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この作品には 〔残酷描写〕が含まれています。

忘却の足、執着の痕跡

作者: raira
掲載日:2026/01/19

これを書くのに予定だと3日の予定だったのが1日で普通にかけちゃった笑

第1章〈幸福論崩壊こうふくろんほうかいつかさにとって、世界は常に最適化されるべき「盤面」だった。

 

 名門一族の嫡男として生まれ、若くして王立魔導院の主席研究員に登り詰めた彼にとって、隣に並ぶ女性もまた、自分の価値を引き立てる「装置」に過ぎない。

 

 だからこそ、沙織さおりとの別れも、彼にとっては単なる「旧型モデルの廃棄」と同じだった。

「司様、……本当におっしゃっているのですか?」

 十五年前。西日の差し込む静かな書斎で、沙織は震える声でそう言った。

 彼女の目には、大粒の涙が溜まっていた。普通の男なら、その涙に胸を痛めるのかもしれない。だが、司の脳内で走る演算は、冷酷なまでに合理的だった。

「感情的になるのはやめろ、沙織。君の家柄、魔力量、そして僕への従順さ。それらは確かに有用だったが、今の僕が目指す地位には、より強力な後ろ盾を持つ公爵家の令嬢が必要なんだ。……わかるだろう? 君の代わりなんて、この王都にはいくらでもいるんだよ」

 沙織は、言葉を失ったように彼を見つめた。

 

 その瞳に宿っていた、自分への献身的な愛。

 司はそれを「便利な資源」だとしか思っていなかった。

「……そうですか。わかりました。今まで、ありがとうございました」

 沙織は一度だけ深く頭を下げ、部屋を出て行った。

 

 その背中を見送りながら、司はコーヒーを一口啜った。

 これでいい。邪魔なノイズが消えた。これから自分は、さらなる高みへと昇るだけだ。

 

 ――その時、司は気づいていなかった。

 

 部屋を出て行く沙織の足音が、あまりにも「静か」だったことを。

 怒りも、恨みも、未練すらも残さない、完全な「別離」の足音だったということに。

 それから三ヶ月。司は予定通り、公爵家の令嬢と婚約した。

 周囲は祝福し、彼のキャリアは約束されたかに見えた。だが、異変は、些細なことから始まった。

 喉が渇いたとき、差し出される水の温度が合わない。

 仕事で疲れたとき、部屋に焚かれる香りが鼻につく。

 

 新しい婚約者は、自分の権利を主張し、司を「エスコート役」としてしか見ていなかった。

 

「……沙織なら、こんなことはなかった」

 ふと漏れた独り言。

 司は、自分でも驚くほどの速さで、過去のログを漁り始めた。

 

 沙織が自分に何をしてくれていたのか。

 彼女がどれほどの熱量で、自分の「盤面」を支えていたのか。

  解析すればするほど、司の演算は「エラー」を吐き出した。

 『算出不可:沙織と同等の献身、及び理解度を持つ代替個体は、現在の観測範囲内に存在しません』

 司は、拳でデスクを叩いた。「代わりはいくらでもいると言ったのは、僕だ。……僕が、間違っているはずがない」だが、夜の静寂が訪れるたび、彼女の去り際の「静かな足音」が、彼の耳の奥でリフレインする。それは、十五年にわたる地獄の、始まりを告げる音だった。

第2章〈喪失的自覚そうしつてきじかく

沙織さおりが去ってから、一ヶ月が過ぎた。

 つかさの生活は、表面上、何一つ変わっていないように見えた。

 公爵家との新たな縁談は順調に進み、魔導院での研究成果も王都で高く評価されている。同僚たちは「稀代の天才は、女を捨てるタイミングすら合理的だ」と、司の非情さをむしろ賞賛の対象としていた。

 だが、司の深層心理には、一滴のインクを落としたような「違和感」が広がり続けていた。

 それは、朝のコーヒーを口にした瞬間に始まった。

 

「……温度が、違う」

 新しく雇ったメイドが淹れたそれは、確かに最高級の豆を使い、作法通りに供されたものだ。しかし、司の喉を通る瞬間、それはただの「苦い液体」でしかなかった。

 沙織が淹れるコーヒーは、司がその日の最初の論文を読み終える瞬間の、脳の疲労度に合わせて温度が数度単位で調整されていた。

 

 司はそれを、沙織の「当然の義務」だと思っていた。

 だが、代わりの誰かが淹れた瞬間、それが義務ではなく、緻密な「演算」と「献身」の結晶であったことを、司の舌が証明してしまった。

(バカげている。コーヒー一杯の差など、統計学的には誤差に過ぎない)

 司は自分に言い聞かせ、研究室へ向かった。

 

 しかし、エラーは続く。

 

 書きかけの魔導数式を整理しようとした時。

 資料を探そうと本棚に手を伸ばした時。

 

 いつもなら「そこ」にあるはずの付箋がない。

 司が思考を詰まらせた瞬間に、さりげなく差し出される資料の要約がない。

 

 沙織は、司の思考プロセスを完全にトレースしていたのだ。

 彼女は司の「鏡」であり、司が「完璧な天才」として振る舞うための外部演算装置だった。

 

 装置を自ら捨て、代わりを並べたところで、それは司の思考と同期などしていなかった。

「……司様、エスコートの練習を始めましょう?」

 夕方、新しい婚約者の令嬢が訪れる。

 彼女は華やかで、美しく、そして司を「自分を着飾るための最高の額縁」として扱った。

 

 会話は弾まない。令嬢が求めるのは、司の「才能」が生み出す名声と富であり、司の内面に広がる魔導の深淵ではない。

 

 沙織は違った。

 彼女は、司が言葉にできない理論の断片を、ただ黙って見つめるだけで理解していた。

 司が孤独な思索の海に沈んでいる時、彼女だけが、その海の底まで寄り添っていたのだ。

「司様? 私の話、聞いていらっしゃいますの?」

「ああ……すまない。少し、計算が立て込んでいて」

 嘘だった。

 司の脳内で走っていたのは、最新の術式理論ではなく、沙織との「過去のログ」の再検証だった。

 

 代わりは、いくらでもいる。

 あの日、自分が放った言葉。

 それは、この世界において、最も「非論理的な暴論」であったことが、一分一秒を追うごとに確定していく。

(なぜだ。彼女はただの、没落寸前の男爵令嬢だったはずだ)

(僕が価値を与え、僕が居場所を恵んでやっていたはずだ)

 夜、一人になった書斎で、司は狂ったように机を漁った。

 彼女が残した、ささやかな痕跡を探した。

 

 だが、沙織は「静か」に去った。

 

 司の持ち物には一切手を触れず、自分に関わるすべてのものを、綺麗に持ち去っていた。

 髪の毛一本、香りの名残さえ、この部屋には残っていない。

 

 司は、広すぎる書斎の真ん中で、立ち尽くした。

かつては「自由」だと思っていたこの空間が、今は底知れない「欠落」の穴に見えた。

 

 十五年に及ぶ地獄。

 その最初の「自覚」が、心臓を冷たく突き刺す。

 

 司は震える手で、空のコーヒーカップを握りしめた。

 

「……沙織、どこだ」

 

 その問いに答える足音は、もう二度と、聞こえない。

第3章〈追憶的迷宮ついおくてきめいきゅう〉 

つかさは、ある確信を持って夜の街へ出た。

 

「彼女が、僕なしで生きていけるはずがない」

 

 その歪んだ自信だけが、今の司を支える唯一の杖だった。

 沙織さおりの実家は、没落寸前の貧乏男爵家だ。司という巨大なパトロンを失えば、彼女は路頭に迷うか、卑しい仕事に身をやつしているに違いない。

 

 ならば、自分が「再考の余地を与えてやる」と言えば、彼女は泣いて喜ぶはずだ。

 司は、脳内でその再会のシナリオを完璧に構築していた。

 だが、司が辿り着いた男爵邸は、もぬけの殻だった。

 

「……引っ越した? どこへ」

 

 近隣の住民に問い詰め、ようやく聞き出した場所は、王都の北端にある、慎ましやかな、しかし陽の光がよく当たる小さなアパートメントだった。

 

 司は、自分の高級馬車がその貧相な地区に馴染まないことに苛立ちを覚えながら、泥濘んだ道を歩く。

 

 見つけた。

 二階の角部屋。その窓辺には、司が一度も見たことがない、鮮やかな黄色い花が飾られていた。

「沙織! 開けなさい、僕だ!」

 

 司はドアを激しく叩いた。

 かつての支配者の特権を行使するように。

 

 しばらくして、扉がゆっくりと開いた。

 

 そこに立っていた沙織は、司の予想に反して、ひどく「清々しい」顔をしていた。

 使い古されたエプロンを締め、手には一冊の古い帳簿。

 

「……司様。どうして、ここに?」

 

 その声には、司が期待していた震えも、怯えもなかった。

 ただ、道端に落ちている石ころを見るような、平坦な響き。

「どうして、ではないだろう! 君が急にいなくなるから、僕の生活に支障が出ている。……特別だ。あの日の暴言は、僕の演算ミスだったと認めてやろう。さあ、荷物をまとめなさい。今なら元の地位に戻してやる」

 

 司は、それが最大限の譲歩であるかのように胸を張った。

 だが、沙織は、ふっと小さく吹き出した。

 

「演算、ミス……。司様、あなたはまだ、そんなことをおっしゃっているのですね」

 

「何が、おかしい」

 

「司様。私、あの日、あなたが『代わりはいくらでもいる』と言ってくださって、本当に救われたんです。ああ、そうか、私はもう、この方の『思考の部品』でいなくていいんだって。……自由になっても、誰も困らないんだって」

 

 沙織は、窓辺の花に目を向けた。

 

「今の私は、小さな魔導工房で事務員として働いています。お給料は少ないけれど、淹れるコーヒーの温度を誰かに合わせる必要もないし、誰かの顔色を伺って付箋を貼る必要もない。……今の私は、私のために生きているんです」

 

 司の脳内デバイスが、激しく警告音を鳴らした。

 

『エラー:対象の自立度が予測値を1200%超過。復縁の確率は極めて低下しています』

「……嘘だ。そんな生活が、僕の隣にいるより価値があるはずがない!」

 

「価値を決めるのは、演算ではなく、私の心です。司様」

 

 沙織は、静かに、けれど毅然とした動作で扉を閉めようとした。

 

「あ、待て! 沙織!」

 

「さようなら、司様。どうか、あなたの完璧な盤面で、末永くお幸せに」

 

 パタン、と。

 乾いた音が、司の目の前で響いた。

 

 十五年前のあの日と同じ、静かな拒絶。

 

 司は、狭い通路で立ち尽くした。

 

 高級な外套をまとい、黄金の杖を握りながら、彼は自分が世界で一番「惨めな漂流者」になったことを悟った。

 

 足元から、じわじわと冷気が這い上がってくる。

 それは、失ったものの大きさを、物理的な温度として司に分からせようとしていた。

 

 司は、自分の心臓が、見たこともないほど複雑な「痛み」を弾き出していることに気づく。

 

 追憶の迷宮。

 出口は、司が自らの手で、とうの昔に壊していた。

第4章〈演算的矛盾えんざんてきむじゅん

沙織さおりの住むアパートから追い返された夜、つかさは一睡もできなかった。

 脳内で鳴り続ける「計算ミス」の警告音が、彼の神経を逆撫でする。

 だが、司にはまだ、最後の拠り所があった。王立魔導院での「地位」と、現在進めている「国家級プロジェクト」の成功だ。

「彼女がいなくても、僕の知能は損なわれていない。……仕事で圧倒的な結果を出せば、この胸のつかえも消えるはずだ」

 翌朝、司は充血した目で魔導院の執務室へ向かった。

 今日、彼が考案した新型魔導炉の理論値の最終検証が行われる。これが成功すれば、司の地位は盤石となり、公爵家との婚約も「対等な取引」として成立するはずだった。

 しかし、会議室に集まった賢者たちの前で、司は信じられない光景を目にする。

「……司卿。この第十四節の数式、整合性が取れていないようだが?」

 院長の声に、司の思考が止まった。

 そんなはずはない。自分が何百回と検証し、沙織がいつも最後に「清書」していた……。

(清書……?)

 その瞬間、司の指先が冷たくなった。

 沙織は、ただ司の書いた文字を綺麗に写していただけではなかった。

 彼女は司の演算の中にある、ほんの僅かな「論理の跳躍」や「記述ミス」を、司に気づかれないよう、呼吸をするように修正していたのだ。

「何を……している。そこは、その数値で合っているはずだ!」

 司は慌てて魔導ペンを走らせる。

 だが、焦れば焦るほど、数式は複雑な迷宮と化していく。

 

 以前なら、視界の端に沙織が整理した「参照資料」があった。

 煮詰まったとき、彼女が差し出す一杯のハーブティーの香りが、脳の霧を晴らしてくれた。

 今の司の隣にあるのは、ただの冷え切った机と、自分を疑いの目で見つめる賢者たちの視線だけだ。

「司卿、顔色が悪いぞ。……もしかして、以前の補助員(沙織)がいなくなってから、君の演算精度は著しく落ちているのではないか?」

 同僚の嫌味な指摘が、心臓に突き刺さる。

「黙れ! 彼女はただの雑用係だ。僕の知能とは何の関係もない!」

 司は叫んだ。

 だが、魔導炉のシミュレーターが弾き出した結果は、残酷な「Error」の赤文字だった。

 

 司の理論は、沙織という「補助演算器」なしでは、ただの未完成なガラクタに過ぎなかったのだ。

 会議は打ち切られた。

 プロジェクトの中止が検討され、司の「天才」としての名声に、初めて決定的な亀裂が入る。

 夕暮れの廊下。司はふらつきながら歩いた。

 そこへ、公爵令嬢からの使いが届く。内容は簡潔だった。

『研究の失敗、聞き及びました。我が家は「無能な天才」に投資するつもりはありません。婚約は白紙に戻させていただきます』

 社会的地位の崩壊。

 婚約の破棄。

 司が沙織を捨ててまで手に入れようとした「盤面」は、砂上の楼閣のように崩れ去った。

(なぜだ……。僕は完璧だったはずだ。計算は合っていたはずだ!)

 司は、誰もいない研究室で机を叩き、叫んだ。

 だが、返ってくるのは虚しい反響音だけ。

 その時、司は気づいてしまった。

 沙織を捨てたあの日、自分が放った言葉――。

『君の代わりなんて、いくらでもいる』

 それは、世界に対する宣言ではなく、自分自身への「死刑宣告」だったのだ。

 彼女こそが、司の「完璧」を成立させていた唯一の変数だった。

 

 司は、真っ暗な研究室の床に、力なく膝をついた。

 

 脳内デバイスが、最後の一撃を加える。

『予測:司卿の社会的価値の回復率――0.02%。原因は、唯一の適合者の喪失によるものです』

 十五年に及ぶ地獄。

 その「四分の一」が終わり、司は本当の「孤独」の意味を、その肌で理解し始めていた。

第5章〈孤独的監禁こどくてきかんきん

プロジェクトから外され、婚約も破棄されたつかさに残ったのは、広すぎる屋敷と、静寂だけだった。

 かつては「効率的だ」と誇っていたミニマリズムな内装が、今は自分を閉じ込める監禁室のように思える。司は、かつて沙織さおりが座っていた空の椅子を見つめる時間が、一日の大半を占めるようになっていた。

(計算し直せ。まだ、リカバリーは可能だ)

 司は震える手で、沙織との十五年間の記憶を「データ」として脳内で反芻し始めた。何を食べ、何を話し、どこを歩いたか。

 だが、思い出そうとすればするほど、司は戦慄する。

 

 彼は沙織に何を与えたか。

 ……何も、思い出せなかった。

 

 思い出せるのは、沙織が彼に与えた無償の奉仕と、それに対し司が浴びせた冷酷な言葉の数々だけだ。

「……ああ、そうか。僕は、彼女を人間として見ていなかった」

 司は、自分の過去という名の「罪悪感の檻」に、自ら鍵をかけて閉じ込められていった。

第6章〈再会的断絶さいかいてきだんぜつ

 司は、なりふり構わず沙織に会いに行った。

 今度は「命令」でも「取引」でもない。ただ、この孤独から救ってほしいという、無様な「懇願」を携えて。

 アパートの前で待ち伏せすること三日。ようやく現れた沙織の隣には、一人の男がいた。

 司が「下等な凡夫」と見下していたはずの、平凡で、不器用な笑顔の男。

「沙織……! 頼む、一度だけでいい。僕の話を聞いてくれ」

 司は、汚れ果てた外套のまま、彼女の足元に縋り付こうとした。

 

「司様。……もう、やめてください」

 沙織の瞳には、かつての献身も、あの日見せた怒りすらなかった。

 そこにあるのは、見ず知らずの他人が起こした騒ぎを、困惑して見つめるだけの「断絶」。

「君がいないと、僕はもう、数式一つ書けないんだ……!」

「それは、あなたが私を捨てたからではなく、あなたが『自分一人で立つこと』を忘れてしまったからです。……私に、もうあなたの盤面を埋める場所はありません」

 沙織は隣の男の腕を優しく取り、一度も振り返ることなく去っていった。

 司の伸ばした手は、冷たい夜気に空しく取り残された。

第7章〈忘却的残酷ぼうきゃくてきざんこく

それからの司は、亡霊のようになった。

 

 王都の酒場、図書館、あるいはかつて二人で歩いた公園。

 彼は沙織の面影を追い続け、見かけるたびに「僕だ、司だ!」と声をかけ続けた。

 だがある日、司は決定的な「終わり」を突きつけられる。

 市場で、幸せそうに買い物をしている沙織を見つけた司が、再びその名を呼んだ時。

 沙織は、本当に不思議そうな顔をして、隣の友人にこう尋ねたのだ。

「……ねえ、あの人。さっきから私を呼んでいるみたいだけど、知り合いだったかしら?」

 友人が「さあ、ただの浮浪者じゃない?」と笑う。

 沙織は「そうね」と頷き、そのまま司の横を通り過ぎた。

 憎まれている方が、まだマシだった。

 司という存在は、彼女の記憶の中で、もはや「認識すらされないノイズ」へと完全に風化していたのだ。

 十五年の歳月は、司一人が背負うだけの、無意味な重荷となった。

第8章〈執着的狂気しゅうちゃくてききょうき

司は、完全に壊れた。

 彼は、沙織が自分を忘れたのなら、自分が彼女を「記録」し続ければいいと考えた。

 

 屋敷の壁という壁に、彼は沙織との記憶を書き殴り始めた。

 

『沙織が微笑んだ角度。15度』

『彼女が僕の靴を磨いた回数。5475回』

『僕が彼女を「無能」と呼んだ、数え切れない夜の温度』

 文字の壁。スマホ勢が最も嫌悪する「情報過多」の狂気。

 だが、司にとっては、これだけが自分の存在を証明する唯一の演算だった。

 

 彼は、もはや食事も摂らず、ただひたすらに壁に文字を刻み続ける。

 彼女の足跡を、彼女の痕跡を、自分の狂気というインクで繋ぎ止めようとして。

「……大丈夫だ、沙織。君が忘れても、僕の壁が覚えている」

 薄暗い部屋で、司は血の滲んだ指で、また一行、罪の記録を書き足した。

第9章〈因果的報応いんがてきほうおう

 つかさの屋敷は、もはや邸宅としての機能を失っていた。かつては王都の貴族たちが羨んだ大理石の壁は、今や司が血の滲む指で書き殴った「後悔のログ」によって黒々と塗り潰されている。

「……計算が、合わない。なぜだ。なぜこれほど記録しても、彼女の『許し』という解が導き出せないんだ」

 司は、数日間食事を摂っていない。彼の脳内にある高度な演算回路は、今や自分自身を攻撃するためだけの武器と化していた。かつて沙織さおりを「代替可能な部品」と断じた傲慢さが、そのまま鏡のように跳ね返り、司の精神を磨り潰していく。

 彼は壁に顔を押し当て、自分がかつて彼女に浴びせた罵倒の記録をなぞった。

『お前のような無能を置いてやっているのは、僕の慈悲だ』

 その文字の一つ一つが、今や鋭利な刃となって司の心臓を抉る。

「僕は、慈悲を与えていたのではない。彼女の慈悲によって、生かされていただけだったんだ」

 その時、屋敷の重い扉が叩かれた。司は、それが沙織であってほしいという、万分の一の確率にも満たない妄想を抱いて扉を開ける。

 だが、そこに立っていたのは、差し押さえの令状を手にした魔導院の役人たちだった。

「司卿。研究の失敗による多額の賠償、および不敬な狂行を鑑み、本邸を没収いたします。あなたは、この王都から追放されることが決定しました」

 司は笑った。力なく、乾いた笑いだ。

「没収か……。いいだろう。だが、この壁だけは持っていけない。僕の十五年間の罪は、誰にも奪わせない」

 彼は、役人たちに引きずり出されながらも、指先が折れるまで壁に爪を立て続けた。彼に残されたのは、地位でも名誉でもなく、ただ「自分がどれだけ彼女を愛し、どれほど無惨に壊したか」という、誰にも読まれることのない狂気の記録だけだった。

第10章〈虚無的終焉きょむてきしゅうえん

王都を追放された司は、かつて沙織が住んでいたあの北端のアパートの見える、薄汚れた路地裏に身を潜めていた。高級な外套は泥にまみれ、かつて「完璧」を誇った容姿は見る影もない。

 彼は、遠くから沙織の窓を見つめ続けた。

 あの日、彼女が飾っていた黄色い花は、今ではさらに鮮やかさを増し、窓辺には小さな子供用の靴が並んでいる。

「……幸せ、なんだな。僕という毒が消えて、彼女はようやく、呼吸を始めたんだ」

 司は、自分の胸の中にある「演算器」に問いかけた。

「今の僕の価値を算出せよ」

『回答:ゼロ。いえ、彼女の幸福を阻害するマイナスの因子です』

 司は、その答えに満足した。

 ざまぁの結末として、これ以上のものはない。自分が不幸になることでさえ、彼女の物語においては「背景のノイズ」にすらなれない。

 司は、隠し持っていた最後の一本の魔導ペンを取り出した。これで、自分自身の記憶という盤面を完全に閉じるための、最後の数式を書くつもりだった。

 だが、震える手が書いたのは、高度な数式ではなく、ただ一行の、震える文字だった。

『沙織、ごめん』

 その瞬間、魔導ペンが光を失い、砕け散った。彼の知能も、魔力も、すべては彼女への謝罪という、あまりにも遅すぎた「人間としての感情」によって焼き切られたのだ。

第11章〈未練的円環みれんてきえんかん

 司は、もはや自分が誰であるかも定かではない状態で、王都の雑踏を彷徨っていた。

 彼の脳内では、未だに「あの日、もし別の言葉を選んでいたら」というifの計算が、無限ループ(円環)のように回り続けている。

「もし、コーヒーの温度に感謝していたら。もし、付箋の一枚に『ありがとう』と言えていたら」

 そんな無意味な計算が、一秒間に数万回、司の脳を焼き焦がす。スマホ勢が最も忌避する「終わらない停滞」。だが、司にとっての地獄は、前へ進むことではなく、同じ場所を回り続けることだった。

 彼は、市場の噴水前で、一人の女性とすれ違う。

 沙織だった。彼女は、かつて司が「凡夫」と蔑んだあの男に支えられ、穏やかに微笑みながら歩いている。

 司は、声を出そうとした。だが、喉は枯れ果て、音にならない。

 沙織は一瞬、司の汚れ果てた姿に目を止めた。

 その瞳に宿ったのは、怒りでも、軽蔑でもない。ただの、通りすがりの行き倒れに対する「哀れみ」だった。

「……あ、あ、」

 司は、その哀れみにすら縋ろうとした。

 だが、沙織は夫に促され、すぐに歩き出す。彼女の記憶の中には、司という男の形をした「穴」すら開いていない。彼女は完全に、瑛太……いや、司のいない未来へと歩み去っていた。

最終章〈永遠的停滞えいえんてきていたい

2026年、雪の降る夜。

 王都の路地裏で、一人の老いた浮浪者が、雪の上に指で何かを書き続けていた。

 それは、もはや文字の形をなしていない、ただの「痕跡」。

 かつて天才と呼ばれた男、司は、死ぬ間際になってもまだ、解けない数式を解き続けていた。

『彼女の隣に戻れる確率:0.0000……%』

 どれほど桁を増やしても、ゼロのあとに数字が現れることはない。

 司は、雪の上に自分の涙で凍りついたその数字を見つめながら、静かに、けれど幸福そうに微笑んだ。

「……これで、いいんだ。僕の人生のすべてを費やしても、君に届かない。それが、君を傷つけた僕に与えられた、唯一の『答え』なんだから」

 スマホの画面をスクロールする読者たちは、ここでようやく、この物語が「ざまぁ」を超えた「呪い」の物語であったことを知る。

 司の時間は、十五年前のあの午後から、一秒も進んでいない。

 彼は、永遠に続く「後悔」という名の静止した時間の中に、自らを監禁し続けた。

 雪が降り積もり、司の書いた数字を白く塗り潰していく。

 

 翌朝、そこには誰の足跡も残っていなかった。

 

 司という男がこの世界にいた証は、彼が必死に守ろうとした「プライド」と共に、冷たい空気の中に溶けて消えた。

 

 ただ、遠くの街角から、工房の槌音と、一人の女性の明るい笑い声だけが聞こえていた。






 

もう眠いので寝ますおやすむなさい!合計、16時間頑張ったよ俺

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