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婚約破棄した王太子が新しい婚約者を募集したところ、候補者が一人もいませんでした。

作者: よみなぎ
掲載日:2026/10/18

「王太子殿下が、今度の夜会で婚約破棄なさるそうですわ」


「……まさか」


 親友の言葉に、私は思わず紅茶のカップを置いた。


 王太子殿下には、公爵家のご令嬢という立派な婚約者がいらっしゃる。


 エレオノーラ・ヴァレンティア様。


 幼い頃から王妃教育を受け、社交界でも評判の才女だ。国王陛下からの信頼も厚く、次期王妃として申し分ない方である。


 その婚約者を、国王陛下が隣国を訪問している間に、一方的に捨てるというのだ。


「そんなことをすれば、陛下がお怒りになるでしょう?」


「ええ。ですから、まさか本当にはなさらないと思うのですけれど」


「そうですわよね」


「ただ、一つ気になることがございまして」


 親友は声を落とした。


「殿下は、婚約破棄の後に新しい婚約者を選ぶとおっしゃっているそうです」


「…………」


「しかも、今度はご自分の意思で選びたいと」


 私は紅茶を飲もうとして、手を止めた。


「それは、つまり」


「ええ」


 親友が真剣な顔で頷く。


「私たち、未婚の貴族令嬢が候補になるということですわ」


 なんということだろう。


 王太子殿下が誰と結婚なさろうと、基本的には私の知ったことではない。


 しかし、公爵令嬢との婚約を一方的に破棄するような方の、次の婚約者になるのは御免である。


 ましてや、国王陛下に無断で婚約破棄を強行するような方だ。


 そんな方と結婚したら、将来どんな騒動に巻き込まれるかわかったものではない。


「……旅行でもしようかしら」


 私が呟くと、親友の顔がぱっと明るくなった。


「まあ! 奇遇ですわね。私もそう思っておりましたの!」


「隣国など、よろしいのではなくて?」


「素敵ですわ! ちょうど秋の花祭りがございますもの!」


 こうして私たちは、念のため国外旅行の準備を始めることにした。


 もちろん、本当に出発するとは思っていなかった。


 王太子殿下だって、そこまで愚かではないはずだ。


 ……たぶん。


◇


「お父様。少しご相談がございます」


「なんだ?」


「隣国へ旅行に行きたいのです」


 父は新聞から顔を上げた。


「旅行? 構わんが、急だな」


「今度の夜会の翌日から、少し長めに」


「……夜会の翌日?」


 父の眉が動いた。


「お前、何か聞いたのか?」


「王太子殿下が婚約破棄なさるという噂を」


「ああ、あれか」


 父は深いため息をついた。


「国王陛下がご不在の間に、馬鹿なことを考えているらしいな」


「やはり、お父様もご存じでしたのね」


「貴族の間では噂になっている。だが、さすがに実行はせんだろう」


「私もそう思います」


「うむ」


「ただ、もし実行なさった場合、次の婚約者を募集するそうですので」


 父が新聞を畳んだ。


「……なんだと?」


「未婚の貴族令嬢から、お選びになるとか」


 父はしばらく黙っていた。


 そして、執事を呼んだ。


「隣国行きの馬車を手配しろ」


「かしこまりました」


「いや、待て。馬車は二台だ。護衛も増やせ。向こうの別邸を使えるようにしておけ」


「かしこまりました」


「お父様?」


「旅行はいいぞ。見聞を広めることは大切だ」


 父は実に穏やかな笑顔を浮かべた。


「何かあったら、しばらく帰ってこなくていいからな」


「はい!」


 なんて理解のある父親だろう。


 翌日、親友から手紙が届いた。


『我が家でも旅行の許可が下りました。馬車は三台です』


 さらに、その翌日。


『侯爵家のご令嬢もご一緒したいそうです』


 そのまた翌日。


『伯爵家の双子姉妹も参加なさいます』


 どうやら、今年の秋は国外旅行が流行しているらしい。


◇


 そして、運命の夜会がやって来た。


 国王陛下はまだ隣国に滞在中。王太子殿下が主催する、華やかな夜会である。


 私は親友と並んで会場に入った。


「準備は?」


「万全ですわ」


「私もです。荷物はすべて馬車に積んであります」


「まあ、私も!」


 私たちは顔を見合わせて笑った。


 周囲を見れば、ほかの令嬢たちも妙に落ち着かない様子である。


 扇子を握り締めている者。時計を気にしている者。窓の外に停められた馬車を確認している者。


 しかし、誰も口には出さない。


 なにしろ、まだ何も起きていないのだから。


 そして夜会が始まって、しばらくした頃。


 王太子殿下が壇上に立った。


「皆の者! 今宵、私は重大な発表をする!」


 会場が静まり返った。


 私は親友を見た。親友も私を見た。


「まさか……」


「まさか、ですわよね……」


 王太子殿下は、婚約者であるエレオノーラ様を指差した。


「私は今日、この場をもって、お前との婚約を破棄する!」


 やった。


 本当にやった。


 会場が凍りついた。


 王太子殿下は、何やらエレオノーラ様の罪状を並べ始めた。


 しかし、私たちはそれどころではなかった。


「……お父様」


 私は父の袖を引いた。


「ああ」


 父は静かに頷いた。


「行け」


「はい!」


 親友も父親に合図を送っている。侯爵令嬢が母親の腕を取った。双子姉妹が同時に立ち上がった。


 そして。


「失礼いたしますわ」


「私も少々、用事を思い出しましたの」


「急に体調が悪くなりまして」


「まあ大変。私もですわ」


 令嬢たちが次々と会場を退出し始めた。


 最初は数人。次に十数人。やがて数十人。


 王太子殿下は、エレオノーラ様に向かって熱弁を振るっている。


「お前のような冷酷な女を、私は決して許さぬ!」


 その背後で、令嬢たちがぞろぞろと退場していく。


 誰も走らない。誰も叫ばない。皆、優雅に一礼してから退出する。


 ただし、歩く速度は普段の三倍ほどだった。


「……なんだ? なぜ皆、帰っていく?」


 ようやく王太子殿下が異変に気づいた。


 しかし、もう遅い。


 私は会場の出口で、ふと足を止めた。


 壇上には、エレオノーラ様が一人で立っている。


 婚約を破棄されたばかりの彼女を置いていくのは、さすがに忍びない。


「エレオノーラ様!」


 私は声をかけた。


「よろしければ、私たちと旅行に参りませんこと?」


 エレオノーラ様は目を丸くした。


「……旅行、ですか?」


「ええ。隣国へ。ちょうど花祭りがございますの」


 彼女は一瞬だけ王太子殿下を見た。


 そして、にっこりと微笑んだ。


「まあ。それは素敵ですわね」


 エレオノーラ様は王太子殿下に向き直った。


「婚約破棄、承知いたしました。正式な手続きは父を通じてお願いいたします」


「なっ!? お前、私の話を聞いていたのか!」


「はい。十分に」


 彼女は優雅に一礼した。


「それでは、失礼いたします」


 こうして、最後の一人も会場を後にした。


 王太子殿下の背後では、楽団が気まずそうに演奏を続けていた。


◇


 翌朝。


 王都の街道は、馬車で埋め尽くされていた。


「隣国行きはこちらですわ!」


「港へ向かう方は右の道です!」


「まあ、あなたもご旅行?」


「ええ! 奇遇ですわね!」


 見渡す限り、貴族の馬車である。


 令嬢たちが窓から顔を出し、互いに手を振っている。


 中には、夜会に出席していなかった地方貴族の令嬢までいた。


 どうやら、昨夜の出来事が早馬で伝わったらしい。


「お姉様! 私もご一緒させてくださいませ!」


「もちろんですわ!」


 私たちの馬車にも、親戚の令嬢が合流した。


 さらに、国境の関所では驚くべき光景が待っていた。


「次の方! 渡航目的は?」


「観光ですわ」


「次の方!」


「親戚訪問です」


「次の方!」


「療養ですの」


「次の方!」


「花祭りを見に参ります」


 関所の役人が、疲れ果てた顔で書類を処理している。


「……皆様、本当にご旅行なのですね?」


「もちろんですわ!」


 私たちは声を揃えた。


 嘘は一つもない。


 全員、本当に旅行へ行くのだから。


 ただ、帰国の日程が決まっていないだけである。


 国境を越えると、今度は隣国の宿屋が大騒ぎになった。


「お部屋が足りません!」


「別館を開けろ!」


「貴族のお客様が、まだ百人以上いらっしゃいます!」


 幸い、私たちは父が手配してくれた別邸に滞在できた。


 エレオノーラ様も一緒である。


「まさか、こんな形で隣国を訪れることになるとは思いませんでした」


 彼女は庭園で紅茶を飲みながら、楽しそうに笑った。


「でも、悪くありませんわね」


「でしょう?」


「ええ。王妃教育が始まってから、まとまった休暇などありませんでしたもの」


 それは気の毒な話だ。


「では、存分に楽しみましょう!」


「はい!」


 こうして私たちは、花祭りを楽しみ、美味しい料理を食べ、買い物をして過ごした。


 実に充実した旅行だった。


 なお、王都では少々困ったことになっていたらしい。


◇


 旅行を始めて五日目。


 父から手紙が届いた。


『王太子殿下が、新しい婚約者を募集し始めた』


 私は親友と顔を見合わせた。


「……本当に募集なさったのね」


「ええ。あれだけの騒ぎを起こしておいて」


 手紙には、王都の様子が詳しく書かれていた。


 王太子殿下は、婚約破棄の翌日から新しい婚約者を探し始めたという。


 まず、国内の有力貴族に招待状を送った。


 ところが。


『娘は旅行中でございます』


『娘は療養のため国外におります』


『娘は親戚を訪問しております』


 どの家からも、同じような返事が届いた。


 王太子殿下は激怒した。


『ならば、ほかの令嬢を呼べ!』


 しかし、ほかの令嬢も旅行中だった。


『地方の貴族にも声をかけろ!』


 地方の貴族令嬢も旅行中だった。


『では、隣の領地はどうだ!』


 そちらも旅行中だった。


 ついに王太子殿下は、宰相を呼びつけた。


『なぜだ! なぜ国内に未婚の貴族令嬢が一人もいない!』


 宰相は静かに答えたそうだ。


『殿下。皆様、ご旅行中でございます』


『全員か!?』


『はい』


『いつ戻る!』


『それが……皆様、帰国日を決めておられません』


『なぜだあああああ!』


 私は手紙を読み終え、紅茶を置いた。


「……お気の毒に」


 親友が首を傾げる。


「どなたがですの?」


「宰相閣下ですわ」


「本当にそうですわね」


 私たちは心から同情した。


 王太子殿下については、特に何も思わなかった。


 自分で婚約を破棄なさったのだから、自分で何とかしていただきたい。


 なお、父からの手紙には追伸があった。


『国王陛下が帰国なさるまで、絶対に戻ってくるな』


 承知いたしました、お父様。


 旅行を延長いたします。


◇


 それから三日後。


 王都に国王陛下が帰還なさった。


 隣国との外交を終え、久しぶりに王宮へ戻った陛下は、宰相から報告を受けたという。


「……なんだと?」


 王太子が婚約破棄した。


 新しい婚約者を募集した。


 しかし、国内に候補者が一人もいない。


 国王陛下は、しばらく黙っていたそうだ。


 そして、王太子を呼び出した。


「父上! お戻りでしたか!」


「お前、婚約を破棄したそうだな」


「はい! 私は真実の愛を見つけたのです!」


「……その真実の愛とやらは、どうした?」


「それが、婚約破棄の後に少々意見が合わず……」


「別れたのか?」


「はい」


 国王陛下は額を押さえた。


「それで、新しい婚約者を募集したのか?」


「はい! ですが、国内の令嬢たちが誰一人として応じないのです!」


「当たり前だ、馬鹿者!」


 王宮中に響き渡る怒声だったという。


「国王の承認も得ずに婚約を破棄し、次の婚約者を募集するだと!? そんな男に誰が娘を嫁がせる!」


「し、しかし父上! 私は王太子ですぞ!」


「だから問題なのだ!」


 国王陛下は立ち上がった。


「お前は王太子という立場を使って、公爵家との婚約を勝手に破棄した。今度はその立場を使って、ほかの令嬢たちに結婚を迫ろうとしている!」


「迫るなどと! 私はただ、候補者を集めようと!」


「その候補者が、全員国外へ逃げたのだろうが!」


「逃げた!? 旅行ではないのですか!?」


「……お前は本当に、何もわかっておらんな」


 国王陛下は深く息を吐いた。


 そして、近衛騎士たちに命じた。


「王太子の地位と王位継承権を剥奪する。正式な手続きは直ちに進めよ」


「ち、父上!?」


「この馬鹿を北の塔に幽閉する! 連れていけ!」


「お待ちください父上! 私は! 私は王太子で!」


「もう違う!」


「ちちうええええええええええ!」


 王太子殿下……いえ、元王太子殿下の絶叫が、王宮の廊下に響き渡ったそうだ。


 こうして、王国を揺るがした婚約破棄騒動は、あっけなく幕を閉じた。


◇


 その翌日。


 私たちの滞在する別邸に、王宮から正式な知らせが届いた。


『元王太子の王位継承権剥奪、および北の塔への幽閉を決定した。各家の令嬢に対する婚約者選定の招集はすべて取り消す』


 私は手紙を読み上げた。


 親友が目を輝かせる。


「まあ!」


 エレオノーラ様が微笑む。


「それでは……」


「ええ!」


 私は高らかに宣言した。


「皆様! 帰国できますわ!」


 歓声が上がった。


 もっとも、花祭りはまだ続いていたので、私たちは最後まで楽しんでから帰ることにした。


 せっかくの旅行なのだから、急いで帰る必要もない。


◇


 数日後。


 王都の街道は、再び貴族の馬車で埋め尽くされていた。


「まあ、お久しぶり!」


「ご旅行はいかがでした?」


「とても楽しかったですわ!」


「私もです! また参りましょうね!」


 行きと同じ顔ぶれが、今度は反対方向へ進んでいる。


 王都へ戻ると、父が出迎えてくれた。


「お帰り。楽しかったか?」


「はい、お父様! とても!」


「それはよかった」


 父は安心したように笑った。


「もう、しばらくは国外旅行をする必要もなさそうだな」


「そうですわね。でも、また花祭りには行きたいですわ」


「ははは。それは普通に行けばいい」


 まったく、その通りである。


 後日、親友やエレオノーラ様とお茶会を開いた。


「来年も、皆様で花祭りに参りませんこと?」


 私が提案すると、親友が嬉しそうに頷いた。


「賛成ですわ! 今度は最初から帰国日を決めておきましょうね!」


「まあ、それはどうでしょう」


 エレオノーラ様が、いたずらっぽく微笑んだ。


「楽しかったら、また延長してもよろしいのではなくて?」


 私たちは顔を見合わせた。


 そして、声を揃えて笑った。


「それもそうですわね!」


 こうして、王国の貴族令嬢たちの間では、国外旅行がすっかり定番の娯楽となった。


 もっとも、あれほど大勢の令嬢が一斉に国外へ出かけたのは、後にも先にもあの一度きり。


 かの王太子殿下ほど、令嬢たちを国外旅行へ駆り立てた方は、王国の歴史上ほかにいらっしゃらなかったのだから。

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― 新着の感想 ―
後にその元王太子が居た北の塔は国外旅行繁盛の神として商人に祀られましたとさ(笑)
すごい楽しそうで、ほんわか気分になれて、とってもよかった 花祭りってワクワクしちゃう それにしても、貴族令嬢全員に国外旅行をプレゼントするとは 元王太子殿下も、やるじゃんね 笑
これだけの貴族家が情報掴んで事前準備してるのに、当事者の公爵家は何の対策もしてなかったの? エレオノーラ、家族から虐げられてたの??
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