母の秘術
この世における妖術は、精霊と呼ばれる万物に宿る自然的存在の力を借りて繰り出される。
精霊は火、水、風、地の四種がいて自分達、人の体の中にもそれは存在した。
水の妖術を極めた母は触れるだけで病を治せる治癒の達人で、そんな母から密かに教わった神治の胡蝶と呼ばれる偉大な術は、全ての精霊の力を一度に借り、どんな病でも治してしまう奇跡の大技だった。
母の一族の中でも限られた強い力を持つものでなければ操れず、危険も伴う力だと教わった。
それにも関わらず、母も父もその術を頻りに教え込んだ。
傷付いた動物達で何度も練習したが、当時の自身では力不足だった。
救えぬ命に何度も涙を流し、消えた命の重さを噛み締めた。
だからこそ薬師の父の仕事を熱心に手伝い、狩りの腕も磨いた。学舎での勉強にだって励んだ。
命を奪う時は苦しめぬよう、その生命を少しも無駄にせぬようにと知識を蓄えた。
けれど―――、母を突然の病で亡くしたことで、それまで積み上げが努力が容易く崩れた。
突然の発作だった。
学舎から帰ってきて、土間で倒れているのを見つけた時にはもう手遅れだった。
どんなに努力しても救えない命がある―――…。
命の儚さを知った瞬間、その術を使えるようになることを諦めた。
その術を練習し続けることが虚しくなった。
一番大切な人を救えぬくらいならば意味が無いと―――。
「…翠…翠殿…?」
その声に瞼を開くと、ポロリと涙が溢れた。
誰かと目を向け、朧の視界に美丈夫の微笑みが映った。
――嗚呼、何て綺麗な方なんだろう…。
そう思って虚ろな意識の中、徐ろに手を伸ばし、その頬に触れる。
滑らかな肌、絹糸のような漆黒の御髪、整った凛々しい眉に艶やかな切れ長な目。
どれを取っても好みの容姿だが、殿方にしては少々線が細過ぎる気がした。
「…もう少し…逞しい方が好きかな…っ…」
そう漠然と呟いた瞬間だった。
目を丸くする美しい姿の背後、ブフッと噴き出したいくつもの笑い声。
それで俄に意識がはっきりした。
バッと起き上がり、耐え兼ねたように床で笑い転げる蓮花と伯母達に、噴き上がった恥ずかしさでワナワナと震え、蛸のように赤く茹で上がった。
「ふっ…、では好みの体格となるよう鍛えるとしよう…!」
傍らで同じく耐え切れずに肩を震わせる御仁に、ハッと大慌てで頭を下げる。
「申し訳ございませんっ…!寝惚けておりました…!申し訳ございません!」
土下座で弁明するも後の祭りである。
今更ながら、一晩明けてしまっていたことを知った。
時刻は九時を周り、昨晩集っていた里の重鎮達はとっくに解散。今日の仕事に出払っていた。
ぶっつけ本番の土壇場勝負ではあったが、母から継承された秘術が見事成功したことで、蘇芳の心臓に巣食っていた病の根は完全に取り除かれた。
煌華より呼び寄せられた医官も驚くほどにその回復は目覚ましく、これまで制限されていた狼神竜への騎乗も許可された。
「セイヤァ!」
威勢良く声を上げ、王竜の背に乗った蘇芳は清々しい笑みで手綱を握る。
軽快な足取りで飛び上がった王竜の白銀の翼に誰もが歓声を上げ、翠も遅い朝餉にと父特製の葛湯を飲みながら、その様子を大屋根の軒先から眺めた。
「蘇芳様、楽しそう…」
護衛と共に優雅に蒼天を駆ける様に、翠は笑みを零す。
薬師の仕事でもそうだが、病気を患い苦しんでいた人の元気な姿ほど嬉しいものはない。
どんなに大変でも人の役に立てることは遣り甲斐があるものだ。
「これは花嫁修業の遣り甲斐がありそうね〜?」
ケラケラと笑う背後の声にボッと顔から熱を吹いた。
「蓮花〜!」
振り返り、誂う幼馴染に怒りの顔を剥いた。
昨日の今日で気持ちがザワザワしているのに、全く落ち着く暇がない。
「まあ、行き成り自分が本来の里長一族のお姫様で、最有力の榧ノ宮の花嫁なんて言われたら混乱するわなぁ?」
「自信無いよ〜、花嫁修業が怖すぎる〜…」
「翠は地頭が良いんだから大丈夫だって〜」
蓮花他伯母達に身支度を手伝ってもらいつつ、翠は今後待ち受ける試練を嘆いた。
話を聞きながら覚悟をしていたが、総領の花嫁としてこれからは一つ一つに気を掛けねばならない。
幸い芙蓉家が今日より里長一族となったお陰でこれまで龍刹家が占領――もとい所有していた財産の八割以上がこちらの所有に切り替わった。
一先ず布支度などの嫁入り道具の調達には苦労せずには済みそうである。
今更ではあるが、龍刹家の贅沢三昧は凄まじかったようで、箪笥を開ければ出るわ出るわの金銀財宝である。
年配者の噂によればかつての里長一族、葛之葉家は質素倹約な一族であったそうで、これが龍刹家が凋落した理由なのだと悟った。
薄々気付いてはいたが龍刹家は里長の仕事以外、特段の職にも就かず日々何をしているか分からない一族だった。
大伯父曰く、先の戦が起きる前からそうだったらしい。
かつての龍刹家が羽偉の財政を司っていたことから、恐らく葛之葉一族の財産を横領していたのだろうとの推測である。
邪推だが、その悪行がバレそうになったか隠蔽のために先の戦を企てたとも考えられた。
ともあれ一先ずとして今後、必要性の無い装飾品や絹織物は全て売り捌くか里の者の冠婚葬祭用に貸し出し、皆に還元することにしたそうだ。
箪笥の肥やしにするよりは余程、有効的である。
「…煌華に行ったら中々会えなくなっちゃうし淋しいけど…、私は翠の幸せを一番に願ってるからね」
そう言葉を添えて、蓮花は結い上げた翠の髪に簪を差し込む。
上等な絹織物を纏う姿は、姫君と呼ぶに相応しい佇まいであった。
「あ、そうそう!煌華に行ったら優良物件探しておいてね!私も今日から里長の娘だし、選り好みできるから!」
そんな念押しに、思わず眉を顰めた。
芙蓉の女は逞しいと自他共に認めるが、蓮花はその最たるものである。
あまりの目の輝きに小さく「うん…」と答えるしかなかった。
「失礼仕る。翠殿、お支度は宜しいですかな?蘇芳様より、ご挨拶に伺いたいとの言付けでございます」
そんな問い掛けに、声のした襖の方へと目を向ける。
まだ蘇芳達が煌華に帰ると言っていた時刻には早く、個別の挨拶だろうかと首を傾げた。




