ショートケーキは四つ、余った一つは涙の味
一番上の段には、淡く柔らかい色味のラズベリー、レモン、ピスタチオ、キャラメルのマカロンがそれぞれ二つずつ。
真ん中の段には、純白のクリームとブルーベリーのジャムがふわふわのスポンジで挟まれたケーキ、そして大きなイチゴが輝いているショートケーキが一つずつ。
一番下の段には、甘さ控えめのスコーンと卵が挟まれたサンドイッチが二つずつ、マーマレードジャムとクロテッドクリームが添えられている。
甘い香りを漂わせてきらきらと輝いているティースタンドのお菓子たち。
黒髪の青年に抱えられた少女はそれを見て思わず『ぅわぁ……』と声に出しそうになった。だが、その表情は先ほどと変わらない無邪気な笑顔のまま。
「父上からテランは甘いものが好きだと聞いたから、少し多めに用意してみたよ。お兄様にどんなものが好きなのか教えてくれる?」
壊れ物に触れるように銀色の髪を撫でられながら、少女テランは若干引き攣った笑みを浮かべていた。
——お父様の嘘つき。わたしが最近好きなものを知らないからって、昔好きだったものを挙げれば済むわけじゃないのに。
最近のテランは甘いものが好きなわけではない。特に、真ん中の段に乗っているショートケーキは苦手だ。
だが、素直にそれを言えるほどこの兄との信頼関係があるわけではなかった。八歳のテランよりも十個上の兄とは実質的に今日が初対面なのだ。
元来、兄妹の母は病弱で、テランを産んでからさらに伏せるようになった。
そこで公爵である父は、母に、温泉地で療養しないかと提案する。
生まれたばかりのテランを母親と引き離すのは可哀想だというところから、テランも連れて行かれたのだ。
その温泉地は公爵領内にあるとはいえ、忙しい父や次期公爵である兄が簡単に行ける近さにはない。父は時折訪れていたが、兄がやってくることはなかった。
兄という存在を直接知らぬままテランが八歳になった二ヶ月前、母が亡くなった。
誰よりも信頼できる母が亡くなった。あまりに衝撃的な出来事で、テランのその前後の記憶は随分と曖昧なものとなっていた。
それからやっと母がいない毎日が日常になってきたころに父が迎えにきて、王都にある公爵家で兄と挨拶をしたあとの今である。
——わたし、いい子でいないと。
母から聞いたことがある。いい子でいたらきっと嬉しいことが起こる、と。
だからテランはいい子でいる。甘いお菓子が好きではないなんてワガママは言わない。
片手でテランを抱いたまま、兄は、ティースタンドが置かれたテーブルの前の紅色のソファーに腰掛けた。
金色の瞳は優しく細められ、おそろいの色を持つテランへと向けられていた。
「どれから食べたい?」
マカロンは甘い、ケーキも甘い。この兄のことだ。スコーンにはクリームとジャムをたっぷりつけるだろう。この中で唯一甘くないものといえばこれしかない。
そっと指差したサンドイッチを取って、兄は当たり前のようにテランの口元に持ってきた。
「はい、どうぞ」
「ぇっと……?」
「食べないの?」
——わたしはいい子だから、断っちゃダメ。
テランはおそるおそる小さな口を開けた。
ぱくりと一口、卵の味と塩気がほどよく解ける。ぱぁっと金色の目を輝かせて、もぐもぐと咀嚼して、ごくんと飲み込む。差し出されたものをもう一口、もう一口、もう一口。そのうち、兄の手からはサンドイッチが消えていた。
「美味しかった?」
「はい……!」
すぐさま返された元気のいい返事に、兄はにこりと笑みを深めた。
「次はどれがいい?」
——ほかのもの、全部甘い……。
「おすすめはイチゴの乗ったショートケーキだよ。僕が一番好きなお菓子だ」
——ショートケーキ、最近一番好きじゃなくなったやつ……だけど、わたしはいい子でいないといけないから。
テランはゆっくりと一度頷いた。先ほどまでの屈託のない笑顔はどこかに行ってしまった。
兄は皿にケーキを移動させて、フォークで一口分を取る。そしてそれをテランの口元へと持っていった。
「はい、あーん」
震える指先を反対の手で押さえながら、小さく口を開けた。
「あ、あーん」
口の中に入ってきたクリームの溶けるような甘さ、スポンジのふわふわした甘さ、それを取りまとめるイチゴの酸味のある甘さ。
——おかあ、さま。
そのすべてが母との思い出の中のもの一致した。途端に金色の瞳を潤ませて、とうとう堪え切れなくなってぽろりと言葉にならないものがあふれる。
「テラン? どうしたの……? もしかして、甘いものは嫌いだった……?」
——そう、だけど、ちがう。
フォークを置いて暖かい手で涙を拭ってくれるこの兄に悲しそうな表情をさせてはいけない。眉を下げて、心配の視線を送るのではなく、兄には先ほどまでの明るい笑顔が似合う。
——言わなきゃ。違う、って。
声を出すどころか呼吸すらも上手くできない。嗚咽が邪魔をしてきてしまう。だからテランはゆるゆると首を振ることしかできない。それを見かねて兄は口を開いた。
「大丈夫だよ、テラン。ゆっくりで大丈夫」
その言葉と共にふわりと抱きしめられた。石鹸の香りがあった。懐かしくて、もう二度と感じられないはずの暖かさとよく似たものがあった。
——お母様……いい子でいないと、本当に会えなくなっちゃうのに。わたし、お母様にまた会いたいのに。
それでも、もういい子でいるのは無理だった。
「お……かぁ、さ、ま……」
「うん」
宥めるように背中を撫でられる。
「お、かあさま……あいた、ぃ」
「うん」
ぎゅっと抱きしめる力が強くなる。
「どこに、いるの……? ねぇ、おかぁ、さま」
「っ、うん」
苦しいくらいに抱きしめられる。
「わたし……いい子に、してた、よ……?」
「テラン、」
その声は小さく震えていた。
「テラン、寂しいね……」
——もしかして、泣いてるの……?
そっと大きな背中に手を伸ばして抱きしめ返した。兄がびくりと肩を揺らすと、今度はテランがとんとんとその背を叩く。
「おにぃさま……も、さみしぃ、の?」
「そうだね。僕も、寂しい」
「そっ、か……わたし、と、おそろい……ね?」
それからしばらく抱き合ったあと、兄はそっと体を離した。向き合う形になって、ぽろぽろとあふれ続けるテランの涙を拭う。
「テランの瞳と僕の瞳、母上とおそろいの金色だ」
——お母様とおそろいで、お兄様ともおそろい。
じっと兄の瞳を見て、思い出すのは母の声と優しい表情。
『ねぇ、テラン。あなたにはお兄様がいるの』
いつの日か、ベッドに腰掛けた母が言った。
『おにいさま?』
まさか兄がいるなんて思ってもいなかった。
『ええ。お父様と同じ黒い髪で、テランと私とおそろいの金色の瞳のかっこいいお兄様よ』
それを聞いてすぐに顔も知らない兄を兄として認識した。
『わたし、お兄様と仲良くなれる?』
母は金色の瞳を細めてにこりと笑って、いつもよりもずっと優しい声で言った。
『そうね、あなたたちならきっとすぐに仲良くなれると思う。会える日が楽しみね?』
頭を撫でてくるその手は何よりも暖かかった。
『会えたときは一緒にショートケーキ食べたい!』
大好きなショートケーキを大好きな人と一緒に食べたい。その願いに、母は笑って『素敵ね』と答えた。
「おにい、さま」
「なぁに?」
「ショートケーキ、いっしょに、食べたい……です」
兄は軽く目を見開いてからにこりと笑う。
「せっかくだし父上も呼んでみる?」
「っはい!」
用意されたショートケーキは四つ、余った一つは涙の味。甘くて、甘くて、寂しくて。それでもテランは笑って言った。
「わたし、ショートケーキが大好きです!」




