42.戻ってきた兄
目を覚ました兄は、まだ意識がぼんやりとしていて、視線が定まらない。声も出すのがつらそうで、口をはく、はくと浅い息をしている。
その兄の姿を見て、一瞬「お兄ちゃん」と呼びかけそうになったが、言葉が出てこない。そのかわり、私は兄の手を強く握りしめた。視界が滲み、兄が目を覚ましたことが、ただ、私は嬉しかった。
それを見ていた兄は、少し眉をひそめ、僅かに口角を動かし、困ったような笑みを浮かべる。口が、動く。
「……ルエリア……そんな顔、するな」
絞り出すようなかすれた小さな声。
私は、兄を見て、泣いたような歪んだ笑みを見せていたかもしれない。
「……お兄ちゃん」
私の声が、震える。滲んだ目の奥から熱いものが溢れて、止まらない。
兄が周囲を視線で見渡し、何かに気づいたように身体を動かそうとして、「……っ!」と小さく声を漏らし、顔を歪める。そして、苦笑いを浮かべた。
「……治療室……ああ、あの時、やられたな」
私の体が、震える。兄を本当に失うかもしれないと不安だった。光を失ったような、しんとした静かな恐怖。それが言葉にならなかった。
「……勝手なことしないで。お兄ちゃんがいなくなるかもしれないなんて……本当に、怖かったんだから……!」
私が絞り出した言葉に、兄の手が私の手をふわっと握る。
「……でも、あの時、そうするしかなかった。――お前らを……置いていけるか……!」
「……それでも、私は、怖かった」
ふっと兄の視線が逸らされる。そして、何かを考えたように、呟く。
「……そうだよな」
兄の目の奥が揺れている気がした。兄にも兄の選択があったのだろう。それはわかっている――それでも、心が追いつかない。
兄は、私の方に視線を戻し、ふわりと握られた手に少し力がこもる。
翡翠色の瞳の奥が少し揺れるが、兄の目はたしかに光を宿していた。
「――でも、ちゃんと戻ってきただろ。オレは、まだ……生きてる」
涙が止まらない私を見て兄が少し慌てたように話す。
「……だから、泣くなって。……泣き虫ルエリア」
「――っ! 泣いてません!」
兄の顔がふっと緩む。私は頬を少し膨らませて兄を見る。
治療室の光が、白く安定した輝きを見せる。まるで「もう大丈夫」と伝えてくれるように、私たちを静かに、柔らかく包む。
「――フラヴィオも、ルエリアも、目が覚めてすぐにケンカはよしなさい。まだ、フラヴィオの体調は戻っていないのだから」
様子を見ていたセシリオ伯父様がふっと笑う。目には少し涙が浮かんでいる。
つられて私たちも微笑む。
私は、やっと戻ってきてくれた兄の手を、離さなかった。ぴんと張り詰めたものがやっとほどけ、治療室の中にあたたかい時間が流れる。
知らせを受けて、両親とフレンが治療室に入ってくる。兄の手を握り、肩を震わせる父、顔を覆い、震える母。そして兄に向けて微笑むフレン。それを見つめる伯父様。やっと私たちの間に張り詰めていた時間が――静かに流れ始めた。
治療室の窓から差し込む光が、朝の光から、昼の白金色の輝く光に変わりつつある。それは光を増して、私たちをあたたかく、ただ、ふわりと包み込んでくれていた。
兄の体調は、まだ完全に戻っていない。それでも、目が覚めた兄は――たしかにここにいた。




