第2話 虹の魔力ともう一度のさよならの話(1)
港町の賢者が目にしたのは、
微かだが鋭い音と共に突然出来た亀裂。
まるで悲鳴をあげながらも自らを傷つけていくかのように、
更なる無数の筋で見る間に白濁していく水晶柱の姿。
そして、乾いた澄んだ音と共に、
つい先程まで透き通る輝きを持っていたはずの水晶が、
細かい雪の結晶と化して辺りに散りゆく光景。
それは、古代の秘宝、失われし秘術により作られた
魔力を感知する水晶に、突然訪れた最期の瞬間。
そしてそれは、何処かで強大な魔力がはじけた何よりの証拠。
それも、もう誰も持ち得ないはずの「人間の魔力」が。
――そう、近くで。
信じられないような望みが叶った時、喜びのあまりに「実感が湧かない」ような心持ちになる――世の中にはそういう事があるというのを、マランはもちろん、頭では分かっていたつもりであった。
そして、今時時代錯誤も良い所とはいえ、それでも「冒険者」なるものをやるからには、実際にそんな「実感が湧かない」ような凄い事もたまには起きてくれたりするのかなと、内心淡く期待してもいた。
だがしかし、よもやこんな事態が突然我が身に降り掛かろうとは、流石のマランとてまったく予想だに出来ない事であった――それも出発早々、島から出るどころか、隣の街に着くよりも前に。
今まで何度となく村のみんなで行き来して、およそ事件らしい事件なぞ起きたこともなかったはずの森の街道だというのに、いざひとりで冒険の旅へと出発した途端にこうなるとは。単なる偶然にしたって何だか少々出来過ぎのようにも思えるのだが――まぁ、敢えて好意的に解釈するなら、世の中はまだまだ「冒険者」にとって捨てたものでもないらしい、ということになるのだろうか。
――とはいえ、それにしてもなぁという、微妙にためらいを感じる気持ちは、やはり何処となく。
というのも、出発前にとりあえず立てるだけ立ててみた、ささやかなものから果てしないようなものまで、実に様々な、「冒険の旅」に対する彼の「期待」や「望み」の数々――何しろ気が付けば、どうやらそれらの内の幾つかが、早速かつ、いともあっけなく叶ってしまったらしいのだから。
そう、わずか実質冒険三日目にして。それも、いきなりかつ、とんでもない形で。
だから彼はその事に対し、もちろん素直に嬉しく思う一方で――
(なるほど、確かに……)
――戸惑いのあまり、どうにも実感が湧いて来ないような気分も同時に味わっていたのであった。
ただ、その実感の湧かない理由が、どうやら「信じられないほど嬉しい」からだけではないらしい、という事くらいは、今のマランのぼ~っとした頭でも、何とか理解することが出来ていた。
というのも、昨夕感じたような、内側から湧き上がる「自分勝手な喜び」は、それから後に生じたもやもやした重苦しさに、未だに完全に押し潰されたままだったから。
全てはちょうど昨日、日が沈み始めてから、今日、日が再び昇り始めるまでの出来事――とはいえ、あまりにも自分の理解と想像を超えたとんでもない事が、それも次から次へとまとめて起きてくれたおかげで、果たしてそれらが本当に起きた事だったのか、未だ以ってどうにも確証が持てないままで――そしてそんなマランは今、ようやく戻ってきた森の街道を、再び街へ向け、とぼとぼと歩いているのであった。
今まで起きた事は、実は実際に間近で体験した事などではなく、本当は日暮れにふらふらと森の中に入って、あの洞窟で明け方までぐっすり眠っていた時に見た、夢の中の出来事だったんだ――何せこのぼ~っとしている頭では、いっそそう言われた方が、よっぽど信じられそうなくらいだった。
そうか、ひょっとして頭がぼ~っとしているのも、絶えずあくびが出そうになるのも、そのあまりにリアルな夢のせいで頭がよく休めてなかったからなのかも、と――
ぽそん。
と、道のど真ん中で立ち止まって頭の中をくるくる回していた所に、背中から軽く温かく当たる感触があった。
うなじを何か細く柔らかいものが撫でる感触も。
――振り返る。
そこにいたのは、何かに不意にぶつかったので、薄く当惑の表情を浮かべている――麗しき金色の長い髪を持った、透き通るような碧眼の少女だった。
その夢心地のような瞳、そして切なげでさえある表情には、重たい瞼の十七歳の少年の眠気を一気に吹き飛ばすのに、充分にして余りあるほどの魅力があったのだが――ただ、更によく見れば、その身なりの方は、顔立ちとは対照的に、お世辞にも彼女に似つかわしいとは思えないものになっていたのであった。
現在の彼女は、本来ならば華美にならない上品さがあったはずの、されど今やすっかりぼろぼろになってしまった薄桃色のワンピースを纏い、軽く拭きはしたものの、まだまだ顔と言わず手足と言わずそこかしこが煤と泥が残り、更にはその金色の髪の毛も、何だか大分荒れて光沢を失ってしまっていて――ただ、だというのに、それでもなお、黄髪の民の少女のその姿には、何よりも「綺麗」という言葉が似合っていた。
そう、この少女だ。
彼女こそ、昨晩からの出来事が、やはり本当の事であったのを示す何よりの「証拠」であり、恐らくはその詳しい事情を知っている「証人」でもある存在なのであった。
――王女。
まだ彼女から直接はっきりした事を聞いた訳ではないし、そもそもマランは今まで「王国」にそんな「存在」がいたことすらまるで知らなかったのだけれども――ともあれ彼女の「正体」はどうやらそういうことらしい。
その彼女の大きく剥き出しになった左腕には、にじんだ小さな赤黒い染みでようやく出血が止まったのが分かる包帯と、そのすぐ下、不思議な金の紋様に赤く平たい宝珠のついたブレスレットがあった。
そう、そのブレスレットこそが、どうやらいわば「王家の証」のようなのだが――どうもコトはそれだけで済むほど単純なものではないらしい。
というのも、彼女のこのブレスレットと、何より彼女自身に、どうやら更に何か別の、これまたマランの想像もつかないほどの大いなる秘め事があるようで――しかもそれは昨日起こった事や、彼女からほんの少しだけ聞いた話、更にはもしかしたら、マラン自身の事にまで関係しているかもしれないというのだから、実に奇妙な偶然というか、もう訳が分からないというか。
――でもまぁ、そんな厄介そうな事は当面どうでもいい。彼女から詳しい話を聞こうにも、今はもう細かい事を理解出来るほどこっちの頭は働いていないみたいだし、そもそもその彼女だって、今はとても何か話せるような状態ではないようだし。
それに、どうやら大きな嵐が過ぎ去って、再び森に静寂が訪れたらしい今――こんな東の辺境の島で、既に存在そのものすら忘れ去られつつある遥か西方の「王国」のことなど、何も無理に急いで考えなくても良いような気がしたのである。だいたいあの本とブレスレットの件についてだって、今ここで適当に調べて何がどうなるってものでもないだろう。
だから、彼女の素性なんてものは、とりあえず港町に着いてからでも改めてゆっくり考えればいいと思う。
それに、ちょうど港町では、こんな事にも大いに頼りになれそうな人物に会いに行くのだし。
――同行者。
だから今は、こちらの方がずっと重要だった。
まぁ、重要だといっても、その切っ掛けそのものは、単に彼女に行く当てがなさそうだったので、何となく誘ってみたら付いてきてくれた――ただそれだけの事だったりするのだけど。
それに、マランだってとりあえず港町まで一緒に行こうとは言ったけど、それから先どうするかまでは言ってないのだし、そもそも彼女だって、まさかずっと付いていこうなどという気はないのだろうし。
そう、例えば港町に着いた途端に、昨晩の連中か一緒に逃げ出した仲間かでも「探しましたよ」と突然現れてきて、そのまますぐに「じゃあ、さよなら」と――よくよく考えてみると、やはりそうなる可能性が一番高いような気もする。
何たって彼女は、本来そのような「扱い」を受けてしかるべきな「ご身分」なのだから。
(だけど、この子だって「冒険者になりたい」って言ってたよな……)
そして、「冒険者になった」とも。
その言葉の真意ははっきりとは分からない。もちろんその一言が、彼女が自分と同じ「立場」になった事を指すと、素直に考えて良いものなのかどうかも。
まぁ「立場」といっても、自分だって所詮は、何となく冒険者を目指して適当に出発した直後の「見習い以下」の存在に過ぎないし、そんな時に突然同い年で、誕生日だってたった一日しか違いがないらしく、何よりとてつもなく可愛い女の子と知り合いになれた――その状況にただ無責任に喜んでいるだけの「立場」なのだし。
そう、「同い年の友達が欲しい」という念願が必要十二分に叶ったと。
ひょっとしたら、これからもずっと旅仲間になってくれるかもしれないと。
それをただ、能天気に喜んでいるだけに過ぎない自分――そんな、好きで冒険している人間と、やむなき事情で放浪せざるを得なくなった人間とでは、やはりその「立場」はまるで違うのではなかろうか。
彼女は、これまでの事をどう思っているのだろうか?
彼女は、これからの事をどう考えているのだろうか?
そして彼女には、本当に「仲間」がいないのだろうか?
ただ、もしも――もしも彼女が今、本当にひとりきりでこんな見も知らない場所に投げ出されてしまっているとしたら――
彼女の方は、妙な切っ掛けで出来た臨時の「同行者」のことを、どう思い、そして見定めているのだろうか。
そして自分は、そんな彼女に対して、何をどうするのが最良なのだろうか?
「……」
昨晩あれだけ様々な喜怒哀楽の表情を見せてくれたその美少女は、今はまるで極めて精巧に出来た実寸大の人形のように、無表情のまま、ただ真っ直ぐな瞳でマランを見詰めていた。
そして、豊かな表情と共にあれだけポンポンと色々な物言いをしてくれたその薄紅の唇は、今はただ微かにわななく程度にしか動いてはいなかった。
漏れ出づるのはそよ風にも似た微かな声。もしかしたらさっき誤ってぶつかったのを詫びているのかもしれないが、耳の良いはずのマランでさえ、どうにも彼女の呟きは良く聞き取れなかった。
「あ、あのさ……」
マランも何か言おうと思ったのだが――不意に込み上げてきたあくびをかみ殺そうとして、また口を閉ざしてしまった。
そうだ、昨日はあんな事があったから、結局一睡もしていなかったんだっけ――
ようやくその辺りまで思い出し、マランは改めて、今までの事が全て事実であったのを噛み締めるのであった。
だけど、極端に疲弊した身体の上に乗っかっている、耐用時間の疾うに経過した頭では、それ以上何か考えようとする意欲は、やはり起きてはこなかった。
(ま、いいか。昨日色々と危ない事が起きたとはいえ、今は何とか目先の危険だけは逃れたような気がするからね……)
先程と同じく、そうやってマランは危急でない事を慌てて考えるのを止めにした。
今は急襲してきた睡魔によって持ち去られかけた記憶を、何とか取り戻しただけで良いだろう。それに、冒険者として最も大切な事、それは何よりまず己、そして「味方」の安全を確保する事のはずなのだし。
――もっとも、まさか冒険の初っ端にいきなりそれを実践することになろうとは。色々考えたいことは山ほどありそうなのだけれども、ともあれ、結果的には彼女と、そして自分がこうして無事だったのだから、これはこれで良かったのだろう。
朝の内に港町に続く街道に再び戻ってきてから、ふたりはしばらくの間ずっと、街道を道なりに歩き続けていた。
何分あれだけの事があった後なので、とりあえずどうにか先を急いで、当座の目的地である港町レノの知り合いの家に行こうと考えてはいたのだが――疲弊した身体はもはや先を急ぐ事すら許さなかったので、仕方なくふたりは、道中で倒れない程度に、とてもゆったりとした足取りで街へと向かうことになった。もっとも、休んだら休んだでそのまま眠気の余り卒倒しかねない具合でもあったので、ペースは遅くともほとんど立ち止まることはなかったのだが。
ただ、それでもやはり傍から見れば、妙にペースが遅過ぎるように感じられたかもしれない――その要因は、実は彼女の歩みがあまりにも極端にゆっくりになったことにあった。
というのも、彼女は森を出る前から、マラン以上に疲れを引きずったような重い足取りで歩きながら――ただずっと、空の一点を見詰め続けていたからである。
雨上がりの青空に掛かった、鮮やかな虹を。
――虹。
そういえば昨晩の混乱の最中、『虹水晶』なる言葉を耳にした気がする。
マランにとっては今まで聞いたこともないし、何処の本でも読んだことのない宝石の名前だが――そんな水晶が本当に世の中にあったりするのだろうか。『虹水晶』というからには、やはり七色に輝いたりするのだろうか。
ただ、彼らのあの話し振りからして、どうやらその『虹水晶』なるものは、普通の宝石ではないようだった――だとすると、もしかしてそれは「魔宝石」と呼ばれるものの一種なのかもしれない。
「魔宝石」とは、魔法を失った人間が持ちうる最後の希望である、古代文明の遺産の一種の事だ。無論今では作り出す事など出来ない物だし、したがって他の多くの古代遺産同様、ちょっとやそっとの事では手に入らない、非常に貴重な代物なのであった。
(そうだ、そういえばあの家にも「水晶」があったっけな……)
続けてマランはそんな事を思い出す。思えば結構昔の話。
確かあれも「魔法の水晶」だとか何とかばっちゃんは言っていた。とはいえ、前に実際に見せてもらった時には、マランの目にはどう見てもただの大きな水晶にしか見えなかったのだが――まぁ、あのばっちゃんが言ってた事なのだし、少なくとも嘘ではないのだろう。
あのばっちゃんは口は悪いけれど、ちゃんと「本当の事」を教えてくれる人なのだし。
そんなばっちゃんなのだから、きっと『虹水晶』とやらのことも何か知っているに違いない――と、実はマランは、先程からそういう期待を持って歩を進めていたのであった。
また、以前本人から冗談交じりに聞いた事のある、その若かりし頃の姿――詳しい事は幾ら聞いても教えてくれなかったので、今でもまだ半信半疑ではあるのだが――もしかしたらその話の詳細をじっくり聞く事が出来るかもしれないという、これまた良いチャンスかも、とも思っていた。
でも、聞いた所で素直に教えてくれるかな? ちょっと怒りっぽい人だから、到着が一日近く遅れた事で機嫌を損ねてなければいいのだけど――
(う~ん、もしかしたら、知ってて黙っていられるよりも、ばっちゃんも詳しくは知らなかったりする方がかえって良かったりするのかもしれないなぁ……)
何せ、あの歳になってなお、その知識欲はそこいらの街の若者を遥かに凌ぐほどに旺盛なのだから。だから、もしばっちゃんが何も知らなかったとしても、それはそれで、こんな話を耳にして興味を持たない訳がないのである。
そしてその場合のばっちゃんの話ならば、たとえ推測であろうとも、きっとイリスにとって凄く有益になってくれるに違いないだろう。
(ホント、年を取ってもこういう情熱は失わない人なんだから、凄いと言えば凄いもんだよな……)
ある意味、自分も見習いたい所ではある。もっとも、ばっちゃんほどモノを知っていて、なおこの世には知らない事、分からない事がゴマンとあるとか実際言われると、それはそれで目の前が黒い霧に覆われたような気分にもなりそうなのだが。
ただ、もしその反対に、ばっちゃんが本当に『虹水晶』や彼女の事を何か知っていた場合――それは即ち先程の「冗談」がやはり真実であった事を示す――その時はもしかしたら、それこそ機嫌などとは無関係に、本当の事を何も教えてくれないのではないかと、何となくではあるが、そんな予感もマランはしていたのであった。
『それはお前の知る必要のない事じゃ』
そう、冗談交じりに話してくれた若かりし日々の事を、後日興味津々に詳しく聞こうとした所、怒気の混じらない、ただ強い口調でそうとだけ言われたのを、マランは良く憶えていた。その無表情さが却って怖くて、それ以来、ばっちゃんに昔のばっちゃん自身の事だけは聞こうとしていない。
ただ、似たような事は、他にも何回かあった気がする。いちいちどんな事だったかまでは憶えていないのだが、共通していたのは、知らなくて良いと言われた事に関しては、その理由すら決して教えてくれなかったということだった――
(まぁ、たとえ何も教えてくれなかったとしても、少なくともイリスを悪いようにはしないとは思うんだけどなぁ……)
ばっちゃんには、それだけの信頼はある。というよりも、同じ島民とはいえ、所詮は外部の人間であるはずのマランに、ばっちゃんは街の人間よりも良くしてくれているのだ。そんな人の事を悪くは言えない。
――なんてことを色々と考えていると、途端に会いたい思いがより一層募ってくる。だから、なおさらとっとと先を急ぎたいところではあったのだが――でもその一方で、どうせ既に予定より一日遅れてしまっているのだから、今更急いでももうしょうがないのではという思いも、今のマランには若干ながらあったりもした。
何より自分ひとりならいざ知らず、あんまり今の彼女を急かす気にはなれないし――それにどうせこのままのペースでも、坂下の港町には日暮れまでには着くだろうし。だったらこのままのんびりと歩いていっても構わないかな、と。
ただ本音を言うと、マランは今、ベッドが欲しくてたまらなかった。
冒険者がたった一晩徹夜しただけでここまで音を上げるというのも、ちょっと根性のない気もするが、そんな事言ったって、やはり眠いものは仕方がないのである。
ところが、同じくまったくの不眠であったはずの少女は、まるで眠い素振りなど見せず、されどその代わりに全ての感情を忘れてしまったかのような表情のまま、相変わらず真っ直ぐな瞳で空を見続けていたのであった。
空にはまだ虹があった。
雨上がりの明け方にはあれほど強い七色の光を放っていたというのに、今ではそれが少しずつ薄らいでいっている。
彼女の視線は、まるでその別れを惜しんでいるかのように、何処か憂いを含んでいるようであった。
その彼女をじっと見詰めるマラン。
もちろんマランも、昨晩彼女の身に起きた不幸な惨劇の事を心配していない訳ではなかったが、それとは別に彼は、それからの彼女のそのあまりの様子の変わりように、ずっと戸惑ってもいたのである。
「イリス……」
それは彼女の名前。この名を呼ぶのはもう三度目か四度目になるのだが、口に出す度に、違う気持ちがこの言葉には乗り移る。
今はどんな気持ちで彼女を呼んでいるのだろう。
何か気持ちを込めて呼んだはずなのだが、自分でもはっきりしたことは分からなかった。
「……はい?」
やや間を置いて、ようやく虹が消えた頃。
小さな風の妖精が囁いたかのようなか細い声で、少女はようやくこちらへと振り返った。
春の光の中、たとえ全身薄汚れていても、それでも儚げなほどの可憐さを持つその姿に、とても良く似合った声。
先程と似たような音量なのに、それでもはっきりと聞こえる、意思を持った声。
それこそ人形のように物静かなその様は、何だか本当に、何処かの絵本の世界に住む「王女様」というものにそっくりなようにも見えたのだった。
(……って、見えたも何も、元から彼女は「王女様」だったんだよな)
昨日の言動のイメージを引きずっていた時は、どうしても心の奥底で納得出来ないものを感じてもいたのだが、こうして改めてその声を聞き、その姿を見ると――あちこちボロボロなのにも関わらず、その雰囲気はまさに絵本の中の王女様そのものであった。
そしてぼんやりとながらも、森の中の彼女の今の姿を眺めていると、そんな「王女様」がこんな辺鄙な島の森の中を歩いている――よくよく考えれば、これまた何とも不思議な光景のような気がしてきた。
そう、何だか昨日の彼女の方こそ、まるでただの冗談であったかのようで――
だから、つい思ってしまった。
―― 一体どちらが本物の彼女の姿なのだろう? と。
昨日の姿が嘘だったのか――それとも今の彼女が幻なのか。
昨日、初対面のはずなのに、いきなり本音をぶつけ合うことの出来た相手だというのに。
「虹が見せている幻」――というのは、流石に出来過ぎた表現かもしれないけれど。
最初の頃こそ微妙な違和感があったものの、でも怒鳴り合ってる時にはすっかりそれも消えていた、そんな彼女だというのに。しかもその後は、今に到るまでずっと一緒に行動しているというのに――それにも関わらず、今は何故か、マランは「今の彼女」に再び大きな違和感を覚えているのであった。
それはまさに、幻のような空虚さで――何だか、先程触れた彼女の感触でさえも信じられなくなりそうなほどで。
やはりこれは全て、睡魔が見せている白昼夢なのだろうか。
本当のところ、自分は今も夢の中をまどろみ続けているのかもしれない――
気が付いたら無意識の内に、マランは彼女に向けて手を伸ばしていた。
さっき触れた程度の感触じゃ物足りない。もっと強く、はっきりその存在を確かめられるくらいに、この手でしっかり彼女を掴む事が出来たのなら――
焦っている。きっと自分は切羽詰まったような恐い表情をしているに違いない。
そんなマランを、目の前にいる少女は気が付けばずっと見詰め続けていて、それでもなお無表情のままでいたのだが――
ぐううううぅぅ~~~っ。
心の奥で静かに激しく鳴っていた鼓動を打ち消すかのように、マランの耳にそんな音が入ってきた。
一瞬何かと思ったが、どうやらこれはお腹が鳴った音らしい。
それはあまりに唐突で、どんな緊張感あふれる場面だったとしても、一発で気が抜けるほどの響きで――しかしそれ故に、夢と幻とが合わさったような暴発一歩手前のその場の雰囲気を、一気に現実に引き戻してくれた音でもあった。
――そういえば昨日から、寝てもいなければ食べてもいなかったんだ、まったくもって欠片ほども。
ようやくそのことに気が付くと、マランも何だか急にお腹が空いてきた。まったく、あんまりに豪快な音だったから、こっちまで釣られてお腹が鳴りそうである。
(……って、そう言えば今の音、俺じゃないぞ?)
と、なると――
「……」
犯人はひとりだ。
しばし宙を彷徨っていた視線を改めてその犯人の方へ向ける――彼女はおもむろに自分の腹部に視線を落とすと、胃の辺りの部分に置いた手でお腹を軽くさすりながら、ゆっくりとこちらの顔を見た。
ほんの少しだけ、無表情ではなくなっていた。
まだぼぉっとしているのと、情けないのと、それと、恥ずかしいのと――そんな表情が微かに入り交じっていた。
喜怒哀楽以外の、これまた初めて見る彼女の表情だった。
「……」
「……」
場の雰囲気のせいか、何故かお互いに照れてうつむいてしまう。
「あ、あ、ああのそのその……ご、ごめんなさい」
「あ、あ、ああのそのその……そ、そうだよね、お腹空いてるよね」
と、突然不自然な会話が始まる。昨日の最初の会話からはとても想像出来ないほどに、何処か初々しい。
年齢相応――いや、それ以下の幼い年頃のような感じすらするほどに。
「……」
「……」
「……そ、そうだちょっと待ってて!!」
沈黙に負けたというわけではないけれど、それでも照れ隠し半分、慌ててがさごそと、マランはカバンの中から携帯食料を取り出した。
ちゃんとふたり分。旅の道中にアクシデントは付き物だからと、ギュウ詰めのカバンの中、やや多めに食料を詰め込んでいたのが幸いした。もっとも、ちょっと奥の方にしまっていたので、取り出すのに多少難儀はしたけれど。
ただ、そうやってカバンをまさぐっている時――ふとマランは、あれだけ嘘なんだか幻なんだかと思っていた意識が、自分の中で急激に薄れていくのを感じていた。
それと共に、何やってるんだ俺、とそう思う心の余裕も。
ああもう、細かいことは放っとこうと思っていたはずなのに。何をまた余計な事を考えていたんだか。
そもそも、幾ら初めて出会った時にあれだけ強気だった彼女といえど、目の前で両親共に亡くなったのだから、それで平気でいられる訳がないじゃないか。今までそんなことにも気付かなかったなんて。
いつもの悪い癖がまた出てる。勝手な考えだけが先走って、人の事や周りの状況がすぐに見えなくなる酷い性格。
そうだ、あんな状態の彼女なんだ、今は同行者の事を考える余裕なんてあるはずもないだろうから――だったらその「同行者」としては、たださりげなく彼女を元気付かせて、少しでも彼女の気持ちの負担を軽くするように努めればそれで良いはずなのだ。
それに、たとえどう振る舞っていようと、目の前にいる彼女はやっぱり幻なんかじゃない――自分は所詮、彼女の「一時的な同行者」に過ぎないと考えるマランとしては、今はただ、それだけ分かれば十分だったのだ。
近くの切り株に腰掛けたイリスは、渡された携帯食料をしげしげと眺めると、控えめにうわ~っという驚きと当惑の表情を浮かべた。
ただ、彼女がそんな反応を見せたのは、別に黄髪の民だからというわけでも、ましてや王家の人間だからというわけでもないだろう――何せ今彼女が手にしているそれは、他でもないマランの村独特の食料で、それ故、初めてこれを見た他所の人間は、たいてい彼女と似た表情をするのだから。
とはいえマランはマランで、まさか他人に自分の食料を分け与えることになるなんて思いもしなかったので、あまりおおっぴらに自慢出来ないような代物を、ただ苦笑いを浮かべて渡してあげるしかなかったのだが。
一見厚焼きクッキーのような、小さな四角い断片。
ただし、色は濃紫。
村特産の紫芋に、栄養と腹持ちと若干の甘味のために薬草の数々を練り込んだものだから、見た目はもちろん、慣れていないと匂いも若干気になる。隠し味のはちみつの風味が辛うじて食欲を撫でる程度。
マランはもちろんこんな物はもう食べ飽きるほどに食べ慣れているので、特に意識することもなくそのまま口にぽ~んと放り込んだりするのだが――流石に初体験の彼女はそうもいかないのだろう。
「……」
目が潤まんがばかりに不安げな表情をしている。
本当にこんなモノを食べる訳? と、視線がそう訴えている。
多少は元気が出てきたのか、先程の人形姫に比べて随分表情が豊かになったものである。
「うん、そうだよ。あいにくそれしか食べ物がなくて……まぁ、食べてみなよ」
安心させるようにニコニコ笑顔の保証をつけて、それでも何だか無責任だよなぁと心の中で思いながらマランはそう言った。王女様のその表情に安心して。
まぁ、匂いや見てくれはともかく栄養はあるのだから、なんとしても最初の一口くらいは食べて頂きたい所なのだけれど――
ひょいぱく、さくさく。
マランは彼女に食べ方の見本を示すかのように、気軽に濃紫のそれを口の中へと放り込んでみせた。
思えば丸一日振りくらいの食事。もっとも、それがよもや予備の携帯食料になろうとは。幾ら嫌いでないとはいえ、こう同じ物を何食も続けるのは流石に飽きてくるよな。
あぁでもでも、そんな他愛ない泣き言を吐くのはやっぱり冒険者として失格かもしれないなぁ。これからこんな状況、幾らでも起こって不思議はないのだし――
そんな事をあれこれ思いながら、マランは同行者の様子を楽しそうにうかがっていた。
「……」
で、その彼女はというと、なおもじっと紫色の物体を見詰めているままであった。
マランとしては、別に意地悪をしているつもりはないのだが――彼女にとっては、幾ら目の前で人が食べている所を見たとはいえ、やはり慣れない食事には抵抗があるのだろう。まして、見た目が見た目だ。
それでも他に食料がある訳でなし、何とか食べて欲しいなと思いながら、マランは彼女をなおも優しく見詰めていた。
ただ、よっぽどこれが猛毒か何かにでも見えるのか、それとも、もしかしたら初めて目にするである「王宮の食事」でない、庶民の(それもかなり特殊な)食物に対する恐れのようなものなのか、なおも抵抗を見せる彼女のその逡巡振りは、やはり相当なものだったのだが――
ぐ、くううぅ~~~っ。
そんな時、更に追い討ちの第二波が来てしまった。
先程よりも小さな音だったが、それでも彼女は、マランにも聞かれてしまったというのを瞬時に察知したようで、今度は恥ずかしがってうつむいたまま顔を上げなくなってしまった。
「……」
さく……
そしてうつむいたままの彼女は、ゆっくりとながら、ようやくその紫色を口に運んだ。
ただし、端っこをほんの少しだけ。思った通りというか、思った以上というか、その様も何だか王女様然としているようには感じられた。
その彼女は最初の一口の後、しばらく固まっていたが、軽く喉を鳴らしたかと思うと、
さくさくさく……
今度は王女様らしくなく一気に一枚全てを食べ切って、ごくん、と飲み込んだ。
「うわ……これ、なんなの?」
一息ついた後もしばらくうつむいていた彼女が顔を上げた時、その顔つきは実に怪訝さ満開だった。いかにも期待外れといった感じである。
見た目はともかく、食べてみれば甘くてふんわりとでも思ったのだろうか。そんなにまずいはずはないのだけど、残念ながらお気に召すとまではいかなかったらしい。その割にはあっさり「完食」してくれたようだが。
――で、そこでふと気づく。そのいかにも感情豊か、といった顔つきと共に、何だかちょっとだけ声に元気が戻ってきたような気がすることに。
「ああ、これだってある意味『村の特産品』だよ?」
だからマランはわざとらしいニヤケ顔でそう答える。ちょうど昨日と同じ言葉を使って。まぁ、これが本当に「特産」かどうかはさておいて。
もちろんそれは、ある種の「反応」を期待してのものだった。
そして――
「え!? ……じゃあ、もしかして……これもやっぱりあなたが?」
眉間にしわを寄せながらではあったものの、嬉しい事に、こちらの期待していた通りの反応が返ってきた。
「そう、これも『俺の特製品』でもあるのさ」
なので、嬉しく思う感情を強引に抑えつけた結果、ニヤケ顔は少々歪でカッコの付かないものに変わってしまったかもしれない。ただ、それに気づいたのかそうでないのか――ともあれ彼女は、微妙な苦笑でマランの言葉を受け止めていた。
「……そうなんだぁ。不思議というか、何というか……か、変わった味ね……」
彼女はしみじみとそう一言。
「まぁ、まずくはなかったけどね」
そして、本音なのか気を使っているのか何処か含みでも持たせているのか――そのどれとも分からないような口調と苦笑で彼女はそう続けた。
ただ、その目には先程のような虚ろなものは感じられない。
それどころか、普通の笑顔に戻ったその表情には、穏やかな輝きと――そして何処か安らぎのようなものがあったのだ。
出会ってからまだほんのちょっとしか経っていないけれども――きっとそれが彼女の本来の表情なんだなと、マランはそう確信したのであった。
「そりゃどうも、お褒めに預かりまして」
自分の中で余計な力が抜けていくのを感じながら、マランがそう返す。
「……ねぇ、この辺りの食べ物って、みんなこんな味がするの?」
すると、なおも軽く眉間にしわを寄せながらイリスがそんな事を聞いてくる。
その表情が何だか妙におかしくて、思わず、
「そんな訳ないじゃない! 村にだってこんな風変わりな味は他にないよ~ みんなこれだけは食べたくないって敬遠するくらいだから」
「……そ、そんなものを私に食べさせたわけぇ!?」
すると反射的に、イリスが切り株から身を乗り出して抗議した。
怒ったような、非難するような目つき――とはいえ、別に本気で怒っている訳ではないのはすぐ分かった。
そして、それを見抜けた時――今の自分は不思議なくらいに、彼女との会話に余裕を感じているんだなと、マランはふと、そんなことを考えたのであった。
「でも、食べ慣れてくると、これで結構いけるものだよ。栄養はあるし、お腹はこれでも結構膨れるしね。……まぁ、やっぱり色々混ぜてるから、副作用としてちょっと変わった味になっちゃってるどね」
「あ、酷い。やっぱり変な味だってマランも思ってたんだ」
「慣れだよ慣れ。今じゃ俺はそれなりに気に入っている味なんだし。その内しみじみとした良い味が分かるようになるって」
「……ホントぉ?」
「うん、少なくともあれを『まずくない』って言ったんだ、素質はあると思うよ」
「……何の素質なんだか……」
「『冒険者』の、さ」
ふと見れば、何と答えを返したものかと呆れたような顔が、そこにはあった。ここまで先程の人形姫との表情の落差があると、何だか思わず吹き出してしまう。
すると、相手からも途端にはじける陽気な笑い。
「あははははっ!」
「あははははっ!」
本当に何がおかしかったんだろうと後で振り返りたくなるような場面。
きっとふたりとも、心の奥底で、重苦しい雰囲気を吹き飛ばしたいという事で意見が一致したのだろう。
「……やっと『王女様』の仮面が外れたね」
「え……?」
「何だか、やっとまともに話せるようになった気がする。さっきまでは……その、ちょっと元気がなかったみたいだったしね」
元気のなかった理由なんて言うまでもない。ただ、怒ってでも何でもいいから、マランは彼女の元気な返事が欲しかった。
そんなマランの言葉を聞いたイリスは、少し寂しげな表情でうつむくと、
「……やっぱり駄目かぁ。結構『王女様』のフリをするの得意だと思ったんだけどな~~ やっぱり柄に合わないのかなぁ」
そのまま草地に身を投げ出して、そして陽気さをくっつけた声でそう言った。
「お腹は鳴っちゃうしぃ……」
「お腹空いてたら鳴るのは当たり前だよ」
同じように敢えて陽気な声でそう言って、マランも草原に身を投げ出した。
草の感触がこそばゆくて気持ちよくて、思わずそのまま眠りに落ちそうになったが、その辺は懸命にこらえていた。
「……とはいえ確かに、似合わないね。さっきまで、まるで本当に王女様か何かのように見えてたよ」
もちろん知っていて敢えてそう言う。彼女は別に、過剰に気にする素振りを見せなかった。
「私は王女よ、れっきとした、ね……『ハーバル』っていう、本当ならこのバグアレッグ諸島を支配しているはずの王国の、ね」
そして、やんごとなき身分を明かす割にはあまりに緊張感のない、ごく自然な口調で彼女はそう話した。
しばらく間があって、
「『ハーバル王国』? そんな国知らないよ。俺はともかく、この島のみんなはね……ましてや『イリス王女』なんて」
虹の消えた空を見てマランはそう言った。
返事はなかった。
「だから気にする事はないんだ。今までの事はともかく、これからの事はね。それに、今までのことだって……色々あったと思うけどさ、ともかく、細かい事は後でじっくりと気にすることにしようよ」
我ながら元気付けるのが下手だなぁと思った。
相手の心情なんかちっとも分かったもんじゃない。
だけど、昨日会ったばかりのはずなのに、いきなりあれだけの本気の怒鳴り合いが出来て。
ちょっとした掛け合いにも、望んだ通りに応じてくれて。
人形姫のようだったのが、無理矢理にも自分で自分を奮い立たせて。
――そんな女の子には、落ち込んだ姿なんて似合わない。
だって、怒っていてでも何でもいいから、元気な普通の女の子の姿が、王女様然としたものよりもよっぽど彼女には似合っている気がするもの――
「今は、無理矢理にでも元気出さなきゃ、ね」
この少女を何とか元気付かせてあげたい――マランは今、心の底からその事しか考えていなかった。
だから、そのために「冒険者」という存在が役に立つのであれば、今の自分がきっと打ってつけだろうと、そう強引に考えてしまうと――何だか、自分でもとても良い笑顔を彼女に見せられるような気がしてきたのだった。
「行こ、『冒険者』のイリスさん」
「……」
軽く溜息を吐いた少女は、どれだけマランの心意気を理解してくれたのか。
もっと素直に色々慰めて欲しかったのか、それとも何も言って欲しくなかったのか。
――結局彼女はどうとも答えず、何だか小悪魔のようにも見える笑みを浮かべると、眠いはずの頭を何度も何度も何度も横に振り続けた。
振り払いたいものが山ほどあるに違いないのに。
本当は振り払いたくないものも山ほどあるに違いないのに――
「よし、じゃあ行きますか。案内してくれるわよね、『冒険者』のマラン君っ!」
「おう!」
立ち上がって、眠気を無理矢理払う伸びをして、日が高くなった頃ようやく普通に歩き始めるふたり。
程なく海が見え、徐々にいかにもこの地ならではという潮の匂いがし始めた。
崖のような坂の付近に立つと、その眼下、今まで水平線しか見えなかった所に忽然と街が現れた。
そこは港町レノ。
何はともあれ、とりあえず安眠が得られそうな所――
(つづく)