第2話 虹の魔力ともう一度のさよならの話(3)
「ついこの間だよ。前から志願はしていたんだけど、この間ようやく空きが出てね、それでやっと念願が叶ったって訳さ」
同行者の少年に促され、店の奥に隠れようとしていた黄髪の民の少女の、宝石のように輝く碧眼の瞳を通して見るその男性は、自然と零れる笑みが非常に印象的な好青年であった。
そして、身長差や顔立ちだけでなく、その何処となく余裕を感じさせる物腰は、彼女と今行動を共にしているマランという名の少年との「格差」を、わずかながらも、それでもはっきりと印象付けてしまうものがあった。
対してマランは、その青年を見た瞬間の酷い驚きが抜け切らない感じのまま、更にそこに焦りの色が混じったような表情をしていた。
状況から判断して、会いたくない知り合いに出会ってしまった――といった感じなのは見て取れる。そして、その理由が、青年の格好と、軽く交わした会話の内容にあるのは間違いないのだろう――
「ふ~ん、そ、そうなんだ……」
「あれ……マラン、どうしたの? もうちょっと喜んでくれてもいいんじゃないのかい? 前から僕が自警団を志望していたことは知ってたはずだよ、ね?」
「あ、いや、そんなことないよ。……お、おめでとう、ヨーベルさん」
青年の爽やかな笑みに対するマランの笑みは、やはり何処かぎこちなかった。無理に笑顔を作っているのは明白だ。
少なくとも、今さっき中年の商店主と交わした何処か可笑しみを含んだ笑顔とはまったく違う、余所余所しささえ感じられるものだった。
「ああ、ありがとう。……でも何だかそっけないお祝いだなぁ。君らしくないぞ? 君のことだから、きっと飛び跳ねるくらいに喜んでくれると思ったのになぁ」
そう言いながら、彼はさして残念でもなさそうに微笑む。
その微笑みから、生来男性との交流経験の乏しいイリスでも、彼がいかにも女性に好意を持たれそうな容姿と振る舞いを兼ね備えている男性であることは、何となく感覚で分かった。
そう、彼がさり気なく周囲に振り撒いている、何ともいえない魅力を持つ柔らかな笑み――きっとその笑顔は、普段は男女を問わぬ彼の多くの知り合いにも向けられるものなのだろう。
もちろんその中には、本来ならマランも含まれていて――
(……)
その彼に対して、イリスは最初に見た時からずっと警戒したままだった。
その目は彼を睨み付けているつもりでもあり、その実彼に怯えているようでもあり――正直、自分でもよく分からなかった。
あの時――マランが背後から声を掛けられるほんのわずか前に、イリスに突然襲ってきた、寒気のような「何か」。
思わずひるんでしまうほどのそれは、間違いなくその青年から向けられたものであったのだが――
「俺らしくないって? そ、そんなことないよ、十分喜んでいるってば。……そうそう、その制服も似合ってるじゃない」
青年のその笑顔に何処か圧迫感を感じているのか、対するマランの表情は、未だ冗談にも気付かないほどに焦りの色を示し続けていた。
「あ、そうかい? ……はは、急ぎだったもんで慌てて制服をあつらえてもらったんだけどね、君にそう言ってもらえて良かったよ」
そう言って、青年は改めて自分の格好を見直すように両手を軽く動かした。
制服といっても、王国の兵士のような純粋な戦闘服といった感じまではしない。というのも、それっぽく見えるのは精々肩の部分にある飾りのようなプロテクターぐらいで、別に鎖帷子や鎧のようなものを着ている訳ではないからである。それでも明らかに他の街人達とは違う格好だったし、更に帯剣もしているため、身軽な戦闘員か警備員のようには十分に見える感じではあった。
また、左胸の所には何やら青地の紋章のようなものがあった。マークの意味は良くは分からないが、恐らく街の象徴の印のような物なのだろう。あるいはこれが「自警団」独自のマークなのか。
――ともかくこれを見た直後のマランの表情から、さっと血の気が引いたのは紛れもない事実なのだ。
「まぁ、まだ着慣れていないから、あんまりしっくり来てはいないんだけどね。……その点、君は羨ましいな、もう既に普段着慣れた服みたいに見えるよ。……うん、良く似合ってる」
「え? に、似合ってるって……?」
不意に自分のことを誉められたからか、マランは照れながら慌てた表情を見せた。
「その灰色の服、確かナロ村に伝わる旅衣装ってやつだよね? 人の格好の事とかは色々聞いといて、自分の事は何も話さないってのは良くないなぁ、マラン。……そうかぁ、君がその服を着てこの街までやってきたって事は……いよいよ『旅立ち』をしてきたんだね」
「え? あ……うん、そう、そうなんだよ!」
どうやら青年もまた先程の商店主同様、マランの旅立ちの事情を良く知っているらしい。恐らくはマラン自身がその事を事前に彼に話していたのだろう。マランは彼の言葉に素直に首肯した。
「で、実際の所、何処に行くつもりなんだい?」
「う~んとね、とりあえず、ここから海を渡って『大陸』に行くつもりなんだ。後は……特に決めてはないんだけどね。とりあえず島から出てみたいってのが第一目標だったから」
話が「冒険」のことに触れた途端、見る間にマランの緊張感が取れ、態度にぎこちなさがなくなってきた。
不意に先程の商店主の言った「冒険マニア」という言葉が頭をかすめて、洋服屋の物陰に潜みながら様子を覗いていたイリスも、何時しか表情を若干ながらも緩ませていた。
「ふぅん、なるほどね。……ま、僕だって大陸のはしっこを巡った事ぐらいしかないからなぁ。……でもまぁ、君ならきっと何とかなると思うよ。何せ君は、僕が君の年ぐらいだった頃なんかとは比較にならないくらい凄い奴だからな」
「そ、そんな、ヨーベルさん。突然何言い出すの、おだてないでよ、やだなぁ……」
「いや、そんなことないよ。現に、てっきりひとり旅なんだろうと思ってたのに、もう既に『彼女』まで連れているくらいだからねぇ。……まったく、大したもんだよ、君は」
「えっ!?」
(えっ!?)
物陰のイリスも同時に驚き、直後ふたりして、同じような顔で同じように頬を赤らめた。
「ははは、なんだい彼女の話をするだけで頬を赤らめるだなんて、まだまだ純情少年やってるんだな、マランは」
「あ、いや、その……あの子はそういうわけじゃあ……」
照れながら言い訳をしているマラン。
その彼の様子を、彼と同じような顔をして覗いていたイリスであったが、視線をまた青年に向けた時――彼女はふと、青年の表情が微妙に変化している事に気が付いた。
何時の間にか、目が笑わなくなっていて――何処か陰のある、不自然な笑みになっていたのだ。
少し浮かれているのか、マランはそれに気付いた様子はない――そして青年は、その笑みのままで話を続けるのであった。
「それにしても、さっきちょっと見たよ、凄く可愛い女の子だったじゃない」
「……そ、そんなことないよ……た、ただ、たまたま知り合っただけで……」
――何が「そんなことない」んだろう?
この時ばかりは反射的についそう思ってしまい、すぐに今は余計な事を考えている場合じゃないと、慌ててそれを打ち消した。
自分自身、何でそんなに気になったのかを考える事すらせずに。
「ふ~ん、『たまたま知り合っただけ』か……確かに黄髪の民になんて、この街に住んでいる僕だって、そうそう知り合えるもんじゃないからね。……特に最近は」
今度は笑顔だけでなく、ほんの少し彼の語調も変わる。
流石にマランも、何となく青年の様子がおかしい事に気付いたようだ。
「そう言えば、今さっきレノに着いたって言ったよね? マランは。……って事は、やっぱり彼女とはあの森の中で知り合ったって事になるんだよね……?」
何かを確かめるようにややゆっくりとそう言ったかと思えば、今度はまた一転して、
「ねぇ、ちょっと聞くけど、彼女と出会ったのは何時頃のことなんだい? それとも……僕の知らない内に出発前からこっそり付き合っていたのかい?」
そう明るく言いながら笑う表情は、いかにも気さくな感じがした――思わず、本音をぽろっと漏らしてしまいそうなほどに。
「だからそんなことないって、ヨーベルさん。彼女と知り合ったのも本当に偶然なんだってば。昨日ね、色々とあって……っ!?」
と、言いかけた所でマランは突然はっとして口をつぐんだ。そして彼は、すっかり明るく陽気な表情になっていた所を一変させ、鋭い目付きで青年をにらみ付ける。
「ふぅん、色々とあったのか……じゃあちょっとその辺りの所を、もうちょっと詳しく……」
「ちょっと待ってよ、ヨーベルさん!」
「ん? 何? どうしたんだいマラン?」
「……とぼけないでよ。何で突然そんな事聞くわけなの?」
「なんだい、突然? 君こそ唐突に……はは~ん、こんなカッコしてるから何か裏があるとか思っているんだろ。別にあんまり深読みしなくて良いよ。僕はただ単に、君の彼女に興味を持って聞いているだけなんだから。何せ、あんなに可愛い女の子なんだからねぇ」
「……じゃあ何で俺の言った事をメモしてる訳?」
見ると青年の手には何時の間にか紙とペンらしきものがあった。青年はマランが問い詰めているのを軽く受け流しながらも、しばらくペンを持つ右手を止める事をしなかった。
「いやね、君は関係ないと思っているんだよ。君はそんな事をする少年じゃないって事は僕も分かっているから。それに、もちろん彼女がそうだって決め付ける事もしたくない。……ただこっちとしては、重要参考人として彼女に一遍話を聞いておきたいんだよ。そのためにちょっと君にも事情聴取をね……」
視線を落としながら、なおも彼は話を続ける。
「だから何の話なんだよ。それに『こっち』って何処のことを言ってるんだよ。ちゃんと俺を見て話してよ!」
「そんなの……わざわざ話すまでもない事じゃないか」
マランの叫ぶような抗議に対し、青年はペンを走らせる手を止めると、顔を上げてそう言った。
「……イリスを連れて行く気なの?」
「ふぅん、あの子イリスって言うんだ」
さらさらとまた何か記した。
「だからその手を止めてよ!」
突然マランが青年に飛び掛かった。が、青年はその手をさっと上にあげてマランの突進をかわす。
「そういう訳にはいかないんだよ。何故だか分からないけれど、とにかく『御神木』が突然焼失してしまった以上、その原因究明と犯人の捕獲は自警団の重要な役目になるのだからね」
そう言った彼の視線は、不意に目の前のマランを外れ――洋服屋の奥で山積みになった服の隙間から外の様子を見ているイリスへと注がれた。
(私に向ける目……全然違う……)
そうか、さっき感じた寒気はこれだったのか――イリスはその視線に耐えながら、先程の背中で味わった恐怖の記憶を振り返っていた。
マランはあの時、青年の格好を見るや否や、すっとイリスを隠すように彼の前に立ち塞がった。それを見たイリスは、すかさず洋服屋の奥に逃げ込んだのだが――とはいえこの時にはもう、青年に自分の姿が目撃されていたのは、状況から見ても、今の会話の流れから見ても最早明白だった。
一応建前上はイリスは店の奥に隠れている事になっているのだが、それがほとんど意味のない行為であるのは、この店の店主を含めた当事者四人全員が暗に理解している事なのだ。
だが、その事を考えた時、彼女の頭にふと疑問が湧いた――青年の本当の目的は何なのだろう、と。
あの格好、あの話の内容からして、ヨーベルという名の青年が自分を捕まえたがっているのは明白ではある。そして、それをどうにかして防ごうとマランが懸命に自分の前に立ちはだかっている事も。
でも、そもそも青年がマランに声を掛けなければ、自分を捕らえるのはもっと早く済んだはずなのだ。
こっそり誘拐したり、あるいは仲間を呼びに行ったり――見たところ、そのくらいの事は考えられそうな人物なのに、彼は何故、わざわざ背後、それも遠くからマランに向けて声を掛けたのだろう? と。
知り合いだからなのだろうか? 知り合いだからといって、何故「目標」を目の前にしてそんなに遠慮する事があったのだろうか? 自分に対して、あんな冷徹な視線を向けて来たのだ、本来ならそんな事など気にせずに突然襲ってきてもおかしくない気もするのだが。そう、ちょうど自分と母親が襲われた、あの時のように――
イリスは自分の心の奥底に黒い感情がまだくすぶっている事に、自分でも気付いていなかった――だから彼女は、ついには、ひょっとして知り合いであるマランを懐柔して確実に逃さないようにしているのでは、という考えにまで至ってしまったのである。
――が、その直後。イリスはふぅ、と息を吐くと、今までの怯えは一体何処へやらといった感じで、何故だか突然、開き直ったかのような笑みを浮かべるようになっていたのであった。
「それならそれまでよね……信じようって、もう決めちゃったんだから……ね」
さりげない、されど重い決意のこもった呟きを口にして。
何時の間にか、周囲には野次馬の人垣が出来ていて、上から見るとちょうどイリスのいる店の並びと野次馬とで、マランと青年とを挟み込む格好になっていた。
友人同士のややぎこちない挨拶に始まり、その内にメモの取り合いで取っ組み合いにまでなりかけたマランと青年の言い合いは、何時しかイリスを引き渡すの引き渡さないのという、危険をはらんだ交渉へと変わっていたのであった。
「とにかく一度彼女を僕達の所に預けてくれないか。というのもね、マラン……この港にここ最近、記録として『黄髪の民』の船がレノに立ち寄った形跡はないんだよ。何処から来たのかもよく分からない彼女を、怪しいとは思わないのかい?」
「そんなの勝手な決め付けだろう? それだったらいかにも島やレノに危害を加えそうな連中を探し回った方がよっぽど効果的なんじゃないの?」
「確かにそういう連中が脅しのためか何かに『ラナの大樹』に火を点けたのかもしれない。何せ、今回の件は、その狙いや、犯人の正体すらまったく見当がつかないんだからね。ただ……」
「……ただ?」
今にも噛み付かんがばかりのマランの表情と、冷静さを崩さない青年の表情は非常に対照的だ。
「彼女がその一味である可能性は否定出来ない」
「そ、そんなことあるもんかよ!」
反射的にか、マランは大声でそう怒鳴った。
「へぇ、君にしては随分感情的なモノ言いをするんだね。歳のわりには落ち着いた少年だと思っていたんだけど……でも、君の方こそ思い込みでモノを言ってるように僕には聞こえるけどな」
ここで間を置くと、彼の方も初めて感情を表に出し、そして厳しい口調でこう言った。
「そう言う君だって、彼女の素性を本当は良く知らないんじゃないのか? だったら、それ以上彼女を犯人じゃないと弁護することも出来ないだろう?」
「ぅ……」
「素性を知らない」ことを指摘されたマランは、図星を突かれたように歯をぎりっと噛んだ。
そう、実際にはマランは、怪しいどころか「イリスが関係者である」という事をはっきりと知っているのである――そして、イリスの前でこそ、あまり彼女の『正体』に関心がないような素振りを見せてはいたものの、とはいえやはりそれが本心ではない事が、当の彼女にもそれとなく感づかれてしまうほどで――したがって彼をよく知る青年がそれをはっきりと察知するのは、ある意味当然の事なのかもしれなかった。
一方のマランもまたそれ故にか、青年の理路整然とした話を否定し切れず、抗しがたい物を徐々に感じ始めているようであった。
ただ、青年は、自分が優勢である事などとっくに分かっているはずなのに、だからといって特に勝者の余裕を漂わせるような素振りは見せなかった。どうやら、あくまでも冷静に、マランが心から納得するのを待っている――そんなような感じであった。
青年がマランから目をそらし、視線をまた洋服屋の店先に向ける。
視線そのものは服の山へと向けられているのだが、無論彼の視線の本当の対象は、店先に積まれた服の向こうから外の様子を垣間見ているイリスにあった。
そしてイリスもまた、再び彼と視線を合わせてしまった。
途端、先程も感じたゾクッとする感覚が、三度彼女の肌を震わせた。
(……寒い……)
あまりにも冷たい視線だった。
何故なのかは分からない。だが、彼がイリスに最初に向けた視線も、さっきの視線も、そして今の視線も――とにかく彼が彼女に向けた視線は、全て同様の性質を持っていた。
冷たい瞳だった。マラン達やこの街の人に向けていた温かな目とは明らかに違うものだった。
何事か呟いているように見える。
イリスには良く聞き取れなかったのに、それがいわゆる恨み言のような物であると感じたのは何故だろうか。
(……何、何でなの? この人……怖い……)
既に昔の記憶として無理矢理に仕舞い込んでいたはずのものが、心の遥か奥深くから黒く染み出て来るのを感じて、イリスは一旦は克服したはずの震えがまた止まらなくなってしまった。
目をそらした。誰か他の人の姿を見て安心したい気持ちに駆られた。
ただ、だからといって、自分の代わりに矢面に立っているも同然のマランには、辛くて目を向けることが出来なかった。
――と、その時ふと、先程自分にワインレッドの服を勧めてくれた洋服屋の店主が、何時の間にかこの場からいなくなっていることに気が付いた。
そして、店主の不在が更なる不安を呼ぶ事になった彼女が、狭い視界を一層必死にきょろきょろと覗き見ていた時――マランとヨーベルの間、ちょうど真ん中向こうの所から、何やら人垣をもぞもぞと掻き分けて来た者があったかと思うと、かの店主が汗だくになって現われたのであった。
とりあえず店主の顔を見て少なからぬ安堵を感じたイリスだったが――ふと見ると、その脇からひっそりと前の方、店主のちょうど腹の辺りに、更にもうひとつの人影が現われたのであった。
(……おばあさん?)
それは、複雑な古代文字のようなものが多数、それが更に複雑に彫り込まれた年代物の杖をついた姿が印象的な、小柄な老婆であった。
その服装から、年老いた者であることを差し置いても、何処かレノの他の住民とは違った趣を感じるのは気のせいではないだろう。
その老婆は、イリスがその存在に気付いたと同時にこちらの方を向いた。
それはまるで、物陰に隠れているはずのイリスの姿に既に気が付いていたかのようであり――そしてその笑顔は、不思議と今までの誰のどんな表情よりも、より心の安らぎをイリスに与えてくれるものであった。
ただ、どうやら、マラン達を含めた他の人間達は、連れてきた本人である洋服屋の主人を除くと、誰も老婆の存在に気付いていないようだった。
そしてそうこうしている内に、何処か殺伐とさえしていたマランと青年の口論も、今やマランが一方的に押される展開に変わりつつあったのである――
「……」
無言でマランが頭を垂れる。
「そうだよ、ようやくマランも分かってくれたようだね。僕達が彼女を求めているのは、ただ単に彼女に『ラナの大樹』を燃やした件についての重要参考人になって貰いたいからだけじゃないんだ。彼女が海からではなくて、本来ナロにしか行けないはずの森の街道から、どうやってやって来ることが出来たのか。もちろんナロ村には『黄髪の民』なんてひとりも住んでいない事は、それこそ君の方が良く知っているだろうからね……それについても是非彼女に聞きたくてね。ひょっとしたら、この港以外全て断崖絶壁に囲われていると信じられてきたこのナルロ島に、僕達の知らない浜辺がひっそりとあったりしたのかもしれない。いや、あるいは大陸の新技術を使った別の方法で上陸を果たしたかもしれないんだからね。……そう、たとえて言うと、僕達の知らない『未知の入り口』を開けて、みたいな感じでね」
「未知の入り口」という言葉に、どうしてもマランは反応してしまう。正直、その事を彼女から詳しく聞きたいのは、マランだって同じなのである。
「その全ての鍵を彼女が握っているかもしれないんだ。それを聞き出す事は、この街の、いやこの島全体の重大事になるかもしれないんだよ……分かるよね、その意味が」
「……でも、それは自警団の勝手な理屈じゃあ……」
「何を今更聞き分けのない事を言ってるんだよ」
ヨーベルは首を振った。
「確かにこの事を決めたのは自警団さ。でもこれは決して僕達が独善的に決めたんじゃない。この街のみんなだって、あの『御神木』が突然辺り一帯の森ごと燃えてしまった事に対して、怒り、そして不安がってるんだ。確かに少し乱暴な手かもしれないけれど、この事に反対する人間なんてもう街の中にはいないんだよ。むしろ一刻も早く犯人を捕まえて欲しいとみんな願っているんだ」
その堂々とした態度からか、野次馬達からは「そうだそうだ」との声が上がる。ただ実際の所、イリスの姿は外からでは見えないはずなので、「何の事」でかはともかく、「誰の事」で言い争いになっているのかなど、野次馬衆の大半には良く分からないはずなのだが。
いや、そもそもヨーベルの言っている事自体、どれだけ彼らが理解出来ているのか怪しいものだ――つまりそれだけヨーベルが、ひいては自警団が信頼されている証なのかもしれない。
「でも、イリスは犯人じゃあ……」
「分かってるよ、彼女は犯人じゃないと言うんだね。なら、僕達も手荒な真似はしない。ちゃんと真犯人を捕まえたら彼女は開放してあげるよ……それでいいね?」
「……」
打つ手無しの状態。
ここで頷いてはいけないのは、百どころか千も万も承知である。
かといって、昨晩起きた事を大衆の面前で説明するのも論外だ。
とはいえ、マランにとって、状況はもはや、いかんともし難い所まで来ている事には違いなかった。
逃げ惑っていたあの時から、随分時間も経った。恐らく街中に警備の手が張り巡らされていることだろう。
無理矢理イリスの手を取って逃げるような真似など、もう出来はしまい。
(……くそ、賭けだけど、この手しかない……)
マランは改めてヨーベルの目を見詰め――覚悟を決めて、こう言った。
「分かった。その代わり条件がある。イリスに事情聴取する時は俺も同席するよ。彼女の証言だけじゃ不安があるでしょ?」
自信はなかったし、何より心苦しさを感じるのだが――でも、こうなったらもう、証言の場でヨーベル達を騙すしかないのだ。
「何を言ってるんだい?」
――その言葉はマランにも信じられないほどに、酷く冷たく感じられた。
「彼女ひとりで証言して貰わなければ意味がないじゃないか。マラン、君にも簡単に事情聴取するけど、こちらはあくまで彼女だけを重要参考人として見ているんでね」
「な……」
だが、何か言おうとした時に、マランは更に状況が悪化し、もはや最悪と呼べるほどになっているのに気が付いた。
何時の間にかヨーベルの後ろに、屈強そうな自警団員達がずらりと揃っていたのだ。
「いいかい、彼女は連れて行くよ」
非情な通告を、よりによって兄のように慕っていた友人から聞かされたマランは、もはやうな垂れて力尽きるしかなかった――のかもしれなかったが、それでもまだ彼は踏ん張った。駄目元で彼女を連れて逃げるしかないと、半ば本能的に身体が動き出したのだ。
もちろん逃げ切れないのは分かっているのだが、それでも無駄とは分かっていても、何としても彼女だけは護らねばならない、と――
(せっかくあの炎の中から逃げて来たのに、両親がいなくなっても生きていこうって決意したのに、それが今度はお尋ね者扱いになるだなんて……ごめんイリス、俺がこの街に連れて来たばっかりに……)
自警団員達がマランの横を過ぎて、イリスを引っ張り出すために今にも洋服屋に押し入ろうとしていた。
マランはイリスの不安げで絶望に満ちた表情を頭に浮かべながら、彼らの突入を何とか防ごうと、無駄な努力であるのは重々承知ながらも、それでも懸命に手を伸ばして――
「わしの意見も聞かないで、勝手にそこまで決めるのは感心しないのう」
と、その時。その場にいた誰もがまったく予期せぬ方向から声が上がった。
洋服屋に押し入る一歩手前まで来ていた自警団員達を含めた、その場にいた全員が一斉に固まったかと思うと、これまた一斉に声のした方を振り向き――そして振り向いた先にいた洋服商の腹部付近に、辺りの人間の全ての目が集中した次の瞬間、その誰もが同じく一斉に、驚きのあまりに言葉を失ったのであった。
マランとヨーベルだけでなく、他の自警団員達も、ただはやし立てるだけだった野次馬衆ですら途端に立ち止まり、黙り込んでしまうほどに、その声の主の登場は、衝撃と驚愕を周囲にもたらすものがあった。
そしてその場にしばしの沈黙が訪れた後――ようやくヨーベルが、驚きと狼狽を無理矢理押し込めたような声で老婆に話し掛けた。
「ちょ……長老様……ど、どうしてここへいらっしゃったのですか?」
「長老様」と呼ばれた老婆は、ヨーベルをしばしにらむような鋭い目付きで見詰め、次に店に突入する寸前だった自警団員達、ぐるりとはやし立てていた野次馬衆を視線でひと舐めすると、マランに視線を向け、またヨーベルを見詰めて――そして、杖でとんと地面を叩いてそれに前のめりに寄り掛かり、最後に横目で商店主を見た後で溜息をひとつ吐いた。
「こやつに呼ばれたんじゃよ。『街の一大事が起きた』と言うてな。まぁ、来てみた時はてっきり若いもんが女の子を取り合う色恋沙汰かねと思ったがのう……理由はどうあれ、女の子をそんな集団で無理やり連れ出そうとするとは、この街の自警団もしばらく見ない内にず~いぶん程度が落ちたもんじゃの!」
小柄な身体からはとても想像のつかないような張りのある声が辺りに響く。
「『ラナの大樹』が燃えてしまったという話は聞いておる。同時に黄髪の民の少女が森の方から街に入って来たという情報もな。確かに、お前さん方が怪しむのも分からぬ話ではない……じゃがな、力で脅しをかけるようなお前さん方なんかに、まっとうな取り調べが出来るのかね?」
自警団員、誰も何も言えず。
ただそれでもヨーベルだけが、何とか言い返そうとするのだが、
「ヨーベル、お前さんももう少し冷静になれ」
そう言われて、ヨーベルもはっとした表情を浮かべる。
流石の彼も、それで大人しくならざるを得なくなってしまったようだ。
「……その子、わしが預かって話を聞くとしよう」
すると自警団員達は「えっ」と驚いた顔をしてざわめき出す。ヨーベルもまた何か言いたそうにするが、
「良いじゃろ?」
その一言で黙ってうな垂れるしかなかった。
「うん……ええ子じゃ」
そう言うと、うな垂れたヨーベルに近づき、ヨーベルの腰ほどの高さしかない顔で見上げて慈愛の笑みを湛えた。
そして、くるりと背を向けると今度はマランの方に――
「ほりゃ!」
ポカリ!
しばらく呆然と立ち尽くしていただけのマランは、そこでようやっと我に返る。
「さっさとあの子を連れて来んかい! 可哀相に、きっと怯えておるぞ」
強い口調ながらも温かみのある小声でマランに耳打ちをする。
「あ、ああ、分かったよ、ばっちゃん……」
ポカリ!
「バカたれが、人前ではも少し言葉をわきまえんか」
再び同様の声で耳打ち。
「わ、分かりました……レノの長老様」
ややわざとらしくも、ともあれそれなりに恭しくそう言ったマランは、そのまま急ぎ洋服屋の中、布地の山の裏へと回り込む――程なく洋服の山の裏でワインレッドの衣装を抱えてしゃがみこんでいるイリスを発見すると、彼はほっと息を吐いたのであった。
「……ごめんね、怖い思いさせたね……」
そして彼はそう言うと、なるべく優しく、何だか王子様にでもなったかのような感じで、「本物の王女様」にそっと手を差し伸べたのであったが―― 一方のイリスは怖がっていたというよりも、むしろびっくりしたような表情を浮かべて固まっていたのであった。
ただ、何だかがっくりとしょげた顔をしているマランを見て思う所があったのか、彼女はすぐさまにこっと笑い、無言で軽く首を振ると、マランの手に自分の手を重ねてきゅっと握り締め、そのまま彼女の方がマランの腕を引っ張って、彼の腕の力の反動でゆっくりと立ち上がった。
イリスの姿が店から見えると、彼女を初めて見る多くの野次馬、そして自警団員達に少なからぬざわめきが起こった。
観衆がざわめきながら立ち尽くすそんな中、杖を突きながらもかくしゃくとした様子で立ち去っていく老婆の歩調に合わせ、イリスの手を引きながらマランはゆっくりとその後に付いていった。
その時は、とてもじゃないけれど、ヨーベルの顔を見る事など出来はしなかった――
だが、集団の中から抜け出した直後、老婆は不意に立ち止まった。
そしておもむろに振り向くと、
「お前さん方はすっかりあの火を人災だと決め付けておるようじゃが……仮にも『御神木』が燃えなさったのじゃぞ。……これはもしかしたら、天の怒りかもしれんのう。わしらに対しての、な……」
突然そう言ったのであった。
街の人間に対する戒めのつもりだったのであろうか。
ただ、そう言った老婆自身の表情にこそ、誰よりも苦悩の色が浮かんでいた事を、その場にいる誰も気付くことはなかったのであった――
「ごめん、ばっちゃん」
野次馬衆や自警団員らをどうにかやりすごして、そのまま繁華街を通り抜ける。
家路につく、かなり急な坂道。夕日が地面に三人の影を長く映し出す中、マランは呟くそうにそう言った。
「まったく、一日遅れるなら遅れると、早めに連絡すれば余計な心配なぞせずに済んだものを……」
まるで一日遅れた事が最大の問題事であるかのように、長老はそう文句を言った。
「いや、あの、そういう事じゃなくて、ばっちゃん……」
「遅刻の言い訳なんぞ、こんな所で聞きとうないわい」
「え、あ……」
「あの……」
イリスも何か言おうとして口を開くが、
「……無理して何か言わんでええ。まずはゆっくり休むんじゃ」
今度はその前に先を越されてしまった。長老は相変わらず、振り向きすらしないで淡々と坂を登っている。
「……」
きゅっ。
「な、ばっちゃんに任せていれば心配ないんだよ」
不意の左手の圧感に驚きながら、声のした方を向くと、そこにはすっかり落ち着きを取り戻した彼の優しい笑顔があった。
そういえば、起き上がる時に差し出した手を、イリスはマランにずっと取られたままだったのだ――あれからそれなりに時間が経過しているにも関わらず。
それを意識すると、何だか急に気恥ずかしくなって、彼女は彼と繋がれてない右手で、さっきの衣装をぎゅっと抱えてしまった――って、そういえばこれも結局、店主に返しそびれてしまったのだが、さてどうしたら良いのだろう?
これは貰ったものなのだろうか、それとも自分に見せてくれただけのものなのだろうか、それと店主の言っていた「出世払い」とは何なのだろうか――不意にそんな、彼女の考えだけでは整理のつかない、されどどちらかと言うとどうでも良いような疑問が、今の気恥ずかしさを誤魔化すかのように、次々と頭の中から湧き出ていた。
そういえば、この衣装と交換でマランに押し付けてしまったあの蒼いマントはどうしたのだろう。手に持っているようには見えないのだが――もしかして、傍から見てもぎゅうぎゅうに物が詰まっているように見える肩掛けカバンの中に、更に無理矢理に押し込んでしまったのだろうか。
もったいないなと、イリスは心の中で呟く。
今の灰色の服の上につけてみるのは、自分としては悪くはないのではと思っているのだが。
「ばっちゃんち」というのは、なるほど確かに立派な屋敷であった。確か「ばっちゃん」はこの街で一番偉い長老様なのだそうだから、まぁ、このくらいの場所に住んでいて当然なのかもしれない。
それに、見た所他に誰も住んでいないように見えるのに、何だか家全体が、暖かい空気のような物に包まれている感じがした。
少なくとも、自分の知っている、ただ広く綺麗なだけの冷え切った館とは、多少似てはいても雰囲気としてはまったく正反対の印象であった。
「あ~、や~~っと着いたよ。つっかれたなぁ……」
中に入った途端、マランはまるで自分の家のようにくつろいだ表情と態度を見せると、早速近くのソファーに寝っ転がってしまった。
イリスは流石にそんな事をする気分にまではなれなかったので、あちこち興味深く視線を走らせていたのだが、
「実はな、もうそろそろお前さん方が来る頃だと思って湯浴みの準備をしてあるんじゃよ。どうせ疲れておるんじゃろうが、一眠りするその前に長旅の汗を流した方がよかろう」
その時、一旦屋敷の奥に引っ込んでいた長老が現われて、そんな事を言った。
直後、ふたりして自分の姿を確認する――確かに良く見なくとも、ふたりともすっかり泥まみれの酷い姿になっていた。
「わ、ありがと、助かるぜばっちゃん」
そして突然マランがそう言ったかと思うと、がばっとソファーから立ち上がるのだが、
ばちい!
すぐさま、またあの杖の音が鳴り響いた。部屋の中で共鳴するからか、さっきよりも大きな音がした気がする。
「いって~! さっきよりも思いっ切り叩いたろ、ばっちゃん!」
「バカもん!! お前さんは何て情けない奴なんだね。こういう時は真っ先に女の子を優先するのが当然じゃろうが!!」
「った~……」
そう怒鳴られたマランは、怨むように睨みながらも、だけどそれ以上は別に不満めいた事は言わなかった。
そしてその長老はイリスの方へ向くのだが、
「さ、無作法な山猿は放っといて、ゆっくり汗をお流しなされ。お召し物も随分汚れておりますな……さぞ色々大変な目に遭ったのでございましょうが、まずは身を清め、身体をゆっくりお休めなされ。これからの事は、それからでも結構でございましょう? ……大丈夫、ここは安全ですからの」
突然どうしたのか、最大限の礼を尽くすように、一変して言葉遣い、更には態度までへりくだったものに変わってしまったのであった。
「え? え?」
まるで王女様か何かのような応対を突然受けたイリスは、余りの事に戸惑いを隠せない。長老の先程までのあの威厳に満ち満ちた態度や言動は何処へ行ってしまったのだろうか。
「さ、さ、ご遠慮なさらずに……」
「え、あ、はぁ……」
ちらりとマランの方を見る。
「な~に、あの山猿は幼少時からいつも泥だらけでした故、しばらく泥のまま放っといても構いませぬ」
「は、はぁ……」
どうにも戸惑う気持ちは晴れない。すると長老は何を思ったのか、
「まさか湯浴みの仕方を知らない訳ではありますまいな? でしたら不肖、この婆めが……」
「え? ……あ、いえ、それはないです。ひとりで大丈夫ですから。じゃあ遠慮なく、お湯を頂かせてもらいます……」
「……そうですか、ごゆっくりなさいませ」
「はい……どうも……」
こうしてイリスはひとり、湯浴み室に入っていったのであった。
何だかマランも目を丸くしていたようだったのは気のせいだろうか?
湯浴み室は屋敷の奥まった所にあった。余所の、それも黒髪の民の家の湯浴み場など初めて利用するのだが、幸いな事に若干狭い事を除けば、見慣れた湯浴み場とさほどの違いはなかった。
すっかりぼろぼろになってしまったお気に入りの衣服を脱ぎ捨て、下着を脱ぎ、最後に――腕輪とその上からぐるぐる巻きになった包帯にふと目が止まった。
良く見ると、いつの間にか包帯が少し緩んでいて、金色の腕輪の部分が少し顔を覗かせていた。
「……」
それをじっと見ていると、不意に眠たくなって、意識がもうろうとして来た。さっきから何だか身体が重かったのは、疲労に加えて眠気が相当溜まっていたせいであったのを、今になってようやく思い出した。
(色んなもの、ごしごし擦って洗い流したいけど……駄目だ、今は程々にして、すぐに眠らなきゃ……)
高台の窓の外、ぼんやりと景色が揺らめいた。先程も外で感じた夕日の光。既に日も暮れようとしていた。思えばこれで、最後に目覚めてから何度目の夕日を見る事になるのだろう。
そんなことを考える余裕すらなかった自分に今、ようやく一時の静寂が訪れようとしていた。
張ってある湯で全身を洗い流す。幾らでも洗い流したい気分だったが、さほど量の多くない湯の事を考え、本当に身体の汚れを落とすだけで終わりにした。
「……つっ」
やや熱めのお湯を身体、特に脚元に掛けた時、しびれるような痛みが走った。見れば血こそ出ていないものの、何時の間にか無数の切り傷、打撲の痕が身体のあちこちに出来ていた。
「……確かに、これじゃ王女様には見えないかな……」
左腕も汚れていたが、結局腕の部分には湯を掛けない事にした。そこは包帯を避けて濡れたタオルでさっとぬぐう。
一度湯浴みをした刺激からか、少しだけ目が覚めたみたいだった。しばらくは足元がふらつく事もないだろう。
イリスはふと立ち上がり、そしてそのまま窓の向こうの沈みかけの夕日をじっと見詰めるのであった。
(……綺麗、だな……)
彼女にとって、本日二度目の夜が来ていた。
(つづく)