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Rainbow Crystal  作者: らぷた
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第2話 虹の魔力ともう一度のさよならの話(2)

「へぇ~、あれが『街』なんだぁ!」


 目の前には一面の大海、そして足元の浜辺には小ぢんまりとした港町――日がわずかに傾き始めた夕刻前、延々と続いていた森を抜けた先にあった、坂の上からの風景を眺めながら、イリスは実に嬉しそうに大きな声でそう叫んだ。

 慣れない森の中の街道をようやく脱した喜びからか、まだ何処か沈んだ感じの残っていた彼女の顔が、見る間に晴れやかになっていく。

 そして、開放感に満ち溢れた表情でう~~んと伸びをしながら、


「良い景色ねぇ!」


 そう言って振り返るその笑顔はとても清々しく、まるで彼女の同行者の分までついでに喜んでくれているかのようだった。

 ――というのも、かたやマラン、膝に手を置いて、やれやれやっと着いたかぁと、安堵と疲労をごた交ぜにした溜息を吐いていたからである。

 途中で食事休憩を取ったとはいえ、まだまだ心身ともくたびれ果てまくり。

 ただの日またぎの行脚なら慣れっこだったのが、ちょっと慣れない程度だと思っていた徹夜が、正直ここまで身体に響くものだとは考えてもみなかった。

 しかも、先程までは眠くぼ~っとしているだけで済んでいたのに、今は眠気を通り越して気持ち悪くさえあるのだからたまらない。

 更にその上、昨晩走り回ったり転げ回ったりもしたせいか、身体までもが何だかギシギシいっている。

 それはもちろんイリスも同じのはずなのだけれど――その素振りすら見せないとは、まったく彼女は一体何処からこんな元気が出てくるのだろうと、マランはただただ呆れるやら感心するやらであった。

 とはいえそれが、先程の少々間の抜けたやり取りによって、多少なりとも彼女の心の重苦しさが取れたせいなのであれば、それはそれで嬉しくはあるのだが。

 げんなりしている時に元気な姿を見せられると、得てして更にげんなりするものだけど、彼女の明るさはその反対に、疲れ切ったはずのこちらの身体にも再び元気を与えてくれるような気がした。

 ――まぁ、あくまで「気だけ」なのかもしれないが。


「ねぇねぇ、そんなとこで一息ついてないで早く街まで行きましょうよ」


 そんなマランの心中を知ってか知らずか、彼に休む隙すら与えずに、イリスはなおも嬉しそうにせっついてきた。

 本当に眠い事も疲れた事も嫌な事も完全に忘れたかのような笑顔。

 そんな笑顔を向けられると、ついグッときてしまうマランとしては、とっても嬉しい。

 嬉しいの、だけど――


(それにしても強いよなぁ、この子……)


 そう思った。

 まだ出会って丸一日も経っていない。

 それなのにマランは既に、喜怒哀楽を含めた様々な彼女の表情を見ることになった。

 茫然自失の状態に陥ってしまった姿さえ見た。更に言えば何故そうなってしまったかというのを、マランは大体知って――いや、事実上それに関わってしまってもいた。

 それは、普通ならとても簡単には吹っ切れるはずのない悲しい惨事だった――

 それなのに――それでも彼女は今、笑顔なのだ。


(……ま、確かに早く元気になって欲しいって、さっきはそう思っていたからな。あんまりがっかりさせちゃいけないよね……)


 やれやれとへたり込みそうになっていた重い腰を上げるマラン。と、その瞬間を待っていたという感じで背中からドンという衝撃が加わり、慌ててマランはつんのめる。


「うわっ!?」


「ほらほら、早く早く!」


 がしっ!! とその腕を小脇に抱えたかと思うと、そのままずるずると彼女はマランを引きずり始めた。


「さ、行っくよぉ!」


「ちょっちょっ、そ、そんな慌てなくても街は逃げないっての!!」


 慌ててそんな事を言いながら、マランは、それにしてもちょっとこれは吹っ切れすぎだぞと思わずにはいられなかったのであった。




 坂を降りて港町に辿り着くまではすぐだった。

 ついさっきまでの薄い森から、昨夕降りてきたのと似たような感じの崖みたいな坂を下ると、坂の上からは見下ろしていた海も街も、一気に目の前に開けるような光景になる。

 ここまで来ると、マランもひととき疲れを忘れて、胸の高鳴りを抑え切れなくなっていた。

 今までだって年に数度しか見ることのなかった光景。いつも森ばかり見ているマランにとっては、やはり何度見ても何処か新鮮で、眺めているだけで清々しい気持ちになってくる。

 ――いや、今日に限っては何だかいつも以上に感慨深い気がするような。


(へぇ……何だかいつもよりもドキドキしてるな、俺……)


 今までこの光景を見ていた時に、こんなにもドキドキしたことがあっただろうか?

 いつもなら、ただ眺めているだけで終わっていた海。

 マランはいつもこの海岸線のすぐ手前で用事を済まし、そしてまた海に背を向けて帰っていくだけだった。

 ――でも、今回は違う。

 ここで引き返す事はないのだ。

 この港町はほんの出発点でしかない。

 そう、今の自分の目指しているのは、この海の向こうなのだから――




 潮の匂いが強くなり、あれだけウンザリするほどあった木々も徐々に消え失せて、代わりに白い土砂と丈の低い草が視界を占めるようになってきた。こういう所はいかにも砂浜に作った街らしい。

 街の光景も、こことは反対方向、中心街の向こうの小高い丘にある立派な家々を除くと、そのほとんどが平屋建てである。この辺りには、ぱっと見で商店や問屋や飲食店といった感じのする店がずらっと建ち並んでいた。

 まだ昼間だからか、いつものように人通りは多かった。大通りに繋がる街の入り口の通りには、ぱっと見ただけでも村の人間を全て集めた数よりもずっと多いであろう人だかり。それがずっと、大通りから更に先、遠くにちらりと見える港の方まで続いている――これが、マランが知っている「街の雑踏」であった。


 ――そう、マランが少し前まで、これ以上の混雑などこの世にはないのではないかと、ずっと思っていたこの人込み。

 でも、何時だったか、とある船の船員に聞いたのだ。

 海の向こうの大陸には、もっともっと大きな街があって、そこにはもっともっと大勢の人がいるということを。

 こんな、入り口から見ただけで全体の大きさが把握出来るような、そんな程度の規模しかないちっぽけな島の港町とは違う、果てしなく続くような巨大な街、人でごった返して動く事もままならぬほどの大混雑が「大陸」にはあると――


 激しくも何処かのんびりとした往来を遠くに見ながら、そんな容易に想像出来そうにないものを何とか想像してみる――それもまた、マランの密かな楽しみだったりするのであった。


「うわ~、これが『街』なんだぁ」


 そんなマランの傍らで、さっきと同じような事をイリスはもう一度言った。

 そのはしゃいだ声だけでなく、今にも陽気に駆け出して行きかねないような軽やかな足取りからは、やはり疲れも、そして先程までのあの重々しい雰囲気もまるで感じられなかった。

 もちろん心身共にあるはずの疲れがなくなった訳ではないのだろう。でも、それを忘れさせてしまうくらい、今の彼女は未知の領域に足を踏み入れた事に、心の底から喜びを感じているようだった。


(イリスって、好奇心旺盛なんだなぁ……)


 好奇心なら誰よりも強いと自負していたのだが、流石に彼女には負けるかもと思った。

 ただ、その幼い子供のような明るい笑顔のおかげで、結構負けず嫌いなタイプのはずのマランには、悔しさのような感情はまるで起きなかった。

 それどころか、


(……うん、やっぱり冒険者にぴったりの性格だよなぁ)


 そんな感慨をまた抱いたりして、自分自身あれっと思ったりする。

 どうも、彼女が「『冒険者』に興味を持っている」らしい事を、マランは自分でも思っていた以上に気にしているようだったのだ。それに加えて「『冒険者』になった」と言った彼女のあの一言が、余計に頭の中にこびりついてしまい――そのおかげで彼女の「冒険者姿」をついつい想像してしまって、彼はその都度、何だか困惑してしまうのであった。

 幾ら彼女が「冒険者になりたい」といっても、理想と現実は違うのだから――などと、駆け出しに過ぎない自分の事はさておいて、何かを誤魔化すかのように、マランは自分自身にそう呟いていた。


「初めて見るよ、私、こういう光景。色んな人がいっぱいいるんだね」


 そんなマランの姿を気にもしていない様子で、無邪気にそんな感想を口にする王女様。

 まぁ、別に冒険者じゃなくったって、普通の人でも初めて来た街には少なからぬ興奮を覚えるとは思うけれど――


(そっか、「初めて見る」んだ……)


 やっぱりそうだったんだなぁ、とついつい頷いてしまうマラン。傍から見れば少々変な挙動だったかもしれない。


 ――彼女は一体何処からどうやって来たのか。


 これは港町につくまでの道すがら、眠気覚ましに色々考えていたもののひとつだった。

 ひょっとしたらイリスは何処か西方からこの港に親子でやってきて、それから『ラナの大樹』に行って、そこで被害に遭ったのではないだろうかとか、だからきっと、仲間か家臣でもこの街で待機しているのではないだろうかとか――

 まぁ、最初はそんな風に考えていた訳なのだけど、更に色々考えていく内に、どうも根本的な所で引っ掛かりを覚えてしまい、うむむと腕組みをする羽目になってしまっていたのであった。

 「根本的な所」というのはふたつほどあった。

 ひとつは何故だか最近、港町ですら黄髪の民を見掛けなくなっているという事。もうここ数年来の事だ。

 ただ、これまでもそう黄髪の民の船が来る頻度は高くなかったためか、その理由についてはほとんどの人は良く知らなかったし、そもそもあまり気にもしていなかった。実を言うと、マランも同様であった。

 そしてもうひとつが、何より今までの道のりでの彼女の様子が、どうにも「来た道を戻ってきた」ようには見えなかった事である。もちろん行きは森の中を進んできたと考える事も出来なくはないのだが、それはそれで森に慣れてない人がいきなり街道を無視して森に突っ込むというのは、森を良く知るマランにはどうも不自然に思えてならなかったのだ。

 そして案の定、今のイリスの言葉で、その疑念がほぼ確信に近い形に変わったのであった。つまり、イリスは何処からか坂下の森――『ラナの大樹』にやって来たというよりも、何らかの手段で『ラナの大樹』の所に忽然と「現れた」らしいのである。

 そうだとすると、それはそれでまた別の説を考えざるを得なくなる――いや、本当の所は真っ先にそれを考えたのだけれども、でもその場合、話としてはまだ理解出来るものの、それはそれで何だかおとぎ話みたいで、そういう意味ではにわかには信じがたい事のように思えてしまうので――だから、幾ら冒険者への憧れを持っているマランとはいえ、心の中ではまだ、そうなのかな、そうだったらいいなという思いと、そんな訳ないだろうという思いがごちゃごちゃになってしまい、結局その考えを保留してしまったのであった。

 ただ、他の考えには「現実的」に無理がある以上、イリスの突然の「出現」に結びつく「存在」は、やはり事実上ひとつしか有り得ないのだろう。確かに前々から「不思議な樹」だとは思っていたのだが、それにしたって――


 それはさておき、それとは別に、たとえ不可思議現象だろうと何だろうと、理屈抜きにしてこの目で見た「事実」と認めざるを得ないような「もの」はあった。

 ――それはあの「光」。直後、イリスが叫んだ言葉から類推するに、イリスの母親が「放った」と思われるもの。

 ただ、見たのはあくまで光のみだったので、何をどうやってそんな光を起こしたのかまではさっぱり見当が付かない。少なくとも、松明や焚き火なんかで起こせる光などとは性質がまったく違っていた。


 だから、「魔法」なのだと思う。


 「魔法」などとっくに廃れていてもうこの世に存在しないという「定説」と、あの「光」を実際に見た事と――「冒険者」として、どちらをより「真実」と考えるに値するかを問うならば、答えはもう言わずもがなであった。


(あ、そうか。もしかしたら「魔宝石」だか何だかの古代遺産の類って手もあるかもしれないなぁ……でもそれだって、どんな物なんだか見当も付かないけどね……まぁ、その内聞けそうだったら直接イリスから聞けばいいか……ん?)


 ふと、目の前にそのイリスの顔があった。


「……さっきからまた、何そんなにぶつぶつと考え込んでるの? ひとりで相槌なんか打ったりして」


「うわっ!?」


「ちょ……何もそんなに驚くこともないじゃないのよ、こっちがビックリするじゃない!」


 てっきりもう何処かふらふらと街巡りでもしていると思ったマランは、突然のイリスの接近に少々驚いてあたふたしてしまった。

 そんなマランに何だかなぁという表情を浮かべるイリス。


「マランってさぁ……何か見てるとしょっちゅう考え込む癖があるのねぇ。森の中でもずっと何か考え事してたでしょ。……何か、暗いわね」


 何の遠慮も無しにグサリとそう一言。今まで同年代の女の子にそんな事を言われた事がないからか、それは他の誰の嫌味よりも心に深く突き刺さる台詞だった。


「う、うるさいなぁ。仕方ないだろ、昔っからこういう性分なんだから……!」


 だから、つい反射的にそう言い返す――とはいえ、確かに多少ショックではあったものの、別に大して怒りを感じた訳でもなかったので、言葉尻はややしぼんでしまった。

 ただ、その直後、マランは衝撃的なほどに驚きを感じてしまった――そう、彼女がこちらに非難めいたことを言ってきた事自体に。


 マランはイリスに出会って以来、ずっと彼女のことを見ていた。それは彼女があらゆる意味でマランの興味を引く存在だったのはもちろん、多少なりとも護ってやらなくてはならない存在であると感じたためでもあった。

 だが、渦中の王女様の方は、その災厄に振り回されっぱなしで、そうすぐには周りの事、特に行きずりで同行者になってしまった同い年の少年のことなんて、大して気にかけてなどいないのではないか。それこそ、自分にとって当面危険かどうか判断するくらいで――と、一方で彼は、イリスの心の内など所詮そんな程度だと思い込んでもいたのである。


「まぁ性分は勝手ですけどね……少なくとも今はあんまりこっちを無視して考え込んで欲しくはないんだけど。私、放っとかれてもどうすればいいんだか分からないんだからね」


「え? ……あ、あぁ、そ、そうだよね、ごめんごめん」


 慌ててきょろきょろと辺りを探す仕草をするマラン。

 とはいえ実際の所、あれだけの衝撃の中、それでも同行者の事までチェックしていたほどの意外なまでの冷静さを持つ少女に、マランはただ、なるべく驚きと焦りを顔に出さないようにするので精一杯であった。

 そういえばと、マランは不意に気が付いたのであった――つい今しがたまで、いかにもはしゃいであちこち飛び回りそうな喜び振りだったのに、それでも彼女は実際には、特にあちこちはしゃぎ回ってなどはいなかった事に。

 世間知らずの王女様でかつ、好奇心旺盛のおてんば娘。

 王家の描かれた昔話によくあるようなものでは、そんな王女様が見知らぬ街なぞに行った暁には、あっという間に何処かにいなくなったかと思うと、その内そこいら中を巻き込んだ大騒動を引き起こすものであると相場が決まっていた――今までイリスに対しても、どうにもそんな色眼鏡を外し切れないでいたマランは、だから何だかどんどん自分の想像する「王女様」像から外れていく彼女を見るにつれ、より親近感を感じる一方で、あまりのギャップの大きさに、果たして彼女にどう接して良いのか、またも良く分からなくなっていたのであった。


「まったく、早くどっか連れてってよね、何時までも人をこんな所に立たせたままだなんて酷いよ……ふぁ」


 と、わがまま半分ぼやき半分にそう言ったかと思うと、王女様は不意にあくびをひとつ。


「とにかく私、眠いんだから……」


 更にそう言ったかと思うと、今度はちょっと身体をふらつかせたので、


「あっ……ちょ、ちょっとぉ!」


 マランは慌てて、よろめいたイリスを正面横から支えるように受け止めた。

 昨日は転んだ彼女を後ろから抱きかかえる格好だったが、今日は左肩と右手で彼女の身体を軽く受け止める格好である。ただ、ちょっとぐらついただけだったようで、彼女の重みはほとんど感じなかった、のだが――


「大丈夫? ……やっぱり眠かったんだ」


「あはは、ごめんね……流石に歩き通しは疲れるわぁ」


 何故だかほっとしたマランに対し、彼女は一転、のんきな口調でそんな事を言って、ふっと表情を緩ませた。


(……!)


 ところが、次の瞬間――今度はマランの表情と態度が一変した。

 イリスが自分の足で再び自分の身体を支えられるようになったのを確認するや否や、彼女に悟られないように、彼はそっと顔を背けてしまったのだ。

 その顔がさっと赤らむのが自分でも分かる。


(こ、この感触……これって……!?)


 そう、イリスの身体を離そうとしたその間際、マランの腕と手の甲に、何とも柔らかく、ほの温かい感触がわずかながらも伝わってきたのである。

 ――それが、またちょっとだけこちらに傾いてきた時のイリスの胸の感触であった事は、何かの本能ですぐに察知出来てしまった。

 だがその後、何処からか襲ってきた何とも言えない強烈な衝撃により、あっという間に彼は赤面するのを堪え切れなくなってしまったのである。

 ここまでさんざ度胸一発で彼女に接してきたものの、考えてみればマランは今まで、王女様どころか同世代の女の子とロクに言葉を交わした経験すらなかったのだ。面と向かっているだけならまだしも、ここまで接近してしまうと――マランのようなタイプの少年は、それを意識した瞬間にただ固まってしまうだけなのであった。


「あっ……と、いけない、何だか気が抜けちゃって……えへへ」


 自分の胸が男の身体に触れてしまった事に気付いているのかいないのか、そしてその彼が照れて固まっているのをどう思ったのか――照れ隠しにそう微笑むと、イリスもまた少しだけ顔を赤らめながら、わざとらしくマランから一歩離れるのであった。


「……で、何処行くわけ?」


 そして、何かを取り繕うかのように、漠然とそう一言。


「え? ああ……」


「当てがあるんでしょ?」


 と、気を取り直して勝ち気な王女様の表情に戻る。


「……妙に確信めいて言うね」


「港町に行こうって言ったのはあなたでしょ? そんなこと言うくらいだから寝る所くらい確保してあると思って。……それともこのまますぐにでも船に乗って何処かに行こうっていう訳? それだったら仕方ないけど、私、出来たら今はベッドでゆっくり休みたいんだけどなぁ」


 気を取り直したかと思ったら、畳み掛けるようにそう言い立ててきた彼女。何だか不機嫌そうなのは、やはり彼女も寝不足だからなのだろうか?


「……はいはい分かったよ。お察しの通り、一応休む所は確保してあるからさ。案内すればいいんでしょ、王女様」


 マランはやれやれと思いながらも、ついそれに合わせる形で応じてしまった。

 ――気が付けば、何時の間にやら「王女様」と「従者」の関係の出来上がり。

 もっとも、昨晩のあの業火の中、一度はその関係を望んでしまったマランには、「王女様」という言葉に、子供っぽく満足げな表情さえ浮かべている彼女に対して、別に逆らう気など起きなかったのではあったが。




 そしてふたりは街の入り口付近の通りから街の中心部へと進み、ひとまず大通りの入り口に辿り着いた。

 ただ今夜、というか、そもそも昨晩泊まる予定だった「お屋敷」は、マラン達が入ってきた入口のちょうど反対側、街の一番奥の小高い丘の上にあるため、どうにか街に着いたとはいえ、その後もまだまだ街を突っ切って結構歩かねばならなかった。

 なので、先程入口付近で立ち止まって話をしていた時の王女節っぷりから、これから更に歩かなければならないと告げた時には、さぁどんな事を言い出すだろうかとマランは少々不安だったのだが―― 一旦歩き出すと、意外にもイリスは今までと同様、特に文句も何も言わずに大人しく後を付いてきたのであった。


(……そいえば、あんまり良く知りもしない男を頼って宿探しなんて、いいんだろうか?)


 今更ながらの考え。

 時々ぐちぐち文句は言うものの、それでも何かの確信でもあるのか、彼女は基本的には特に気にする素振りも見せずにこちらの事をすっかり頼りに――もとい、当てにしているようであった。

 昨晩洞窟で一夜を明かしたのとは、流石に事情が、そして心境が幾分か変わってくるはずなのだが。

 だから、特に相手が聞こうとしないのであれば余計な気遣いかなぁとも思ったが――それでも「同行者」としてこれからの事を何も彼女に伝えないのも良くないだろうと、マランはこれから泊めてもらう予定の家の事を、手短に彼女に伝える事にした。

 もっともこれには、賑やかな街を寝不足の暗い顔で押し黙ったまま歩く気になれなかったから、会話の切っ掛けを作りたかったという意味もあったのだが――


「……ばっちゃんち?」


 幸いな事に、彼女も話し掛けると素直にそれに応じてくれた。


「そこに泊まる予定だった訳?」


「うん、出発前に手紙出しといたし、昔から何度も遊びに行ってて良く泊めてもらったとこだからね。何時でも来いって言われたよ」


「ふぅん、親切で良い人なのね……」


「うん、そうだよ」


 相手の合わせの良さに釣られるように、マランは少々得意げにそう言った。


「……でもまぁ、はっきり言うと『ばっちゃん』だなんて気楽に呼んでいるのは、この島広しといえど俺くらいのもんだろうけどね。レノの人達は皆ばっちゃんを『長老様』とか、あるいは『港町の賢者』って呼んでるんだ。何たって、うちの村の長老様と同じで、ばっちゃんはこの街を作って、今みたいな大きな港町に育て上げた功労者なんだからね」


 そしてマランがこう話した時、またしても相手の声と表情には期待した通りの――いや、それ以上の反応があった。


「ちょ……な、なんか、話を聞く分にはとっても偉い人のように聞こえるんだけど……ホントにそんな人を『ばっちゃん』呼ばわりしちゃって良いの?」


「あぁもう、気にしない気にしない。俺とだったら、俺が幼い頃からしょっちゅう言い争いとかしてた仲だしね」


 マランは首も手も振って否定した。街で一番の重鎮の事を話しているとは自分でもとても思えないくらいに言葉は軽い。


「何年か前に流石にまずいかなと思って『港町の長老様』ってバカっ丁寧に言ったらさ、物凄く嫌そうな顔をして、気色悪いからやめてくれって言われてね……それ以来また『ばっちゃん』呼ばわりに戻っちゃったんだよ」


「ふぅん……何だか、変わってる人ね……」


「変わってやしないさ」


 マランはそこでにこっと笑った。


「確かにちょっと口うるさいし、この街の人達は何だか『恐れ敬ってる』っていう感じもあるんだけど……でも、良い人だよ」


 すると、マランの顔をじっと見ていたイリスの表情が、気のせいかほんの少しだけ緩んだように見えたのであった。


「そっか……でも良いの? そんな所に私が……」


「うん、もちろん大歓迎だよ。それに年食ってるとはいえ『港町の賢者』って言う名前は伊達じゃないからね、事情を話せばこれからどうすれば良いのかも、きっと何か教えてくれると思うよ」


「これからって……それ、私の事?」


「……え? うん、そういうことだけど……?」


「そう……」


 にわかに彼女の表情が掻き曇る。

 やはり元気を取り戻したような顔をしていてもショックは大きく尾を引いているのか、自分の事に話を向けられると、途端に彼女の言葉のトーンが急落してしまった。

 マランも下手に言葉で取り繕うよりはと、それ以上話をするのはやめる事にした。

 街並みをとぼとぼと歩くふたり。が、黙っている分、まわりの活気に比べて、彼らの周りの空気は心なしか重く淀んでいるようであった。

 ただイリスも、笑顔こそ消えてしまったものの、こちらの気遣いを察したのか、それでも特に落ち込んだ表情までは見せなかった。


 ……ざわざわ……

 ……ざわざわ……


 ずっと押し黙っているからか、雑踏がとてもうるさく感じられた。

 そう、いつもは村の若者みんなで騒ぎながら歩いたり、あちこちの商店にある、村ではまるで縁のないような珍しい品物を見歩くのに夢中になっていたりしたせいか、今までマランは、雑踏をここまでうるさく、うざったく感じた事はなかったのだ。とっととこの騒がしい大通りを抜けて、屋敷のベッドに飛び込んで何も考えずにゆっくりぐっすり眠りたい――この時のマランは今まで以上にそう強く願っていた。

 そんな彼の耳に、意識しなくても雑踏の中の声が飛び込んでくる。拒絶したくても防ぎようが無い。こういう時ばかりは自分の耳の良さを少々恨めしく思う。


「ねぇ、ほら見て……黄髪の民の子よ、珍しいわね……」


「久し振りだなぁ、何年振りだろう……」


「でもどっから来たんだ……ここの所、西からの船なんてあったっけか……」


「え、じゃあ別の所から……でもそんな場所あったかしら……」


「ねぇ、何あれ、泥だらけでぼろぼろじゃない……」


「多分あんな格好で森でも通り抜けてきたんだよ、きっと……」


「何でそんな所に黄髪の民がわざわざ……」


「おい、怪我もしてるぞ、一体どうしたんだ……」


「泥だけじゃないな、何だか煤っぽいものもくっついてるぞ……」


「まてよ、森から来たんだろ……じゃあひょっとして、夜中のあの……」


「ねぇ、自警団に連絡した方が……」


 ぐいっ!!


「うわっ!!」


 いきなり襟首を掴まれると、マランはそのままぐっと引き戻された。

 辺りの話を聞き流しながら、力なく半ば呆然と歩いていたため、簡単に後ろに引っ張られてしまう。

 そして細い指で不意に首筋に触れられる感触があったかと思うと――耳元にいきなりの囁き声。


「ねぇ、何だか周りの様子がおかしくない?」


「え? ……おかしいって、何が?」


「何だか、周りの視線が私達に集まってるように感じるんだけど……」


「そりゃあ、この辺りじゃ黄髪の民は珍しいからだよ。港町といっても特に最近はそんなに西方からの船が来るわけじゃないからね。大丈夫、さっき念のため腕輪まで包帯しといたから、君の正体はバレやしないよ。……言ったろ? ここじゃ『王国』なんて……」


「ほんと? 本当に私が『物珍しい』から、なの……?」


 見ると、イリスは随分と怪訝そうな顔をしていた。どうやら「王女がどうたら」「黄髪の民がこうたら」なんて今は気にしてないらしい。


「……そうじゃなくて、感じるのよ」


「は? 何を?」


「その……何ていうか、嫌な視線を……」


「……嫌な視線?」


 どうにもマランは、イリスの急な狼狽ろうばいの原因を推し量りかねている。


「とにかく、私ここにいたくない。悪い予感がするから……」


「と、ちょっ!」


 再びぐいっと引っ張られる感触。彼女に引っ張られるのが本日二度目ならば、彼女に引きずられるのも同じく本日二度目である。


「ったく……一体何なんだよっ!」


 わずかの間彼女に引きずられるままになっていたマランは、そう怒鳴りつつも、それでも妙な所に引っ張られないようにと、すかさず彼女の手を握って別の方向へと走り出したのであった。




 マランが彼女を引っ張っていったのは、人通りで賑わう大通りを少し離れた裏通り。

 表に比べるとずっと人は少ないが、それでも寂れているわけではない。

 とりあえず何とか先程の「ざわめき」を振り切る事には成功したようなので、そのままひとまず店の陰に隠れて呼吸を整える。寝不足のせいで息が切れるのが早い。


「こんな所にも『お店』ってあるんだ、ふ~ん」


 まだ肩で息をしながらも、顔を上げたイリスがそう一言。

 ここまで好奇心旺盛というか、マイペースというか――とはいえ、そんな彼女にマランも少しずつ慣れ始めてきているような気はする。

 そんなイリスに、マランは先程の事をもう一度尋ねてみた。


「ねぇイリス、さっき慌てて逃げ出したの、一体何? 何かあった訳? ……もしかして、昨日とはまた違う追手がいたとか……」


「……ねぇ、『自警団』って、何?」


 マランの言葉を遮った彼女の問いかけの言葉には、厳しさと不安がはっきりと織り込まれていた。


「ん? あぁ、言葉の通りだけど……まぁ、街の兵隊みたいなものかな。それも上から命じられたというよりも、どちらかといえば自主的に集まった、ね。何をやってるかというと、例えば犯罪とか厄介事が起きたりしないように街中を警邏けいらしたりとか、でもってもし何かモメ事が起きた場合は、率先してその対処をしたりとか……まぁ、そんな感じだなぁ」


「じゃあ『自警団を呼ぶ』っていうのは……?」


 今度は好奇心と更なる不安が入り混じった表情で、イリスが更にそう尋ねる。


「そりゃ大方、何か事件か犯罪者でも発見したから、それを通報しようって訳じゃないの? ……って、あ?」


 ようやくマランも事の重大さに気が付いた。

 同時に、先程聞き流していた街の人達の話の内容がふっと頭の中でフィードバックされてくる。

 そうだ、確かに誰かが、自分達を見ていた何人かが小声で「自警団に通報しよう」と話し合っていたような――

 マランの顔にも不安と後悔の念が表れる――そして、その表情でイリスを見ると、彼女も察したのか、無言で軽く頷いていた。


「……それ、ひょっとしなくても俺達のことを……」


「……言ってるんじゃないかって、そんな気がしたのよ。やっぱり『自警団』っていうのを呼ばれるとまずいのかなって思って」


「う~ん、そりゃ何か悪いことしていれば確かにね。……あれ? でも別に、俺達は悪い事はしてないと……」


 言えるのか?

 そうなのか?

 誰も気付かないだろうとはいえ、今、俺は「王女様」を連れて歩いているんだぞ?

 いや、それならあの「王家の証」らしきブレスレットにまで包帯を巻きつけておいたから、それでバレるとしたらよっぽどの事だろう。

 となると――やはり怪しまれているのは、昨日のあの業火の件の方になるのだろうか。


 ――そうか。そうだ、あの時燃えてしまったのは――


「どうしたの?」


 『御神木』の「レノでの意味」を思い出したマランの顔色がにわかに悪くなるのを見て、イリスが心配そうに声をかけてきた。


「……とりあえず、逃げた方が良いよな……」


 小さく呟いた声が震える。直接の犯人ではないとはいえ、関係者というだけでもここの人達はどんな反応をするのか分かったもんじゃない。何せこの街の人達は、長老が長老だからか、外部の人間から見ると、少々感情的になり過ぎる傾向があるのだから。


 そう『御神木』とは、特にこの街の人達にとっては、あらゆる意味で「別格の存在」なのだ――


「行こう! とりあえずばっちゃんの屋敷に行けば、ばっちゃんが何とかしてくれるかもしれない!」


「え? あ? ちょっとマラン? 急にどうし……」


 戸惑うイリスの手を取って、もっと人目につかない所に行こうとしたその瞬間――


「よぅ、そこにいるのはマランじゃないかぁっ!」


「わっ!」


 ――絶妙のタイミングで呼び止められてしまった。

 恐々として振り返ると――通りの対角、小ぢんまりとした店先に、口髭を貯えた堂々とした体格の中年男性の姿があった。

 見慣れた顔だった。


「あれ、おじさん? ど、どうしてここに?」


 それ故、却って焦ってしまったマラン。


「どうしてもないだろう。店主が自分の店の店先に立っていて何が悪いんだ?」


「へ? ……あ、そうか、ここは問屋街だったんだ」


 半ば無意識的に憶えのありそうな裏通りを逃げてきただけなので、何処に出るかまでは良く考えていなかったのだ。


「それよりマラン、なんだその子? またえっらい美少女じゃないか。……しかも黄髪の民の娘とは今時珍しいな……はは~ん、じゃあ、さっきその子の手を引いて人気の無い所に行こうとしていたのは……」


「ひ、人聞きの悪いこと言うなよ、おっちゃん。そんなことする訳ないだろ!」


 この洋服商のおじさんは、基本的に人は良いのだが、少々下世話で冗談好きなのである。そしてマランは、どうもこのおじさんに毎度毎度からかわれてばかりいたのであった。


「まぁまぁ、そんな真っ赤になっていきり立つなよ。純情少年だねぇ。それよりどうだ? ちょっと見ていかねぇか? こないだ大陸に行った時に中々上物の旅装束が手に入ってな、お前が来るのを楽しみにしてわざわざ取っといたんだよ。いつも冒険冒険言ってるからな、お前さん……ほら、これなんかどうだ? 一応お前はお得意さんだからな、まけといてやるよ」


 と、マランの危急そうな様子などまるで気にしないで自分勝手に話を進めてしまう。その強引さは流石に商売人といったところか。

 もちろん、彼のこの言葉は、結果的にマランの気をより一層焦らせるだけではあったのだが。


「……と、とにかくおじさん、久々に会ったので悪いんだけど今急いでいるから、そのことはまた今度……」


「わぁっ、色んなものがあるんですね~~」


「おっ、嬢ちゃん見ていくかい?」


「あ、おいちょっと!」


 気が付けば側にイリスの姿はなく、道を挟んだ斜向かいにある店先に、何時の間にやらその黄髪の民の少女の姿。


「これなんかどうだ? 冒険マニアのあんたの彼氏にぴったり似合うと思ってな」


「彼氏だなんてそんなぁ。……でも、マランってそんなに普段から冒険冒険言ってるんですか?」


「あぁ、ガキの頃からな。それさえなきゃあ悪い奴じゃないんだがな。若い割にはなかなか優秀な奴だしな。……こう言っちゃなんだが、こいつは将来見込みがあるから、今の内にツバ付けといた方がいいぜ、お嬢ちゃん」


(こ、こら何話してやがるんだこいつら……)


 マランは出るに出られなくなってしまい、ばつが悪そうにただ辺りに怪しい人影が来ないかときょろきょろするだけ――

 その合間にちらりと見たイリスの顔には笑みがあったが、その「意味」までは無論、うかがい知る事は出来ず。


「どうだい嬢ちゃん、このマントなんかあいつに似合うと思わないか? 確かあの村に昔っから伝わってる旅衣装ってのが陰気な灰色をしてやがったから、こんな色はどうかと思ってよ、仕入れてみたんだ」


 ばさっ!


 と店主が近くにあった布切れのようなものを持ち出すと、イリスの目の前で思いっきりひるがえした。


「……うわぁっ……」


 イリスが嘆息の声を漏らす。

 それは蒼いマントだった。

 表は空の色よりなお濃く、裏は表より更に濃い夜の海の色だった。


「あぁ……」


 濃い夜の海の色だけではなかった。光が当たると引き込まれそうなほどの黒い輝きを放つ、不思議な素材。


「素敵ですねぇ……」


「だろ、嬢ちゃんどうだいひとつ? まけとくぜ」


 この商売「まけとくぜ」が合い言葉。本当に買う値段が「まけた」値段なのかは買い手には分からない。


「でも、掛かるんでしょ? ……その、『お金』っていうのが」


 値段の話になった途端、イリスの顔が夢見心地の様子から一転、何やら当惑気味になる。


「う~ん、流石に大陸モンだからな、まけたとしてもそれなりに……」


「でもやっぱり『お金』っていうのが要るんでしょ?」


(……?)


 何を言っているんだと言いたげに、今度は店主が少々戸惑い気味になる。


「やっぱりお金が要るのよね、そうか、やっぱりそうなんだ。聞いた通りだぁ……」


(あ、ひょっとして……)


 何をイリスが言っているのか、マランはようやくピンときた。

 そうか、さっきイリスが「街を初めて見た」って、そういう意味だったのか――

 そう、何だかんだ言っても、やっぱり彼女は「世間知らずの王女様」だったのだ。


「あ~値段のこと言ってるんだよ、ね? う~んとね、こいつはねぇ……」


「あ~ごめんおっちゃん。今俺達持ち合わせなくってさ、また今度、ごめんね」


 急いでふたりに近づいたマランは、イリスを店先から強引に引き剥がすと、店主に早口でそう言って詫びた。


「また来るからさ、今、本当に急いでるから……ごめん」


 驚いた表情の店主に手短にそう挨拶して、マランはその場を立ち去ろうとした。つい忘れていた逃避中の我が身の事を思い出しながら。


「待てよマラン」


 が、振り向いて立ち去ろうとした刹那、店主の声が掛かった。今までとは違う低い声。

 びくっとして再び店主の方を振り向くと、ばさっと音がして、直後布地らしきものがマランの顔を覆った。


「な、何これ……?」


 と、驚きながらも顔面に張り付いた布地を取って目の前にかざす。


「……女物の服?」


 それはワインレッドの色合いの女性用の衣装だった。

 普段着というには少々派手めのような気がするし、軽い重量の割には随分と丈夫そうにも見えた。


「ま、女物の冒険者服ってやつだな」


 今までとは打って変わって真剣な商人の目で彼は話す。


「お前、彼女に何時までそんなボロボロの格好させておくんだ。俺は洋服屋だからな、幾ら高い布地でもボロの洋服なんざ見たかねぇんだ。さっさと着替えさせろ! ……そのくらいの時間は、無理矢理にでも作れるよな?」


 そして店主は店の奥を指差す。それ以上は何も言わない。


「……おっちゃん……」


「おっと、料金は出世払いだぜ。……そっちのマントの分もな」


 それだけ言うと、彼はにっこりといかにも底意地悪そうに微笑んだ。


「え……?」


 ふとイリスの方を向くと――彼女は彼女で、また何か青い布地のようなものを持っていた。

 その彼女のばつの悪そうな視線がマランに向けられたのを見て――マランはただ、脱力した笑顔を浮かべるしかなくなってしまった。


「ああ、まかしときな、う~~~んと出世を遅らせてやるからな!」


 マランは負けずに同じくらい底意地悪そうに微笑むと、イリスの方を向いてさぁ、と促した。

 急な展開に戸惑っていたのか、まるで怯えているかのような表情をしていたイリスは、マントと交換で受け取った服を見ながら少々考え込んだ後、軽く頷くと、そのまま着替えるために店の中に入ろうとした――


「よぅ、マランじゃないか」


 その時、先程と同じような台詞が、また背後から聞こえてきた。

 それは先程同様、知り合いの声。

 だから、この危急時というにも関わらず、マランは先程と同じように、ほんのわずかに緊張感を緩めて振り返る。

 もちろん、声の主は少年の思った通りの者であった。


 ――だが。



「ヨ、ヨーベル、さん……?」


 こちらへと近づいてきたのはすらりとした長身の、マランよりは数歳年上と言った感じの精悍せいかんな面持ちの青年だった。細身ではあるが、それでもマランより遥かに筋肉質のように見える。


「久し振りだなぁ、何時レノに来たんだ?」


「え、あ、うん、今さっきだけど……」


 だが、マランの言葉は、先程の店主との会話と比べて、非常に歯切れの悪いものになっていた。

 その表情は、どう見てもあまり再会を歓迎しているようには見えない。

 ――というよりもむしろ、会わなければ良かったという感じにさえ見える。

 イリスは店の奥に半歩入った所で佇み、何故だか先程よりも更に怯えた表情になって、青年とマランとを交互に見詰めていた。

 彼女もマランに声が掛かった瞬間、きっと悪い予感がしたのだろう。そして彼女は、その予感がマランの返事により的中した事を知ったのではないだろうか――


「その格好……ヨーベルさん、何時から自警団に入ったの?」



(つづく)


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