3.私は人形じゃない
次の日、重い足取りで一階に降りると、食卓にはすでに母が座っていた。
「おはよう、ルエリア」
その声の冷たさに、私の心臓がきゅっと縮み上がる。
――また、いつもの説教が始まる。
私は諦めに近い感情で席に着いた。
「……おはよう。母さん」
「朝ご飯、食べていきなさい。話があるの」
焼きたてのパンとスクランブルエッグ。そして湯気を立てる紅茶。
けれど、その香りでさえ、今の私を癒やしてはくれない。
カチャリ、と母がティーカップをソーサーに戻す音が、静寂を切り裂いた。
「……ルエリア。昨日、城下町に行っていたそうね」
私はビクリと肩を震わせる。
「入団試験が近いというのに、友達と遊んで馴れ合うのはやめなさい。時間の無駄よ」
頭の中が真っ白になった。
「……無駄?」
「ええ。あなたは王家を守る騎士になるの。フラヴィオと同じように」
私の中で、張り詰めていた糸が――ぷつりと切れた音。
「……無駄なんかじゃ、ない」
「何ですって?」
ガタッ!
私は椅子を蹴るようにして立ち上がった。
「父さんも、母さんも、お兄ちゃんもみんな騎士だからって……私の大切なものまで勝手に決めつけないで!」
どんどん私の脈が早くなっていき、喉が裂けそうなほど声を張り上げていた。
母の目が大きく見開かれる。
「ルエリア、座りなさい! あなたはアルデンツィ家の娘なのよ。騎士になることは――」
「父さんも、母さんも、お兄ちゃんも、みんな騎士だもの。うちがそういう家だってことも、ずっと聞かされてきた! でも……他の夢を持っちゃいけないの? 考えることすら、許されないの?」
「ルエリア!」
握りしめた拳が震える。母の視線が怖い。けれど、譲れない。
「私は人形じゃない! 自分の道は、自分で決める!」
母の制止を振り切り、私は玄関を飛び出した。
――走る。ただ、ここではないどこかへ。
心臓が破裂しそうだった。
呼吸をするたびに、喉の奥がヒューヒューと鳴る。
『ご両親のように、立派な騎士になることを期待していますよ』
『うちは先祖代々王家に仕えてきた騎士の家系という意味、わかってるわね?』
学院長の笑顔。母の冷たい視線。
そして、優しかったお祖母様の言葉までもが、今は呪いのように頭の中で反響する。
『あなたたちはこの家に生まれた時点で既に騎士なのよ。アルデンツィ家の誇りを忘れないで』
――誇りって何? 家って何?
私は、ルエリアじゃなくて、「騎士団長の娘」でしかないの?
先祖代々王家に仕えてきた騎士の家系。
特に騎士団長を代々輩出してきた家柄――その重み。
祖母からも、両親からも、散々聞かされた。
兄が入団試験に合格した時、期待はさらに私にのしかかった。
私も騎士になるのが当然のような空気がさらに重く感じた。
兄はすぐに騎士団でも才覚を現した。
期待は、妹である私にも向けられる。
――どれだけ走っただろうか。
喉が詰まるように苦しく、涙がせきを切ったように溢れ出す。
静かな森の中に、虫や鳥の声だけこだましている。
気がつけば、私は森の奥深くへと入り込んでいた。
ふっ、と。
急に周囲の音が消えた。
木の葉がさわっと揺れるたびに、私の心も大きく揺れる。
光の一本も差し込まない森の深さに私はなぜか心が軽くなるのを感じていた。
ここには誰も来ないという安堵感と僅かな不安がないまぜになった複雑なもやが私の心を包む。
ふと、視界が開けた。
暗闇の先に、そこだけ切り取られたように輝く場所――泉がある。 天井のない空から光の粒が降り注ぎ、その中心に、ひとりの人影があった。
私は呼吸を忘れて立ち尽くす。
水面を眺めるその横顔。
輝くような青い髪に、どこか憂いを帯びた、気高い佇まい。
見間違うはずがない。
ドクン、と。 恐怖で縮こまっていた心臓が、別の熱を持って高鳴り始めた。
「……フレン、殿下?」
私の小さな呟きに、彼がゆっくりと振り返る。
その瞳と目が合った瞬間、私の世界の色が、変わった気がした。




