第1話 冒険者を誕生日から始めるふたりの話(3)
走りながらちらりと見上げた空の色は、もう既に赤を通り越して黒く染まりつつあった。
日のある内に港町に着く事などもはや絶望的で、しかもこんな時間に森の中へ突っ込んでいっているのだから、下手をすれば夜明けまでに森を抜けられるかどうかすらも怪しいものになってきた。
当然ながら、森の中での視界も徐々に悪くなっていく――ただ今日に限っては、まだもう少しくらいは灯りがなくても大丈夫そうだった。
それは先程の光のせいなのか、それとも何か他の要因でもあるのか――
とはいえ、たとえ灯りがあったとしても、どちらかといえば危険な生物がいない方だと言われている森だとしても、夜の森がどれだけ危険なのかは、「森の民」でなくても、森と共に暮らす者であれば誰でもよく知る所であり――したがってマランは、徐々に視界を染める暗闇を、あたかもプレッシャーが目に見える形で現れているかのように感じていたのであった。
そんな状態であっても、それでもマランは黄髪の民の少女を必死になって追い掛け続けていた。
――もしくは夢中になっていたのかもしれない。
まるで幻影でも、妖精でも追い掛けているかのような心持ちで。
長い髪を少しだけ振り乱して疾走する少女と、彼女のその左腕に輝けるものに。
彼女の行く先に何があるのか、そこで彼女がどんな無茶をしそうなのか、また例の癖で勝手な考えを錯綜させて。
ともあれ、夜の闇が完全に森を包んでしまう前に、どうにかしないとまずいよなと焦りながら。
――この森がその夜、結局最後まで闇に包まれることのなかった事など、もちろんその時は知るはずもなく――
あまり山道を走るのに向いているとは思えない、足の甲を剥き出しにしたサンダルのような靴を履いている上に、跳ねた泥水で濡れたスカートが足にまとわりついているのにも関わらず、彼女はそんなことなどまるでお構いなしといった感じで、森の中を疾走していた。
多少は密集度の低い森とはいえ、その分雑草や低い樹木の枝などが下半身に絡み付いて来て走りづらいはずの森の中を、彼女は不器用そうに、それでも強引に、必死になって突き進んでいく。
(うわ、あの子、また無茶した走りを……)
往路の道もあんな感じで走ってきたのであろうか。今にもまた躓きそうで、危なっかしいったらない。
マランはその後ろを、心持ち身体をフラフラさせながら、これまた更に必死になってついていく。
身体がフラフラしているのは、慌てて担ぎ上げた肩掛けカバンの座りが悪くて、また左肩に重みが偏っているからだった。
おかげでスピードもあまり出せず、追い着くどころか逆に距離を離されて彼女を見失いかねない状態である。
(くそ、やっぱ背中に背負うカバンの方が良かったかなぁ……)
あるいは荷物をもうちょっと減らしておくとか――
ただ、そう思いはしたものの、結局そうしなかったのは、要はそのどちらも無理だったからなのであった。
そう、幾らひとり旅とはいえ、長旅、それも「冒険の旅」を想定してきた以上、精一杯軽くした所である程度の大荷物になるのはどうにも仕方がなかったのだ。極力手を自由にしようとすると、カバンひとつにギュウ詰めで持っていくのが精々の限界だったし、本当言えば、良くこれで収まったもんだと思うくらいだった。
それから出発後、現在に至っても、簡素な食料一日ちょっと分と、薬瓶および一枚の布切れ分だけしか荷物は軽くなってはいない。今はただ、荷物の重さを恨めしく思うだけだが――とはいえ無事に戻って来られるかすら分からないこの状況、まさか色々と便利道具を詰め込んだカバンを何処かに置いていくわけにもいかなかった。
更に言うなら、カバンの形状も実は少々不満なのだが、強度十分な背負いカバンを作るほどの技などマランにはなかったのだから、これもまた致し方ない所であった。
ならば先程のように一旦立ち止まってまた掛け直せば良いのだが――立ち止まると何だかその瞬間に、木の陰に彼女を見失ってしまいそうな気がしたので、結局の所マランは、苦しそうにしながらも、彼女以上に必死になるしかないのであった。
そんな感じで若干苦戦しながら彼女を追い続けていると、しばらくして突然、見通しのかなり利く森の中に開けた平原に出た。
すかさずマランは速度を落とし、カバンの紐を頭を通してしっかり掛け直すと、今度は急ピッチで彼女の追跡を再開した。こちらのハンデが減ると、流石に慣れがあるからか、あっという間に距離が詰まる。
「ま、待てよ……おい、おいってば……ねぇ、止まりなよっ!!」
疲労からか、再び息が荒くなり足取りも少し重くなってきた彼女に、ある程度距離を詰めた所で何度も声を掛けてみたのだが、聞こえていないのか、それとも無視しているのか――向こうからはまるでこちらへの反応はなかった。
こうなったら無理矢理ふん捕まえてでも止めるしかないか――とマランが覚悟を決めて、更にもう一段加速して彼女に手を伸ばしたその時、
「……ぁっ!」
息の詰まったような声と共に、少女がバランスを崩して前のめりになった。木の根か何かに躓いたのだろうか。
「……とっ……!」
とっさにマランは、同じく身体を前のめりにして、前方の少女を後ろから抱きかかえた。
そのまま反転し、自分が下になると、木の根の間、もう草がかなり伸びている所を転がっていく――「森の民」であれば誰でも嫌というほどやらされる緊急時の怪我防止策なのではあるが、幾らクッション代わりの草がある程度伸びているとはいえ、地面を転がるのはやっぱり結構痛かった。
それでもこの辺りは大きな石がないのか、特にそれ以上硬い出っ張りに当たることもなかったので、幸いな事にただ痛いだけで怪我はなくて済んだようだった。
「っつ……」
一回転半して背中から地面に滑り込むような格好になったマランは、ブレーキが掛かってもなお、痛みのためにそのまま少し倒れていた。一方で彼女は、着地後マランに少しだけ投げ出された格好で、更にもう半回転、都合二回転してうつぶせになった。回転数こそ多かったものの、それでもマランよりもダメージは無かったようで、すぐに起き上がると、一体何が起こったのかといった感じで辺りを見回していた。
――どうやら、とりあえず彼女を足止めする事は出来たようだった。
「……」
その視線が程なくして、頭を振って背中をさすってようやく起き上がろうとするマランに向けられた。
「う、いってて……」
「っ……」
「あっ……」
気が付くと――視線が合っていた。
初めてはっきりと見た、黄髪の民の少女の顔。
笑ってはいなかった。
怒っているような、心配しているような、そんな、とても不安定な表情をしていた。
その表情には、見詰めるこちらの心をも、不安定に揺らがせるような力があった。
髪の毛にも顔にも幾つもの泥の跡が付いてなお、少女は綺麗だった。
この年代の少女らしい、いやそれ以上の可愛らしさもあった。
真っ直ぐに自分を見詰める蒼い瞳の光が、まるで何かの宝石の輝きのようにも見えた。
――寂しげだった。
それらを含めて、何処か気高いような、不思議な雰囲気を持っている気がした。
改めて、あの時彼女から感じた、違和感に似た雰囲気の要因は、やはりただ単に「珍しい黄髪の民の少女だから」というだけではないように思えた――
「やっぱりその声、さっきの……」
彼女は呟くようにそう言うと、左腕にそっと右手を置いた。
先程からマランに向ける視線は鋭くはあったのだが、冷たいものではなかった。
その瞳が訴えるのは、一見すると自分を無理矢理に引き止めた事に対する非難のようにも感じられたのだが――再び転倒しそうになったのをマランに助けられたからか、口に出してそれを言おうとまではしなかった。
ふと、彼女は一瞬だけ苦痛に歪んだ顔を見せると、薄く血のにじんでいる包帯をそっと撫でた。
それを、その瞬間を――マランはじっくりと見てしまった。
(……)
そう、ほんの一瞬だけだが、苦痛の表情の後に、わずかに彼女の顔がほころんだような気がしたのだ。
そしてその瞬間――彼女のその表情に、マランはまるで吸い込まれるかのように魅入られてしまった。
想像していた通り――それはとても心地よく、透き通るような気分だった。
――強く、惹き付けられる想いがした。
「何で、わざわざ付いて来たの?」
彼女は先程と同様に、ぶっきらぼうにそう話した。
まるで必要のない言葉など話したくないかのように。
――だとすれば、挨拶も何もなしにいきなり出てきたこの言葉は、彼女にとって「必要」な言葉なのだろうか?
気が付けば、彼女の視線には元の鋭さが戻っていた。
「何で付いて来たのよ……危ないのよ! 分かってるでしょ? あなた死ぬつもりなの!?」
彼女の次の台詞は、途中から急に激しいものになった。
これは、ひょっとして、こちらの事を心配して言ってくれているのだろうか――彼女の表情に惹き込まれ、ほんの少しぼんやりしていたマランが、我に返って最初に思った事がこれだった。
最初の言葉と似ているようで、それよりもずっと素直な言葉。
そしてそれは――本当なら、自分が彼女に言うはずだった言葉。
それを先に言われてしまったので、どう答えて良いものか途端に返事に困ってしまう。
そんなマランの態度を無視されたものとでも感じたのか、彼女は更に言葉を続けてきた。
「ちょっと聞いてるの? 危ないから早く逃げなさいよ……私の事、邪魔しないで!」
「いや、邪魔するよ」
振り向いて立ち去ろうとした彼女に、マランは思わずそう言い返していた。
「邪魔しないで」の言葉に、つい反応してしまったのだ。
ただ、最初はこんなに強く言い返すつもりまではなかった。
だけど、彼女の拒絶があまりにも強引で、彼女自身、自分が何をしようとして、その結果「どうなりそうなのか」が分かっているように見えたから――なおのこと、彼女を止めなければいけない気がしてならなかったのだ。
「心配してるんだよ、こっちは。……君を、止めに来たんだよ!」
だから、マランは彼女にはっきりそう言ってしまった。その右手をしっかりと掴んで。
――でも、どうしてだろう?
彼女はついさっきまで、まるで憧れの妖精のようにも見えた存在だった。
近づきがたいほどの神々しいような雰囲気すら感じていた。
でも、その彼女が自分を振りほどこうとしているその手を、マランは今、強引にひっ掴んでいる。
――そんなことがどうして出来るのだろう?
普通に考えれば、非礼であるし、大袈裟に言えば、恐れ多いような事にさえ思えるのに。
――多分それはきっと、彼女がマランを多少なりとも意識していると感じたからなのだろう。
きっとこちらを「無視出来ない存在」として考えてくれているから。認めてくれているから。
というのも、彼女の言葉には――彼女自身の事を言ったのにも、その彼女の手を強引に掴んで引き止めようとしている人間の事を言ったのにも、率直で、そして何だか素直そうな心が見え隠れしているように感じられたから。
――いや、本当にそうなのか?
やっぱりこれも、いつもの悪い癖の、都合の良い妄想じゃないのか? 彼女は本当にただマランを邪魔者としか思ってなくて、ただ単に適当にあしらう事が出来ないでいるだけじゃないのか?
――いや、違う。絶対に違う!
彼女の目が、こんな目をしてこちらを見る人間が、やっぱりマランを気にしていない訳がない。
彼女の目を見る前から、それは何となく確信していた事じゃなかったのか――
もうこうなったら、思い切ってあくまでも彼女を信じてみるしかない。
ここまで来た状況で、下手なためらいも、つまらない後悔もしたくなかったから。
だから、マランはキッと少女を見詰め返し――
「危ないのはそっちの方じゃないか!」
――彼もまた、思った事を、思ったままに真っ直ぐぶつけてみたのだ。
「せっかく逃げて来たのに何でわざわざ森に戻って来ちゃうんだよ! 何の意味もないじゃないか! だいたい親御さんにそう言われたんじゃなかったのか? だったらそれを信じ……」
うぐっ。
マランは突然喋れなくなってしまった。少女が突然マランの口を手で塞いだからだ。彼女はそのままマランを引きずって、腰をかがめて近くの茂みの陰に隠れた。
一瞬力が抜けてしまったのは、不意の行動に驚いたのと共に、白い手のひらのほんのり冷たい感触に心地良さを感じてしまったからだった。
「静かにして。……この辺り、まだ兵士達がいるはずだから、あまり大声は出さない方が良いわ」
彼女は突然冷静になってそう言った。御互い身体が向き合った格好にはなったものの、それでも彼女は下を向いて顔を少し背けたまま、マランとは目を合わせようとしなかった。
やはりマランが親の事に触れたせいであろうか。
「……兵士?」
だがマランはその時、彼女の手をそっとどけて、小声でそんな事を言った。
彼女の様子の変化を見て、流石に彼もこれ以上ケンカ腰になる気は失せてしまったのだが――それとは別に、先程からずっと引っ掛かっていた、とある漠然とした疑問が、彼女のその台詞のおかげでふっと頭の中で具体化されたのである。
そう、この島には、確かに治安維持のための自主的な警備隊のようなものが街や各村ごとにいるにはいるのだが――誰か権力者の下に付いている「兵士」という者は存在しないという事を。
「ええ……」
彼女は更に頭を落としてそう言った。
その落ち込んだ様子は、怖がっているというよりもむしろ悲しんでいるという感じだった。
その様子を見て、ある事を確信したマランは――確かめるように、呟くように、言ってみたのだ。
――ある意味賭けにも等しい、とある一言を。
「それは……ハーバル王家の、なの?」
「……え!?」
彼女は突然頭を上げ、驚いた表情でマランを見詰めた。
声こそ抑えめではあったが、それでも彼の一言に相当驚愕したようであった。
だが、言ったマラン自身も、少女の思った以上の反応に逆に驚き戸惑ってしまい――その彼女からの視線を少しそらして、若干間を持った。にわかにまた高ぶってしまった、自分の気持ちを落ち着かせるために。
「ど、どうしてそれを……」
対して彼女はそう言い掛けて、はっとして口ごもる――が、遅いと自分でも分かったのか、すぐにその素振りをやめて、無言でマランの次の言葉を促した。
「やっぱりそうだったんだ、そのブレスレットの紋様……」
落ち着いた口調で、マランはその促しに応じる――その心中は、未だにまったく穏やかではなかったが。
それでもマランは、自分でも驚くくらいに今の自分が「冷静」になっていると感じていた。
あの「紋章」を見た時にはっと気が付いた事。そして、それを確信した瞬間。
本来飛び跳ねても良いくらいの驚きと興奮を、しかしマランはあっという間に自分自身の手で強引に圧し潰していた。
今までただの妄想だったものが、推測になり、確信になり――そしてついには現実になった瞬間だというのに。
ただ、今は手放しで喜ぶような場面ではない――心の中で即座に判断したその意識が、彼自身をそこまで律していたのだった。
それもまた、彼が心から「古の冒険者」に憧れていた事の表れだったのかもしれない。
(じゃあ、ひょっとするとこの子は……いや、この人は……)
ともすると暴走しかねないほどなのに、それでも何とか回っているらしい頭で、マランは更に考えを巡らせる。
もし彼女の正体が自分の思った通りなら――なるほど、道理で彼女が何となく普通とは違う感じがするはずだった。
だけど、それがあまりにあまりな事なので、流石の彼もどうにも確信が持てず――とはいえ、抑えている別の気持ちの事もあって、やはりそこまでは彼女にはどうにも言い出せなかった。
その彼女と再び目を合わせた時、彼女の自分を見る目がまた少し変わっているのに気付く。
これ以上思った事を思ったままに口にしていたら、別の意味で彼女が逃げて行きそうに思えたので、マランはとりあえず自分の憶測については置いておき、今はこの場を凌ぐ事だけを考えることにした。
「ともかく、やっぱり今は逃げなきゃ駄目だよ」
そう、こんな所でじっとしてもいられないのだ。
と、マランの表情が急に険しくなった――何かおかしいことがあると直感し、少し考えて、それが先程から辺りの明度が落ちていないことであると分かったから。
それと同時に、鼻腔を刺激する強い臭いにも、この時やっと気が付いた。
慌てて見上げると、空はまるで闇になるのを拒絶しているかのように、微妙に赤暗い色彩のままだった――もう、とっくに日は暮れているはずなのに。
そしてマランは、そんな状況に、何だかとてつもなく嫌なものを感じ始めていた。
とにかくその不安から逃れようと、彼は少女の手を取って、ぐいっと引っぱる。
――その瞬間、不安げな表情のままだった彼女は、はっと意識を取り戻したかのように、ぐいっとその手を引き戻した。
その瞳には、強い意志が戻っていた。
「……ダメ。駄目なの。……まだ、母がいる……」
――既に予想はしていたものの、やはり聞きたくない言葉だった。
もちろん「やっぱりそうだったんだ」だなんて、とても言えなかった。
彼女だってもう、マランがその事を勘付いているのを、きっと察知しているはずだから――
「……」
しばらくマランは無言で少女を見詰めていた。
すると不意に、しばらく脇に置いておいた、とある「別の想い」がにわかに湧き起こってくる――徐々に彼女の視線に照れを感じなくなってきたからだろうか?
マランは、手を離した。
「……」
彼女は、俯いたまま、動かなかった。
「……行けないよ、やっぱり私」
呟き。
彼女もまた冷静さを取り戻しつつあるのか、それはマラン同様、一見非常に落ち着いた様子で――
「あなたは、危険だからってわざわざ私を引き戻しに来てくれたんでしょ? はっきりそう言われた時、ホントはちょっとは嬉しかったんだけど……だから、やっぱり逃げようかなって、そうも思ったけど……」
――されどやはり、まだ困惑交じりで、目に涙をにじませながら、そして時々笑顔すら見せながらの、彼女の「心の言葉」そのものであった。
「でも……それでも、やっぱり私はお母様の元へ戻りたい。たとえどんな事になろうとも……」
――そしてまた、笑顔。
「どんな事になろうともって、君は……?」
ドオオオオン――!!
その時、向こう側から突然の大音響。
視線を合わせていたふたりが同時に振り向いて音の方向を見る。
森の奥。ここから割と近い場所だ。
――爆発だった。
ともすると森に沈む夕日と見間違えそうなほどの、わずかに見える暖色の光。だがそれは、一見似てはいても、やはり確実に違う色あいを持った紅蓮の炎であった。
もうとっくに日が暮れているはずなのに、辺りが暗くなり切らなかったその訳。
マランが薄々不安に感じていたこと。
森の奥でわずかに見えていただけだった炎が、あっという間に激しく渦巻くようになった。
そして次の瞬間、爆発によるものと思われる熱気が一気にここまで伝わってきた。
何が起きたのかはよく分からないが――少なくともこれはもう、焚き火などとはまるで次元の違う「何か」が起きている事には間違いが無かった。
ぱしっ。
バッと飛び出そうとした彼女の手を、今度こそマランはすかさず掴む。
「放してよ、お願い!!」
彼女の言葉は再び強いものになっていた。
彼女は特に無理に抗おうとはしなかったが、涙目のままのその表情の方が、マランにはよっぽど痛く感じた。
それでも今度ばかりは彼女の手を放さなかったマランだが――流石にこれ以上きつい言葉を彼女に掛ける気は起きなくなっていた。
「……また無理に突っ込んで、今度こそ本当に兵士とやらに見つかったら、一体どうするつもりなの?」
代わりに彼女に掛けたのは、幼い子供に諭すような言葉。
でも案の定、返事は無い。
ただ、その表情に明らかに不安の色が浮かんでいたのを見て取って――マランはついに、とある「覚悟」を決め、そして思い切って彼女にこう言った。
「……分かったよ。俺が兵士に見つからないように奥へ案内するよ。今まで『ラナの大樹』の近くに行った事はないけれど、それでも少なくとも『森の中』には違いないから、慣れてる分、多分君よりはうまく走れると思う」
「……え?」
そんな顔をされるほど、意外な事を言っただろうか。
こちらとしてはもう、あの猪突猛進振りが見ていられなくなっただけの話なのだが。
もちろん、それだけではない想いも、この「提案」の中には多分にあったのだけれど――
最初の光と今の爆発。
恐らくは関連性があるだろう。
そして――そして多分、彼女の様子から、彼女の母親がその「原因」を作ったのには間違いない。
先程の「光」と彼女の様子から得た確信――もちろん、具体的にどうこうなど分かりはしないし、それにある意味どうでも良いことでもあるのだが。
ふと思う――ひょっとして、彼女の母親は初めからこうするつもりで……? と。
そこでマランは首を振った。
冗談じゃない、と。
ともあれ、この状況で兵士達に混乱が生じてないはずはない。今急げば、ひょっとしたら何とかなるかもしれない――それが最終的にマランの出した、今の精一杯の善処策であった。
――可能性を信じるしかない。
マランは今までよりも若干スピードを落としつつ、されど物音をあまり立てずに、周りの様子に気を配りながら、低い姿勢で慎重に森の奥へと進んでいった。
この走り方は、普段は狩りの時に獲物に近づくためのものなのだが、今は狩りの季節も外れているし、それに大きな手荷物だってあるし、更には後ろに付いてくる人間までいるのだから、いつもとは大分勝手が違っていた。
それでも相手だって現場の混乱もあろうから、それで相殺されてまだ見つかりにくいだろうと都合良く思うしかなかった。
そして彼女は、やや戸惑いながらも、それでもマランの後ろを懸命に付いて来てくれていた。
向かう地点の目印は赤。
炎の赤。
明るいのから暗いのまで、無数の色合いを持った赤。
それは今や、辺りの森を焦がし、大地を焦がし、そして疾うに夜のとばりが降りたはずの空をも赤く焦がしていた。
その赤い渦の中心に、巨大な樹があった。
マランの心の中にあった、もうひとつの予感――やはり爆発元は『ラナの大樹』のほど近くからであった。
大樹が燃えている。初めて間近で見る事になった不思議な大樹が。
夜であってもなお緑の映えていたこの大樹が、緑色以外の色をしていたのを、マランは初めて見た。
よく見ると、既に燃え尽きたと思われる場所が黒変していた――ただ、恐らく二度と緑色の姿を見せる事はないであろうその樹は、それでもなお形だけは少しも崩す気配を見せなかった。
現場が近くなるに従い、熱風もそれに応じて強まってきた。
火力は相当に強く、その内何処かに更に燃え広がって、この森の一区画を炎で包むのに十分な威力があるように思われた。
やはり時間はない。
大樹の周りは一面剥き出しの土や草地ばかりなので、まださほど火が燃え広がっていなかったのが幸いだった。
「何処なの? そこは?」
周りを見回し、人の気配を確かめながら、マランは端的にそう言った。
敢えて具体的に聞く必要はない――彼女は今、誰よりも母親に会いたがっているのだから。
その母親はというと、どうやら彼女を逃がしただけで、自分は逃げていないらしい。
なので、彼女の指す所は、自然と彼女自身が先程逃げ出した場所という事になる。
だが、そこには――
「……!」
目を見開き、呆然とする彼女。
炎の間近まで来て、マランに懸命に付いて来ていた少女の足取りは急激に重くなった。
と、彼女は歩きながら、目の前を力なく指差した。
そして差した指が震えたかと思うと、二の腕ごと手が下がってきて、足が止まって、その内に腕から肩ごと力が抜け、膝が折れ――ついには力なく跪いてしまった。
疲れからだけではなかっただろう。
彼女の差した指の方向、そのすぐ先。
『ラナの大樹』の根元付近には、やはり話に聞いた通り、柵がぐるりと大きく張り巡らされていた。
ただ、その柵は既に大樹と共に激しく燃えていて――そしてその先に、恐らくは柵に繋がった形であったろう、ほとんど全壊に近い状態の、つい先程までは一軒の森小屋であったろうものが見えた。
見た所、未だ炎の勢いが一番激しいと思われる場所――そう、彼女の指差したのは、正しくその森小屋だったのだ。
「おかあ、さま……」
跪いたまま、涙を伝わせて、彼女が静かに呟く。
ここにきて、とうとう彼女の前にはっきりと突き付けられた絶望。
彼女の心の中はただ空虚さだけが占めていたに違いない。
その姿はあまりにも無防備で――ともすれば、このまま死すらも受け入れかねないくらいに弱々しく見えた。
そしてそれを――マランは複雑な思いでじっと眺めていた。
自分自身の事に照らし合わせて同情しようとして、なかなか合わない自分に対する苛立ちすら感じていたのだ――
「もういい、捜すな。これ以上いては我々も戻れなくなってしまう。やむを得ぬ、引き上げるのだ!」
「……!」
背後からの突然の声に、マランは慌てて、力なくうずくまる彼女を無理矢理ぐいっと引っ張って、今にも火が燃え移ろうとしている近くの低木の間に飛び込んだ。
「……」
木々の隙間から様子をうかがうと、そこには今まで一体何処にいたのか、かの「兵士」と思しき武装した男達が何人も集まってきていた――ようだったのだが、思ったよりも人数は集まっていない。程なく全員揃ったようだったが、それでもその数は結局十人にも満たなかった。
(あれ? 全部でたったこれだけしかいないのか?)
それを見たマランの第一印象はこうだった――兵士というものを初めて間近で見たマランだったのだが、その印象は物の本で見たものとは随分格差があるように思われた。ただの一個小隊なのだろうか? どうもそんな感じにも見えないのだが。
(……なるほどね。たったこれだけしか人数がいないのに、見も知らぬ森の中にバラバラで捜しに行ってたんだとしたら、そりゃ見つからなかったのも道理だよな……)
むしろ集合地点にちゃんと戻って来れただけでも立派なくらいである――ただやはり、どの兵士も捜し疲れたのか、それとも捜し出せなかったショックからか、皆一様にうな垂れているように見えた。格好は流石に王家の兵士といった所か、皆かなり立派なものではあったのだが。
胸の辺りには、何かの模様を模った、外枠のない、やや横に長い紋章があった。
そしてその模様は、やはり少女の左腕のブレスレットにあったものと同一であった。
もちろん言うまでも無く――自分の持つ「本」の中表紙とも。
「!」
突然マランは背中に人の感触を得た。
驚いて後ろを見ると――少女が自分の背中に、酷く怯えた様子でしがみ付いていた。
「え……?」
驚くと同時に、今までにないほど当惑するマラン。その柔らかく、温かい感触に。
だが、今回もその感情は、表に出る前に、彼自身の意思で無理矢理押し込められる事になった。
彼女は震えていた。我を忘れるほどに、ただ恐怖に怯えているような感じだった。
その彼女の肩に、そっと手を置く――それがどれだけの気休めになるのかは分からないが、それでもとっさに頼られた人間の義務として。
ガサッ――
と、そこへすぐ近くから草木を掻き分ける音が聞こえてきた。
とっさにマランは震えている少女を庇うように抱きかかえながら、身構えて警戒する。
目の前に現れたのは、背の高い男だった。
黄色いような、茶色いような色をした髪の毛。
そしてマントも鎧も黒尽くめの、とても威圧感のある人物。
腰にはこれも漆黒の、剣の鞘にしては筒状過ぎるような、不思議な形をした、何か武器らしきものを提げていた。
ここの兵士達のリーダー格であるのは、一見して間違いなかった。
しかし、炎に照らされたその顔は、勇猛そうな髭を蓄えているにも関わらず、生気がまるでなく、何だか憔悴し切っているような感じであった。
マラン達に気付くこともなく、足を重く引き摺って歩く彼は、すれ違う間際、すぐ近くのマランでさえも聞き取れるかどうか分からないくらいの、微かな、微かな声でこう呟いたのであった――
「イリア……イリス……な、ぜ……何故なんだ……こ、こんな……」
ギュッ。
先程から震えの止まらない少女は、その微かな声を聞いた瞬間、悲鳴か何かをかみ殺すかのように、マランを掴んでいたその手に思いきり力を込めた。
「……イリス……」
絞った声で、呆然自失状態の大男には間違っても聞こえないように、呼びかける相手にすら聞こえないのではないかというくらいの小さな囁き声で――
マランは、その少女の名前をそっと口にした。
二度目だった。が、一度目とは言葉に含む意味がまるで違っていた。
「……」
マランに視線を向けた少女の震えが、ほんの少し収まったように感じたのは気のせいだろうか。
少女は更に強く、マランにしがみつくように体を預けてきた。
(……イリス……)
ふとマランは、先程の男が現れて以来、兵士達が物音をまったく立てなくなっていたのに気が付いた。
もう一度、木の葉の陰から片目だけでそっと広場を覗き見る。
目に熱風が当たり、痛いくらいに熱かった。
見ると、先程の男は兵士達の前まで辿り着くも、まだ何も言わずに呆然としているようだった。
その側に、参謀らしき、これも一般兵とは少し違う形状の鎧を着た、やや高齢の人物が近寄って来た。
「さ、参りますぞ、王。……ここはやむを得ません。こうなった以上、姫様が……イリス王女様がご無事でいらっしゃる事を信じると致しましょう」
「王」と呼ばれた黒衣の男が、無言でうな垂れる。
「恐らくは……もし姫様があの腕輪を既にしていらっしゃるのであれば、今はもう見つける事は困難でございましょう。こうなった以上やむを得ませぬ。今はむやみに捜そうとはせずに、三年後……そう、三年の後、姫様が覚醒なさる時を待つのです。その時にはきっとまた……それに王にはまだ、それまでにやらねばならぬ事が残っておりまする」
「……!!」
マランはその言葉を聞いて、ただ固まるのみであった。
確かに今までにも既に数多くの驚くべき事が起こってはいたが、それでもなお、この言葉には更なる驚きを禁じ得なかったのだ。
たとえ自分の予感がどんなに的中していて、かつ既に確信を持っていたとしても、である。
――だが、その興奮めいたものの冷めやらぬ中、何とそれをも上回る更なる驚愕が、その後に待ち受けていたのであった。
「我らハーバル騎士団、たとえ多くの者を失おうとも、たとえ最後のひとりになろうとも、最期まで王のお命だけはお護りし、必ずや我らが故郷に王をお連れいたしまする。全ては王の、そして王家の復活のため。『虹水晶』の加護のあらんことを! ……行くぞ!!」
兵士達は突如一斉に吼え叫んだかと思うと、呆然としているマランの目の前で――何とあの燃え盛る炎の中へ、王と呼ばれた男を取り囲む形で猛然と突っ込んでいったのである!
「やめてぇ~~~~っ!!」
彼らが炎に消えようとするその瞬間、自分の背後で立ち上がって叫ぶ少女の姿があった。
と思ったら、またしても彼女は隠れていた低木の陰からいきなり飛び出し、ほぼ燃え尽きた柵の跡をも跳び越えて、炎がすぐ側まで来ている、大樹の目前の平原にまで走って行き――そして、そのまま立ち尽くした。
マランも慌てて側に駆け寄る。
もはや熱気は容易に堪えられるものではなかった。
彼女の目からはまた新たな涙が零れていた。涙は頬を伝って、雫となって、熱く乾き始めた大地に幾粒も落ちた。
先程のように茫然自失として跪きながらではなく、今度はしっかりと立ち尽くし、何かを訴えかけるかのように、彼女は真っ直ぐ『ラナの大樹』を――いや、その根元から巻き上がる炎の渦に消えていった兵士達をじっと見詰めていた。
「やめて……お父様……もう……」
呟くように二言目を口にした彼女の肩は震えていた。
跪く事も、涙を拭う事もしなかったが、彼女の足からはまた力が抜け始めていた。
――その時突然、紅蓮の炎に包まれていた『ラナの大樹』が薄く、白く煌びやかに輝いた。
ぐおん……
風の吹き抜けた音にしては不可思議で、されど何処か心地よい響きの不協和音――それが『ラナの大樹』から聞こえてきたかと思うと、音も輝きもすぐに失せ、それきり今度こそ炎の中からは何の反応もなくなった。
彼女はただ、呆然とするのみであった。
「……」
「……」
ほんの一瞬。ふたりとも何も言えず、どうする事も出来ずに――ただ燃え盛る炎の音、何処かで倒れ弾ける小枝の音、むせ返りそうになるほど強烈な生木の燃える煙と臭い、いよいよ手の付けられなくなった炎の赤、何よりもこのままいると顔面から焦げてくるのではないかと思われるほどの熱風――それら全てをただ全身で感じていた。
――彼女は、このまま森と共に、母と共に、そして、もしかしたら父やその家来と共に、この地で果てるつもりなのであろうか?
彼女の背中を見ていると、話しかけるのはどうもはばかられたのだが――それでもその事だけは今すぐに聞かなければならなかった。
「行くよ、イリ……」
先程の「イリス王女」という言葉を思い出し、彼は「イリス」で言葉を切るのをためらってしまった。
今目の前にいるのは――今までも大よそ見当の付いていたことではあったが、それでもやはり――紛うかたなき一国の王女なのである。
つい先程までは、今から思えばとんでもない無礼を働きながら彼女に接していたのだ。
あの参謀の言葉に、急に相手の「地位」の事を意識し出した時――その彼に出来た事といえば、ただ言いよどんで、相手の出方をうかがう事だけであった。
――それにしても、自分が話に聞いた事のある、まるで動く人形のような存在のか弱いイメージの「王女」というものとは、彼女はあまりにもかけ離れているな、とは思いながら。
とはいえ、やはり王女は王女なのである。
この状況で、これからの事を絶望視し、また己の誇りのためにも――このまま死を選ぶ事だって十分あるよな、とその時マランはそんな事を考えていた。
その場合――自分もやはり焼け死ぬしかないのかな、と。
そして、まぁ、即席の従者も悪くないかな、とも。
もちろん、これだって結局は「彼女が望めば」であるのだが――
「『イリス』でいいわよ、マランさん……それで、何処に逃げるわけ? やっぱり元来た道を戻るわけ?」
こちらにずっと背を向けたままの王女の返事は、意外なほどしっかりしたものだった。
目の前の惨劇を、たとえ臨時にであっても、どうやって心の中で整理したのか――振り向いた顔には涙はもうなかった。
それどころか、むしろ今まで見た中で、一番穏やかそうな顔にも思えたほどだった。
そしてそれを、彼女が自分を信頼している証と感じたマランは――その瞬間、ためらいを何処かに捨て去ってしまい、先程同様、彼女に自然に接する事が出来るようになっていた。
「俺も『マラン』でいいよ。……どうやらもう、元来た辺りまで火の手が回って来たみたいだ。こっちだよ。近くだけど川向こうだから火事はやり過ごせると思う。急ごう!」
そう言いながら手を取ったのに、深い意味はなかった。
ただ、今度こそはぐれると取り返しの付かない事になるだろうと思って、そうしたまでの事だった。
――だから、その時しっかりと手を握ってきたのは、むしろ彼女の方だったのだ。
洞窟の中。
川向こうの大火の様子を、膝を抱えてぼんやりした表情でイリスは眺めていた。
ここまで逃げてきてようやくそれと認めることの出来た夜の闇。ただ森の上空付近だけは、炎の明かりがはっきりと暗い闇夜を赤く染め上げているのが、ここからでも良く見えた。
彼女はマランに手を引かれて、一面の炎の中、辛うじてまだ通れそうな部分を縫うようにして、何とか火災現場から逃れてきた。
ひとりで彷徨っていた時には、何処をどう通ってきたのかまるで分からなかったであろう彼女の目には、何の迷いもなく森を進んでいくマランが多少は頼もしく映ったのであろうか――彼女は先程同様、大人しくマランに引っ張られるままに付いて来たのであった。
そうして炎と夜とをやり過ごすつもりでやってきたこの洞窟だったのだが――振り返ってみて、『ラナの大樹』とその付近の炎がここからでも良く見える事が分かると、彼女は中に入らずに、洞窟の入り口にしゃがみこんで――それからもう何時間も、ただひたすらにじっと火災の方向を見ていたのであった。
しんとした夜の森に、パチパチという木々の爆ぜる音と小川のせせらぎとが、不思議なほどに安らかなハーモニーを奏でていた。
この辺りに流れる川は何処も緩やかで浅いのだが、川の幅自体は広く、森をはっきりと区画分けするように貫いて流れている。
だから一度川さえ越えてしまえば、もう炎を恐れる心配は無かった。
『ラナの大樹』のあったあの辺りは残念ながら燃え尽きるかもしれないが――この川の流れの区切りのおかげで、森全体が焼け野原になる事はないはずである。
この洞窟は、以前マランが村に帰る時に、ちょっと森を散歩した際にたまたま見つけたものである。少しでも早く安全な場所へということで、街道に出る方よりもこちらの方へと逃げてきたのではあったが――川沿いのおおよその位置しか憶えていなかったはずなのに、我ながら良くここまで辿り着けたものだと、彼はひとりで感心していた。
もっとも、逃げている時はただ夢中で、自分の感覚を体内にあるコンパスのようにして、半ば闇雲に逃げて来たのではあったが。
最初はひとまず安全な洞窟に逃げ込んで、少しでも休息を取るつもりだったのだが、イリスが入り口で膝を抱えてじっと炎の様子を見ている以上、マランも休む事が出来ず、また休む気も起きないまま――そういえば今、夜だったんだよなと今更ながらに思いながら、炎を、『ラナの大樹』を、そしてそれらをじっとに見詰めるイリスを、その更に後ろからマランはぼんやりと眺めていたのであった。
ふたりとも、洞窟に逃げ込んでから一言も話していない。少なくともイリスがああしている以上、マランは自分から話し掛ける気は起きなかった。
このままぼんやりと朝がくれば、燃やせるものを全て燃やし尽くして自然鎮火すれば、何かが起きるのかな、などと漠然と思いながら――
「つ……」
突然、イリスがうずくまって左腕を右手で押さえた。
「どうしたの?」
マランが近寄って、イリスが押さえている左腕の付け根、黄金のブレスレットのすぐ上の部分を覗き見た。
いかにも適当にくくりつけた感じの白い布切れが、何時の間にか赤黒く染まっていた。
一見包帯のように見えたそれは、少し前にマランが渡した、あの白い布切れだった。
(そっか、こんな所を怪我していたんじゃ、ひとりで包帯を巻くなんて簡単には出来ないよな……)
しかもあの時は藪の中で、おまけに逼迫した状況だったのである。辛うじて布を巻けただけでも大したものかもしれない。
「……この薬、頻繁に取り替えた方が効くんだよ」
イリスの手当ての不恰好さを、さも気にしていないかのようにマランはそう言うと、これまた辛うじて持ってきていた自分のカバンの中から新しい薬と布を取り出し――そして彼は「古いの、取り替えるよ」と言って、さしたる抵抗も見せなかった彼女の腕から赤黒い包帯を取り外した。
(うわ、これ……)
間近で初めて見た彼女の傷は、範囲こそ小さかったものの、まるで何かでえぐり取られたかのように、皮膚の下の方の部分まで痛々しく露出していた。
「これ……?」
どうしたのと、思わず聞こうとした時、布をはがしたからと思われる彼女のとても痛そうな表情を見てしまい――マランは慌てて質問をやめて、薬を傷口にしっかりと塗り、ずれないように丁寧に布で固定した。
「もう、大丈夫だよ」
鎮痛効果も持っている特効薬を塗り終えると、しばらくしてようやく彼女も落ち着いてきたようだった。
ひょっとしたら今の今までずっと痛みをこらえていたのかもしれないと思うと、マランは自分の鈍感さを少し悔やんだ。
一方の彼女は、ぼんやりとそんなマランの様子を見ていたかと思うと、再び膝を抱えて塞ぎ込んでしまった。
「ごめん……なさい……」
顔を膝にうずめながら、微かな声でそう呟いた。
きっと色々な意味を含めた言葉なんだろう。
「……」
マランは隣にしゃがみ込むと、何とはなしに先程の彼女のように空を見ていた。
「やっぱり、巻き込ん、じゃって……」
うずくまったままの彼女は、今までずっと探していた何かの言葉が結局見つからなかったかのように、少し間を置いて、ただそれだけを謝った理由として口にした。
「せっかくの誕生日……何だか悲しい日になっちゃったね」
マランはそう言葉を返した。こちらも色々考えて、結局出て来た言葉がこんなものであった。
そう、お祝いのプレゼントを貰うどころか、イリスは今日、あまりにも多く、そして大きなものを失ってしまったのだから――とはいえ、やはり今のは少々無粋で格好付けの台詞だったのかもしれない。
「これ……」
それでもイリスは特に気にした様子も見せず、気だるげに頭を少し起こしてそう呟くと、傷口のすぐ下をそっと抑えた。
あのブレスレットだ。
金で出来ているような色をしているのだが、何だか先程見た時のような輝きがすっかり失せてしまった気がする。
王家の紋様らしい印の彫り抜かれたその中央には赤い宝石が埋め込まれていたが、これも輝きはほとんど無くなっていた。しかもよく見ればそれは、宝石にしては不自然なほど薄く平らだった。
「十七歳の誕生日にって貰ったプレゼント……これがこれから先、私が生きていくのに必要だって、母が自分のはめていたのをはずして……その時……」
ここまで言うと、イリスは再び膝に顔をうずめてすすり泣いた。
今は、これ以上何かを聞く気にはなれなかった。
それでもマランには、今の彼女の言葉でひとつだけ、はっきり分かった事があった。
それは、イリスに贈られた一番のプレゼントの事。
もちろんブレスレットなんかじゃない。
――それは多分、イリスが生き延びること。
そう、「彼女の生」そのものが、彼女の母親から贈られた一番のプレゼントだったのだ。
そしてそれはどうやら、彼女の母親が自らの命と引き換えに、ブレスレットと共に護り抜いたもの。
――だけど。
まだ確証は無いけれど――恐らくはその彼女の命を脅かし、そして彼女の母親の命を奪ってしまったのもまた、あろうことか彼女の同じ――
ぽつん……ぽつん……
突然水の跳ねる音を聞いて、ふたりとも顔を起こして空を見上げた。
見ると、白々と夜が明け始めた薄明かりの中、何時の間にか雨雲が上空を覆っていた。
上空の空気が大火によって暖められたせいだろうか。辺りは見る見る内に激しい大雨になっていった。
その様子を、ふたりしてじっと見ていた。
大雨によって、既にくすぶり始めていた火の勢いが瞬く間に衰えていく。
そして火が衰えていくのに合わせるかのように、激しいにわか雨もその勢いを徐々に弱めていった。
「……!」
「あっ……」
と、ある程度雨の勢いが衰えた所で、イリスが突然洞窟を飛び出した。
マランもカバンを肩にしっかり掛けて、慌てて追い掛ける。
川を越えた先――昨晩までとは違い、あまりにも綺麗に全てが燃え尽きて、酷く開けてしまった感じのする焼け野原の中。唯一目立つ何やら黒く変色した物体目掛け、何処か不安げな表情で、それでも迷うことなく彼女は走っていく。
――が。
「……」
辿り着いたそこにあったのは、ただ、すっかり焼け焦げてしまった大樹だけであった。
辺り一面の黒い大地には、人どころか、先程まで辛うじて残っていたはずの森小屋も、柵も、まるで始めから何もなかったかのような光景が広がっていて――今はただ一本、色以外はほとんど変化のないように見える大樹だけがそこにあった。
「……」
せっかく乾いたのに再び水に濡れたスカートの裾を、またも大して気にもせずに、呆然と立ち尽くイリス。
まるで昨夜の事が全て幻だったかのような、ひたすら黒一色に広がるだけの光景をじっと見詰め続けて――
「……」
イリスはうつむいて、何も言わなかった。
ただ、今はもう足元は少しも力が抜けることが無く、泥のまだ残る靴で、しっかりと黒い大地を踏みしめていた。
長く、長く――雨雲が去り、上空が朝の心地よい青空になるまで、イリスは、そしてマランは、微動だにせず黒い大地に立ち尽くしていた。
――風が、吹いた。
やや湿っぽかったが、それでもそれは、春終わりの頃特有の爽やかな風だった。
「やっぱり、私もなっちゃったみたいだよ……『冒険者』に」
やっと振り向いたイリスは、目に涙を浮かべながら――それでも、笑っていた。
彼女の十七歳の誕生日は、悲劇に包まれ、そして今までの彼女の人生に終わりを告げる日になってしまった。
だが別の見方をすれば――無理矢理にも好意的に見るならば、昨日はまた、彼女の新たなる人生の始まりの日でもあったのかもしれない。
少なくとも、今後によっては――
「一緒に港町に、行く? 冒険者だったら、まずはそれなりの準備を整えないとね」
悲しみを無理に抑えつけたのか、あるいは少しでも乗り越えたのか――ともあれ、笑顔を見せてくれた彼女を、マランはこう言って誘ってみた。
するとイリスは素直に頷いて、そのまま背を向けて歩き出したマランに付いてきたのであった――
「さようなら……お母様……」
―― そっと一言、そう言い残して。
空には雨上がりらしく、大きな虹がくっきりと映し出されていた。
イリスは歩きながら、ただその虹をじっと見詰めていた。
(……お父様、も……)
(第1話・おわり)