槐の花の降る下で
今日に向けて芙蓉家の皆が繕ってくれた薄紅の羽織と新緑の袴に身を包み、耳にはファイの卵の殻から作った飾りを着けた。
羽偉の里では魔除けと縁結びの意味がある縁起物だ。
緊張の中、里長となった大伯父に貰った新しいファイの手綱を握り締めて歩みを進める。
輝く日差しと頬を撫でる風に目を細め、狼神竜の聖地、煌華宮殿へと翠はついに足を踏み入れた。
宮殿内には沢山の草木が花を咲かせ、産卵に集った竜達は好き勝手にそれを齧り取っては巣作りに勤しんでいた。
女官達はこちらに気付いては挨拶しつつ、気ままな竜の様子を事細かに記録に取って異常がないか鋭く目を光らせていた。
榧ノ宮の花嫁は、いずれここの監督女官長となる―――。
我が身の立場を思い返し、翠は頑張らなくては!と気を引き締めた。
「貴女が羽偉の里の翠殿ですね?」
謁見の間のある建物の前に向かう途中、白衣の女人に呼び止められた。
その髪に差し込まれた銀細工の石楠花の簪に気付き、翠は即座に深く頭を垂れた。
銀細工の花の髪飾りは榧ノ宮家の女主人の証―――。これより会いに行く総領、蘇芳の母君だと察した。
「私は先代総領の妻の梛と言います。王竜の気まぐれで息子は今、裏庭にいるの。案内するわ」
柔らかな微笑みと共に夫人は告げ、翠の緊張を解すように他愛も無い話をしながら、女官と入れ替わるように裏庭へと案内してくれた。
「…そう言えば、蘇芳から聞いたのだけれど翠さんって翡翠ちゃんの娘なんですって?」
話の最中、梛は思い出したように訊ね、翠は目を剥いた。
「母をご存知なのですかっ?」
「実を言うと私、葛之葉の分家だったのよ。翡翠ちゃんとは再従姉妹だったの。年齢の関係から私が候補に選ばれたけど治癒の妖術は本家のあの子の方が上でね…」
そう懐かしげに語り、彼女は不意に翠の行く手に回り込むや、そっとその手を取った。
「…どうかお礼を言わせて頂戴。神治の胡蝶を貴女が受け継いでくれたお陰で息子は命拾いし、一族の秘術も失われずに済んだわ。本当にありがとう…!」
心からの感謝を述べる未来の姑に、翠は胸が詰まった。
繋いだ手を握り返し、深呼吸の上で強い眼差しを向けた。
「蘇芳様のご病気は何度だって私が治します。竜達も偉傑華の民も…!榧ノ宮の名に恥じぬよう精進します…!」
決意と覚悟に満ちた目だった。
若さ故の健気さに梛は困ったように笑みを零した。
「それは頼もしいわね…!でも、ちょっと肩の力が入り過ぎ…!それに蘇芳はきっと治癒の力より、貴女自身に癒やされたいと思ってるわよ?これまで浮いた話一つなかった子なのに、翠さんの事を知ってからモテる方法知りたがって、まあ、賑やかだったんだから…!」
小首を傾げながら誂い半分に告げるや、翠は途端にボッと赤くなった。
羽偉の里で別れて以来、手紙での遣り取りはしていたものの、この三年は長かった。
少しでも彼に相応しくなろうと努力を重ねて来たが、これからあの美丈夫に再び相見えるかと思うとドキドキが止まらなかった。
「あらまあ、初心ねぇ…!」
ホホホと笑う梛に、翠はしおしおと恐縮した。
暫しの後、辿り着いたのは大きな槐が聳え立つ王竜の塒であった。
季節柄、枝からは花が咲き乱れ、はらはらと生成りの色が散っていた。
「蘇芳!王竜殿!嫁ちゃん来たわよっ!」
唐突に何処か誂うように梛は声を張り、その品ある佇まいからは想像出来ない声量に翠は吃驚。
その様に彼女はクスクスと笑い、榧ノ宮の女は自然と声が大きくなるから覚悟しておきなさいと、意味深な言葉を残して去って行った。
(芙蓉の女衆以上の肝っ玉…、頑張ろ…)
未来の姑の元気さに呆気に取られた。
ここまでの道中、交わした会話からして大変に好意的ではあったが少々幸先が不安である。
「…全く母上は、雰囲気というものを台無しにしてくれる…」
そんな困ったような声が微かに聞こえた瞬間だった。
一陣の風が吹き抜け、舞い踊る槐の花吹雪の中から現れるように、白銀の翼が眼前に舞い降りる。
その姿に翠は高揚感で言葉を失った。
見目の麗しさは変わらずも以前会った時の儚さは最早無く、王竜の背に跨るに相応しい覇気を纏った蘇芳の姿は、翠にはあまりに眩しかった。
「翠殿、久しぶりだね」
挨拶と共に足音が迫り、ファイの手綱を掴む手を握られた。
次の瞬間、手綱から手を解し取った彼はそのまま腕を引き上げ、立ち上がった翠を胸に抱き寄せた。
「す、蘇芳様っ!?」
突然のことに慌てふためいた。
すると彼はシーッと口元に指を立て、王竜、槐とファイを視線で示した。
普段なら手綱を離した途端、近場の竜へと遊ぼうと無遠慮に突進していくファイだが、今は槐と見つめ合ったまま動かない。
「…我が友と君の友が話をしている。少し待って欲しい」
その囁きに頷いて答えたが、彼の腕は尚も翠を離さない。
鳴り響く己の心臓の音が煩かった。
暫くして、不意に歩み寄ったファイに王竜が鼻先を寄せた。
ファイは答えるようにその鼻に己の鼻をくっつけ、甘えるように鳴きながら王に擦り寄ると、傍らに寄り添って手を繋ぐように長い尾を絡め合った。
それは狼神竜が行う最大の愛情表現にして、二頭が番となったことを意味していた。
「無事に成立だな…」
ホッとしたように蘇芳は呟き、翠の肩を抱きながら睦み合う二頭へと誘う。
そして不敵に微笑んだ彼は、徐ろに羽織の内からいつかのブリキ缶を取り出した。
開かれたその中に入っていたのは、銀細工で作られた吸葛の髪飾りだった。
「我、榧ノ宮の蘇芳は王竜の伴侶をその手で育て上げた裁量を見初め、そなたを花嫁に所望する。その想いは如何に?」
伝統に則った求婚の詞を告げ、番となった互いの友を前に厳かに跪いた彼は、翠へと髪飾りを差し出した。
向けられる真剣な眼差しに、翠はゴクリと唾を呑む。
あの日の不意の邂逅を機に、準備を整える時間も覚悟を決める余裕も十分に貰った。
意志は決まっていた。
彼女は微かな笑みを浮かべ、厳かに頭を垂れた。
「謹んでお受け致します、蘇芳様…」
爽やかな一際の風が吹き抜け、生成りの花が舞い散る中、静かに覚悟の言葉を口にした。
間もなく、下げた視界の中に彼の裾が揺れ、結った髪に簪が差し込まれる感触がした。
トクントクンと心臓が脈を打ち、頬に充てがわれた掌の温もりに俄に身体が熱る。
互いの生涯の友が見守る中、見つめ合う二人は、気恥ずかしさに耐え兼ねて花が綻ぶように笑い合った。
それから暫く後、羽偉と煌華を股に掛けて、それはそれは盛大な祝言が執り行われた。
羽偉の里長一族となった芙蓉家の親類一同が友の竜と花嫁行列を成す中、縁起の良い生成りの狼神竜の背に揺られ、伝統の花嫁衣装を身に纏った翠は大層美しかった。
手綱を引く父は感無量の様子で堂々と歩みを続け、見守る人々は花嫁の隣で雄々しき王竜に跨る総領の御姿に頭を垂れた。
開かれた宮殿の大門の向こうでは、女官達が温かな眼差しで出迎え、その髪には簪として吸葛の花と槐の枝が差し込まれていた。
それは偉傑華の伝統であり、王竜の伴侶と榧ノ宮の花嫁を歓迎する意味が込められていた。
「御寮様のおなぁーりぃー!」
声高らかに轟く羽偉の里長の声に、集った人々は一斉に持ち寄った花びらや羽根を投げ、その美しい光景に人も竜も目を奪われる。
手を取り合い、赤らむ頬を綻ばせて睦み合う初々しい総領夫妻の御姿に、後に偉傑華の人々はその時の事をこう語った。
槐の総領と吸葛の嫁御寮は偉傑華の歴史で最も白く、そして深い縁で結ばれていた―――、と。




