第2話 虹の魔力ともう一度のさよならの話(4)
「知ってたんだな、ばっちゃん」
イリスが湯浴み場に消えた後、泥だらけの格好だったマランは、とりあえず手足の泥汚れを拭き、衣服に付いた泥をぬぐい、ついでに先程ダイブした時にソファーに付いてしまった泥を落とすと、再びソファーに座って薬茶を啜りながらそう言った。
「何をじゃ?」
同じく薬茶を啜りながら、この街の長老である老婆が言い返す。
「何だよそのとぼけた口調は……イリスの事だよ」
「イリス? ……ああ、あの黄髪の民の女の子の事かの?」
ずずす~っ……
「いんや、知らんよ。今さっき初めて会ったばかりじゃからの」
「知らない!? 知らなきゃあんな気持ち悪いくらいへりくだった態度を取る訳はないだろ、しかも突然にさ」
「当然じゃろうて、王族の娘さんなのだからの。こんな家じゃから大した持て成しが出来る訳もないんじゃが、せめて敬う気持ちぐらいは示しておかんとな」
「……やっぱり知ってるんじゃないか、イリスの事」
「おや、じゃあお前さんの方こそ、『その事』を知っておったのかね?」
「え? あ、あぁ……まぁ、ね」
「なら、お前さんこそ王家の方に対して随分無礼に振る舞っとるじゃろうが。……本当に、この山猿めが」
長老に呆れ顔をされると、マランはカップを持ったまま渋い顔をした。下手な言い訳をしたら、どうせまたバカたれ呼ばわりされてひっぱたかれるんだろうから。
ずずす~っ……
「……厳密には、イリスという名の娘を知っておったのじゃよ」
しばしの間の後、不意に重々しく長老はそう言うと、
「知って……いた?」
マランの言葉には答えないまま、立ち上がって隣の部屋へ入っていった。
しばらくして再びリビングに戻って来た時、長老は大きな本を携えていた。
茶色の無地の本なので、どのような内容の本なのかは外見からでは分からないが、長老はテーブルの上にその大きな本のお尻を乗せると、おもむろにパラリとページをめくりはじめた。
「何それ」
「わしが大昔、研究所から持って来た本じゃよ」
「研究所? ……ああそっか、ばっちゃん昔、賢者だったもんな」
『港町の賢者』――それがこの目の前の小柄な老婆の別名。その風貌や言動から特にその名を疑問に思う事はなかったのだが、それにしても研究所勤めだったとは初耳である。
ただ、この時のマランは疲労の限界だった事もあり、「何処の研究所なのだろう?」と、軽く疑問に思うことしか出来なかった。
「……今でも賢者のつもりじゃよ。人間一生勉強じゃからの」
失礼な、と言わんがばかりの目でマランを一瞥すると、長老は表から二~三ページ捲り、そしてその本をテーブルに開いて置いた。
「この子じゃよ」
マランがどれどれと見てみる。
「これは……肖像画?」
それは母と娘の全身像を写した肖像画だった。
何時頃誰が描いたのかなど、絵の事に疎いマランにはまるで分からなかったが、それでも現実の姿をそのまま切り取ったかのような、極めて写実的な――それでいて何処か「平坦」な感じのする――描画は、そんな彼でさえ、その画家の能力の衝撃的なまでの高さを十分に理解出来るほどであった。
そして、写実的であるが故、モデルとなったその母娘自身がいかに美しかったのかも自ずと分かる。
何処かの屋敷の一室で描かれたものであろうか。赤と白を基調とした内装の部屋で、服装が服装なだけにいわゆる貴族か何か、とにかくこちらの世界とはかけ離れた所に住む人間としか思えないような、そんな黄髪の民の若い母親と幼い娘の姿が描かれた肖像画。
娘の方はなるほど、良く見ればイリスに似ている気がする。数歳前、まだ幼さが残る頃の姿といったところか。
「あ……」
思わずその絵に見とれていたマランであったが、ふと母親の左腕の辺りにあるそれを見つけて、軽い驚きの声を上げた。
「腕輪が……」
ノースリーブの薄桃色の衣装を着た母親の腕にある、黄金色に輝いている何か。本に描かれている肖像画なので、さほど詳細が分かる訳ではないのだが、それでもぱっと見ですぐあの腕輪が思い浮かぶほどに、肖像画にはその特徴が十分に表現されていた。
(ひょっとして……これはイリスの腕輪と同じものなのかな……?)
そう思った瞬間、マランはふと、昨晩イリスから聞いたある言葉を思い出す。
『これがこれから先、私が生きていくのに必要だって、母が自分のはめていたのをはずして……その時……』
そう、昨晩洞窟でマランに腕輪を見せてくれた時、イリスは確か、そんな事を言っていた気がする。もっとも、「その時」から先は、未だ聞く事が出来ないままなのだが。
いや待てよ? あの腕輪が母親から彼女に受け継がれた物だというのなら、もしかしたら彼女の母親も、その母親からあの腕輪を受け継いだのかもしれないな。そしてその母親の母親も、あの腕輪を更にその母親から受け継いで――そう、あの腕輪は元々、遥か祖先からずっと王家の子孫に受け継がれ続けてきたものなのではないだろうか? それも、恐らくは女系の子孫に――
マランがその考えに至り、はっとして顔を上げた時――長老たる賢者は、まるでマランの頭の中を見通していたかのような表情で深く頷いていた。
「やっぱりそうじゃったか……顔と衣装だけではどうもはっきりせんかったが、先程ちらっと包帯から見えたからの。それで、恐らくはと思ったんじゃが……」
「本当にこの絵に描かれているのが、イリスの腕輪と同じ物なのかは分からないけどね」
マランは推測を安易に確信にするのをためらった。
「……でもばっちゃん、やっぱり腕輪のことも知ってたんだ。流石だな」
特に何か意図したわけではない、素直な感想を述べた一言。
が、言ってからこれが、話の流れを自分の望む方へと向ける言葉になっている事に気が付いた。
何時だったか、他言無用とほんの少しだけ口にしてくれた長老の昔の頃の話。とはいえその時でさえ、決して詳しく話そうとはしてくれなかったのだけれども――ただ、イリスという大きな存在がある今、マランの期待通りに、ようやくその固い「封印」は解かれようとしていた。少なくともマランはその強い確信を抱きつつあった。
そして、その先にあるのはもはや「神託」にすら似た「助言」――あの時の事をもう長いこと気にし続けていたマランにとっては、「語って」くれさえすれば、それで万事が解決すると、もうすっかりそんな風に思い込んでしまっていたのである。
ただ、さりげない期待が込もってしまったマランのこの一言に、長老は思わぬ反応を示した。
何故だか、徐々に長老の顔が曇り出し――ついには苦渋に満ちた顔をしてうつむいてしまったのだ。
「……ばっちゃん?」
思いもよらぬ反応に、流石にマランも心配になって、当面の興味をどけてそう呼びかける。
うつむいていた長老は、その声に反応して顔を挙げ――そしてマランの心配そうな表情を一瞥すると、今度は目を伏せて首を横に振るのであった。
「いや、わしもそう詳しいことまでは知らんよ。研究所時代は間近で拝見することは結局なかったのだからの」
まるで期待に応えられなくて申し訳ないと言わんがばかりに。
「無論、まったく知らないということはないがの、が、お前さんや……あの子よりもどれだけ知っておるかどうか」
そうは言うが、大して話してもいないはずのマラン達の事情をここまで汲み取れるほどなのだ。やはり期待していた通り、賢者らしく、マランの知らない事をこの老婆は色々と知っているらしかった。
――恐らくは、イリスでさえ知らない事も。
「そうじゃの、あの子が戻ってきたら詳しい事を聞くとしようかの。お前さん達と『ラナの大樹』に一体何が起きたのかも含めての……元々、それを条件に自警団からお前さん達をかくまった訳じゃし」
「あ……」
長老のその言葉で、マランは、今の自分達が「レノの長老」によって「レノの民」からかくまわれた「外部の者」であった事を思い出す。
その街の自警団に狙われている者が、仮にもその街の長老に対し、無闇に甘え頼り助けを請うのは、知己という事を差し置いても本来許される事ではないのかもしれない――そう考えると、マランはぐっと胸が詰まってしまった。
「ま、自警団の事はわしがおるから、あまり気にせんで良いぞ。わしはただ単にお前さん方と、そして『ラナの大樹』に、『何が起きたのか』を知りたいだけじゃからの。何が起きたかはっきり知らんことには、充分に手を貸す事も出来んしな。……ま、何分お前さんに関わる事じゃからな。わしも出来る限りの事はしようと思っておる」
「あ……」
ずずす~っ……
一瞬間を置いてからそう話を続け、そして長老は落ち着き払った様子で茶を啜った。
マランはほっとして、つかえていた息をふぅ、と吐き出した。
どのくらいほっとしたかというと――ほっとし過ぎて、ついうっかり、「ありがとう」と言いそびれてしまったほどだった。
「……ともかく、お前さん達は、一度ゆっくり休んだ方がええ。そのボロボロの様子じゃと、昨夜はひょっとしてほとんど寝とらんのではないかの?」
「うん……色々ありすぎて、眠くても眠る気がなくなるほど、ね……」
実際の所、今はもう何故起きていられるのかすら良く分からない。何かの一線を超えて、もう二度と寝なくても済むのではないかと思うくらい眠気を感じなくなっている。
だが、それはただ単に眠気の感覚が麻痺していただけだったのは、寝た方が良いのかなと思って少し腰を浮かした途端、眠気による激しい目眩を催した事ですぐ気が付いた。
「まぁベッドは用意しておいたからの。あの子の分も別にあるから気にせんでとっとと休め」
「あぁ……ありがとう、ばっちゃん」
ふらふらと立ち上がり、客間のある二階へあがろうとした時に、ふとマランは肝心な事を確かめてない事に気が付いた。
もちろん、聞きたい事も話したい事もいっぱいあるのだが、今気になっているのは、別に確かめなくても分かるはずなのに、それでもどうしても聞きたかった事であった。
「ばっちゃん……」
「ん、なんじゃい?」
「この女の子は、やっぱりイリスじゃないんだよね?」
不意に何かを否定したい感情が出たのかもしれない。
「……いや、イリスなんじゃよ」
その否定を打ち壊すように長老はそう言った。
「確かにこの子はあの子とは別人じゃ。……でも、この子の名前も『イリス』と言うんじゃよ」
「……え?」
「いや、正確にはイリスと言った、という方が正しいかの。この絵が描かれて何年かたった後に、イリアと言う娘をもうけて間もなく亡くなったと聞いたからの」
「イリア……?」
それは、何処かで聞き覚えのある名前だった。
イリスに近い名前であることは良く分かるのだが、それにしたって何処でだろう? ――空回りするばかりの頭でしばらく考えた後、マランはようやくそれに思い当たった。
そう、これはあの黒尽くめの男の口から「イリス」と並んで出て来た言葉。
イリスに絡まっている、未だ不透明なままの繭の一糸の名前。
無理に引っぱれば一気に全てがほどけそうだったが、そうすると中の蛹が引き千切られてしまいそうな、そんな非常に危うい感情の糸の護り――
「これはな……まぁわしがハーバル王立研究所を離れたのはもう五十年ほど前の話じゃから、断言までは出来んのじゃが、恐らくは……そうさな、あの子の祖母と曾祖母に当たる方々なんじゃろうて」
「……ハーバル王立……?」
「……その絵、私のお婆様なんですか……?」
と、マランの呟くような問いかけとは別に掛かる、後ろからの声。
「あっ……」
イリスもう上がったんだ――こう続けるつもりだった言葉は、しかし驚きの声のまま止まってしまった。
何故ならそこに、見慣れ始めた人間の、見慣れない姿があったからである。
「イリス、その服……?」
「あ、これね? 前の服ぼろぼろになっちゃったし、お店の小父様もこれに着替えなさいって言ってたから、ちょっと着替えてみたのよ」
イリスがらしくもないような、はにかんだ表情を見せる。
「……ど、どうかな? やっぱり、変かな?」
「……あ、いや……に、似合ってるよ……」
マランもなんともぎこちない照れた表情で答える。
またしても、眠気が何処かに吹っ飛んでしまったような心地になる。
女冒険者服だと店主は言っていた。
ワインレッドの上下の服。
その服は薄く、しなやかに彼女の身体のラインを包む。
薄水色の淡いスカーフが、先程のワンピースのような高貴さも、この街やマランの村の人達のような平凡さをも否定する。
マランの灰色の服と同様、明らかに違う「存在」を示す格好の少女。
――それはまさしく、「冒険者」のいでたちだった。
「でもどうしよう、これ『お金』っての、払ってなかったよね。やっぱり小父様に返さなきゃいけないのかなって思ったりも……って、ねぇ、マラン?」
「……」
「な~に赤くなっとるんじゃ、お前さんはっ!」
ぱこん!
今度はしわの寄った手で頭を軽く叩かれる。
それを見ていたイリスは手を口に当てて驚いた後、すぐにくすりと微笑んだ。
「何を見とれてぼ~っとしとるんじゃい。近ごろ大人ぶって生意気になって来たと思ったらこれだからの……まったく、コノントに『純情少年』などとからかわれるわけじゃわい」
「うるっせぇなぁ、ばっちゃん。見とれてなんかいねぇよっ!」
本日三度目。そんなに俺はそんな風に見えるのか、それとも、みんなで密かに示し合わせてからかっているのだろうか、とさえマランは思うのであった。
何がおかしいのか、イリスは微笑みを通り越して笑いを堪えていたし。
「ところで、コノントさんって?」
イリスは笑いを堪え切ると、まだ何やらヒートアップ状態のマランにそう尋ねる。
「あぁ、あの服屋の親父の名前だよ。何かっつうと俺をからかってばかりいるんだ……まぁ、あのからかいにも大分慣れたけどね」
「……へぇ~ぇ」
悪戯っぽい笑みの付いた、なんとも解釈つきかねる返答だ。
「それよりほんと、どうした方が良いかねぇ。前の服を直そうにもあれだけ袖が破けちまったんじゃなぁ……」
「そういえばマラン、さっきのあのマントの方はどうしたの?」
突然イリスが話題を変えてきた。もっとも、もうとっくに話題はそれまくっている気もするのだが。
「え? ……あぁ、あの蒼い奴? 一応カバンに仕舞ってあるよ。あんな御大層なもん付ける気にもならないしね」
「え~……似合うのに」
即答。そして突然、思わずこちらが固まってしまいそうなほどの期待に満ちた目が、マランに向けられて――
「ま、まぁ、考えておくよ」
我ながら「純情少年」を地で行くような返事だった気がする。まったく、誰のせいでこんな流れになったんだ?
「……あ」
そうだった、全ての元凶はきっと――
「コノントのおじさんが悪い!」
「? どしたのマラン?」
「いいよ、その服も出世払いにしてもらおう。……元々昼間の騒ぎは、あのおっさんがイリスを引き止めたのが原因なんだから、うん」
「?? ……だから『出世払い』って、何?」
「今お金を払わなくてもいいってことだよ。……さ、とりあえずこれ以上あれこれ考える前にもう寝ようよ。このままじゃ床にぶっ倒れちまうからな」
「……??」
何だか分からないが、分かったような表情のイリスを引っ張って、マランは階段を上っていった。
気になる事が、またまたいっぱい増えた気もするけど、そんな細かい事はやっぱりもう、眠気の魔物を追っ払うまで後回し――
ただ、マランとイリスのそんなやり取りを、長老がじっとニヤニヤしつつ傍観し続けていたのに最後まで気付かなかったのは、マランにとっては少々うかつな事だったのかもしれない。
『いりす……いりす……』
それは「聞こえる」というよりも、むしろ頭の中に鳴り響くような声だった。
決して聞き苦しいわけではない。静かな、呟くような小さな声。
『アナタニ、アイタイ……』
(……誰?)
見渡しても、白くて薄ぼんやりしているだけで何も見えない。
『モウイチドダケ、オハナシ……シタイノ』
(お話したい? もう一度だけって……?)
知ってる誰かが、自分に呼びかけているのであろうか。
だけど、こんな声にはどうにも聞き覚えがない。
それどころか、こんな不可思議で抑揚のない声を出す人間なんているのだろうかとさえ思える。
(……じゃあもしかして妖精だったりして? まさかね……)
『マッテルカラ……ワタシ、マッテルカラネ』
ただ、抑揚がないながらもあまりにも切実そうな声に、最初は冗談めいた想像をしていたイリスも、徐々に本気で心配し始めてしまう。
(誰? 誰なの? 私に呼びかけるのは……私、あなたを知っているの?)
『カナラズキテネ、オネガイ……』
(お願いって言われても……)
ふと、イリスは背後に何かの気配を感じて振り返った。
相変わらずの薄ぼんやりとした白。
――いや、良く見れば何か薄い影のようなものが見える。
最初は人の大きさを取っていた影が、どんどん伸びていき、そして広がっていく――
(あぁ、あなただったのね……)
そして、とある形を取った時、イリスはようやく、ずっと自分に話し掛けていたのが「彼女」であった事を理解した。
声を出しても音の出ない唇で、ゆっくりと「彼女」に問い掛ける。
――あなたは、だあれ?
『ワタシハ……「らな」……』
ずきん。
(ん……?)
ふとイリスが目覚めた時、辺りはまだ薄暗闇だった。今が何時頃なのかはよく分からないが、どうもまだ夜明け前のようである。
「あれ……夢?」
ひとまず、声が出たのでほっとする。それで、夢の中から抜け出せた事を知ったので。
だがその安堵も、周りに誰もいない事が分かると、また急に不安にかき消されてしまった。
「私……何時の間に……」
寝てしまったんだろうか? 服も着替えないうちに。
なくなりかけていた記憶を、落ち着いて心の中で拾い集めてみた。
まずここは何処か――マランの知り合いの港町の長老の家である。
長老の家の何処か――二階の客用の寝室と思しき場所である。
では何故ここに寝ていたのか――マランにここで寝るといいよと言われたからである。
そもそもマランとは誰か――え~と?
(……あ、同い年の黒髪の民の……「冒険マニア」さんだ)
そこまで思い出すと、う~んと伸びをして頭をぐるぐる回してみた。
そうだ、あのドア――昨日マランに案内された部屋のドアを開けると、真っ暗に近い中で薄ぼんやりと浮かぶベッドが見えて、その瞬間に、今まで抑えて来た眠気が堰を切ったように溢れ出てきて――そこから後の記憶はほとんどないのだが、どうやらそのままそのベッドに倒れ込んだようだった。
丸二日ばかり寝ていなかったはずだけど、よほど深い眠りに就いていたのか、別に二日分の睡眠時間を取ったわけでもないはずなのに、自分でも驚くほどにすっかり眠気がなくなっていた。
(マランは……隣で寝てるのかな)
隣といっても、はてどっちの方角かと、きょろきょろ辺りを見回してみる。
後ろを振り向くと、カーテンから漏れる薄明かり。なるほど、今の薄暗闇はここから漏れた光によるもののようだ。カーテンをめくると、窓の向こう、闇とも光とも表現しがたい微妙なモノトーンの色彩が、静かに眠る街を覆い尽くしていた。
(ん……?)
何かが疼いたような気がして不意に右手で左腕を抑えた。
どういう寝相をしていたのか、左腕の袖がまくれ上がって肩口まで露出していた。結局あれから着っぱなしの例の「女冒険者服」なのだが、袖の素材が薄いのでまくれ上がりやすいらしい。まったく、色々な意味で変わった衣装である。
かの疼きは包帯を巻いた所から感じられた。昨日だったか、一昨日だったか、とにかく、あの時に負った大きな怪我――のあるはずの場所。
そういえば、あれだけ血がたくさん出て、あれだけもの凄い痛みと熱があったはずなのに、あの人が突然差し出した白い薬を半信半疑で塗ってみてから、急に嘘のように痛みが引いていったっけ。
ふとイリスは、また解け掛けている包帯を、思い切ってそのまま取ってみた。
「凄い……」
思わず目を見張った。切り傷どころかえぐられたくらいの傷であったはずの箇所が、驚くことにほとんど塞がっていて、もう既に完治しかけていたのである。
もう痛みもほとんど感じず、かろうじて疼いたような感触が時々するだけだった。
幼い頃、木から落ちて同じように腕に怪我を負ったことがあったのだが、あの時は治るまで何日も何日も掛かって、毎日のように痛い痛いと泣き叫んでいたのを思い出した――それよりも、もっと大きな怪我のように思っていたのだが。
やはり、あの薬のおかげなのだろう。確か、彼が煎じたとか何とか言っていたが。
(あの人、どんな「魔法」を使ったんだろう……)
ひとまず、包帯を巻き直した。傷口を覆っていた包帯は赤黒く変色していたので、そこはもう一度白い部分で二重に覆い隠してみた。
当然ながら傷口部分に多く包帯を巻いた分、腕輪に巻く分が若干少なくなってしまった。何とか隠せない事もないが、隠し切れなかったり、透けて見えたりするのは避けようにない。
どうしようかとも思ったが――何のことはない、まくり上がっていた袖を降ろせばいいだけの事であった。幸いな事に、薄い生地の割には腕輪が透けて見える事はなく、怪我が治ったら、もうわざわざ包帯を巻く必要はなくなりそうだった。
包帯を巻き終えた後、そのまま右腕の方の袖も降ろして「長袖状態」にしようとも思ったのだが、不意に、
(ん~~『ばっちゃんに任せていれば心配ないんだよ』か……)
昨夕のマランのあの一言が頭を過ぎると、イリスはえいやっと再び両袖をまくり上げた。
一旦彼を信じてみようと決めたのだ。中途半端な事は禁物である事ぐらい、彼女とてそれなりに知っているつもりであった。
ドアを開け、廊下に出ると、ひんやりした空気に一瞬イリスの露出した肌が震えた。だが、寒いと感じたのは露出している両腕くらいのもので、あとは不思議と寒さを感じなかった。
これも、この「女冒険者服」の効果だろうか? 本当に不思議なものである。まるで何か魔力のこもった素材だったりするかのよう。
薄暗闇の中、すぐ隣にも同じようなドアがあったのを確認した。
何故だか薄くドアが開いてるのを見て、思わず近づいて耳をそばだててみる。
微かだが、寝言とも寝息ともつかないような少年の声。
扉の向こう、ベッドの上で、すっかり安らいで寝入っているこの少年こそ――昨日、いや一昨日か、ともあれ必死に逃げて来た自分をここまで連れて来た、いわば命の恩人なのである。
もしあの時、たまたま彼と出会わなければ、間違いなく自分の命はなかったのだ――わざわざ母が己の命を犠牲にしてまで残してくれた命が。
――ずきん。
母のことを想った時、急に何とも言えない圧迫感がイリスを襲って来た。こらえ切れなくて、胸の辺りを抑えてうずくまるように膝をついてしまう。
何の前兆もなしに突然襲ってきた、激しい動悸。
(あ、駄目、……ずっとこらえてたのに……溢れてきちゃう……)
いや、違う。違うんだ。
一昨日の事はただの悪夢だと片付けたくて、せっかく再スタートを切った昨日が、一昨日の続きで今日まで繋がっているなんて事を認めたくなくて、都合の良い所、これからに必要な所だけを記憶から切り取って持っていたくて、残りのものを頑張って胸の奥に押し込めようとしたのに――それが、自分が肉親の犠牲の上で今生きていることを考えた途端に、何とも言いようのない罪悪感と恐怖となって、突然逆流してきたのだ。
急に意識が薄らいだような感じがしてくる。頭の中が真っ白になり――そしてそこには、先程の夢で出てきた大きな樹の影が映し出されていた。
そうだ、あの樹は、あの時の事を、全て見ていたんだ――じゃあ、あの樹は、私の知らない何かを知ってるの? 私に何かを伝えたいの――?
「ラナが……呼んでる……私を……何か……」
うわ言のような呟きが漏れた。
自分に呼びかけてきたあの声、あの惨事の起きたあの「場所」が、まさか私を呼びに来るなんて――
「……大丈夫ですかの?」
そしてついには意識が視界ごと薄暗くなろうとしていた時、耳元に囁く声があった。
「……あ」
それはマランの知り合いで、この街の長老でもある老婆の声であった。
この館の主でもあり、そしてマランが全幅の信頼を寄せている人物。
「大丈夫ですかの? しっかりしなされ」
「あ……はい、大丈夫です、すみません」
動悸は今も激しいままだったが、話しかけられた事で再び意識ははっきりしてきて、気分も少し落ち着いてきた。
うまく再び心に「蓋」が出来たようで、身体が急に動けなくなったり、ということはもうなさそうだった。
「まだ眠いのではございませんかな? もう少しゆっくり休んでいらした方が宜しいのではないですかの」
「あ、いえ、違います。……もう、大丈夫です」
思わず空元気な照れ笑いを浮かべて、手を振ってしまった。
「そうですか……じゃ、下に降りて紅茶でもいかがですかの」
「え? あ……はい」
そして昨晩同様の丁寧すぎる言葉遣いに戸惑いながら、イリスは長老に続いて階下へと降りていったのであった。
「さぁ、どうぞお召し上がり下さいませ」
「……ど、どうも……」
階下のリビングに座ってしばらくすると、長老はティーカップをひとつだけお盆に乗せて運んできた。
そして今、自分の前に琥珀の液体の水面が静かに揺らいているのだが――イリスは縮こまりながら、中々手を出せないでいた。
「どうしましたかの、冷めてしまいますぞ?」
――それでもやっぱり手を出せず、乾いた笑みを老婦人に浮かべるしかない。
どうもこの言い回しは気分的に窮屈である。館にいた人達でさえ、ここまであからさまに自分を敬ったりはしなかったのに。
元来の性格からか、無闇に敬われてもこそばゆく感じるだけなのだ。
「あ、あの……長老様……」
とりあえず、何か聞こうと思った。
「『長老様』なんて、そんな、王家の方が恐れ多い。……どうぞご遠慮なくマァヌとお呼び下され、もちろん『婆』でも何でも……」
が、話をそらされてしまった。やっぱりこれではいけない。
「い、いえ、あの、そんな……じゃあ、マァヌさん。私の方こそ、そんな、敬語なんて使わないで下さい。何だか……とても心苦しいのですが」
「でも、あなた様は仮にもこのバグアレッグの王のご皇女、そもそも私めのような者があなた様とお言葉を交わす事自体が礼儀に……」
「あ、あ、あの、だからっ!」
思わず声が大きくなる。
「私は全然構わないんですっ! というか、その、私もマランに話すみたいに接してもらいたいんですっ!」
――言ってしまった。ここまで率直に言うつもりはなかったのだが。誰かさんの口調が自分にも伝染してしまったのだろうか。
するとマァヌは、イリスの一言を黙って受け流したかと思いきや、ややあってイリスにこう言った。
「はぁ……しかし、王族なら王族らしく、もっと堂々とした態度で民の敬意を受けたらいかがですかの?」
「いえ」
イリスはすぐ否定した。
「私、そんなこと……いえ、そもそも私、王族だなんて思ってた事、ほとんどないですから。……私、生まれてこの方、ずっと館の敷地内から出たことがなかったので、だから『支配者の娘』だなんて、王女なんて実感がないんです。それに、そもそも私、あまり父母とも……」
そこから先は――どうしても言葉に詰まってしまう。心の中では、今なお大きな渦がうねっているような感じだった。
「ほう、そうだったのですかの……」
一瞬、苦しそうな複雑な表情をしながら、マァヌが顔を伏せた。
「ですから……マランに接するみたいに、マランが私に話し掛けてくるような感じで、私にも『バカもん!!』って言って下さった方が私も気楽なんです。お願いします」
照れくさそうに、にま笑いを浮かべるイリス。
するとどうだろう、再び顔を上げた時の長老の表情は、心なしか先程よりもずっと穏やかなものになっていたのだ。
「しかし、あの山猿めは王族を王族とも思っていなかった無礼者ですぞ? ……残念ながらここは王国から遠く離れた辺鄙な島故、王家の方の御尊顔どころか、そもそも我々の上に立つ王がいることすら知らない人間が多いですがの……それでもあなた様の御身分を知ったならば、あやつほどまでは無礼に接する事はないでしょうに」
イリスは首を横に振る。
「それでいいんです。さっきも言いましたけど、私にだって、その……王族だの、王女だのなんて本当はよく分からないんですから。だから、余計な気を使われますと、私も却って戸惑ってしまうだけなんです。……でも彼は、そんな私の事を知っても、その、普通に話しかけてくれているから……」
どうしたものか、色々言い訳するに連れて、何故だか自分の顔が赤くなっていくのを感じる。
「……なるほどのう……」
と、マァヌは何やら意味ありげに、そんなイリスをじっと見詰めていた。
それがイリスには、マランが無礼者であるという証言を、当の本人が認めてしまったと誤解されたのではないかと思えて、
「あ、でも、彼だって私の事を知った時には突然態度が変わったんですよ? それを私がやめてって言ったから、マランもそれだから、その……」
恥ずかしいと思いながらも、何故かついあたふたしてしまう。
その様子をも、じっと見ていたマァヌであったが、
「……なるほど、お前さんもいい子じゃの」
そう呟くように言うと、長老はにこりと微笑んだのであった――それは昨日、衣服の山越しに初めて顔を合わせた時に見せてくれた表情と同じものだった。
思えば、何処かマランとも似ている笑顔――もしかしたらそれが、絶体絶命の状態だったイリスに心の底からの安堵をもたらし、絶望以外の道を指し示してくれたのかもしれない。
「なるほど、いい娘さんじゃのお前さんは。確かに……マランじゃなくとも男は放っとかんじゃろうのう」
「……はえっ!?」
一転、何の脈略もないあまりにも意外な一言に、イリスは思わず妙な声を上げてしまった。
「えっ、ええっ!? あ、あの……『男は放っとかない』って……?」
「ふふふ、わしも伊達にあの山猿に『ばっちゃん』と呼ばせている訳ではないのでな。あやつの考えておる事などすぐ分かるわい」
「えっ? えっ? マランが? ……えっ?」
ひとり何かを悟ったように頷くマァヌと対極に、イリスはその一言で更に困惑してしまった。
「ま、お前さんのその快活さはやはり血なのかもしれないの」
「あ、あの、だから……?」
「ほら、マランも起きてきたようだぞい」
と、その声に釣られて階段を見ると、確かに眠そうに頭を掻きながらマランが降りてくるのが見えた。
――途端、ますます顔の紅潮が止まらなくなってしまったのは何故だろう?
「何やってんの、ふたりして……?」
「な~に、乙女の秘密の会話じゃよ」
「……はぁ?」
マランはただ、何の話やらと驚き呆れるばかりであった。
「それはさておきじゃ」
マァヌの顔から柔和さが取れると、ようやく何が何やらと困惑していたマランもイリスも気を取り直した。
「お前さん方も起きてきた事じゃし、さっそく昨日の事を色々と聞きたかった所なんじゃが……ちとそれは置いておくとしよう。どうやら急がねばならん事が出来たかもしれんでの」
それは思わぬ話の切り出し方だった。マランのみならず、自分の中でなおも懸命にあれこれ整理を付けようとしていたイリスでさえ、その言葉に驚いてマァヌの方を向いた。
「え? 急がなきゃなんない事って……?」
と、マラン。
「ふむ……先程外を見たらな、自警団員達が家の辺りをうろついておったのじゃよ。自分の街の長老の家じゃというのに、信用ならん事じゃのう……まぁ、今はまだ夜明け前じゃからひとりふたりといった所じゃが、日が昇れば無論、もっと増えるじゃろうて。……じゃから、外に出るのだったら、今の内、急いだ方がええかもしれんのじゃ」
「は? だから何? 外に出るって? 今?」
マァヌの目はますます何が何だかといった表情のマランにではなく、不安そうな表情を浮かべるイリスの方に向けられた。
「お前さん、先程『ラナが呼んでる』と言っておったな?」
「え? あ、はい……」
そんな事を言ったかと一瞬回想する。――確かに、先程うわ事のようにそう言ったかもしれない。
でも、あれはただの――
「ちょいとな、その言葉がどうにも気になるのじゃが……それがどういう意味なのか、お前さんは憶えておるかの?」
「あ……はい?」
戸惑った。幸い夢の内容はまだはっきりと憶えてはいるのだが、まさか、本当にあの樹が自分を呼んでいたなどと素直に信じられるかといえば――正直に言って、自分でも難しいところではあった。
それに、もし仮に本当に「彼女」が自分を呼んでいるのだとしても――それはそれで自分が本当にまたあそこへ行かなくてはならないのかと考えるのは、イリスにとってはもっと難しいことだった。
何せ、二度と戻って来る事はないだろうと、もう既に一度別れを告げていたのだから。
母に。
――そして父に。
「もしかして、夢に『ラナの大樹』が出てきた……というのではなかろうかの?」
マァヌは、イリスが言いよどんでいるのを見ると、まるで考えている事を見通したかのようにそう言った。
イリスはしばし固まり――そして、うな垂れるように頷くしかなかった。
「やはり『夢見』か……」
マァヌはそう呟くように言う。
「だとすれば、やはりお前さんはすぐにでも森に行った方が良いのかもしれん。恐らく、あの樹はまだ『生きて』おるんじゃろう」
「えっ? じゃあばっちゃんは、あの黒コゲになった樹がまだ生きているっていうのか? 一晩中あれだけ激しく燃えて、一面焼け野原になったってのに……それでも?」
突然マランが話に割り込んできた。
マランは今まで見てきた所、何が起きようともありのままを受け入れそうな性格のようにイリスは思っていたのだが、流石にイリス同様、夢の話まではにわかには信じられなかったのかもしれない。
「やはり……お前さん方はあの火災の時に近くにいたのじゃな」
と、マァヌはやれやれという表情でそう言った。
マランはあっ、しまったという顔をして、慌てて弁解をしようとしたのだが、
「……誰もお前さん方が火を点けたなどと言っておらんだろうが」
またもその前に、マランはぴしゃりとやられてしまった。
きまりが悪いといった表情のマランを放っといて、マァヌは再びイリスの方へ向く。
「ともあれ……その辺の話は後で戻ってきた時にゆっくり聞くとしようかの。色々な意味で、今は聞くべきではないのかもしれんからの」
元々マァヌがイリス達をかくまったのは、自警団にかわって「その辺の話」を聞くためだったはずなのだが、マァヌの話には、当面の問題はそこにはないといった感じがあった。
だがイリスには――その口調が同時に、聞かずとも既に今回の件の概要はほとんど分かっている、といった口振りのようにも感じ取れたのだった。
(……色々な意味で?)
ふと、そのイリスはその言葉が気になって、改めてマァヌの目を見詰める。
――それはどういう意味? と。
一度小さな疑念が湧くと、未だ不安定なうねりを持ったままの自分の内側から、それがみるみる黒い固まりとして膨らんできてしまう。
しわの寄った優しい目。今は厳しい顔をしているのだが、それでも何処か暖かみのある眼差しを決して失っていない。
だが、その青黒い瞳の奥。恐怖とまでは行かないが、イリスは何か深く飲み込まれるようなものを感じてしまっていた。
「全てを見通す事の出来る目」とは、このようなものを言うのではないだろうか?
どれだけマランがこの老婆に状況説明をしたのかは知らないが、少なくとも出会う前の事は彼にだってほとんど話してない以上、この長老もまた、同様にほとんど知らないはず、である。
そう、彼の知らない事は、未だ自分の中でうねっているだけのはずなのに、この老婆はそれすらも見通している気がする――
(この人は一体、何者なんだろう?)
その老婆の賢明さが、逆に疑念と警戒心となって、彼女の中を掻き乱し始めていた。
「とはいえ、幾ら魔法生物といえど全身黒コゲになってまで長くは持つまい。じゃから、その最期の言葉を、お前さんは聞いてやらねばならんのじゃろう。……あの樹にしか分からぬ事もあるじゃろうからの」
「ま、魔法生物だって……?」
何気なくマァヌが呟いたその一言に、マランは驚いてそう言った。
ひょっとして、「魔法」という言葉に反応したのだろうか。
少し前ならイリスも同じように反応したのかもしれないが――
ともあれ、マァヌはなおもイリスに向かい、そして言った。
「そして、その言葉を聞けるのは、『虹の魔力』を持ったお前さんだけのはずなんじゃ」
「『虹の魔力』……?」
魔法という言葉が一度出てしまうと、その呟きにさしたる驚きはもう混ざらなかった。
だが、もちろんまったく驚いていない訳ではない――突然言われた事を、どう飲み込んで良いのか分からないだけなのだ。
「残念ながらな……これについてはわしも詳しくは知らん。ただな……」
真剣な顔つきのマランに対し、かたやイリスは、何故この辺境に住む一介の老人が、遥か遠くのはずのハーバル王家の事にここまで精通しているのか、何故だろうとそればかりを気にするようになっていた。
先程の本の中の肖像画にしたってそうだ。あれは一体何処からどうやって、そして何の目的で持ってきたものなのだろうか?
本当はそんな事考えてはいけない、この人は信じなくてはならないはずなのに、もう何だか、疑心が止まらなくなっている――
「その腕輪は何か分かるかね?」
その様子を見たからか、ふとマァヌはイリスの腕輪を指してそう言った。
「え?」
イリスが袖をまくった状態の左腕にある腕輪を見る。
流線形の何だか見覚えのある形に掘りぬかれたリング部に、赤くて丸い、拳大よりも一回りほど小さい宝石がはめ込まれているもの。
宝石といってもさしたる厚みはなく、ほとんど腕輪そのものと変わらない薄さでぴっちりと腕輪にはめ込まれている。
「それはな、代々の女王、もしくは王妃がはめていた腕輪じゃ。他の国では『王冠』という宝石のついた被り物を使うそうじゃが、ハーバル王国ではそのかわりにその腕輪をはめたという。……まぁ、そのくらいはお前さんなら知っておると思うが」
「……」
目を合わせるだけで何だか精一杯で、返事の言葉が口から出てこない。
「ただ……その腕輪は、実はただの飾りなどではないとも言われておるのじゃ。『虹の魔力』を持つ者を『虹水晶』から護るためにあるのだと。『虹の魔力』を感知する能力のある『虹水晶』からな……」
「『虹水晶』だって? ……やっぱりばっちゃんその事も知ってたんだな」
「『虹水晶』……」
(やっぱり、『虹水晶』のことまで知っているんだ……じゃあ……!?)
『虹水晶』という言葉を聞いた時、疑心は決定的なものになっていた。
王家しか知らない秘密。それは時に外部に漏れたら致命的なものになり得るため、それ故固く門外不出となってきた存在。
それがもたらす巨大な力だけでなく、同時にもたらす大いなる不幸も、まとめて王家のみが背負うために。
そしてその象徴が、在りし時の母親が自分にくれたこの腕輪であり、そしてその後に起きたあの出来事――
また、目の前が黒くなる。
イリスはまた、うずくまってしまった。
「……どうしたの、イリス?」
マランはそんなイリスを心配してか、そう声をかけてくれる。
だけど、イリスは首を振った。自分自身に嫌々をするように。
そしてついに、止まらないものが、抑えていたものが口から出てしまった。
知れず、その目に熱いものを浮かべながら――
「『虹水晶』のことまで知ってるなんて……あなたは、一体何者なんですか? どうしてそんなに王家しか知らない、王家の者しか知ってはいけないものまで全て……」
「……ばっちゃんはね、昔、王宮直属の賢者だったんだよ」
涙交じりの悲鳴にも似たイリスの問いかけ。
が、一呼吸置いてその問いに答えたのは、マランだった。
うな垂れた背中にそっと置かれた手が、不思議と揺らいだ心をほんの少しだけ静めてくれた。
「だから、ハーバル王国の事にも詳しいし、王家しか知らないような事、君の腕輪の事まで知ってるんだよ」
「え……」
「……わしとて、全てを知っているわけではない。どうやら、要らん疑心を抱かせてしまったようじゃが……わしが知っておるのはあくまで大昔の文献や、外部に漏れ聞こえてきた噂をわしなりに研究した成果に過ぎんのじゃよ」
「大昔の……?」
「で、その若き賢者様が研究所を離れてここにやってきたって訳だ。もう五十年も前の話だけどね。……だから、ばっちゃんは『ラナの大樹』の正体の事も知ってるんだよね」
そしてマランはそう言った。何かを確信するような声の調子で。
「え……?」
それ故イリスは驚いて、今度はマランを見詰めてしまった。
「なぁ、ばっちゃん。『ラナの大樹』ってさ、要するに『瞬間移動装置』なんでしょ? イリスが王国からこっちに来たのにも、それに昔ばっちゃんがこっちに来たのにも使われた……違う?」
意外にも、今度はマァヌがその言葉に驚いたようだった。
「まぁ、大体はあっとるかの……しかしお前さん、その事を知っとったのか? それともノィヌに聞いたのか?」
「じっちゃ……うちの村の長老様に? いんや、今まで聞いた断片的な話を組み合わせてみただけだよ。ばっちゃんの昔話は、さわりだけなら大分前に聞いた事があったしね。でも、詳しい事は全然話してくれなかったから……だから俺、今までずっと、ばっちゃんは船かなんかでレノに来たと思ってたんだ」
と、マランはイリスをちらりと見て、何かを思い出すようにしながら話を続ける。
「イリスが何処から来たのかっていうのは、実は俺もずっと考えてた事だったんだけど、あの夜に、間近で燃えていた『ラナの大樹』に大勢の人が入っていって、そのあと大樹が光ったのを見たからね……それに昨日ヨーベルさんが『未知の入り口』って言ったのを聞いて、それでピンと来た。これしかないかなって。……まさか、本当にまだ世の中に、それもこの島にあんなに凄い『魔法』があるとは思ってなかったけどね」
「マラン……」
「イリス。君の所ではどうだか知らないけど、ここの人達はみんな……いや、俺だって今までずっと『ラナの大樹』がちょっと風変わりな、それでもあくまで『普通の樹』だと思ってたんだよ。……まぁ、一風変わっていたからこそ、『御神木』として信仰を集めてたんじゃないかとは思うんだけどね」
もう一度、視線はイリスの方へ。その表情は、今までの彼からは想像もつかないほどに大人びていた。
「……でも、実際はそんなんじゃなかったんだよね」
『御神木』――イリスにはどうにもピンと来なかった、マランとヨーベルの言い争いの論点。ただの森の火事ではなく、地元の人間にとって『御神木』と呼ばれるほどに大切な樹が燃えたからこそ、こんなに騒ぎが大きくなった――要はそういう事だったらしい。
何となくではあるものの、イリスにも彼らにとっての「事の重大さ」が少しだけ分かって来た気がした。
「やれやれ、その辺りの話は、帰ってからゆっくりしようと思ってだんだがの……ともかくじゃ、わしの知っとる事、マランの知っとる事、そしてイリスの知っとる事は一見似通っておるようじゃが、やっぱり結構違っておるのじゃよ。それに、人間には知っていても話したくない事もあるしの。……それ故、一旦相手に疑心を抱くと何処まで話せば良いのか、本当に相手を信じて何もかも話して良いものなのか、堪らなく不安になってくるのじゃろうて」
マァヌは賢者らしく、呟くように言った。
「じゃから、今お前さんの言った『王家の秘密』とやら、所詮は部外者であるわしとて、大して知っておるわけではないし、それにそもそも無理に全部話せと言うつもりもないんじゃよ」
「……」
「じゃがな……もし話してくれれば、微力ながらも出来るだけの協力はするつもりじゃぞ。わしももちろんじゃが……何よりマランがな」
不意に見せたそれは、茶目っ気のある微笑みだった。安らぎをもたらす微笑とはまた違うもの。
だけど、この笑顔を知っているからこそ、マランがこれほどまでにこの老婆に心を許すのだというのが、良く分かる笑顔ではあった。
「ば、ばっちゃん~~!」
照れながらマランが言った。だけど、照れながらもちらっと自分を見た目は、極めて真剣なものだった。
だからイリスもまた――そのふたりを、特にマランをじっと見詰めて返していたのであった。
(マラン……)
ふと頭の中に、昨日のマランとの出会いが回想される。そして、ゆっくりと、おぼろげながらもそれ以前の事も――
「まぁともあれじゃ、世の中から魔法が消えたと言われて久しいのじゃが、実はそれでもまだ微かに『魔法』というのは残っておるのじゃよ。色んな所に、色んな形でな。……そして同じく、魔力を持った人間というのもまた、ごくわずかにじゃが生き残っておったりもするのじゃ。それが……」
「……『王家の血筋』だと、母に言われました」
「……イリス?」
不思議なものである。
さっきまでずっと、心の奥で何かに怯えていたようだったのが、その恐怖が見る見るうちに取れていくのを感じる。
さっきまで一生懸命、両手で必死に覆い塞ごうとして、それでもどうしても漏れてしまうような、そんな嫌な感覚が、溶けるようになくなっていくのを感じる――
『隠そうとしないで、ゆっくりとその手を広げてごらん』
そんな言葉が何処からか聞こえてきたような気がして。
隠そうとしないで、逃げようとしないで、ゆっくりと自分が手の中に、心の中に仕舞い込んでしまったものを見詰め直してごらん、と――
「王家の、それも女系の血筋は……私も何故だかはよく知りませんが、遥か昔、何でも古代魔法王国からの強大な魔力をずっと受け継いでいるんだそうです。そして、この腕輪にはその魔力を押え込んで吸収する力がある、そう母から聞きました。……何故魔力なんて持っているのか、そしてそれが何故『虹水晶』と関係があるのか、そこまでは、私には分かりませんが。ただ、『虹水晶』に気付かれてはいけない、その事だけは、母に強く言われました。『虹水晶』は不幸の象徴だからと……」
「不幸の象徴か……そういえば、『虹水晶の御加護のあらん事を』、確か、そんな事を言ってたね」
マランがやんわりと「父親」のことに触れてきた。
心がまた少し揺れたが――大丈夫、もう恐怖にかられる事はない。
「……うん、その『虹水晶』というのをお父様が持ってるって、そう、お母様に聞いたの……」
間があった。本当はもっともっと何か言わなければならないのだろうが、思い出そうとする心と、忘れようとする心の境界線は、今はここまでだった。
「そっか……」
何やら納得したようにマランはそう呟くと、
「でもさ、その話だと、その腕輪をしていさえすれば、『虹水晶』に気付かれないんでしょ? だったら当分それでも良いんじゃないの?」
また気分が落ち込みかけた所に、突然彼は妙に明るい声で、そんな事を言い出したのであった。
「それでもいい……って?」
彼が何を言っているのか良く分からなくて、思わず聞き返す。
「このまま何もしないで、ずっとこのばっちゃんちに閉じこもっているのもひとつの手だってこと。これからどうすればいいのか、君はまだ迷っていると言うか、悩んでるみたいだからさ」
その余りにとんでもない発想に、思わず目を見開いて彼を見てしまう。
その笑顔の何と楽天的なことだろう――思わずイリスも釣られそうになるのだが、流石にそういう訳にはいかないと、どうにか思い留めた。
「でもやっぱり、行かなくちゃ駄目なのかも……もう一度あそこへ」
イリスは諦め半分、義務半分といった感じでそう言った。
「でもでも、本当はやっぱり行きたくないんだろ?」
だが、またマランはお気楽にもそんな事――言葉は軽いが実に核心を突いた一言――を口にした。
そして少しばかり真面目な表情に戻ったかと思うと、更に続けてこう言うのであった。
「あの状況から見て、ハーバル王家の人達は、少なくとも今はもうこの島にはいないんじゃないかと俺は思う。……だったら、次にあいつらが来る前に、どっかに逃げちゃえばいいんじゃない?」
「……何処かへ、逃げちゃう?」
―― 一体、何を言い出すんだろうこの人は。
「そう、確かに今は自警団に追われてるけどさ、この街からうまく逃げさえすればそれも関係ないでしょ? それにうちの村に行けば、ちょっと生活には不自由するかもしれないけど、うちの長老様ならきっとうるさい事聞かずに面倒見てくれるだろうし。……あ、ひとり分の旅費くらいまだ何とかあるから、いっそ海の向こうに出るのもいいかもしれないなぁ……」
「ふん、ノィヌに何が出来るかは知らんがの。しかしお前さん、海の向こうにって……」
「平気だよ。いざとなれば何とかなるもんさ」
マァヌの心配する声をよそに、思いありげにマランは微笑んだ。
「でも……やっぱり……」
それでもなおイリスが逡巡していると、マランは、陽気そうな顔をさっと真剣な表情に変えた。
「とにかく、君の取るべき道は逃げるか踏み込むか……どっちかだと思う」
「逃げるか……踏み込むか……?」
「何にとは敢えて言わないけどね。……ともあれ、逃げるなら折りを見てチャンスをどうにかして作るから、何処にでも逃がしてあげるよ。でも、もし踏み込むなら……」
「『ラナの大樹』の最期の言葉を聞きに行く、か……」
「そうしなきゃいけないね。……聞きに行ってそれから何をしようというわけでもないんだけど、きっと少なからぬ手掛かりは得られると思う」
マランもきっと、聞きに行くだけ行ったところで、それからどうなるかとか、どうするかとか、そういう事は本当に分かっていないんじゃないかと思う。
ただ、聞きに行って、何かが分かって、もし自分にしなくてはならない事があるのなら――それをやってみようじゃないかと、多分彼はそう言って誘っているのだ。
――そうだよね。
何処かに行くのであれば、当てもなくではなく、目的を持って生きていこう。
何度も助けられ、そして一度自分で死のうともしたけれど、それだって結局やめた命。
生きようとした命。
一体私に何が起きて、何をしようとしなければならないのか。
まだはっきりとは良く分からないけれど、それでもとにかく、自分から進まなきゃ、道はきっと見えてこない。
――そう、元々迷うまでの事もなかったのかもしれない。
何の因果か、今の私は既に「冒険者」の服に身を包んでいるのだから――
「行く。私、行くよ」
そして――イリスはそう力強く言った。
「なんていうかな……生きようって決めた時点で、悲しんでいちゃ、逃げているばかりじゃいけないような、そんな気がするから」
「……そか」
そんないかにも格好をつけたという感じの台詞に対し――手伝うよとも何とも言わずに、同行者はただ明るい笑みで、イリスを見詰めていたのであった。
「じゃあ、さっさと行こうよ。な~に、自警団なんて裏から出りゃ見付けられなんてしないから。今度こそ森の民の隠密能力の真髄を見せてあげるよ!」
そして彼らは、再び森へと向かっていった。樹の最期の声を聴きに。
樹のその言葉が、彼らにこれからの行く先を指し示し、そして彼らが本当の意味で「結び付く」切っ掛けを与える事になるとは夢にも思わずに。
その一方で、彼らのその行動が、結果的にこの島とのしばしの別れに繋がる事も分からずに――
ともあれこの瞬間、ふたりは正式に冒険の、そして実は、人生のパートナーとしての第一歩を踏み出したのである。
「ところでイリス」
「……ん? 何?」
「何時の間にか、ばっちゃんのあの気持ちの悪い敬語がなくなってたんだけど……俺が起きてくる前に何かあった訳?」
「え、それ? ……ふふふ、それはねぇ……」
「?」
「それはね、乙女の秘密よっ!」
(第2話・おわり)