5.交わらない
家に帰ると、皆寝てしまったのかしんとしていた。
音を立てないようにそろりと階段を上がり、自分の部屋に入る。まだ眠れそうにない私は机に向かって考えを巡らせていた。
いよいよ来週から入団試験が始まるのだ。後戻りはできない。しかし、まだ私の胸の奥には消化しきれない靄がかかっている。頭の中もぐるぐるして、落ち着かない。――本当にこの道でいいのか、私は決めきれていないのだ。
私は窓を開けた。外からは少しひんやりとした夜風が入り込み、それが今の私には心地いい。
そして、私は昼間の殿下との会話を思い出し――心の奥がざらりとする。
本来なら交わらないレールなのに、殿下の隣にいられたらって、思ってしまう。騎士としてではない、臣下としてではない関係で、そばにいたいと。そんなこと――絶対あってはならない、思ってはならない感情だとわかっている。
私は首を横に振り、静かに窓を閉める。
その夜、私はなぜか眠りに落ちることができなかった。
暗闇の中、今日のことがずっと頭の中に響いていた。
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気がつくと、窓からやわらかな朝日が差し込んでいた。
私は、重い頭を抱え、一階に降りる。ふわりと甘い香りが鼻をくすぐる。
台所を見ると、父が朝食のパンケーキを焼いていた。
休日に父が作るパンケーキは厚みがあり、一口食べれば口いっぱいに甘さが広がる。それが私は子供の頃から好きだった。休日だけはいつも厳しい母も表情がどこか柔らかく、唯一と言っていいほど家にいて心がほどける日だった。
「ルエリア、起きたのか? おはよう」
パンケーキを焼く父が振り向く。今日の父はどこかリズミカルで、楽しそうだ。
「……おはよ。父さんのパンケーキ……久しぶりかも」
私もどこか嬉しくなり、自然と口がほころぶ。
食卓を見ると母がすでに座っていた……が、いつもの厳しいオーラはなく、どこか表情もやわらかい。
――こんな空気、いつぶりだろうか。
週が明けると、入団試験が始まる。
また、この家も張り詰めた空気に戻るだろう。
試験のことを思うと、胸がずしりと重くなる。今さら「受けません」なんて言えるわけがない。
「ルエリア」
母の呼び止める声に、私は振り向く。
「今日はゆっくり過ごしなさい。試験に疲れを残さないように」
そう話す母の声は穏やかだった。
私は母の声に頷き、外に出る。
よく晴れた空。濃い水色をした空がどこまでも広がっている。
澄んだ空気に、ふっと心がほどける。
私の中にまで、光が差し込む。そんな陽気だった。
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城下町に行き、何をするでもなく喫茶に立ち寄る。
学生時代は規則で気軽に立ち寄れなかった喫茶も立ち寄りが自由になる。
自由にお茶を楽しむ、少し大人になったような、くすぐったい気分。
けれど、その自由さがかえって今の私には皮肉に思えた。
しかし、時間が経つにつれ、私の心には鉛のような冷たさが澱んでいった。
今さら後戻りはできない試験、そして――フレン殿下。
殿下のそばに少しでも――と、私はおこがましいことを考えてしまった。
交わらないレールが、少しでも近づいたら、交わったらと思ってしまう。
殿下の声が、姿が、頭から離れない。私は締め付けられそうになる胸の内を、誰にも打ち明けられなかった。
コトンとハーブティーの入ったカップを置き、私は窓の外を見た。
私は、どうするべきなんだろうか。どう生きるべきなんだろうか。
入団試験が、始まろうとしている――。




