…それ!昨日の夜に言ってよ!
私は都内のアパレルブランドで働く、二十五歳の会社員です。
趣味はヨガ。
休日はスタジオで深呼吸をして心身のバランスを整え、いわゆる「丁寧な暮らし」を心がけています。
しかし、どれほどヨガで精神を統一しようとも、日曜日の夜に押し寄せるプレッシャーだけはどうにもなりません。
明日は恐怖の月曜日。
店舗のディスプレイ変更や新作の納品対応で、朝から戦場のような一日が待っているからです。
【22時00分】
午前六時起床というミッションを完遂するため、私は綿密な逆算のもと、午後十時に布団へ潜り込みました。
(よし、今日は完璧! 睡眠たっぷり八時間。明日はスッキリ目覚めるぞー)
週末に干したばかりのシーツの心地よい感触に包まれながら、私は勝利を確信して静かに目を閉じました。
【23時00分】
一時間が経過しました。
なぜか一向に眠気が訪れません。
少しだけ時間を確認するつもりで手にしたスマホが、すべての元凶でした。
無意識にSNSを開いてしまい、気づけば無心で猫の短い動画をスクロールしています。
(あと一回、この猫がジャンプしたら寝る)
心の中でそう誓ってから、すでに三十回は画面の中の猫が跳躍する姿を見届けていました。
ブルーライトが容赦なく視神経を刺激しています。
【0時15分】
日付が変わってしまいました。
暗闇の中で、焦燥感だけが静かに膨れ上がっていきます。
(やばい、今すぐ寝れば、まだ五時間四十五分も寝られる。五時間半ならギリギリセーフ!)
私はスマホを遠くへ放り投げ、固く目を閉じて謎の計算を繰り返します。
しかし、早く寝なければという強迫観念に駆られるほど、まぶたの裏は冴え渡る一方でした。
【0時45分】
このままではまずいです。
私は文明の利器に頼ることにしました。
動画サイトで「絶対に眠れる自律神経リラックスBGM」を再生し、目を閉じます。
波の音と緩やかなピアノのメロディ。
……いい感じです。
しかし、十分ほど微睡みかけたその瞬間、底抜けに明るい広告が大音量で流れ、私の自律神経は一瞬で破壊されました。
【1時20分】
体を中から温めれば眠くなるはずです。
私はベッドを抜け出し、キッチンで牛乳をマグカップに注いで電子レンジに入れました。
立ち上る湯気と甘い香り。
一口飲むと、心がホッと解れていく……のは良かったのですが、温めすぎたせいで見事に舌を火傷しました。
おまけに、水分を摂ったせいで今度はトイレに行きたくなり、私の目はますます冴え切ってしまいました。
【2時00分】
深夜になると、脳はなぜか頼んでもいない過去の記憶を引き出しの奥から引っ張り出してきます。
(そういえば今日、コンビニの店員さんに『ありがとうございます』って言うつもりが『ごちそうさまです』って言っちゃったな……うわあああ!)
誰も気にしていないであろう些細な言い間違いが、突如として耐え難い羞恥心となって襲いかかってきました。
私は毛布を頭からすっぽりと被り、一人でジタバタと身悶えしました。
【2時45分】
いよいよ、趣味のヨガで培った呼吸法を試す時が来ました。
私はベッドの上に起き上がり、暗闇のなかで「チャイルドポーズ」から「ダウンドッグ」、さらには「太陽礼拝」へと流れるようにポーズを決めます。
深い呼吸とともに体を伸ばしていくうち、次第に全身の血流が良くなってきました。
しかし、真面目にヨガに没頭しすぎたせいで、気づけばじんわりと汗をかいてしまったのです。
(なんだか、体がベタベタして気持ち悪い……)
パジャマが肌に張り付く不快感に耐えきれず、結局私はサッとシャワーを浴びることにしました。
深夜三時のシャワールーム。
さっぱりしたのは良かったのですが、温かいお湯を浴びたことで交感神経がフル稼働し、私の肉体は完全に目覚めてしまいました。
【3時30分】
今度は体温調節の機能が狂い始めました。
シャワーを浴びたせいで布団を被ると暑く、蹴飛ばすと微妙に肌寒いです。
(よし、右足だけ布団から出す作戦でいこう)
ベストな温度を求めて、寝返りを打つたびに足を出したり引っ込めたりを繰り返します。
もはや私は、布団のなかの温度を微調整するためだけの機械と化していました。
ヨガで培ったはずの精神統一など、とうの昔にシャワーと一緒に洗い流されています。
【5時45分】
窓外の空が白み始めた頃、あれほど冴え渡っていた意識に、抗いようのない泥のような睡魔が突如として襲いかかってきました。
思考の輪郭が曖昧に溶け出し、世界が最高に心地よい微睡みへと沈んでいきます。
(あぁ、やっと眠りが……。最高に幸せな気分……)
ピピピッ! ピピピッ!
【6時00分】
無情な電子音が、薄暗い部屋の静寂を切り裂きました。
午前六時。
一番気持ちよく眠れそうだったあの十五分間を返してほしいです。
私はスマホを壁に投げつけたい衝動を必死に抑え込み、鉛のように重い体を引きずってベッドから這い出しました。
【7時30分】
ふらつく足元を気合いで支えながら、私はなんとか身支度を終えました。
バッチリと決めたメイクに、アパレル店員として隙のない完璧なコーディネート。
私は重い鞄を肩に掛け、ドアノブを回して外の世界へと一歩を踏み出しました。
ゴォォォォォォ!
凄まじい風切り音とともに、激しい水しぶきが全身を打ちました。
(えっ……?)
外は横殴りの土砂降りでした。
慌ててスマートフォンを開くと、昨夜の猫動画のせいですっかり見落としていた巨大な台風が、堂々と日本列島を直撃しています。
その時、鞄の中のスマホがブルッと震えました。
画面には店長からの業務連絡が表示されています。
『台風接近に伴う安全確保のため、本日は臨時休業とします。全員自宅待機でお願いします』
(……それを、昨日の夜に言ってよ!)
私は行き場のない虚無感を抱えながら、濡れた前髪と完璧に仕上がったメイクのまま、静かに玄関のドアを閉めました。




