だけを話せばいいものか、そう思っていただけで。
特に最後の「モウイチド」の意味。
自分でも意味が分からないのに、イリスに話してどうしようというのか。
ただ、なんとなくイリスにそこだけ隠して話すというのも心持ちが悪かった。
あれだけすぱっと「私も全部話す」と言ってくれたのだから、自分だって同じようにしたい。
だったらいっそ、イリスにもその言葉の意味を考えてもらえないものだろうか?
図々しい気もするけど、ついでの形でもいいから、自分の事をもっと伝えさえすれば――
(……あっ)
その時、全ての謎が解けた気がした。
ふたりにバラバラにラナが話し掛けた訳が。
「モウイチド」の意味が。
そして――ラナの本当の想いが。
(そっか、そのためだったんだ……)
何も話していなかったのは、むしろ自分の方であった事が――
マランは、返事がないので不安げな表情を見せているイリスの目をじっと見て、そして少し笑みを浮かべつつ頷いた。
「もちろん、全部話すよ。もし君が聞いてくれるならね。……そう、俺の事、全部」
マランのその態度の変わりように驚いた表情だったイリスは、返事の代わりに静かに笑ってくれた。
「……その話とやら、僕も聞きたいものだな」
だがその時、マランとイリスは初めて気が付くのであった。
彼らの後ろでじっとその様子を見ていた、制服姿のひとりの青年がいた事を――
(つづく)