婚約破棄した王太子が新しい婚約者を募集したところ、候補者が一人もいませんでした。
「王太子殿下が、今度の夜会で婚約破棄なさるそうですわ」
「……まさか」
親友の言葉に、私は思わず紅茶のカップを置いた。
王太子殿下には、公爵家のご令嬢という立派な婚約者がいらっしゃる。
エレオノーラ・ヴァレンティア様。
幼い頃から王妃教育を受け、社交界でも評判の才女だ。国王陛下からの信頼も厚く、次期王妃として申し分ない方である。
その婚約者を、国王陛下が隣国を訪問している間に、一方的に捨てるというのだ。
「そんなことをすれば、陛下がお怒りになるでしょう?」
「ええ。ですから、まさか本当にはなさらないと思うのですけれど」
「そうですわよね」
「ただ、一つ気になることがございまして」
親友は声を落とした。
「殿下は、婚約破棄の後に新しい婚約者を選ぶとおっしゃっているそうです」
「…………」
「しかも、今度はご自分の意思で選びたいと」
私は紅茶を飲もうとして、手を止めた。
「それは、つまり」
「ええ」
親友が真剣な顔で頷く。
「私たち、未婚の貴族令嬢が候補になるということですわ」
なんということだろう。
王太子殿下が誰と結婚なさろうと、基本的には私の知ったことではない。
しかし、公爵令嬢との婚約を一方的に破棄するような方の、次の婚約者になるのは御免である。
ましてや、国王陛下に無断で婚約破棄を強行するような方だ。
そんな方と結婚したら、将来どんな騒動に巻き込まれるかわかったものではない。
「……旅行でもしようかしら」
私が呟くと、親友の顔がぱっと明るくなった。
「まあ! 奇遇ですわね。私もそう思っておりましたの!」
「隣国など、よろしいのではなくて?」
「素敵ですわ! ちょうど秋の花祭りがございますもの!」
こうして私たちは、念のため国外旅行の準備を始めることにした。
もちろん、本当に出発するとは思っていなかった。
王太子殿下だって、そこまで愚かではないはずだ。
……たぶん。
◇
「お父様。少しご相談がございます」
「なんだ?」
「隣国へ旅行に行きたいのです」
父は新聞から顔を上げた。
「旅行? 構わんが、急だな」
「今度の夜会の翌日から、少し長めに」
「……夜会の翌日?」
父の眉が動いた。
「お前、何か聞いたのか?」
「王太子殿下が婚約破棄なさるという噂を」
「ああ、あれか」
父は深いため息をついた。
「国王陛下がご不在の間に、馬鹿なことを考えているらしいな」
「やはり、お父様もご存じでしたのね」
「貴族の間では噂になっている。だが、さすがに実行はせんだろう」
「私もそう思います」
「うむ」
「ただ、もし実行なさった場合、次の婚約者を募集するそうですので」
父が新聞を畳んだ。
「……なんだと?」
「未婚の貴族令嬢から、お選びになるとか」
父はしばらく黙っていた。
そして、執事を呼んだ。
「隣国行きの馬車を手配しろ」
「かしこまりました」
「いや、待て。馬車は二台だ。護衛も増やせ。向こうの別邸を使えるようにしておけ」
「かしこまりました」
「お父様?」
「旅行はいいぞ。見聞を広めることは大切だ」
父は実に穏やかな笑顔を浮かべた。
「何かあったら、しばらく帰ってこなくていいからな」
「はい!」
なんて理解のある父親だろう。
翌日、親友から手紙が届いた。
『我が家でも旅行の許可が下りました。馬車は三台です』
さらに、その翌日。
『侯爵家のご令嬢もご一緒したいそうです』
そのまた翌日。
『伯爵家の双子姉妹も参加なさいます』
どうやら、今年の秋は国外旅行が流行しているらしい。
◇
そして、運命の夜会がやって来た。
国王陛下はまだ隣国に滞在中。王太子殿下が主催する、華やかな夜会である。
私は親友と並んで会場に入った。
「準備は?」
「万全ですわ」
「私もです。荷物はすべて馬車に積んであります」
「まあ、私も!」
私たちは顔を見合わせて笑った。
周囲を見れば、ほかの令嬢たちも妙に落ち着かない様子である。
扇子を握り締めている者。時計を気にしている者。窓の外に停められた馬車を確認している者。
しかし、誰も口には出さない。
なにしろ、まだ何も起きていないのだから。
そして夜会が始まって、しばらくした頃。
王太子殿下が壇上に立った。
「皆の者! 今宵、私は重大な発表をする!」
会場が静まり返った。
私は親友を見た。親友も私を見た。
「まさか……」
「まさか、ですわよね……」
王太子殿下は、婚約者であるエレオノーラ様を指差した。
「私は今日、この場をもって、お前との婚約を破棄する!」
やった。
本当にやった。
会場が凍りついた。
王太子殿下は、何やらエレオノーラ様の罪状を並べ始めた。
しかし、私たちはそれどころではなかった。
「……お父様」
私は父の袖を引いた。
「ああ」
父は静かに頷いた。
「行け」
「はい!」
親友も父親に合図を送っている。侯爵令嬢が母親の腕を取った。双子姉妹が同時に立ち上がった。
そして。
「失礼いたしますわ」
「私も少々、用事を思い出しましたの」
「急に体調が悪くなりまして」
「まあ大変。私もですわ」
令嬢たちが次々と会場を退出し始めた。
最初は数人。次に十数人。やがて数十人。
王太子殿下は、エレオノーラ様に向かって熱弁を振るっている。
「お前のような冷酷な女を、私は決して許さぬ!」
その背後で、令嬢たちがぞろぞろと退場していく。
誰も走らない。誰も叫ばない。皆、優雅に一礼してから退出する。
ただし、歩く速度は普段の三倍ほどだった。
「……なんだ? なぜ皆、帰っていく?」
ようやく王太子殿下が異変に気づいた。
しかし、もう遅い。
私は会場の出口で、ふと足を止めた。
壇上には、エレオノーラ様が一人で立っている。
婚約を破棄されたばかりの彼女を置いていくのは、さすがに忍びない。
「エレオノーラ様!」
私は声をかけた。
「よろしければ、私たちと旅行に参りませんこと?」
エレオノーラ様は目を丸くした。
「……旅行、ですか?」
「ええ。隣国へ。ちょうど花祭りがございますの」
彼女は一瞬だけ王太子殿下を見た。
そして、にっこりと微笑んだ。
「まあ。それは素敵ですわね」
エレオノーラ様は王太子殿下に向き直った。
「婚約破棄、承知いたしました。正式な手続きは父を通じてお願いいたします」
「なっ!? お前、私の話を聞いていたのか!」
「はい。十分に」
彼女は優雅に一礼した。
「それでは、失礼いたします」
こうして、最後の一人も会場を後にした。
王太子殿下の背後では、楽団が気まずそうに演奏を続けていた。
◇
翌朝。
王都の街道は、馬車で埋め尽くされていた。
「隣国行きはこちらですわ!」
「港へ向かう方は右の道です!」
「まあ、あなたもご旅行?」
「ええ! 奇遇ですわね!」
見渡す限り、貴族の馬車である。
令嬢たちが窓から顔を出し、互いに手を振っている。
中には、夜会に出席していなかった地方貴族の令嬢までいた。
どうやら、昨夜の出来事が早馬で伝わったらしい。
「お姉様! 私もご一緒させてくださいませ!」
「もちろんですわ!」
私たちの馬車にも、親戚の令嬢が合流した。
さらに、国境の関所では驚くべき光景が待っていた。
「次の方! 渡航目的は?」
「観光ですわ」
「次の方!」
「親戚訪問です」
「次の方!」
「療養ですの」
「次の方!」
「花祭りを見に参ります」
関所の役人が、疲れ果てた顔で書類を処理している。
「……皆様、本当にご旅行なのですね?」
「もちろんですわ!」
私たちは声を揃えた。
嘘は一つもない。
全員、本当に旅行へ行くのだから。
ただ、帰国の日程が決まっていないだけである。
国境を越えると、今度は隣国の宿屋が大騒ぎになった。
「お部屋が足りません!」
「別館を開けろ!」
「貴族のお客様が、まだ百人以上いらっしゃいます!」
幸い、私たちは父が手配してくれた別邸に滞在できた。
エレオノーラ様も一緒である。
「まさか、こんな形で隣国を訪れることになるとは思いませんでした」
彼女は庭園で紅茶を飲みながら、楽しそうに笑った。
「でも、悪くありませんわね」
「でしょう?」
「ええ。王妃教育が始まってから、まとまった休暇などありませんでしたもの」
それは気の毒な話だ。
「では、存分に楽しみましょう!」
「はい!」
こうして私たちは、花祭りを楽しみ、美味しい料理を食べ、買い物をして過ごした。
実に充実した旅行だった。
なお、王都では少々困ったことになっていたらしい。
◇
旅行を始めて五日目。
父から手紙が届いた。
『王太子殿下が、新しい婚約者を募集し始めた』
私は親友と顔を見合わせた。
「……本当に募集なさったのね」
「ええ。あれだけの騒ぎを起こしておいて」
手紙には、王都の様子が詳しく書かれていた。
王太子殿下は、婚約破棄の翌日から新しい婚約者を探し始めたという。
まず、国内の有力貴族に招待状を送った。
ところが。
『娘は旅行中でございます』
『娘は療養のため国外におります』
『娘は親戚を訪問しております』
どの家からも、同じような返事が届いた。
王太子殿下は激怒した。
『ならば、ほかの令嬢を呼べ!』
しかし、ほかの令嬢も旅行中だった。
『地方の貴族にも声をかけろ!』
地方の貴族令嬢も旅行中だった。
『では、隣の領地はどうだ!』
そちらも旅行中だった。
ついに王太子殿下は、宰相を呼びつけた。
『なぜだ! なぜ国内に未婚の貴族令嬢が一人もいない!』
宰相は静かに答えたそうだ。
『殿下。皆様、ご旅行中でございます』
『全員か!?』
『はい』
『いつ戻る!』
『それが……皆様、帰国日を決めておられません』
『なぜだあああああ!』
私は手紙を読み終え、紅茶を置いた。
「……お気の毒に」
親友が首を傾げる。
「どなたがですの?」
「宰相閣下ですわ」
「本当にそうですわね」
私たちは心から同情した。
王太子殿下については、特に何も思わなかった。
自分で婚約を破棄なさったのだから、自分で何とかしていただきたい。
なお、父からの手紙には追伸があった。
『国王陛下が帰国なさるまで、絶対に戻ってくるな』
承知いたしました、お父様。
旅行を延長いたします。
◇
それから三日後。
王都に国王陛下が帰還なさった。
隣国との外交を終え、久しぶりに王宮へ戻った陛下は、宰相から報告を受けたという。
「……なんだと?」
王太子が婚約破棄した。
新しい婚約者を募集した。
しかし、国内に候補者が一人もいない。
国王陛下は、しばらく黙っていたそうだ。
そして、王太子を呼び出した。
「父上! お戻りでしたか!」
「お前、婚約を破棄したそうだな」
「はい! 私は真実の愛を見つけたのです!」
「……その真実の愛とやらは、どうした?」
「それが、婚約破棄の後に少々意見が合わず……」
「別れたのか?」
「はい」
国王陛下は額を押さえた。
「それで、新しい婚約者を募集したのか?」
「はい! ですが、国内の令嬢たちが誰一人として応じないのです!」
「当たり前だ、馬鹿者!」
王宮中に響き渡る怒声だったという。
「国王の承認も得ずに婚約を破棄し、次の婚約者を募集するだと!? そんな男に誰が娘を嫁がせる!」
「し、しかし父上! 私は王太子ですぞ!」
「だから問題なのだ!」
国王陛下は立ち上がった。
「お前は王太子という立場を使って、公爵家との婚約を勝手に破棄した。今度はその立場を使って、ほかの令嬢たちに結婚を迫ろうとしている!」
「迫るなどと! 私はただ、候補者を集めようと!」
「その候補者が、全員国外へ逃げたのだろうが!」
「逃げた!? 旅行ではないのですか!?」
「……お前は本当に、何もわかっておらんな」
国王陛下は深く息を吐いた。
そして、近衛騎士たちに命じた。
「王太子の地位と王位継承権を剥奪する。正式な手続きは直ちに進めよ」
「ち、父上!?」
「この馬鹿を北の塔に幽閉する! 連れていけ!」
「お待ちください父上! 私は! 私は王太子で!」
「もう違う!」
「ちちうええええええええええ!」
王太子殿下……いえ、元王太子殿下の絶叫が、王宮の廊下に響き渡ったそうだ。
こうして、王国を揺るがした婚約破棄騒動は、あっけなく幕を閉じた。
◇
その翌日。
私たちの滞在する別邸に、王宮から正式な知らせが届いた。
『元王太子の王位継承権剥奪、および北の塔への幽閉を決定した。各家の令嬢に対する婚約者選定の招集はすべて取り消す』
私は手紙を読み上げた。
親友が目を輝かせる。
「まあ!」
エレオノーラ様が微笑む。
「それでは……」
「ええ!」
私は高らかに宣言した。
「皆様! 帰国できますわ!」
歓声が上がった。
もっとも、花祭りはまだ続いていたので、私たちは最後まで楽しんでから帰ることにした。
せっかくの旅行なのだから、急いで帰る必要もない。
◇
数日後。
王都の街道は、再び貴族の馬車で埋め尽くされていた。
「まあ、お久しぶり!」
「ご旅行はいかがでした?」
「とても楽しかったですわ!」
「私もです! また参りましょうね!」
行きと同じ顔ぶれが、今度は反対方向へ進んでいる。
王都へ戻ると、父が出迎えてくれた。
「お帰り。楽しかったか?」
「はい、お父様! とても!」
「それはよかった」
父は安心したように笑った。
「もう、しばらくは国外旅行をする必要もなさそうだな」
「そうですわね。でも、また花祭りには行きたいですわ」
「ははは。それは普通に行けばいい」
まったく、その通りである。
後日、親友やエレオノーラ様とお茶会を開いた。
「来年も、皆様で花祭りに参りませんこと?」
私が提案すると、親友が嬉しそうに頷いた。
「賛成ですわ! 今度は最初から帰国日を決めておきましょうね!」
「まあ、それはどうでしょう」
エレオノーラ様が、いたずらっぽく微笑んだ。
「楽しかったら、また延長してもよろしいのではなくて?」
私たちは顔を見合わせた。
そして、声を揃えて笑った。
「それもそうですわね!」
こうして、王国の貴族令嬢たちの間では、国外旅行がすっかり定番の娯楽となった。
もっとも、あれほど大勢の令嬢が一斉に国外へ出かけたのは、後にも先にもあの一度きり。
かの王太子殿下ほど、令嬢たちを国外旅行へ駆り立てた方は、王国の歴史上ほかにいらっしゃらなかったのだから。




